「いらっしゃい。帰るのよ」
 お母さんが僕を呼ぶ。
「すみません。俺、僕が、引きとめたんです」
 お兄ちゃんが言うと、お母さんはわかってますというような顔でうなずいた。
「お邪魔いたしました」
 頭を下げながら、僕の手を引っ張る。
 僕は、お母さんの態度にお兄ちゃんが気を悪くするんじゃないかってハラハラした。
「ごめんなさい…僕……」
 小声で言うと、お兄ちゃんは目で笑って、僕の背中を押した。
「またな」
「うん、またね」
 僕が応えるのが終わらないうちに、お母さんは僕をドアの外に引っ張り出した。
 ドアを閉じるなり
「何が『また』なのっ?」
 眉をつり上げる。
「聞こえちゃうよっ」
 僕が小さく叫んだら、慌ててうちのドアを開けて入った。


「智くん、いつの間にお隣にお邪魔するようになったの」
 いつもは綺麗なお母さんの顔が、すごく嫌な感じに歪む。
 お兄ちゃんのことを、変質者だとか言っていたお母さん。
「知らない人の家にあがるのが、どんなに危険なことか知ってるの」
 違うのに。
「いい大人が、あなたみたいな子供を引き止めて家にあげるなんて」
 違うのに。
「それだけで、十分変だって思わないの」
「違うよッ」
 僕は、叫んでいた。
 お母さんがビックリして、目を真ん丸くした。
「お兄ちゃんは、変じゃないよ」
 お母さんに、初めて口ごたえした。
「お兄ちゃんは、優しくて、カッコいいんだよ」
「智くん?」
「お母さんの言うような人じゃないよ。ちゃんとお仕事してるもん。立派な仕事なんだから」
 なのに、失礼だ。お母さん。
「ひどいよ、そんな風に言うなんて……」
 鼻の奥がツンと痛くなった。
「お母さんなんか、嫌いだっ」
「智くんっ?」
 僕は、自分の部屋に飛び込んでベッドの中にもぐった。
「智くん」
 僕の部屋には鍵なんかついていないから、すぐにお母さんは入ってきて、布団の上から僕の背中をゆすった。
「どうしたの? 智くん」
 僕は黙っていた。お母さんが許せなかった。
 お兄ちゃんのこと、悪く言うお母さんが許せなかった。
 身体を丸めて固くした。
「お母さん謝るから、ちゃんとお話してちょうだい」
 それでも僕は黙っていた。
「智くん」
 だって、何て言っていいかわからない。
 今の自分の気持ち。
 何で、ここまでお母さんを許せないのか。
 何で、お兄ちゃんのこと、こんなに気になるのか。
 何で
 何で
 何で―――

『何で、俺が結婚していないと、ホッとするの?』
 お兄ちゃんの顔が浮かんだ。――優しい色の浮かんだ目。
(お兄ちゃん…)
 僕は、ぎゅっと胸が詰まって、布団の中でポロポロ泣いた。





 次の日は、お兄ちゃんのところに行きづらくって、僕は朝から本当に図書館に行くために出かける準備をした。
 お母さんと口をききたくなかったから、家にも居たくなかった。
 お母さんは、昨日からずっとオロオロしている。夕食のときも、お風呂のときも、色々話し掛けて来たけど、僕はずっと黙っていた。
 夜、お父さんが僕の様子を見に来たのは、お母さんに言われたからだ。
 お母さんが過保護で心配性な分、お父さんはうるさくなくて、ちょっといいかげん。
 そのお父さんが、昨日は
「あんまりお母さんを困らせるな」
 って、言った。
 困らせようって思ってるんじゃない。
 僕も、どうしていいかわからないんだ。だから、しゃべれない。
「智くん、でかけるの?」
 靴をはく僕の背中に、お母さんが声をかける。
「いいかげん、機嫌直してちょうだい」
 僕は、もう怒っちゃいない。
 でも、お母さんとしゃべったら、自分の気持ちを説明しないといけないから、それが嫌で怒ったふりをしている。
「お昼は? 家で食べるんでしょう?」
 お母さんがたずねるのを無視して、僕は家を出た。



 マンションを出ると、ピカピカの赤い車が止まっているのが見えた。
(見たことない車だ)
 そう思って、通り過ぎながらチラッと見たら、中から人が飛び出してきた。
「智也君っ」
「あ」
 お兄ちゃんと一緒に行ったスタジオで会った女の人。
 名前は、確か――
「海老原さん」
「ブブ―ッ! 惜しい。海老沢よ」
 両手の人差し指でバッテンを作って言った。
「でも、どっちでもいいわ。エヴィって呼んで、ヴィはちゃんと下唇を噛むのよ」
 ヴィ! って、お手本を見せてくれた。
「はあ……」
 本当に何なんだろう、この人。
 よくわからなくってぼおっとしていると、腕を引っ張られた。
「待ってたのよ。張ってたのよ。気分はもうヤマさんよ」
 ケーブルテレビでやってる昔の刑事ドラマの人だ。でも、ヤマさんは、赤い車で張り込みはしないと思う。
「森君が、自分ちのマンションの隣の子だって言ったのを頼りにね」
 朝から、ずっと待ってたの?
「来て来て、こっち。乗って乗って」
 車に乗せられそうになって、さすがに抵抗した。
 誘拐されるとは思わないけど、何となくこの人、怖いんだもん。
「あん、怖がらなくてもいいのに」
 怖いよ。
「しょうがないわね。じゃあ、暑いけど、その辺でお話しましょう」
 海老沢さんは、車の中からカバンを取り出すと、肩にかけて言った。
「来る途中に公園があったわね。そこ行きましょ」
 よくわからないまま付いて行った。
 とりあえず、そこの公園なら危なくは無いよね。


「アフレコ見てどうだった?」
「えっ?」
「森君の。面白そうだって、思わなかった?」
「う、うん……」
 大きな木の陰のベンチを選んで、僕たちは座っている。
 他人が見たら、変な組み合わせだろうな。
 僕はTシャツと短パンに、塾に行く時のようなビニールバッグ。海老沢さんは、派手な黄色のスーツに、公園の芝生を穴だらけにしそうなハイヒール。
「智也君も、アフレコやってみない?」
「えっ? 僕が?」
 ビックリした。
「そう」
 海老沢さんは、ニッコリ笑った。
「無理です。できません」
「あら、何で」
「僕、声優じゃないから」
「これからなるのよ」
 できっこない。あんな、お兄ちゃんみたいに。
 アフレコのときの、お兄ちゃんのカッコいい横顔を思い出して、僕は顔が熱くなった。
「できない、あんなの」
「やってみたら、意外に簡単かもよ」
「難しい字も読めないし」
「大丈夫、フリガナふってあげる。それに台詞はそんなに無いから、っとと」
 海老沢さんは、しまったと言うように、自分の口に手をあてた。
「と、とにかく、私、智也君の声、とっても気に入ったの」
「だから、無理です。僕、できません」
 僕は、両手をぎゅっと握り締めた。爪の先が白くなった。
「そういわないでよ。森君と智也君でやってもらおうって、もう決めちゃってるんだから、私」
「お兄ちゃんと?」
 僕は、顔を上げて真っ直ぐ海老沢さんを見た。
「あら」
 海老沢さんは、嬉しそうな顔をした。
「そうそう、言わなかったわね。相手役はね、森君を押しているのよ、ワタシ」
 お兄ちゃんと、一緒にお仕事?
 一瞬、夢みたいな光景が頭の中に浮かんだけれど、僕はブンブン頭を振った。
「無理です」
「意外に、強情ねぇ」
 海老沢さんは、腕組みして僕を見た。
「ま、いいわ。とりあえず考えてほしいの。それでね、一度読んどいてほしいの、これ」
 カバンの中から、一冊の本を取り出した。
「エヴィの一押し『初恋2』!!」
 渡されたそれは、文庫本くらいの大きさで、表紙に少女漫画のイラストがついていた。
 黒い髪の男の人と金髪の女の子が抱き合っている。
「ねっ、この子智也君に似ているでしょう?」
 表紙の二人のうち、女の子の方を指して言う。
 金髪で、水色の大きい目にはまつげかバサバサついていて――はっきり言って、僕には全然似てないと思う。
 黙っていたら、
「この子の声を、智也君にお願いしたいのよ」
「女の子の?」
「えっ? あら…ほほほ…読んだらわかるわよん」
 海老沢さんは、立ち上がった。
「じゃあ、また明日。あ、そうそう、今度は連絡してから行くから、電話番号教えて」
「それは……」
 僕が口ごもると、
「うーん、警戒心強いわね。そんなタイプに見えなかったんだけど」
 難しい顔をする。
 あなたにだけです。ってハッキリ言えたらいいんだけど。
「まっ、いいわ。406号室だもんね。訪ねて行くわ、次は」
「ええっ?」
「じゃ、またねっ!」
 元気よく歩いていく海老沢さんは、やっぱり何度かヒールで地面に穴を開け、土をとばしていた。

 僕は、蝉がジージーうるさく鳴く公園に一人取り残されてしまった。







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