「おじゃまします」
 ぺこりと頭を下げて、部屋に入ると、コーヒーとトーストの匂いがした。
「今、朝ごはんなの?」
 僕は、約束どおり十時ちょうどにお兄さんの部屋に来た。
「ああ、お前も食べる?」
「ううん。僕、食べてきたから」
 朝から出かける準備をしているから、お母さんが不思議そうな顔をしたけど、また図書館に行くってウソをついてしまった。
 涼しいうちに行くって言ったら、お母さんは勉強熱心だって喜んでくれた。
「そっか。じゃあ、いいな」
 お兄さんは、自分の分のコーヒーとトースト二枚をテーブルに置いた。そして牛乳のかかったコーンフレークも出てきた。表面がきらきら光っている。それはちょっとおいしそうで、ジッと見ていたら、
「食べる?」
 と聞いてくれたので、うなずいた。
「少しだけ、食べたい」
「待ってろ」
 お兄さんは、僕の分のコーンフレークを持ってきてくれた。それと
「あ、ウェルチのオレンジジュースだ」
 僕の好きなジュース。
「お前の分」
 オレンジジュース、昨日はなかったのに。
「どうもありがとう」
 小さなテーブルに向かい合わせに座って、朝ごはんを食べた。


「朝ね、海パン見つかって、どうしたのって聞かれたから、本屋さんでもらったって言ったんだけど、いいよね」
「ああ、まあ、もともとアニメ雑誌の読者プレゼントだったからな」
「アニメ雑誌って、アニメーユとか、アニマックとかでしょ? 本屋で見るよ。でも高くて買えない。九百円とかするんだもん。高いよね」
「ああ、そうだな……うちに何冊かあるぞ。持ってくか?」
「ホント?」
「ああ」
 僕はちょっと考えた。
「うーん。でもいい。うちに持って帰ると、お母さんに色々聞かれちゃうから、お兄さんちで読んでもいい?」
「あ? まあ、いいけどね」
「ごちそうさま」
 僕は両手を合わせた。
 立ち上がって、コーンフレークの入っていたガラスのお皿を台所に運んだら、
「よくシツケされたお子様だな」
 お兄さんが、驚いたような顔をした。
「普通だよ?」
 こんなことで驚かれるくらい、昨日の僕は、ダメな子だったのかな。
 ちょっとガックリした。
 席に戻ると、テーブルに頬づえついてお兄さんが言った。
「誰かと朝メシ食ったのって、何年ぶりかな」
「そういえば、お兄さん、家族は? いないの? 一人?」
「いや、いるけど。親も兄弟も、一緒に住んでないってだけで」
「兄弟いる?」
「ああ、アニキが二人」
「二人もいるんだ。いいなあ。僕は一人っ子だから、本当はお兄ちゃんか弟が欲しかったよ」
「弟はいいかもしれないけど、アニキはねぇ」
 何か嫌なことでも思い出したように、お兄さんは宙をにらんで眉をよせた。
「何で? お兄ちゃんいたら、宿題見てもらったり、遊びに連れて行ってもらったりできるでしょ?」
「いや、そんないいもんじゃなかったし」
「ふうん」
 僕はこのお隣のお兄さんを見ながら、
(この人がお兄ちゃんだったらどんなだろう…)
 って考えた。

 昨日は、宿題教えてくれた。
『智也、がんばれ』って言ってくれた。
『俺がついてるから――』

 なんだか背中がくすぐったくなった。

「お兄ちゃん」
 小さい声でつぶやいただけなのに、
「あ?」
 返事が返ってきて、あせった。
「何だ?」
「う、ううん…」
 首をふってから、思い切って聞いてみた。
「お兄さんのこと、お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「どう違うんだ?」
「う…」
(どうって……どう違うって聞かれても……)
 僕が黙ったら、お兄さんは
「いいよ」
 あっさり言って、手を伸ばして僕の髪をクシャってなぜた。
「兄ちゃんが欲しかったんだよな? ちょっと歳、離れてるけど」
「……うん」
 なんか恥ずかしくなって、顔がカアッてした。
 ほっぺたに両手を当てたら、やっぱり熱かった。
「オレンジジュース、おかわりしてもいい?」
「どうぞ。お前のだって言っただろ」
 お兄ちゃんが、僕のグラスにトプトプトプってジュースを注いでくれた。
 赤に近いオレンジ色が、グラスの中ではねて揺れる。
 僕は、お兄ちゃんがわざわざ僕の為にジュースを買ってきてくれていたんだって気がついて、すごく嬉しくなった。





 午前中、宿題をちょっとだけして、それからビデオを見た。
 僕が前に見逃していたバクシンオーの第七回。
 お兄ちゃんのうちには、お兄ちゃんが声を出したアニメのビデオが全部とってあって、僕は夏休み中ずうっとここに居たいって思った。
 第八回の予告が終わって、エンディングが流れる。
 また流星のカッコよさに、クッション抱いて転がってたら、
「午後から、スタジオで録音があるんだけど、一緒に行くか?」
 って聞かれた。
「一緒に? 行っていいの?」
「大人しくしてるなら、見学させてやる。バクシンオーだから」
「ほんとっ?!」
 すごい!すごい!すごいっ!!
「わーい、ありがとう」
 僕はお兄ちゃんに飛びついた。


「電車で行くの?」
「もちろん」
「どこまで?」
「新宿」
 お兄ちゃんと並んで歩きながら、僕はスキップするくらい浮かれていた。
 並ぶと、お兄ちゃんが背が高くて、足も長いのがよくわかった。
 足の長さが違うから、普通に歩いていたら置いていかれそうになる。ましてスキップなんかしていたら全然追いつかないから、僕は時たま小走りに付いていったんだけど、お兄ちゃんは、そのたびに気がついて立ち止まってくれた。
 それだけのことなのにとっても嬉しくて、顔がニヤニヤしてしまう。
 一回だけ、わざと立ち止まってみた。
(気がつくかな…)
 お兄ちゃんがズンズン歩いていって、広い背中が遠ざかると、心臓がきゅうっとした。
 変な感じ。
 背筋を指でなでられるような、ゾクゾクしたあせり。
 気がついてくれなかったらどうしようって思った時、お兄ちゃんが振り向いた。
「どうした?」
 不思議そうに僕を見る。
 僕は弾かれたように走っていった。
 伸ばした人差し指の先から飛んでく輪ゴムみたいに。
「わっ」
 背中に抱きつくみたいにしてぶつかった。
「な、何なんだよ。お前」
「えへへっ」
「浮かれてるな」
「うんっ」
 だって、嬉しいんだもん。




 スタジオは普通のビルの中にあった。テレビ局みたいなところを想像していたんだけど、ちょっと違ったみたい。
「おはようございます」
 すれ違う人が挨拶してる。
 お昼過ぎなのに「おはよう」って言うのは、なんだか芸能人っぽい。
「森君っ」
 突然、女の人の声がした。
 三人並んだ女の人の、真ん中の一人が近づいてくる。
「あ、海老沢さん。どうも、お久し振りです」
 お兄ちゃんが軽く頭を下げた。
 綺麗な女の人だ。ずい分背が高い…って思ったら、ハイヒールのかかとが十五センチくらいあった。
「これから?」
「ええ、海老沢さんは」
「終ったところよ、ドラマCDの収録」
 僕は、
(あのかかとで、床が削れないかな)
 って見ていた。
「ああ、アレですね」
「惜しかったわ〜。私、主役の声は、森君を強力プッシュしたんだけど」
「いえ、お気持ちだけで……」
「あなたね、仕事選んでいるうちはプロとは言えないわよ」
「や、人には『向き不向き』っていうのがあって」
 お兄ちゃんの言葉に細い眉をつり上げたその海老沢さんって女の人は、突然、僕に気がついて、
「あらっ、まあ! まあまあ! 誰なの、この美少年っ」
 ビックリするくらい大げさに叫んだ。
(び……??)
 僕が驚いて口もきけずにいたら、
「森君の子?」
 お兄ちゃんに言った。
「俺が中二のときの子ですか? うちのマンションの隣に住んでる子ですよ」
「冗談よ、モチロン。ねえ、あなた、お名前は?」
 海老沢さんは、赤い唇の端をキュッと上げて僕に笑いかけた。
「み、水上智也です」
「きゃあ!! 可愛いわっ」
 ビクッ☆
「声まで可愛い。いいわ〜vv まだ声変わりしてないのねえっ」
「当たり前でしょう。中一ですよ。ほら、怯えてるじゃないですか」
 お兄ちゃんは、僕をかばうようにして立つ。僕は、ついその後ろに隠れてしまう。
 なのに海老沢さんは、お兄ちゃんを押し退けて僕の前に立った。
「ねっ、智也君」
 顔を近づけてきた。プウンって香水の匂いがした。
「あン、いやっ…って言ってみて」
 は?
 何、何を言っているの? この人。
「海老沢さんっ、やめてくださいよ、ったく」
 お兄ちゃんが、僕の肩に手をまわそうとしたら、
「森君は邪魔しないで」
 お姉さんは唇を尖らせて言って、突然
「きゃっ!」
 僕の脇腹をくすぐったんだ。
「な、何するんですか」
 思わず大きな声で言ったら
「かーわーいーいーっ」
 海老沢さんは両手を叩いて喜んだ。
「きゃっ! だって。何するんですか、だってぇ」
 本当に何なの、この人??
 海老沢さんは、後ろを振り向いて、一緒にいた女の人たちに言った。
「ねえねえ『初恋2』の矢緒衣ちゃんの声は、この子にお願いしましょうよ」
 何の話?
「いい加減にしてくださいっ」
 お兄ちゃんが、本気で怒ったような声を出して、僕はビクッとした。
 見上げるとお兄ちゃんは、僕にはニコッと笑ってくれた。
 そして、僕の肩に手をまわして海老沢さんに言った。
「この子に変な真似したら、許しませんよ」
 カッコいい〜っ。
 流星みたいだ。
 僕は思わず、そのままお兄ちゃんの腰にしがみついた。
「あらっ!」
 海老沢さんは、今度は両手をグーにして口にあてた。何か『驚いた!』ってポーズらしい。
「ビックリ〜、そうだったの? やだ、森君たら……」
「何、わかり易い勘違いしているんですかっ」
 お兄ちゃんが、まだ海老沢さんに文句言おうとしたら、
「ねえ、森さん」
 海老沢さんと一緒にいた女の人の一人が言った。
「時間、大丈夫?」
「えっ? あっ、げっ、ヤバ…」
 お兄ちゃんは腕時計を見て、あわてて僕の手をつかんだ。
「急ぐぞ」
「う、うん」
 お兄ちゃんに手を引かれながら、チラッと振り向くと
「智也君、またねっ」
 海老沢さんが、手を振った。手のひらの方から見てもよくわかる長い爪が、僕の視界でヒラヒラと揺れた。






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