しかたないから、そのままベンチに座って、海老沢さんが置いていった本をパラパラとめくった。 女の子の読むような本だと思った。 そして、後ろの方にあった挿絵を見た時、僕は心臓がドキンと跳ねて、手が止まった。 裸の二人が抱き合っている絵だったけど、二人とも―― (男?) 僕は、自分が女の子だと思ったのが男の子だったということに気がついて、カアッと顔が熱くなった。 それは、男の人と男の子の恋愛のお話だった。 ドキドキしながら、僕は、その本を読んだ。読んでいる途中で、恥ずかしくなってそれ以上読めなくなった。 どうしよう。 こんな本読んでいるところ、誰かに見られなかったかな。 あせってキョロキョロしたけれど、夏休みの児童公園にしては珍しく誰もいなかったのでホッとした。それから僕は、この本をどうしようか考えた。 家になんかもって帰れない。でも、もらったものを捨ててしまうのも出来ない。 (そうだ、お兄ちゃんに言って海老沢さんに返してもらおう) と思ったときに、お兄ちゃんのハンサムな顔と、海老沢さんの声が同時に浮かんだ。 『森君と智也君でやってもらおうって――』 瞬間、ゾクッとした。 僕とお兄ちゃんが、この本の二人を? 男同士なのに、恋人同士の…… 「あ…」 僕は、思わず自分の両ひじをつかんだ。身体が震えそうになったから。 気がついたんだ。 僕は、お兄ちゃんのこと―― お兄ちゃんのこと……男の人なのに――好きなんだ。 この本の男の子みたいに。 お兄ちゃんのこと――好き。 何だか、ぼうっとしてきた。 「どうしよう……」 お兄ちゃんに言って返してもらうのも、もうできない。 僕はその本を、持っていたカバンに押し込んだ。 家に帰って、厳重に隠して、そして明日来るって言ってた海老沢さんに返そう。 家のドアを開けると、お母さんが驚いたように出てきた。たぶん、僕の帰りが早かったからだ。 「おかえりなさい」 「……」 僕は、朝とは違う意味で、お母さんの顔が見れなかった。 カバンの中に入っている本が気になって、真っ直ぐ部屋に入った。 「お昼は?」 聞かれたけど、それにも応えられなかった。 カバンの中から本を出して、ベッドマットの下に突っ込んで、そのまま、ぱふっとベッドにダイビングした。 立っていられなかった。 ほっぺたに当たるシーツがひんやりする。 顔が熱い。 僕は、生まれて初めてっていうくらい動揺していた。そして、動揺したけど、納得した。自分の気持ち。 お兄ちゃんのことが、好き。 お兄ちゃんに『智也』って呼ばれてドキドキしたのも、サヤカ役の女の子がベタベタするのが気になったのも、お兄ちゃんが結婚していないってわかってホッとしたのも、全部、お兄ちゃんのことが好きだったから。 お兄ちゃんのことが、好き。 お兄ちゃんは? 僕がお兄ちゃんを好きだってこと知ったら、どう思うだろう。 カッコよくて優しいお兄ちゃん。 僕のためにわざわざ、オレンジジュースを買ってくれていた。 (お兄ちゃんも、僕のこと、好きだったら――) そんな風に考えたら、胸がきゅうっと痛くなって、そして熱があるときみたいに、天井がグルグル回った。 「お兄ちゃんのことが、好き」 「愛してる」 アイシテル――初めて口にしたその言葉は、不思議な呪文のようだった。 口の中で転がすと、甘いキャンディの味がする。 アイシテル――僕は、お兄ちゃんのこと。 (お兄ちゃんは……?) * * * 次の日、僕は、マンションの前の道路を窓からずうっと見ていた。 本を返さないといけない。 まだお日様がてっぺんまで昇らないうちに、ピカピカの赤い車が角を曲がって現れた。 僕は、ダッシュで外に出た。 「あら、迎えに飛び出してきたのっ? かわいいーっ! 子犬みたぁい!」 車に向かって走った僕を見て、海老沢さんは嬉しそうに運転席から出てきた。 僕は、海老沢さんの腕を取って、マンションの陰に引っ張った。 「あらあら、なあに」 「これ」 僕は、カバンの中から本を取り出した。紙袋に入れて、グルグル巻きにしていたけれど、すぐにわかったみたい。海老沢さんは、赤い唇の端を吊り上げて微笑んだ。 「もう読んだの? どうだった?」 「ど、どうって……」 実際は、三分の一だって読んでない。 「あら、耳まで真っ赤だわ。ごめんなさいね。刺激が強すぎた?」 海老沢さんは、紙袋からその本を取り出した。 「でも、そんなにキワドイのは無かったと思ったけど…ああ、書き下ろしの方に一ヶ所エッチがあったわねぇ」 パラパラめくって、例の挿絵あたりでクスッと笑った。 僕は、何もいえなくてうつむいた。 「でも、イヤラシくはなかったでしょ? 本編の方、どうだった?」 「全部は読んでないから、わかりません」 「あら、そうなの? ええ〜っ、いい話なのに。純愛よ?」 「そんなの……」 どうして、海老沢さんは、僕にこういう本を読ませようとするんだろう。 ひょっとして、僕の気持ちに気がついているのかな。 ふっと、海老沢さんの顔を見た。 「なあに?」 そして、僕は思わずたずねていた。 「こういう話って、よくあるんですか?」 「えっ?」 「男同士で……恋人、って……よく…あるの?」 恥ずかしくって、最後は声が消えそうになった。 「もちろんよ!!」 海老沢さんは、力強く言った。 