お兄ちゃんがスタジオの中に入っている間、僕は隣の部屋で見学させてもらった。その部屋には僕だけじゃなくて、スタッフの人がいっぱいいた。ガラスの向こうで、お兄ちゃんと他の声優さんたちがおしゃべりしている。
 その中で、髪の毛の長いかわいい感じの女の人がお兄ちゃんにベタベタしているのが見えて、僕はちょっとだけ嫌な気持ちになった。
 たぶん、流星のことを好きなサヤカの声の人だと思う。現実でも、お兄ちゃんのこと好きなのかなあ。
 監督さんのお話が終わって、中央のスクリーンにバクシンオーのタイトルが映った。
 三本のマイクを交互に使って、絵に合わせて台詞を言う。
 お兄ちゃんがしゃべると、画面の流星が生き生きするの。それまで、ただのフイルムだったのに。
(カッコいい……)
 僕は、いつのまにか、スクリーンの流星じゃなくてお兄ちゃんを見つめていた。





「お疲れ様でした」
「おつかれー」
 収録が終わって、みんながスタジオから出てきた。
「この子ね? 森君が連れてきたバクシンオーファンの子って」
 太った女の人が僕に笑いかけてきた。
 この人はタケシの声の人で、僕は今日初めてタケシ役の人が女の人だって知ってビックリした。それも、言ったら怒られちゃうけど、かなりオバさんだ。
 男だと思っていた声が女の人の声だったり、おじいさんの声を若い人が出していたり、その逆もあったり……たくさんの意外な事実にビックリだった。
「記念にいいものあげようね」
 オバさんは――名前、見たけど忘れちゃった――新しい台本にサインをしてくれた。そして周りの人にも書いてもらっている。僕は、バクシンオーは大好きだけど、声優さんはあんまり知らないから、嬉しいんだけどちょっと困った。
 後でお兄ちゃんに、どれが誰のって教えてもらわないと。
 サイン付き台本とバクシンオーのうちわとをセットでもらって、僕は、お兄ちゃんと一緒にスタジオを出た。
「森くん」
 サヤカ役の人が追いかけてきた。
「これから皆で軽く食べに行かないかって、言ってるんだけど」
「ああ、悪い。今日は、コブ付きだから」
 その女の人は僕をチラッと見て、
「いっしょに連れてくればいいじゃない」と言った。
 僕は、何となく行きたくなくて、そっとお兄ちゃんのシャツの裾をつまんだ。
 お兄ちゃんは、僕の気持ちに気づいてくれたのか
「いや、早く連れて帰らないといけないから」
 そう言って、僕の頭に手を乗せた。それでバランス崩して、ちょっとお兄ちゃんによっかかるみたいになったら、その人は一瞬嫌な顔をした。
「じゃ、またな」
「ええ、また来週ね」
 女の人は手を振ったけど、お兄ちゃんが振らなかったのが、何となく嬉しい。
 駅まで、人がたくさんいて歩きづらいのを言い訳にして、僕はお兄ちゃんのシャツを握ったまま歩いた。
「どうだった、アフレコ?」
 お兄ちゃんが尋ねる。
「カッコよかった」
「そっか。どういう所が?」
 ふふふん…と自慢げに笑いながら、お兄ちゃんが聞く。
「ヘッドフォン片手で持って、かたっぽだけ耳にあてていたとこ」
 僕が言ったら、お兄ちゃんは立ち止まった。
 しばらく黙って
「俺?」
 首を傾げた。
「うん」
 だってほかにカッコいい人なんかいなかったよ。
 お兄ちゃんがじっと見るので、僕もじっと見た。

「じゃまだよ」
 怖い人が、僕たちを突き飛ばすようにして抜かして行った。
 あ、道路の真ん中ふさいじゃったんだ。
 こんなに人通り多いのに。
 僕はあわててお兄ちゃんを引っ張って道路の端によった。
「怖いね。今の人、ヤクザかなあ」
「え、ああ……かもな」
 お兄ちゃんはモゴモゴ言いながら、また歩き始めた。


 お兄ちゃんの部屋に一度帰って、勉強道具を入れたカバンをとって家に戻った。
 カバンの中にもらった台本とうちわも隠した。
「ただいま」
「おかえり、遅かったのね。お昼はどうしたの?」
「マックで食べた」
 新宿に行く途中で。
「お金持ってたの?」
「うん」
 本当はお兄ちゃんに出してもらった。
「今度から、一度うちに帰って食べなさいね」
「うん」
 自分の部屋に入って、机に座って、カバンの中から台本を取り出した。
 新しい本のインクの匂いがする。ト書きと台詞が並んでる。
 ト書きっていうのは、今日お兄ちゃんに教えてもらった言葉。
 僕は、お兄ちゃんの台詞だけ、小さく声に出して言ってみた。

『たとえ罠でも、俺は行く』
『これを逃したら、父と会うチャンスは、もう、二度と無いんだ』

 お兄ちゃんの横顔を思い出す。
 真剣な顔でスクリーンを見ていた。
 流星が苦しむ台詞の時は、本当に苦しそうに顔をしかめてた。

『わかっている。だから……あとは、たのんだぞ、タケシ』
 この台詞の時のお兄ちゃんは、とっても優しい目をして、画面のタケシを見ていた。

 僕は、お兄ちゃんのその顔に見とれてしまった。



「智くん、ご飯よ?」
 お母さんの声。
 僕は急いで台本を閉じて袋に入れると、キョロキョロして本棚の裏に隠した。
「今いくー」


 お母さんに秘密が増えていく。
 ちょっと胸は痛むけど――
 ごめんなさいって思うけど――
 それと同じくらい、ううん、それ以上、ドキドキして甘酸っぱい気持ちになる。

 なんだろう。変なの。
 こんな気持ちって――




* * *


「あら、またお隣のが混ざっているわ」
 朝、新聞を取りに行ったお母さんが、困ったように言った。
 手にはDMの山。お母さんはカタログとかの取り寄せが好きだから、うちには毎日たくさんのDMが来る。その中に、たまに隣の郵便物が混じってるんだ。405と406を間違えるみたい。
「もう、郵便局の人に言おうかしら。いくら印刷が見づらくても宛名をみたらわかるじゃない、ねえ」
「僕、返して来るよ」
 お隣に行く理由ができた。
「あら、じゃあ入れてきて」
 お母さんは、僕に一通の封筒を差し出した。いつも、配達間違いのときは、また隣のポストに入れ直ししているから、今度もそうするって思ってる。
 でも、僕は直接持っていくんだ。
 受け取って、宛名を見て
(え?)
 ドキンって心臓が音をたてた。
『森 静香様』
 だれ?
 お兄ちゃんあての手紙じゃなかった。
 女の人だ。
 だれだろう。
 ドキンって鳴った心臓が、今度はドクドクドクって早くなった。
 お兄ちゃんの姉妹?
 ううん、家族は両親とお兄さんが二人だけだって言ってた。


「智くん?」
 台所に入ったお母さんが、突っ立ったままの僕に気がついて、不思議そうに声をかけた。
「どうしたの?」
「ううん、別に」
 僕は、玄関を飛び出した。
 すぐ隣のドアの前に立って、深呼吸した。
(とにかく、この封筒、渡さないと……)

 ピンポンとチャイムを鳴らすと、しばらくしてドアが開いた。
「いらっしゃい」
 長い髪の毛をちょっとうるさそうにかきあげて、お兄ちゃんが笑った。
「今日も来るかなって、思ってたんだよ」
 僕を玄関に入れて、部屋の中に入ろうとした。
「お兄ちゃん」
 呼び止めたら、振り向いた。
「これ、うちのポストに入ってたの」
 突き出した封筒を不思議そうに受け取って、宛名を見たお兄ちゃんは一瞬気まずそうな顔をした。

 ズキン

 心臓に針が刺さったみたい。
 お兄ちゃんは、知らない顔で奥に入っていった。
 僕は、玄関に立ったまま。
「どうした? あがらないのか?」
 お兄ちゃんが、リビングから顔を出す。
「う、うん」
 僕はノロノロと靴を脱いで上がった。


 どうして、何も言わないんだろう。
 ――言ってくれないんだろう。

 オレンジジュースを両手で受け取りながら、僕は考えた。
 静香さんが誰なのか。
 結婚してたのかな。
 そう考えたら、今度は心臓がぎゅううって締め付けられた。

 なんだろう。
 苦しいよ。


「何だ? 飲まないのか?」
 向かい側に座ったお兄ちゃんはタバコをくわえようとして、僕の顔を見てそれをまた箱にしまった。
「具合悪いのか?」
「ううん…」
 本当は、具合悪い。気持ち悪い。何でだか、わからないけど。
「熱は?」
 突然、お兄ちゃんが僕のおでこを触った。
「無いな。腹出して寝てこわしたか?」
 僕は、思わずその手をつかんでいた。
「お兄ちゃん」
「な、何だ?」
 僕は無意識にたずねていた。本当に、知らない誰かが言ったみたい。
 こんなこと聞いていいかどうかとか考えるより先に口が動いたんだ。
「静香さんって誰?」

 お兄ちゃんは、黙っていた。
 すごく長く感じたけど、本当はどうだったんだろう。
 僕の顔を見て、そしてポツって言った。
「俺」


 僕は、ポカンと口をあけた。
 口をあけたってわかったのは、お兄ちゃんに言われたから。
「何だよ、その口半開きは」
 お兄ちゃんは、タバコをもう一回取り出して、カチカチとライターを鳴らした。
「だから嫌なんだよ。本名言うのは」
 本名? 本当の名前ってこと?
「森静香って、お兄ちゃんの名前なの?」
「何度も言わせるなよ。俺のトラウマを」
「虎馬?」
「古傷ってこと。精神的にヤな思いしたって」
「やなの?」
 お兄ちゃんが、静香さん。――女の人じゃなかった。
「いやだろ、普通。男のくせに、ドラえもんの彼女の名前じゃ」
「静香ちゃんはドラえもんの彼女じゃないよ。のび太のでしょ」
「ああ、そっか。ってか、あれは彼女なのか? ま、どうでもいいか」
 僕は、気持ち悪かった胸のつかえが下りて、本当にほっとして、そしてクスクス笑ってしまった。
「だから、笑うなよ」
「修一郎っていうのは?」
「芸名。っていうか、声優はじめたとき、これ幸いにつけたの」
「自分で?」
「普通、自分でつけるんだよ。師匠がいるわけじゃないからな」
 お兄ちゃんは、照れくさそうだ。
 僕は、初めて会った日にお兄ちゃんが、自分の名前を言おうとして、ちょっと考えた風だったのを思い出した。
 どっちの名前を言おうか、悩んだんだ。
「そういえば、僕のクラスにも、男でヒロミって子がいるよ」
「ヒロミはまだいい。芸能人あたりで認知されてるから。シズカなんて、政治家に一人強面のおっさんがいるけど、そんなのガキはしらないからな」
 お兄ちゃんは、吐き捨てるように言う。
「俺の小学校の時のあだ名、この名前のおかげで『オンナ』だぜ」
 僕はケラケラ笑った。
「ま、確かに可愛い顔してたんだよ、俺は」
 ふふん、と今度はちょっと自慢げになったお兄ちゃんが可笑しくて、僕は、もっと笑って、そして思わずペロッと言った。
「よかった。僕、お兄ちゃんが本当は結婚してんじゃないかって思ったの。違うからホッとした」
 突然、お兄ちゃんが、僕の顔をじっと見た。
(あ、何か変なこと言った?)
 僕は、思わず自分の言った言葉を、頭の中で繰り返した。
「何で?」
 お兄ちゃんが、ゆっくりたずねる。
「何で、俺が結婚していないと、ホッとするの?」
(何で……)
 何でだろう。
 お兄ちゃんが、じっと僕を見る。すごく優しい目。
 身体が熱くなる。
 心臓が、痛いくらいに早く早く動いて、身体中の血液がいつもの倍の速さで流れている気がした。
「何で?」
 お兄ちゃんが三回目のその言葉を言ったとき、僕も、ぼんやりと同じ言葉を呟いた。
「なんで……」
 何でだろう。
 僕は――


 ピンポンピンポンピンポン

 突然、玄関のチャイムが激しく鳴った。
 僕はビクッとして、お兄ちゃんの顔を見た。
 お兄ちゃんは、ちょっと複雑そうに顔をしかめて、玄関に行った。
 聞こえてきた声に、僕は飛び上がった。
「うちの智也が、来ていませんかっ」
 お母さんの声だ。
 僕は、玄関に飛び出た。
「智也っ」
 お母さんは、僕の顔を見て叫んだ。
「あなた、下の郵便受けに入れに行ったんじゃなかったの?」
「あっ…」






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