「ノベルティでもらった海パンだから、お前にやる」
「ありがとう……」
 僕は、これもアニメのイラストの付いた、海パンを受け取った。
 僕の立場は『智也くん』から『お前』に格下げになっている。
 ……無理ないけど。
「そっちのバスルームではき替えて来い。おもらししたパンツは、バケツにつけておくんだぞ」
「おもらしじゃないよっ」
 ほんのちょっとビビッてチビッただけだ。
 でも、汚れたパンツが気持ち悪いのと、このままじゃズボンまでしみてしまいそうで、僕は勇気を持って告白した。
 お兄さんは、心底、呆れた顔をした。


「着替えたか」
「うん……」
 モジモジとソファに近寄ると、お兄さんは
「まったく……あの部屋見た人間はたいがい驚くけど、チビッたやつは初めてだよ」
 と、くわえたタバコに火をつけた。
「別に…お母さんが変なこと言わなかったら、ヒビッたりしなかったよ」
 オシッコちびり事件の汚名を晴らすために、ううん、全然晴らせないけど、とりあえず泣くほど怖かった理由として、僕は正直に全部話した。お母さんが言っていたこと。
「まあねえ…」
 ふーっとお兄さんはタバコの煙をはいて、僕がちょっと顔をしかめたら、気がついてエアコンのスイッチを入れた。
「確かに、昼間、フラフラしているし、秋葉原電気街のアニキャラ付きの紙袋抱えて歩いてたりしたら、アヤシサ大爆発だろうなあ」
 クックッと笑う。
「お兄さん、本当は、何している人なの?」
 さっき僕が半ベソかいたときに、お兄さんはとっても優しくて、だから僕は
(お兄さんは、たぶん犯罪者じゃない)
 って思ったんだけど、そうしたらますますお兄さんのお仕事が知りたくなった。

「声優」
「デパート?」
「ふざけてんの?」
「えっ? 声優? あのアニメの声出す人?」
 西友じゃなくて、声優。僕は、ビックリして叫んだ。
「うそっ、すごい。だれの? 誰の声、出してるの?」
 僕はちょっと、ううん、かなり興奮した。
「ああ〜っ言われてみたら、僕、お兄さんの声、聞いたことある気がするよ」
「うん、うん」
 お兄さんは満足そうにうなずいている。僕は、思い出そうと必死になった。
「うーん、うーん、えっと、何だろう、ここまで出てるのにぃっ」
 両手で頭を抱えると、
「おい、こら! お前、さっきあんなに熱く語ったのは何なんだよ」
 丸めたノートでポカリと叩かれた。
「えっ? あっ、バクシンオー?? 響流星?!」
「そうそう」
「うそ―――っ!!!」
「ハッハッハッ」
 お兄さんは、わざとらしい笑い声を出した。
「すごいや、すごい、響流星だ。言われてみたら声そっくりだ」
「いや、俺の声だし……」
 僕は、自分の恥ずかしい出来事も忘れるくらい舞い上がった。
 だって、憧れのヒーローがそばにいるんだよ。
 たとえ、声だけだとしても。





「なんか、響流星に勉強教えてもらっているみたいで、嬉しいや」
 嫌いな英語でも、流星が読んでくれてるって思うと、何となくいい感じ。
「智也が、将来地球連邦軍で活躍するためには、英語は必修だからな」
 流星の声。
 きゅーん
 嬉しくて、胸がしめ付けられた。
「……だから、名詞にSが付くのと動詞に付くのは、全然意味が違うんだよ。これは、三単現のS」
 流星の声だ。
「こっちの問題は、過去の話で現在じゃないから『彼』の話でもSは要らないんだ……って、お前、人が教えてやってるのに、寝るなっ」
 ポカッとまた叩かれた。
「寝てないよっ」
「目、つむってただろっ」
「う…」
 だって、それは……
「だって……目をつむったら、隣に流星がいるみたいだったんだモン」
「あぁ?」



「わかった。後でいくらでも流星で付き合ってやるから、勉強中はちゃんと目を開けてテキスト見ろ」
「はい」
 流星にしかられたみたいだ。
 僕は素直に従った。
 英語のあとは、算数の問題集を解いた。今日一日で三日分くらいできた。
 そして、五時半が近づいてくると、僕はソワソワしてきた。もうすぐ『グレードバクシンオー』の始まる時間だ。
 僕が落ちつかなくなったので、お兄さんは、
「じゃ、今日はここまでだな」
 笑って立ち上がった。
「牛乳持ってきてやる」
「ありがとう」
 流星の声のお兄さんと一緒に、バクシンオー見るなんて、すごく不思議な気分だ。
 なのに、お兄さんは
「じゃ、俺、あっちの部屋行ってるから、楽しんで見ろよ」
 いなくなろうとした。
「なんでっ?」
 僕は、その手にしがみついた。
「一緒に、見ようよぉ」
「や、いや…」
 お兄さんは、照れたような顔になった。
「何か、自分が声だしてるってバラしてから、並んで見るってのもなあ」
「いいじゃない。一緒に見ようよ」
 僕が強く誘ったら、お兄さんはちょっと困った顔をしたけど、もう一度座ってくれた。
「へへっ」
 笑ったら、キュッて鼻をつままれた。





 バクシンオーのエンディング曲の流れる中、いつもはあんまり気にしないテロップを僕は一生懸命目で追った。
 そしたら
「あ、あった。響流星 森修一郎 って書いてるよ」
「だから、そう言ってるだろ。恥ずかしいから、叫ばなくていいよ」
 お兄さんは立ち上がって、暗くなってきたからベランダ側のカーテンを閉めて部屋の電気をつけた。
「すごいね」
 僕は、お兄さんがお尻にしいていた丸いクッションを抱えた。
「今日の流星も、カッコよかったね」
「そうか」
 お兄さんが振り返った。ちょっと照れくさそう。
「うん」
 今日の話は、流星の弟分のタケシってパイロットが戦闘中のミスで大切な武器を敵に奪われてしまって、それでタケシが責任取って軍を辞めるって言うのを、流星が止めたんだ。
「ねえねえ、あの最後の台詞、もう一回言って」
「何?」
「あの『失敗をしない人間はいない』って言うの」
「ああ、あれね……」
「言って 言って」
 僕は、クッションを抱きしめて、お兄さんを見上げた。
 お兄さんは小さく息をついてから、流星の声で言った。
「失敗の無い人間はいない。大切なのは、失敗した後、それをどう取り戻すかだ」
「くーっ、カッコいい〜っ」
 僕はゴロンとソファに倒れて、すぐに起きてまたたのんだ。
「続きも言って」
「タケシ、お前は、それも諦めて、無責任に出て行こうというのか」
「くーっ」
 反対側にゴロンと倒れた。やっぱり、流星の声だよお。
 ソファの上で、クッション抱いたままゴロゴロしていたら、
「動物園のパンダみたいだな」
 お兄さんが言った。
 僕は、お兄さんの顔を見上げて、ちょっと考えた。
 前の回の台詞とかも言ってもらおうって思ったんだけど、せっかく何でもお願いできるんなら、流星から『僕だけに』言ってもらいたい。
「ねえねえ」
「今度は何だ」
「智也、がんばれ、って言って」
「は?」
「ほら、タケシに言ったじゃん、初めて操縦桿握った時。『タケシ、がんばれ』って、『俺がついてるから安心しろ』ってさあ」
「ああ、あれね」
 お兄さんは、空中を見て思い出すような顔をした。
「ねえ、『智也』って流星の声で言って」
 お兄さんは、しばらく嫌そうな顔で黙っていた。
 そんなに嫌なのかな。
 だったら悪いから、あきらめようかなと思ったとき、
「特別だぞ」
 お兄さんは、僕の隣にドスッと座って、わざとらしく咳払いした。
 僕は、胸のクッションをぎゅって抱きしめて、目をつむった。
 お兄さんは、僕の頭にポンと手を乗せて、すぐ横で言ってくれた。
「智也、がんばれ。俺がついてるから」
 ゾクッ
「?!」
 耳の横で『智也』って呼ばれて、背中がゾクッてした。
 何? 今の。
 背中がブルッて震えたの。まるで、ジェットコースターの一番上から落ちる瞬間みたいに。
 ビックリして、訳わからなくて、目を開けてお兄さんを見たら、お兄さんも僕を見ている。
 僕は、何でかわからないけど、動けなくって。何だか顔が熱くなった。
じっとしてたら、お兄さんの手が僕のほっぺたに伸びてきた。そっと触られて、その指先が冷たくてピクッとしたら……
「痛いっ」
 ぎゅうって、つままれた。

「何するんだよっ」
 僕は、ほっぺたをさすった。
「んな顔すんのは、十年早いんだよ」
「何のことだよっ」
「何でもないよ」
 お兄さんはプイと横を向いて、それからゴソゴソとポケットを探り出した。
「タバコなら、さっき自分でテレビの上に置いたよ」
「……わかってるよ」
 立ち上がって、テレビの方に行く。タバコをくわえながら壁の時計を見て言った。
「ほら、もう六時まわってるぞ。お母さん帰ってきてるんじゃないか?」
「あ、本当だ」
 僕は慌ててカバンを持った。
「今日は、どうもありがとう」
「どういたしまして」


 玄関を出るとき、僕は何となくさみしくなって、振り向いてたずねた。
「ねえ、明日も来ていい?」
「明日は……仕事だから」
 お兄さんが無表情に言ったので、僕はガッカリした。
 やっぱり、迷惑なんだ。
「ごめんなさい」
 うつむいたら
「何で謝る? 仕事だから、一時過ぎからは居ないけど、昼までなら居る」
 お兄さんが言ってくれて、僕は顔を上げた。
「ほんと? そしたら朝来てもいい?」
「朝は起きてない」
「じゃあ、九時? 十時ならいい?」
「九時はまだ寝てるよ」
「じゃあ十時」
 僕は、とっても嬉しくなった。
「また明日ね」
 手を振ると、お兄さんも手を振ってくれた。



「ただいま、お母さん」
「お帰り、遅かったのね」
「うん」
「宿題、いっぱいできた」
「うん」
「混んでなかった?」
「え? 何が?」
「図書館よ」
「えっ、ああ、うん…」
 僕は、お母さんにウソをついてしまった。
「よかったわね。手を洗ってきなさい。今日のお夕飯は、おかず買って来たから、すぐ食べられるわよ」
「…はぁい」
 何となく、お隣のお兄さんのこと、お母さんに話せなかった。


 僕だけの秘密。





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