高校受験を控えた中学三年の夏休み。 両親がそろってカナダに行くと言うのに、僕は日本で留守番ときた。 「何で、僕も行っちゃ駄目なんだよ」 「だって、勝利(かつとし)、来春受験じゃない。海外行って遊んでいる場合じゃないでしょう?」 そんなら、お前は受験生の母親だろお! 叫びたいけれど、そんなこと言ったら後が怖いから唇を噛むだけ。 「勝利のことは多津子おばちゃんによく頼んでおいたから。しっかり勉強しろよ」 受験生の父親は、カナダにまで持っていく釣り道具を手入れしながら笑ってる。 「それにしても、お父さんのリフレッシュ休暇が三週間も取れるなんてねえ」 「まあ、うちの会社は、夏は比較的暇だからな」 「戻ってきたら、会社に席無かったりしてね」 「そりゃ困るなあ、あははは……」 「ほほほほほ……」 何なんだよ。この脳天気夫婦。 昔からそうだ。 いつまでも新婚気分の抜けないうちの両親は、僕のことなんかほったらかしにしてしょっちゅう二人で遊びに出かけてしまう。そのたびに僕は、従姉のひよちゃんちに泊まることになる。 僕はひよちゃんの顔を思い出して、溜め息をついた。 二つ年上のこの従姉を、僕はずっと苦手にしている。嫌いと言うわけじゃない。ただ……苦手なのだ。 多津子おばさんの家は、僕の家から中央線で一本のところにある。小学校の頃からよく降りた駅は、最近急に綺麗になっている。駅前に美味しいパン屋さんがあるから、そこのパンを手土産に買っていくようにとお母さんに言われていたので素直に従った。 「いらっしゃーい」 玄関の呼び鈴を押したら、大きな声とともにひよちゃんが飛び出してきた。 相川ひよ子。『ひよこ』というかわいい名前が冗談としか思えない。百八十を超える長身の高校二年生女子。 「待ってたわよ、ショーリ」 「はあ」 「あ、良い匂い? あーん、ブラッドベリのパンだ。サンキュー」 まだお土産だともなんとも言っていないうちから、僕の手からパンの袋を取り上げる。 「たくさん買ってきたねえ」 「ひよちゃんが、たくさん食べると思って……」 ポツリと言ったら、キッと振り向かれた。 お、怒られる?? ビクッとすると 「私がここの好きだって、よく知ってたわねぇ」 ぎゅっと抱き締められた。 「うっ…」 (む、胸が、あたるんですケド……) 僕だって身長百六十は、中学三年生なら決して低い方じゃ無い。――と、思う。そりゃ、もっとデカイヤツはいっぱい入るけど、小さい子だって大勢いるから、僕はとりあえず平均だと思う。でも、ひよちゃんが背高すぎるから、こんな風にぎゅっと押さえ込まれると、僕の顔はひよちゃんの胸に埋まるんだよ。 (まあ、身長のわりには、そんなに胸は無いからいいけどね……) 「なんか、言った?」 「う、ううんっ」 ブンブンと首を振る。 「でも、よかったわ」 ひよちゃんの言葉に、ふと疑問。何が、よかったんだ? 嬉しそうな顔に、 (ああ、お昼、まだだったんだ) と、納得した。買ってきたパンがお役に立ってよかった、と。 ところが、台所に行って、テーブルにバラバラとパンを広げながらひよちゃんが言ったのは、全然違うことだった。 「休み中ここにいるなら、暇でしょ? ちょっと付き合ってもらうから、宜しくね」 「えっ?」 なんだか嫌な予感。 「ショーリって、まだバレーボールやってんでしょ」 「う、うん」 本当はサッカーをやりたかった。だけど、僕が中学に入ったとき、ひよちゃんが(同じ中学でもないのに!)絶対、バレーボール部にしろと、譲らなかったのだ。そんなの無視しろって言われるかもしれないけど、無視できないのがひよちゃんなんだ。 そう、家のお母さんもそうだけど、多津子おばさんもひよちゃんも、相川家の女は、むちゃ強くて怖いんだよ。 思い出してプルプル震えるウサギのような僕。なんちゃって。そんな僕に、ひよちゃんが言った。 「じゃあ、明日から、うちの部活に参加してもらうから」 「へっ?」 思わぬ話に目が点。 「な、何で?」 「うちのエースアタッカーが、休み前に足首ひねっちゃって、一ヶ月試合に出られないのよ」 ひよちゃんは、カスタードのいっぱい詰まったクリームパンを口いっぱいにほおばりながら言った。 「で?」 それと僕に何の関係が? 「夏休みの最後の週に育良高校と練習試合があるんだけれど、それに勝つには、強いアタッカーが必要なの」 嫌な予感。嫌な予感。 「私、イクラには、ぜっったい、負けたくないの」 嫌な予感、最大出力。マックス1000パーセント。 「だから、ショーリに、助っ人で入ってもらうから」 ドッカーン!! 「あのさ」 「うん」 「ひよちゃんの部活って……」 「うん」 「男女混合?」 「バッカじゃないの? 混声合唱団じゃないんだから、女子部に決まってるでしょ」 あああああ…… 僕が、昔からひよちゃんを苦手にしているのはこういう理由だ。 ひよちゃんの前では、常識も理屈も通らない。男の僕が女子バレーボール部に入るなんてことも、ひよちゃんの言葉でいえば「バッカ」な話じゃないらしい。 「試合のとき……たぶん、ルール違反だっていって……退場させられるよ」 「なんで?」 「だって、女子の試合に男が出たら……」 「バレなきゃいいのよ。公式試合じゃないモン」 「ば、ばれなきゃって?」 ひよちゃんはじっと僕の顔を見つめて、そしてニッコリ笑った。 「ショーリが、女の子みたいに可愛い顔でよかったわ」 「まさか……」 「明日みんなの前で紹介する時は、勝利じゃなくて『こずえ』って名前にするからね」 * * * 翌日、僕は、ひよちゃんがどこからか調達してきたらしい都立西高校女子バレーボール部のユニフォームを、無理やり着せられた。ブルマじゃないのだけが幸い。 「短パンの上からジャージはいていいからね」 「…………」 ありがとう、なんて言うべきところじゃないと思って黙っていたら 「返事は? こずえ」 バチンと背中を叩かれた。 「いたっ」 「アンタも体育会系なら、ビシッと腹くくりなさいよ」 「くくったよ。ゆるくね」 渋々、ジャージをはいた。 いや、ジャージをはくのは大賛成(女子用の短パンで町を歩けるほど僕は自分を捨てちゃいない)ジャージが真っ赤じゃなければ、もっといいんだけど。 「でもさあ、僕が本当は男だって、チームメイトにも隠さないといけない?」 ひよちゃんの通う西高にむかって、僕たちは並んで歩いた。ひよちゃんの頭は僕よりずっと上にある。 「バレないようにするのは、試合の時だけでいいんでしょ? だったらチームメイトには、本当のこと言っておいたほうが……」 そうすれば、少なくとも練習中は女装しなくて済む。 けれども、ひよちゃんは 「何いってんのよ」 バッサリ切り捨てた。 「敵を欺くには、まず味方から! そして、味方を欺くには、まず自分からよ。こずえ、自分を欺きなさい」 「…………」 訳わからないうちに、西高の正門に着いた。 「打ち合わせどおりに頼むわよ」 「……うん」 二人で体育館に向かっていたら、背中から声を掛けられた。 「相川」 二人して振り向いた。僕の苗字も相川だ。 振り向いたとき、僕の目の前には壁があった。 いや、ちがった。白いユニフォームの、これは、胸。顔をあげて見上げると、その上に付いていたのはひどくワイルドな顔。太い眉毛の下のツリ目がひよちゃんを見て言った。 「体育館、二時まで俺たちが使うから」 「何でよ。今日は、女子の日でしょう」 「二時からあけ渡す。紅白試合二つに分かれてやるから、二面必要なんだ」 「だめよ、うちだって試合近いんだから、コートは、一つは必ず空けてもらうわ」 「試合って、練習試合だろ」 「だから何よ? 練習試合を馬鹿にすると、練習試合に泣くわよ」 「泣かねえよ」 チッと言って顔をそむけた拍子に、その男は僕を見た。切れ長の目がちょっとだけ大きくなって「コイツ誰だ?」って顔になる。 「あ、この子、私の従妹の相川こずえ」 「従妹って……うちにいたのか?」 「期末に転校して来たんだけど、夏風邪ひいて登校できなかったの。二学期から、私と同じクラスだから、ヨロシク」 打ち合わせしたとおりの嘘をしゃあしゃあと吐く、ひよちゃん。 僕は、恥ずかしさに顔に血が上る。 「こずえ、挨拶」 「よろしくお願いします」 ペコリと頭を下げると、 「ああ、ヨロシクな」 意外と感じのいい応えが返ってきた。 「こずえ、彼は西高男子バレーボールチームの次期キャプテン」 一瞬、間をあけて、ひよちゃんは人の悪そうな笑いを浮かべて言った。 「陸広海君」 「おか、ひろみ……?」 思わずオウム返しに呟いたら、 「フルネームで呼ぶんじゃねえよ」 おかひろみは、恐ろしい顔で言うとクルリと踵を返した。 「ヒロミ」 廊下の先から別の声がした。 「どこ行ってんだ。始まるぞ」 「おう」 足早に去っていく大きな背中を見送って、 「おか……」 もう一度呟いて、プッと吹きだした。 「ほら、私たちも行くわよ」 ひよちゃんが、僕の背中を押す。 僕はたった今会った大男の、どこかで聞いたことのある名前に気を取られていて、その時ひよちゃんがどんな顔でその彼を見送っていたかなんてことは全然気にならなかった。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |