「ねえ、お隣に引越ししてきた人、ちょっと変なのよ」
 夕食の時間に突然お母さんが言って、お父さんは眉の間にしわを寄せた。

「隣って、405号室か? 変って、どこが?」
「平日の昼間なのにフラフラしていて、働いていないみたいなの」
「最近、そういうヤツ多いだろ?」
「でも、そんな人がこのマンションに入る? ここ結構家賃高いじゃない」
「親が金持ちなんだろ」
「親がって歳じゃ無いわよ。二十七、八くらい。大学生って感じでも無いの」
「ふうん」
 お父さんは、それ以上興味なさそうだった。
 けれども、お母さんはしつこくその話題にこだわった。
「昨日すれ違ったらね、手下げ袋持っているのよ。アニメのキャラクターの付いている」
「アニメ? だったら、オタクだろ」
 お父さんは笑った。
「気持ち悪いわ、いい大人がアニメ好きなんて。ほら、前、あったじゃない、えっと宮崎…」
「ハヤオ?」
「それは、トトロの人でしょ。そうじゃなくて、あのオタクの、部屋中アニメとかビデオでいっぱいにしてた」
「冗談だよ。ツトムだろ」
 昔『オタクで変質者』の事件があったらしい。でも、あの人はそんな変質者には見えなかったけどな。

 僕は、昨日会った隣のお兄さんのハンサムな顔を思い出した。

 確かに、男の人なのに髪が長くて、一つに結んでいるのはウマの尻尾みたいだったけど。顔は男らしくて、カッコよかったよ。足も長かったし、モデルさんじゃないのかな。
 でも、モデルさんにしては服が安っぽかったか。ユニクロのTシャツだったもん。
 何でわかったかって、昨日、僕のうちのベランダに洗濯物が飛んできてたんだ。お隣で干していたのが風に飛ばされてうちのベランダに落ちたの。
 隣のベランダに落ちるなんて珍しいと思うかもしれないけど、前の人のときにもあった。風は家の中に向かって吹いているから。
それで、僕はお隣に届けに行ったんだ。お母さんいなかったから自分で。玄関から顔をのぞかせたお兄さんは、僕を見てちょっと驚いた顔をしたけれど、ハンガーの付いたままのTシャツを差し出したら、ニッコリ笑ってくれた。
 悪い人には、見えなかったけどな。


「智くん、聞いてる?」
「えっ? 何? お母さん」
「お隣の人から何か呼ばれても、ついていったりしちゃダメよ」
「おいおい、それはあんまりじゃないか。勝手に犯罪者にするなよ」
 これは、お父さん。
「犯罪なんて。起こってからじゃ、遅いんだから」
「だから、ちょっとオタクくらいで、そんなこと言うなって」
「だって、智くん、可愛いから心配なんです」
 うちのお母さんは、過保護だ。僕はもう中学生だっていうのに、いつまでも幼稚園児相手みたいなことを言う。
「ごちそうさま」
「あらもう食べないの」
「うん」
 僕は自分のお椀とお箸とお皿を持って台所の流しに行く。これは、小学校に入ったときからやっている。今日はお肉だったから、お皿に洗剤をちょっとたらしておいた。その方が洗うとき楽だもんね。
「宿題は、毎日するのよ」
「うん」
「夏休みだからって、夜更かししちゃダメよ」
「うん、わかってる」


 自分の部屋に入って、机に座って、夏休みの宿題を広げた。
 中学に入って初めて習った英語が苦手。
 友だちの中には、小学校から塾とかで英語やってた子もいて、差をつけられてるなって思う。でも、僕が、塾には行きたくないって言ったんだからしょうがない。せめて、遅れないようにしないと。お母さんのことだから、僕の成績が悪いってなったら、次はどんなに嫌だって言っても、塾に入れられてしまう。
 音楽の五線譜みたいなノートに、僕は宿題のつづりを丁寧に書いた。



 次の日、僕は図書館で勉強することにした。
 夜はどうしても眠くなるし、家の中だとついついマンガとか読んでしまうから。それに夕方からはテレビで見たいアニメがいっぱいあるから、勉強にならないんだ。
「図書館行ってくるね」
「お昼食べてからにしなさい。お母さん、午後から出かけるからね。六時には帰ってくるけど」
「じゃあ、午後から行く」
 お母さんの作った冷やし中華を食べて、一時半に家を出た。五時までだとしても三時間以上勉強できる。明日やあさっての分もやって、あとで楽しよう。
 そして、区役所の隣にある図書館に行って、ガクゼンとした。
 月曜日だから、休みだったんだ。
 夏休みに図書館が開いてないなんてひどいよって思ったけど、図書館の人も、休まず働くわけにはいかないもんね。
 しかたなく僕は家に帰った。
 行く時に比べて、帰りの道は、暑くて遠い気がした。
 早く部屋で冷たいジュース飲みたい。
「あれ?」
 ドアの前で、僕は青くなった。
「鍵が、ない…」
 でる時、持ったはずなのに。どこで落としたんだろう。
 いや、待って。
 持ってなかったかも知れない。洗面所のカウンターにおきっぱにしたかも。
「どうしよう」
 ピンポンピンポンピンポン
 と、立て続けにチャイムを鳴らしたけれど、当然、お母さんは出て来ない。
 わかってたんだけどね。僕と一緒に出たんだから。
 万が一、お母さんも行った先が休みで家に帰っていたら、なんて思ったんだけど、そんなことあるわけない。
 扉一枚向こうには、エアコンのきいた涼しい部屋と、冷めたいオレンジジュースがあるのに。
 僕は、ガックリして、玄関にもたれた。
 すごーく、悲しい気分。
 家から閉め出されたみたい。
 どうしようかと考えて、僕はふっと思いついた。

 ピンポーン
 チャイムを鳴らすと、人の気配がして、中からお兄さんが顔を出した。
「あ、智也くん?」
 月曜の昼間なのに、やっぱりいた。
「どうしたの?」
「すみません、僕、家の鍵どっかにやって、中に入れないんです」
「中って、家の中?」
 僕は、コクンとうなずいて
「ベランダを伝わって入りたいんで、ちょっと借りてもいいですか?」
「はっ?」
 お兄さんは、目をむいた。
「ベランダ伝わってって、ここ四階だよ」
「大丈夫です。たぶん」
 隣との境はせいぜい五十センチだ。しっかりつかまって足を伸ばせば。
「大丈夫じゃないよ」
 お兄さんはゲッソリした顔をして、
「とにかく、家に入って。何か冷たいもの出してあげるよ」
 僕の首の辺りを見て言った。
 あ、汗かいてたんだ。
 僕は、ポケットからハンカチを出して、首の周りをぬぐった。



 お兄さんの部屋は、うちと同じはずなのに、とっても広く見えた。リビングに余計なものが無いからだ。
 お風呂とトイレの場所が、うちと反対になっている。
「うちと逆転だ」
「逆転? ああ、左右対称の間取りになってんだね」
 お兄さんは、うなずいて台所に行った。
 こっちの部屋は僕の家なら僕の部屋に当たるところ。トイレのななめ向かいのそのドアに手をかけたら、
「あっ、その部屋はダメ。開けるな」
 お兄さんが叫んだので、僕はビクッと手を引いて、こそこそとリビングに戻った。
 ソファに座っておとなしく待つ。
「アイスコーヒーとウーロン茶があるけど」
「オレンジジュースとかは?」
「無い」
「だったらお水でいいです」
 僕はガッカリして言った。どっちもあんまり好きじゃないんだ。
 お兄さんがちょっとムッとした気がして、僕はあわてて付け加えた。
「僕、苦いのダメなんです。ごめんなさい」
「アイスコーヒーは苦くないよ。むしろ甘いっていうか」
「コーヒーは、気持ち悪くなるんです」
「あっそ」
 お兄さんは、氷の入ったお水と牛乳の入ったグラスを両手に持ってきた。
「アイスミルクは?」
「牛乳なら飲めます」
「じゃあ、こっちどうぞ」
「いただきます」
 グラスは冷蔵庫に入れていたみたいに冷えていて、両手で持つと、ひやーっと気持ちよかった。
 ゴクゴク飲む間、お兄さんは黙って僕を見ていた。そして、飲み終わったのを確認して、ティッシュの箱を差し出した。
「ヒゲ」
「えっ?」
「口の周り、白いひげついてる」
「あっ」
 僕は口の周りをペロリと舐めて、そしてティッシュでふいた。
「で?」
 僕の汚したティッシュを受け取ってゴミ箱に捨てながら、お兄さんがたずねた。
「鍵をどこにやったって?」
「どこかわからないけど、ひょっとしたらうちの中かも知れない」
「覚えてないのか。で、中に入れないんだ」
「うん」
「お母さんは?」
「出かけていて、六時まで帰らない」
「じゃあ、ここで待ってろ。ベランダ伝わって入るなんて、無茶だ」
「えーっ」
 僕は、困ってしまった。だって――
「五時半から見たいテレビあるのに」
「死んだらテレビも見られないぞ」
「そんなの」
 死んだりなんてしないよ。
 僕がうつむくと、お兄さんはテーブルに頬づえをついて言った。
「うちで見せてやるよ。何が見たいんだ?」
「……バクシンオー」
「えっ?」
「グレートバクシンオー……アニメなの」
 お兄さんが笑った気がした。
「バクシンオー好きなんだ」
「うん」
「どこがいいの」
「え?」
「どういう所が、面白いの?」
「ええっ、全部面白いよ。主役がカッコいいし。メカもすごいし」
「主役カッコいい? どんなところが?」
「どんなって……」
 僕は『グレートバクシンオー』の主役の響流星を思い浮かべた。
 響流星は、お父さんが天才科学者でバクシンオーを造った人なんだけど、今はお父さんもお母さんも敵につかまっている。流星も一緒につかまったんだけど、たった一人脱出してきたんだ。お父さんは敵に脅されて、バクシンオーより強いスターオーってロボットを造って、敵はそれで攻撃してくる。
 それで流星は、一度は地球の裏切り者扱いされるんだけど、地球連邦軍でその力を認められて、バクシンオーに乗って実のお父さんの作ったロボットと戦うんだ。
「流星は、自分たちを裏切り者扱いした地球の為に、命をかけて戦ってるんだ。それにね、お父さんだって、お母さんを人質に取られてしかたなくスターオーを造ったんだし、そのことを流星は知っていて、いつかきっとお父さんとお母さんを救い出すって、がんばってるんだよ」
「ふうん」
「地球連邦軍の中では、まだ流星をスパイ扱いする人もいるんだけど、流星は、その人のことだって助けるし、男らしくて、強いんだよ」
「そう」
 お兄さんは、何だか嬉しそうだ。
 そういえば、お母さんがお兄さんのことアニメ好きって言ってた。
「お兄さんも、バクシンオー見たことある?」
「えっ、ああ、まあね」
 やっぱり。
 大人のくせに、アニメ好き。オタクだ。
 まさかお母さんの言うような人じゃないと思うけど、でも、何している人だろう。
 聞いていいのかな。そういえば、まだ名前も聞いてなかった。
あれ? お兄さんは、僕のこと智也くんって呼んだよね。
「ねえ、僕の名前、何で知ってたの?」
「表札に書いてあるだろ。水上健一、明子、智也、って。下のポストにも」
「あっ、そっか。そういえば、お兄さんのところは表札出てないね」
「んー、まだ引っ越してきたばっかりだからね」
ばっかりかな。もう二週間以上たつけど。
「うちのお母さんなんか、引っ越してきた日にいそいそつけてたよ」
「あはは……そりゃあ、智也くんのところの表札は可愛いからね。あれ、手作り?」
「うん、お母さんがね。センギョーシュフだからヒマなんだって、お父さんが言ってる」
「あははは…」
「ねえ、お兄さん、名前なんて言うの?」
「えっ? ああ、えっと、森…」
 お兄さんは、一瞬、迷ったような顔をした。何でだろう、自分の名前なのに。
「修一郎」
「森修一郎?」
「そう」
 僕は、お兄さんの名乗ったときの不自然さが、何となく気になった。
『犯罪者』
 お母さんの一言がよみがえって、僕はブンブン頭をふった。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
「そのカバンは?」
 テキストやドリルがのぞいているビニールの手提げ袋を見て、お兄さんがたずねた。
 修一郎さんって言いにくいから、やっぱりお兄さんでいいや。
「図書館で勉強しようと思ったら、休みだったんだよ」
 僕は、閉め出されるまでの出来事を話した。
「じゃあ、バクシンオーが始まるまで、ここで勉強しておいで」
「いいの?」
「その方がいいんだろう?」
「教えてくれる?」
「えっ?」
 僕は一人っ子だから、お兄さんに宿題を手伝ってもらったっていう友だちの話がうらやましかった。さすがに手伝ってとは言えないから、教えてくれないかなってたずねてみたら
「うーん」
 お兄さんは、前髪をかきあげた。
「智也くん、中一だよね」
「うん」
 何で知ってるんだろう。
「さすがに中坊の勉強なら、見てやれるよな」
 自分で言ってうなずいて、お兄さんは、座りなおした。
「よし、テキスト開け」
「うん」
 苦手な英語から広げたら、お兄さんは
「あ、英語だったら、辞書持ってくるわ」
 と、立ち上がった。僕も
「じゃあ、僕はトイレ貸して」
 立ち上がって、反対側に、リビングを出た。



 トイレに入ろうとして、ななめ向かいのドアが目に入った。さっき開けちゃダメって言われた部屋。
 ダメっていわれると、のぞいて見たくなるのはどうしてだろう。しかも、ドアはほんの少し開いている。さっき僕が開けたのかな。
そうっと隙間からのぞいて、薄暗い部屋の様子を見るのに目を凝らした。
(うわっ)
 僕は、息を飲んだ。部屋の四方を埋める巨大な本棚に、ぎっしりとビデオテープとマンガの本が並んでいる。
 丸まったアニメのポスターが何枚も無造作に転がっていて、部屋の隅にはゲームソフトやCDが積みあがっている。アニメキャラのフィギュアもいっぱいあった。
(お、お母さんが言ってた、オタクの部屋……)

『オタク』
『変質者』
『犯罪者』

 お母さんの声が、聞こえた。
 名前を名乗りたくない、お兄さん……
 この部屋は、開けちゃダメって……

『呼ばれても、付いていったりしちゃダメよ』

 頭の中が、グルグルと混乱した時

「見たな」

 背中から低い声がして、
「きゃーっ」
 僕はへたり込んだ。
「た、助けて……」
 声が震えた。
 声だけじゃない。唇も、身体も震えて、ついでにちょっとだけチビってしまった。

「智也くん……」

 殺さないでえ。





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