「完璧よ」
 玄関で微笑むひよちゃんに、僕はお礼を言った。
 叔父さんと叔母さんは、今日はゴルフで早朝からいない。
「朝早かった分、夜も早く寝てるだろうから、そのまま帰ってきて大丈夫だよ」
「うん」
「遅くなるのも言っておくから」
「ありがとう……あのね」
「ん?」
「僕、本当はひよちゃんのこと苦手だったんだよ」
「は?」
 ひよちゃんは、一体何を言い出すのだろうという顔をした。
「ごめん。でも、本当にそう思ってて、でも、この夏、考え変わった」
 僕のために、色々やってくれて、相談にも乗ってくれて。
「ひよちゃんのこと、好きだよ、僕」
 ひよちゃんは、ビックリした顔になって、そして
「何、気持ち悪いこと言い出すのよっ」
 バンバンと僕の背中を叩いた。
「い、痛いっ、痛いよっ」
「ほら、早く行かないと、陸が待ってるよっ」
「うん」
 玄関から追い出されて、門を出るときに振り返った。ドアは閉じられていたけれど、ひよちゃんはたぶんまだあそこにいる。さっきのは、ひよちゃん流の照れ隠し。
「本当に、ありがとう。楽しんでくるよ」
 最後の想い出作りだもんね。



 ひよちゃんに借りたサンダルは、下駄の時と違って快適だ。
 緊張して行った待ち合わせの場所で、僕を見た陸さんは、目を瞠ったまましばらく口をきかなかった。浴衣の時もそうだったけれど、ひよちゃんの作戦にまんまと乗せられている。
 こういう反応は、嬉しいんだけれど恥ずかしくもある。
「こずえ……どうしたんだよ、その……」
「ごめんなさい」
「な、何、あやまんだよ」
 陸さんは、まるで怒っているみたいな口調で言った。僕もなんで謝ってるのかわからないんだけど。なんか、ね。
「むちゃくちゃ可愛いじゃん」
 顔を上げると、陸さんが赤くなっていて、それを見て僕の顔にも血がのぼった。
「変じゃない?」
「変じゃねーよ。原宿とか歩いてたら、間違いなくスカウトされるって」
 陸さんの言葉が、くすぐったい。スカウトは嘘だけどね。
「よかった。ひよちゃんが」
「え?」
「あ、ううん。これ、ひよちゃんが全部やってくれたんだ」
 歩きながら言うと、
「へえ……あいつ、自分のことはなんもしてないのにな」
 陸さんが笑った。
「あ、でも、ひよちゃんは何もしなくても、綺麗だもん」
「こずえだって、何もしなくても綺麗だよ」
 ドキンと心臓が跳ねる。
「でも、そういうカッコするともっと綺麗で可愛い。相川に感謝だな」
 陸さんの横顔が照れている。
(よかった……)
 精一杯、今日一日楽しもう。



 舞浜の駅で降りて、前もって買っていたチケットを窓口で交換して、そして夏休みで混雑するディズニーランドで一日の大半を、遊んだというより並んで過ごした。
 並んでいるだけでも、楽しかった。
「手をつなぐのは、いいんだよな」
 陸さんが訊ねる。
「この爪……どうなってんの?」
「つけ爪だって。僕も初めてなんだけど、本物みたいだよね」
 あまり長くしないようにカットしたベビーピンクの爪は、ひよちゃんの言ったとおり桜貝のようで、普段見慣れた自分の爪とあまりにも違って不思議な気がした。
 自分の指じゃないみたい。
 陸さんは、
「こわしたら、いやだな」
 そう言って、僕の指に自分の指をそっと絡めた。
 親指で確かめるように爪を撫でられて、瞬間ゾクッとした。指先でこんなに感じるなんて、僕は、知らなかった。

 この手をいつまでもつないでいられたら――。

 ディズニーランドのハイライトは夜のパレードと花火だ。
 暗い夜空に浮かぶシンデレラ城。ライトアップされたそこが良く見える位置に僕たちは移動した。
 これから花火が始まる。
「すごい人だな」
「うん」
「ちょっと近すぎかな。でもまあ、よく見えたほうがいいし」
「うん」
 日が落ちて暗くなってから、僕はだんだん口数が減っていった。
 最後のデートだってわかっているから。
 今日一日だけでも楽しい想い出がたくさんできたけれど、それは夢みたいなもので。シンデレラの魔法が解けたあとは、もう二度と見ることのできない夢で。
 この二週間ちょっとの間、陸さんと過ごした時間が色々と思い出されて、鼻の奥がツンと痛くなったとき、音楽が鳴り響いた。
「始まる」
 僕の左手がギュッと強く握られた。

 音楽とライトと、そして花火。
 馬鹿みたいに夜空を見上げていた僕は、陸さんの身体が僕を包むように後ろに回っているのに気がついた。
「変なことはしないから」
 頭のすぐ上で囁かれる。
 僕の前で陸さんの手が組まれて、僕は背中から抱かれるような格好で花火を見た。

 心臓が鳴る。
 どうしよう。
 言ってしまおうか。

 ひよちゃんが言っていた。
『花火を見ながら、本当のことを言う――』
 どうしよう。
 シンデレラの魔法。
 解けたあとでも、陸さん、僕のこと―――。

 血が上って目眩がする頭で、グルグルと考えて、僕は無意識に唇を開いた。
「陸さん……」
「ん?」
「僕……」
 掠れた声は、
「きゃあっ」
 歓声とすぐ近くで聴こえた花火の音にかき消された。
「きゃあ、大きい」
「近すぎいっ」
 僕たちの真上で、オレンジ色の花火が開いた。花の欠片が降り注いでくる。
(あ……)
「すっげーっ」
 陸さんが、手に力を込めた。
「おっきかったな。でも、失敗じゃねえのかな、こんな下で」
「あ、うん…」
「髪、焼けたかも」
「まさか」

 言えなかった。
 やっぱり、言えなかったよ。





 結局、最後まで何もいえないまま、ディズニーランドのデートは終わってしまった。
 陸さんが買ってくれたドナルドダックのぬいぐるみを抱いて家に帰った。
「おかえり」
 ひよちゃんが玄関に顔を出す。
「ただいま。おばさんたちは」
「部屋。疲れていたみたいだから寝てるんじゃない」
「よかった」
 サンダルを脱いでそのままお風呂場に。ワンピースを脱ぎかけた時、
「あ、そうだ。ショーリ」
「ん?」
「友だちから電話あったよ」
「えっ? だれ?」
 ビックリして、振り返った。
「名前、聞かなかった。っていうか、すぐに切れたから聞けなかったのね。勝利くんいますかって聞かれて出かけてるって言ったらじゃあいいですって」
「誰だろう」
 ここの電話番号を知っている奴なんていないはずだ。
「またかかって来るんじゃない」
「うん……」
 何となく気になるけれど、でもそれより僕の心占めるのは――−
(あと三日か……)
 水曜日は育良高校との練習試合だ。僕が女の子でいるのは、その日まで。そう決めている。そりゃあ、まだ夏休みの間は、女の子の振りして会うこともできなくはないけれど。

 でも、夏休みが終わったら?
 九月になったら、どうする?

 土日だけ女の子になって、陸さんに会いに行く――これも、考えなかった訳じゃない。
(でも……)
 一生、だまし続けるなんて無理だ。
 だったら、ちゃんとけじめつけなきゃ。本当のことは言えなくても。
ずるずる陸さんをだまし続けちゃダメだ。
 だから水曜日で終わりにするって決めた。そのために、今日特別なデートをしたんだ。
(楽しかったもん……)
 だから、いいんだ。
 舞踏会は、終わったんだ。
 嫌だな。ひよちゃんの言ったシンデレラというキーワードが、やたら僕を女々しくしてる。





 月曜日、体育館に入ったら、みんながコートに集まっていた。女子だけじゃなくて男子も何人かいる。陸さんはいないけれど。
「何してんの?」
 ひよちゃんが輪の中に入っていく。僕も後ろから続いた。
「あ、ひよ子」
 みどりが振り返る。
「どうしたの?」
「あの、あれ……」
 みどりが指差したのは、ネット、いや、そのネットに洗濯バサミでとめられたそれは――
(げっ)
 僕は内心で叫んだ。
「何?」
 ひよちゃんが目を丸くする。
 それは男物の白いブリーフ。
 そして、その腰のところには油性のマジックペンで黒々と『勝利』と書かれている。
 ひよちゃんは、そっと僕の顔を見た。
 僕は、こわばった顔のまま、ほんのわずかうなずいた。
 あれは、僕のパンツだ。
 お母さんが、僕のとお父さんのを区別するために、僕のにだけ名前を書いている、勝利印の白ブリーフ。

 この間、着替えを忘れたと思ったあの日、どこかで落としたんだろうか。
 いや、まさか。
 そうそう落とすものじゃないだろう。
 でも、何でここに。
 パニックを起こしかけた僕の顔を見て、ひよちゃんはつかつかと進んだ。
 おもむろにパンツをネットから外す。
「きゃあ」
 みどりが声を上げた。
 そんな、汚いものじゃないよ。
「おっ、ひよこ、それやっぱりお前のだったか」
 白石さんがふざけて言うと、
「そうよ」
 ひよちゃんはすましてそれを丸めた。
「げっ」
「マジ?」
「やっぱり、男だったか」
 男子部員が騒いだ。
「うるさいわね。誰も、私がはくなんて言ってないでしょ」
「じゃあ、被るのか」
 白石さんの突っ込みに、
「馬鹿じゃないの?」
 ひよちゃんは冷たい視線を送って、
「これは、お守りなの」
 突拍子もないことを言った。呆気にとられた周りに
「見たでしょ『勝利』の文字。これはね、試合に勝ちますようにという願をかけた、お守りのパンツなのよ」
 しゃあしゃあと言い放った。
(ひよちゃん……)
「落としたみたいでどうしようかと思ったけれど、よかったわ」
 胸に抱えるポーズがわざとらしい。
「どっ、なっ、なんで、パンツなんだよ」
 白石さんは、動揺を隠せない。
「秘密」
「はい?」
「言えないわよ。願かけてるのよ。言ったらおしまいでしょう?」
 何がなんだかわからない迫力に、白石さんは負けている。
「さっ、みんな、練習はじめるわよっ」
 何ごとも無かったかのように、いつもの号令をかけるひよちゃん。
「はいっ」
 女子が整列する。
 男子も、自分たちのコートに帰っていた。
(とりあえず、助かったのかな?)
 ホッとした僕だったけれど、それは大きな間違いだった。


 練習の間、僕は鋭い視線を何度も感じて、その度に目が合った――ベンチにいるジュン。
 腕を組んで僕を見つめる目が、おかしそうに細められたとき、嫌な予感がした。






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