「人が人を好きになるのに、性別とか関係ないわ。年齢もね」 僕はその言葉に、顔を上げた。 海老沢さんはうなずいて、身振りを交えて、おおげさに叫んだ。 「だって、好きになるっていうのは、魂の問題だものっ!」 両手を重ねて、自分の心臓に当てている。 「魂と魂が呼び合うの。それが、愛」 (愛……) 慣れない言葉に、背中がむず痒くなるけれど。でも、確かに僕のタマシイは、お兄ちゃんに惹かれているんだと思う。 「愛、アイアイ〜♪ 愛こそ強く〜♪ ……そして、アイアイはお猿さんよ」 海老沢さんは、よくわからない歌と言葉で僕を油断させておいて、 「智也君、森君のこと、好きなのね」 ピシリと言った。 「うん」 僕は、思わずうなずいていた。 (あっ、しまった) 僕はあわてて口を押さえたけれど、遅かった。 「わかったわ。っていうか、わかってたのよ。大丈夫、私に任せて」 「え?」 何をまかせるって言うんだろう。 意表をついた海老沢さんの台詞に、アゼンとした次の瞬間、 「可愛い智也君のために、エヴィ、一肌脱ぐわ」 海老沢さんは、猛然とマンションの中に入っていった。 しばらく呆然としていたんだけど、海老沢さんがお兄ちゃんの部屋に行ったんだってことに気がついて、あわてて後を追った。 エレベーターのランプが四階から点滅して下がって来るのは、今、海老沢さんがそこで降りたからだ。 (早く……) こういうときに限って、エレベーターのランプが途中で止まって動かない。誰かが止めてるんだ。 (もう) 刑事ドラマじゃないんだし、僕が四階まで駆け上がること考えたら待ってたほうが絶対早いって思ったのに、自然に足が非常階段のほうに行っていた。 さすがに四階までたどり着いたときには、息が切れた。 405号室の前でまで来て、どうしようか迷った。 チャイム鳴らすのって、変かな。 ドアに手をかけたら、カギはかかってなかった。僕は、そっと開けて中に入った。 すぐにお兄ちゃんと海老沢さんの声が聞こえた。 ケンカしているみたいだ。 「何なんですか、あなたは」 「もぉ、素直じゃないわねぇ」 「いいかげんにしてください」 「あの可愛い智也君が、あなたのこと好きだって言ってるのよっ」 「も、迷惑なんですよっ」 息が止まった。 ドッジボールでむちゃくちゃ強いタマを胸で受けた、その千倍くらいの衝撃。 『迷惑』 僕がお兄ちゃんのこと好きになるのが迷惑だったなんて、思いもしなかった。 目の前が真っ白になって、何も聞こえなくなって、ただお兄ちゃんの言った言葉だけがグルグル頭の中を回っている。 『迷惑なんですよ』 (や、やだ…) 嫌われたくない。迷惑だなんて思われたくない。 僕は、二人のいるリビングに飛び込んでいた。 「やめてっ」 二人ともビックリした顔で振り向いた。 「違うんだ」 嫌われたくない。 「僕が、お兄ちゃんを好きだなんて、うそなの」 「智也君?」 海老沢さんが、細い眉毛をきゅっと寄せた。 「うそ……ううん、勘違いなの……」 迷惑だなんて、思われたくない。 「僕は、バクシンオーの流星が好きで……だから、流星の声のお兄ちゃんのことも好きだって思っただけなの」 お兄ちゃんが、僕をじっと見た。 泣きたい気持ちになったけど、がまんした。ここで泣いたら、嫌われてしまう。 「僕が、好きなのは……流星なんだよ」 だから、迷惑だとか思わないで。 「だから……」 鼻の奥がすっごく痛くなって、限界だって感じた。 これ以上ここにいたら泣いてしまう。 「だから……」 嫌わないで。 「全部忘れてね」 お兄ちゃんに背中を見せたら、少しホッとできた。 急いで、家に帰ろう。 家のドアを閉めるとき、手が震えた。 僕は、ちゃんと言えたかしら。最後、ちゃんと笑えたかしら。 驚いたように僕を見たお兄ちゃんの顔が、頭の中に貼り付いてる。 自分の部屋のドアを開けて、僕は立ちすくんだ。 「お母さん?」 「あっ」 お母さんは、僕の机の上に広げたものをあわてて片付けるようにした。 「何してるんだよっ」 「何って……智くんが、最近変だから」 「変だからって、僕の部屋に勝手に入って、色々さぐってんのっ」 「勝手にって、子供の部屋に親が入ってどこが悪いの」 お母さんは開き直るように言って 「これ何?」 本棚の後ろに隠していたバクシンオーの台本を僕の方に差し出した。 「あ」 頭に血が上った。 「返せよっ」 ビリッ お母さんの手から取り戻そうと引っ張ったら、お母さんもつかんだままで、表紙が大きく二つに破れてしまった。 「あっ!」 お兄ちゃんの書いてくれたサインが二つに裂けた。 (お兄ちゃんの……) それを見たとたん、さっきまでがまんしていた色々な気持ちがいっぺんに吹き出した。 うあぁぁっ……と、僕は、床に座り込んで声を上げて泣いた。 「智くんっ?」 「出てけっ」 僕は、表紙の破れた台本をお母さんに投げつけた。 お母さんの身体に当たったかもしれないけど、そんなこと心配もできなかった。 僕は、一生懸命、泣いた。身体を折り曲げて、床にうつぶせて。 『迷惑なんです』 お兄ちゃんの声が頭の中で響くたび、僕は、気持ちを吐き出すように泣いた。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |