『陸に、本当のことを言う?』
 ひよちゃんの言葉が頭の中をぐるぐる回る。

 絶対、そんなことできない。
 でも、そう考えて、今さら気がついた。
 ―――僕は、陸さんをだましているんだ。



 トイレをでると、入口で大きな女が腕組みしていた。
「聞いたわよ、淫乱、変態」
 出た。ジュン。
「体育用具室で、イヤラシイことしようとしてたんですって? 信じられない」
「すみませんけれど、今、相手していられる状態じゃないんです」
 気がついてしまった悩みで、いっぱいいっぱいなんだから。
 素直に言ったつもりだったのに、ジュンはキイッと怒った。
「何よ、何なの、その態度っ! ちょっと可愛いと思って、いい気になってるんじゃないわよ」
「だから、いい気になってなんかいませんっ」
 僕もなんだかムシャクシャしていた。前にも同じこと言われたけれど、今日はムカっときた。
 よくわからないけれど、陸さんにしつこくアタックしていたというこの女が憎い。女だって言うだけで憎い。
「自分こそ、胸がデカくてお尻大きいからって、いい気になるなよっ」
 八つ当たりだけど。
「なっ! 私のこと、デブだって言ったわねーっ」
 ジュンが叫んだ。
「んなこと、言ってないしっ」
 叫び返した。
「何よ、男の前じゃカワイコぶって、ホントはこんななのね。感じ悪うっ」
「どっちが感じ悪いよ」
 僕は、いつだってこうだよ。
 そりゃあ、こずえでいる時は男だってばれないように、普段より女の子っぽくしているけれど。
「男子に言いつけてやる」
「どうぞ」
 僕はジュンの脇をすり抜けようとして、差し出された足に気がついた。
 思いっきり踏んでやった。
 二度と同じ手に乗るかっていうの。
「イタッ」
「あ、ごめんなさい」
 わざとらしく言って、コートに走った。
 自分でも性格悪いって思ったけど、最初に絡んできたのはあっちだ。




「こずえ、どうした?」
 陸さんが僕の顔を覗き込む。
 いつものデートの帰り道だけれど、話の弾まない僕を心配してくれている。
「何か、悩んでる?」
「…………」
「俺のこと?」
「えっ? あっ、な、なんで?」
 図星を指されて、うろたえたら
「祭りの夜、変なことしたから」
 陸さんが唇を尖らせた。
「あ…」
「あれからだもんな、何となくこずえの様子がおかしいの」

 違う。
 正確には、そのことがあって……いつかばれると思って……そしたら、自分が陸さんをだましてるんだって、嘘ついてるんだって、そのことにはっきり気がついて……むちゃくちゃ胸が苦しくなった。
 そういうこと。

「なあ、もうしないから」
「えっ?」
「こずえが、ああいうの嫌いだったら、もう絶対しないからさ」
 横を向いた陸さんの、耳が赤くなってるのが見える。
「だから、別れるとかいうなよ?」
「え……?」
 僕が陸さんをじっと見ると、
「なんだよ、その顔」
 陸さんは、いつもと違うなんだか困ったような声を出した。
「お前、本当に考えてた? 別れようかって?」
「う、ううん…そんなこと、ない」
 僕は下を向いて首を振った。
 本当は――考えている。ううん。今、考えた。形になった。

 本当のこと、言わないといけない。
 でもそうしたら、別れないといけない。
 だったら、だましたまんま別れた方がいいんじゃないか。
 どっちにしても別れるんなら、陸さんに嘘つきだって軽蔑されるより、ひよちゃんの言っていたみたいに――こずえの間だけ陸さんの恋人で、魔法が解けたあとは、さよなら。
(そのほうが……)
「こずえ?」
「あ、うん」
 僕は顔を上げて、笑った。
「本当は、陸さん意外とエッチだから、どうしようかな〜って思ってた」
「マジ?」
「でも、もうしないっていうんなら」
「しない、しない、約束する」
 陸さんは、小指を立てた。
 僕が首をかしげると
「指きり……指つなぐのも、ダメか?」
「まさか」
 僕は右手の小指を差し出して、陸さんのそれと絡めた。

「ゆ〜びきりげんまん、嘘ついたら、針千本の〜ます」
 二人で歌った。

 嘘ついたら、針千本―――

 本当に、針を飲んだみたいに、胸が痛い。








「こずえっ、もっと早く」
「はい」
「身長ないんだから、踏ん張って高く跳びなさいよ」
「はいっ」
 ひよちゃんに比べたら誰でもチビだって。
 でも、身体を動かしているうちは変に悩まないで済むから、ひよちゃんのしごきは嫌じゃない。育良高校との試合が一週間後に迫って、練習はますます厳しくなった。練習の後も、あんまり疲れていて、ひよちゃんの作ってくれたデート計画も実行できないことが多くなった。
「こずえ、今日は?」
 陸さんが僕のバッグを持ってくれる。
「公園」
「オッケー」

 いつもの公園のいつものベンチに、二人並んで腰掛ける。
 夕方になっても夏の日は高くて、噴水の滴が跳ねてキラキラするのを見ていると眠くなってくる。
「相川、気合が入ってきてんな」
「うん、絶対、負けたくないって……」
「男子もその日は応援に行くからさ」
「うん……」
 まぶたがくっつきそう。
「疲れた?」
「うん……」
「眠い?」
「うん……」
「んじゃ、起こすから、寝ろよ」
「ごめんね、陸さん……」
 ベンチに背中を、そして陸さんの肩に頭を預けて目を閉じると、あっという間に睡魔が襲ってくる。一、二、三、グー…なんてノビ太みたいだ。


 そんなデートが続いた日、公園で寝ていた僕は、ふわりと吹いた風に目を覚ましてギョッとした。
 あたりが暗い。
 慌てて隣を見たら、陸さんも寝ちゃっていた。
(うわ…)
 身体を起こした僕の肩に、今度は陸さんの頭が乗っている。短い髪の毛先が、僕のほっぺたにあたってチクッとした。
(まつ毛、長い……)
 ここから見ると、ちょうど眉とまつ毛と鼻が見えて。
 真っ黒できりっとした太い眉も、すっと通った鼻もすごく男っぽくてカッコいい。
 そういえば、初めて会ったときはちょっと怖いくらいに感じたんだよね。あれからまだ二週間も経ってないんだ。
「オカヒロミ……」
 呟いてみる。
 初めて聞いた時は、あのテニス漫画の女の子が浮かんできて笑ってしまったんだけれど、今の僕には、オカヒロミって言ったらこの人だけだ。
 陸広海。
「よく考えたら、おっきい名前……」
 大陸に広い海だ。
 クスクスと笑いがでた。
 今度からは、あの漫画の子の名前を聞いても、陸さんのことを思い浮かべるんだろう。
 そして、ほんのちょっと切なくなったりするんだろうなあ。
(ほんの、ちょっと…ね…)
 ぎゅうっと胸が痛くなって、僕は頭を倒して陸さんの頭の上に乗せた。
 陸さんの髪の匂いだ。
 身体の左半分が熱い。
 あたりは真っ暗になっていくけれど、僕は動けなかった。



「お前、起きてたんなら、起こせよ」
 陸さんが慌てている。腕時計見て
「何時だ、今、うわっ、もう九時だよ、オイ」
 立ち上がって僕の腕を引いた。
「俺はいいけど、お前、ヤバイだろ。おばさんたち心配してんじゃないか」
「う、うん」
「一緒に行って、謝るよ」
「えっ、い…いいよっ」
「馬鹿、女の子こんな遅くまで連れまわしてたって思われたら、俺が困るだろ」
 実際、何もしちゃいないのに…ブツブツと呟く。
「大丈夫だよ」
 だって、僕は女の子じゃないし。
「だから、大丈夫じゃないのは、俺だって」
「でも、本当に、いいから……」
 多津子おばさんに、僕のこと『こずえさん』とか言われたりしたら――背筋が凍る。
「家には、電話するから」
「じゃあ、電話かわる」
「…うん」
 とにかく、家に来られないようにしないと。
 いつか陸さんの携帯に電話をした公衆電話に向かう。
「俺の携帯、使えば?」
「ううん、辺りがうるさいとマズイから……」
 なんて、夜蝉の声しか聴こえないけれどね。
 電話ボックスに入ると、案の定、陸さんも一緒に入ってこようとした。
「か、かわってもらう時、呼ぶから」
 陸さんの大きな身体を締め出して、僕はひよちゃんの家の電話番号を押した。
(ひよちゃん、出て…っ)
 祈りが通じて、受話器をとったのはひよちゃんだった。
 まあ、夜の電話は、たいがいひよちゃんが出るんだけれどね。
「ショーリ、あんた、こんな時間までどこ行ってるのよ」
「えっと、詳しい話はあとでするから。今、陸さん一緒なんだけど、ひよちゃん、おばさんのふりして電話出てくれない?」
 外に漏れないように小声で早口になった僕の言葉を、ひよちゃんは理解してくれた。
「……お母さんのふりして、ボーイフレンドのおわびを聞けってことね」
「うん…」
「おーらい。帰りにコンビニでプリン買ってきてね」
「うんうん」
 ボックスの扉を開けて目で呼ぶと、陸さんはひどく緊張した顔で受話器を握った。
(ごめんなさいっ)
 内心、土下座。
「あ、こずえさんの、お母さんですか」
 違う、おばさん。
「あ、そうでした。すみません」
 ひよちゃんもそう言ったんだな。
「今日は、こんな遅い時間まで、こずえさんを引きとめてすみませんでした」
 頭を下げている。
 ああ、相手がひよちゃんだと思ったら、恥ずかしくて死にそう。
 でも、僕は、そんなこと言える立場じゃなくて。
 陸さんがものすごく真面目な顔で謝っているのを聞いて、僕はまた胸が苦しくなった。
「はい…はい……申し訳ありません」
 陸さんは、平謝りだ。
 ひよちゃん、何言ってるんだよ。もう、早くかわって――。

 気がせく僕をからかうように、ひよちゃんは陸さんと長々としゃべって、ようやく解放された陸さんから受話器を奪った僕は、思わず怒鳴りそうになった。
「ひっ、おっ、おばさんっ」
「なあに、こずえちゃん」
 ひよちゃんの声は笑っている。苦しそうに。
「これから帰るから……おば、おじさんたちにも、心配しないように言っておいてね」
「大丈夫よ。私だって、八時、九時なんてざらだもん」
「ちゃんと言っといて」
「はいはい……プリン、忘れないでね」
(もうっ)
 ガチャンと受話器を置いてボックスを出ると、陸さんが叱られた子どものような顔で立っていた。
「怒られたか?」
 心配そうに訊ねる。
(本当に、ごめんなさい)
「わ、私はいいけど、その、おばさん……陸さんに、なんて言った?」
「ああ」
 困った顔で笑って。
「嫁入り前の娘だから、非常識なことはしないでくれって」
(ああ、もう、ひよちゃんっ!)







HOME

小説TOP

NEXT