「どうしました?」
「えっ?」
ジェラールの言葉に、信一はハッと顔を上げた。
「顔色が、良くないようですが」
「あっ、いいえ」
首を振ったものの、信一は落ち着かない様子でデスクに広げていた書類を片付ける。
ジェラールはなおも言葉をかけようとしたが、榊が入ってきたので止めた。
いつもの打ち合わせの間も浮かない顔の信一が気になったのは、榊も同じだったようで、ひと通り終わったところで、心配そうに訊ねた。
「信一君、どこか具合でも?」
「榊さん」
信一は、日本語で訊ねた。
「タカヒロ…ううん、営業企画部の坂下貴広、早期希望退職者に名前が出ているの、知ってた?」
「はい」
応える榊は、信一と坂下が大学時代から仲の良い友人同士であることを知っている。
「まさか、信一君は、知らなかったんですか?」
信一は応えず、黙って横を向いた。
ジェラールは二人の会話を聞いていた。
(タカヒロ?……サカシタ タカヒロ……)
来日して三ヶ月、日本語にも慣れてきた耳がその名を聞き留めた。
ジェラールの頭にすぐに、狼のような挑戦的な眼をした青年の顔が浮かんだ。
信一が榊に言った。
「止められないかな」
「退社の話ですか? 彼の?」
「うん」
「本山部長も相当、慰留したみたいですが。本人の意思が固ければ、どうしようもありません」
「それは、そうだけど」
唇を噛んだ信一に、ジェラールが訊ねた。
「何の話をしているのです?」
信一の顔に、パッと朱が散った。
「あ、あの、何でもないです」
何でもないとは、到底思えない顔。ジェラールは眉をひそめた。
榊が話題をそらすようにして、
「そういえば、アロー社から、例の共同開発の件でメールが来ています」
プリントアウトした束を渡した。
「ああ」
ジェラールはそれを受け取ると、それ以上は追求せずに、自分の椅子に座った。
書類に目を通すジェラールのうつむいた端正な顔を見つめながら、突然、信一は思いついた。
「あのっ」
ジェラールが顔をあげる。
「何ですか?」
信一は、榊がいることを思い出して、
「あの、後で、お話が……」
「後でいいのですか?」
「はい」
「それでは、昼食のときにしましょう」
「はい」





午前中の会議が終わると、ジェラールは信一を連れて社外に出た。
新宿西口の高層ビルの中でもひときわ高いビルの最上階にある和食の店は、昼間でも予約の人間しか入れない。
「ここで?」
「たまには良いでしょう」
女将が案内した奥の座敷は、純日本風の瀟洒な個室で、床の間には大きな壷花。食事の邪魔にならないほどの微かな香が焚かれている。
畳が掘りごたつ式になっていて、信一はホッとした。
ジェラールも
「畳は好きですが、正座はつらい。このタイプがいいですね」
くつろいだ顔で微笑んだ。
信一はその顔に見惚れて、相槌をうつのも忘れてしまった。


「それで?」
ランチにしては豪華な食事をとり終えて、ジェラールが促がした。
「え?」
「私に話があったのでしょう?」
「あ、はい……そうです」
信一は、居ずまいを正した。
「あの、例のアロー社への派遣の件ですけど」
信一は膝の拳を握り締めて切り出した。
「それが?」
「ひとり推薦したい人がいるんです」
「誰です?」
「営業企画部の坂下貴広」
その名に顔が浮かんだものの
「聞いたことも無い人物ですが。何故ですか」
ジェラールは知らぬ顔で訊ねた。
「それは……」
言葉に詰まる信一の顔を見て、ジェラールはほんの少し嗜虐的な気持ちになった。
「いくら信一の推薦でも、はっきりした理由も無いまま話を進めることはできませんね。このプロジェクトがどれだけ大切なものかは、わかっているのでしょう」
「もちろん、わかっています」
共同開発のための、フランスアロー社への社員派遣。いったん車種の規模を縮小したサカエが、あらためてアロー社と提携して新車を開発し、両方のブランドとして日本とヨーロッパに打ち出していく『サカエ起死回生プラン』の一環だ。
「タカ…坂下くんは、とても優秀な人材です」
ジェラールは黙っている。
信一は、ジェラールを前にして「優秀な」などという形容詞を使ったことが恥ずかしくなった。
「その……今は、まだ……でも、いつかはサカエを支えてくれる重要な社員の一人になります」
「それは言い換えれば、将来の君を支える、という意味ですか」
「いいえ、そんな」
信一の顔が赤くなる。
(ほら、すぐ顔に出る)
ジェラールは緑の瞳の色を深めて、信一を見つめた。
見つめられて信一は、自分の体温が上がっていくのを感じた。
「君と、その彼とは、どういう関係なんですか?」
何の表情も見せずにジェラールが尋ねる。
「それ、は……」
熱に浮かされたように呟いた信一は
「恋人?」
ジェラールの言葉に、冷水を浴びたようになった。
「なっ、なん…」
怯えたような顔で目を瞠る信一に、ジェラールは微笑んだ。
「そうならば、隠すことはありませんよ。フランスでもゲイは珍しくありません。私も偏見はありません……むしろ……」
ジェラールの腕が伸ばされ、指先が信一の頬に触れた。
「あ……」
「信一、彼は、あなたの何です?」
「大学の……同期で、友人……」
「それだけ?」
深いバリトンに囁かれて、信一はゾクッと身体を震わせた。
「一番の……親友です……」
「恋人では?」
「ありません……」
信一は、潤んだ瞳でジェラールを見つめる。
さきほどの怯えが無くなると、今度はジェラールの囁きに魔法にかかったように頭の中がぼうっとして来た。
今まで隠していた気持ちが溢れ出る。
「僕が…僕が、好きなのは……」

フッとジェラールが笑った。
信一のうなじに指を回して、引き寄せる。
「本当に、あなたの表情は、何もかも……」
全部素直にさらけ出す。可愛い人――――唇を重ねて囁いた。







* * *

十二月に入り、年末の忙しさに社内もあわただしくなった。
坂下は営業企画部での仕事を後輩に引継ぎ、そろそろ社外の担当者にも挨拶をと思っていたのだが、
「退社の件は、年末の挨拶と一緒でいい」
と言う部長の言葉に、まだ取引先には何も伝えられずにいた。
そんなある日、呼び出しがかかった。
(なんだ?退職の件で何か?)
坂下には他に心当たりは無かったが。
坂下がめったに入れない三十五階の豪華な応接室で待っていると、驚いたことに、そこにサカエの最高執行責任者であるジェラールが一人で入ってきた。
思わぬ人物の出現に息を呑む。
「英語は大丈夫だったね」
サカエのトップがにっこりと笑いかける。
「はい」
信一は一緒じゃないのかと、チラリとドアのほうを見やると、それを察して、
「君とは直接話をしようと思った。信一は抜きでね」
ジェラールの口から信一の名前が出て、坂下は思わず眉根を寄せた。
ジェラールはそれには気づかないそぶりで
「実は君に、フランスのアロー社に行って貰いたい」
と、突然切り出した。
「は?」
あまりの意外な言葉に日本語で叫び、聞き間違いかと聞き返す。
ジェラールは、イヤミなほどゆっくりと繰り返した。
「何度も言わせないでくれたまえ。君に、今度のアロー社との共同開発のメンバーとして、フランスに行ってほしいと言っているんだ」
坂下も新ブランド車の共同開発の話は聞いていた。サカエリバイバルプラン。工場もフランスの地方都市に決まっている。そこに派遣されるのは社内でも指折りの企画チームと、数少ないマネージャーのみだと聞いていたが―――
(何故、俺が?)
「Mr.ド・ゴール。私は今月末で退社する予定の人間です。何かお間違えでしょう」
「希望退職の件なら、話は止まっている」
ジェラールはあっさり答えた。
「そんなっ」思わず叫んで、
「聞いていません。誰が勝手に」
坂下が詰め寄ると
「誰の希望かは、君が一番よく知っているだろう」と、応えが返ってきた。


『一緒にサカエで働いてほしいよ』

あの日の信一の顔が浮かんだ。
かっと頬に血が上り言葉に詰まる。
そんな坂下の様子を、どこか冷たい瞳で見てジェラールは、
「行ってくれるね」と、念押しした。
「いえ、申し訳ありませんが……」
坂下は苦しげに応えた。
「自分は、本当に辞めるつもりですので、この話はお受けできません」
「どうして? そこまでサカエを辞めたい理由は何なのか、今後の参考までに聞かせてもらいたいね」
ジェラールはソファに背中を預けると、長い足をゆったりと組んだ。
「それは」
うつむいて言葉をさがす坂下に
「サカエが嫌いか?」と、訊ねると
「いいえっ」
直ぐに返ってきた。その力強い言葉に嘘は無い。
「じゃあ、なぜ?」

(なぜ……)
坂下も考えた。

信一との関係にけじめをつけたくて、逃げるように決めた退社だ。
信一のことが好きで、好きで――でもどうにもならなくて。
この目の前にいる男にも嫉妬して――どうにも敵わないとあきらめて。
このままの状態で信一のそばにいることは耐えられず、かといって、二度と会わないなどとも考えられず。
できれば、もう一度、信一と対等に会いたくて。
一からやり直したくて。
でも、その信一が自分を引き止めている。
フランス行きの話を持ってきてまで。
自分がまだ信一に必要とされている――嬉しくない筈がない。
(けれど……)

「せっかくですが、親友のコネでこんな話をいただくのは……」
言いかけると、
「勘違いしないでくれ」
ジェラールの冷たい声が響いた。
驚いて顔を上げると、強い光を持った緑の眼がこちらを見据えている。
「いくらどんなに強力な推薦があったとしても、この私が、相応しくない者を選ぶと思うか。私が君を認めたから、今、話をしているんだ」
厳しい口調で言った後、静かに訊ねた。
「やりたいのか。やりたくないのか。どっちだ?」


坂下は迷った。
本音を言うとやってみたい。新生サカエの中核となる企画の一員になるのだ。
もともと営業に行く前は商品企画を希望していた坂下だ。
『私が君を認めた』と言うジェラールの言葉にも心が揺れる。





「やりたい……です」

さんざん逡巡した結果、坂下はポツリと答えた。
「よろしい。それではそのように手配しておく、あとの詳しいことは直接上司から聞きたまえ」
ジェラールはさっと立ち上がると、部屋を出て行こうとドアの扉に手をかけたところで振り向いた。
「私も二十代のときにフランスを出て、そこからが本当の意味での勉強だった。今度のフランス行きは、きっと君のためになるだろう」
そう言って、口の端を少しだけ持ち上げる笑いを見せた。

坂下の瞳に挑戦的な光が戻ってきた。









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