(どうして……)
どうして、自分はもっと抵抗しなかったのだろう。
信一は、膝を抱えてシーツに包まり、自己嫌悪という泥沼の底に沈んでいた。
もっと本気で抗っていたら、あんなことにはならなかったはずだ。
そうだ。自分は、本気で嫌がっていなかった。
貴広にキスされ、胸を吸われ、あそこを弄られ――男同士なのにあんなこと―――。
(嫌じゃ、なかった……)

抵抗するふりをしながらどこか喜んでいたようなさっきの自分を思い出すと、羞恥心で死にたくなる。
自分が貴広を愛しているとは到底思えない。今までそんな対象として考えた事もないし、恐らくこの先もない。なのに、あの状態を本気で嫌がってなかった自分が許せない。
「うっ…っ……」
唇を拳で押さえても、嗚咽が漏れる。
悲しかった。貴広にあんなことをさせてしまったことが。
親友として一番大切な人だったのに。
(なんで、こんなこと……)


坂下も、帰り道ずっと考えていた。
(どうして……)
どうして、あんなことをしてしまったのか。
今まで――初めて出会った大学一年のときからずっと――抱いていた想い。八年間も隠し耐えてきたものを、あんな形でぶつけてしまうとは。
今まで我慢できたものを、これからも我慢できないはずはなかった。それなのに今日、自ら全てを台無しにしてしまった。
ジェラールという男への嫉妬の為に。
手にはまだ信一の感触が残っていて、脳裏には吐精した瞬間の最高に艶かしい信一の顔が消えない。けれど、それを得るために失ったものは―――。
もう信一は今までのように自分を認めてはくれないだろう。
愛する人の一番の友というかけがえのない立場を失ってしまったことに、後悔の念が押し寄せる。
(信……)





翌日、信一はいつもよりもかなり早く家を出た。殆ど眠れなかったというのもあるが、早く会社に行って頭の中を仕事モードに切り替えたかったのだ。ところが、社長室には既にジェラールの姿があった。
「おはよう。早いですね」
「お、おはようございます。ジェラールも、いつもこんなに早いんですか?」
「朝のほうが落ち着いて整理できますからね」
ジェラールは微笑んで、そして小首をかしげるようにして訊ねた。
「信一、どうかしましたか?」
「え?」
信一の様子が先週までと違う。
「風邪でも、ひいたのですか?」
そんなものではない、どこか気だるい艶かしさ。
「いっ、いいえっ」
ジェラールの言葉に、信一は慌てて顔をこすると
「すみません。昨日遅くまで本を読んでいて。たぶん寝不足で顔がむくんでるんです」
笑ってごまかした。


朝のミーティング。
いつものように榊がスケジュールを報告し、ジェラールが指示を出す。今週はリストラに伴う工場閉鎖の議題があがっており、会議内容もシビアな上に、各方面との折衝も多く、かなりのハードスケジュールだ。
信一はジェラールの言う指示をメモしながら、書類の上を忙しく動くジェラールの万年筆を見た。そして、その万年筆を持つ長く綺麗な指先が目に入ったとき、突然――
(この指が……)
坂下から受けた愛撫を思い出し、ジェラールの指と重ねて、無意識に息を呑んだ。
「どうしました? 信一」
ジェラールが自分を見つめる。その深く澄んだ緑の瞳に、自分のいかがわしい想像が見透かされたように感じ、信一の顔に急激に血が上る。
「いえ、あの、すみません」
答えた声が、掠れてしまった。
「顔が赤い。やはり風邪ですか」
ジェラールの指の背が、すっと信一の頬に当てられた。
信一はピクッと身体を引いて、顔をうつむけ
「あ……はい、やっぱり熱があるのかも……」と、小声で呟いた。
「困りましたね」
小さくため息を吐くジェラールに
「大丈夫です。薬を飲めば治まります」
急いで言って、信一は部屋を出た。
社長室のあるフロアの給湯室は、他のフロアのそれと違って余計なものが何も置いていない。整然とした戸棚からグラスを出すと、冷蔵庫の中の冷たい水を入れて一息に飲んだ。
まだ顔が火照っている。
冷えたグラスを頬に当てて冷やすけれど、ジェラールの触れたところが、火がついたように熱い。
ジェラールの指先が、昨日の坂下のように自分を弄ぶ想像に、信一の身体が甘美に震えた。
「どうして……」
自分は、そんな想像をしてしまうのか。
そして、その想像がこんなに甘く狂おしいのは何故か。
その理由に、気づきたくない。
「嫌だ……」
けれども、信一の中で、とっくに答えは出ていた。


「大丈夫? 信一君」
榊が心配して呼びに来た。
「大丈夫です」
ジェラールの前に戻って、
「失礼しました」と、頭を下げる。
「これからますます忙しくなりますから、自分の体調管理にも十分気をつけて下さい。君に今倒れられると大変ですから」
ジェラールは優しく言った。
「はい……」
気づいてしまった気持ちに、信一はそっと唇を噛んだ。



ジェラールはその日、さり気なく信一の様子に気を配った。この時期に風邪などで休まれては業務に支障をきたすという仕事上の問題もあったが、それ以上に信一の持つ雰囲気が以前と違っていることがひどくジェラールの気をひいた。
呼び止めて、振り返った時の目の表情がゾクッとするほど艶めかしい。風邪のため瞳が潤んでいるのかとも思うが、自分を見上げるその瞳が、長い睫毛の下で切なげに揺れているのを見るとジェラールの胸も落ち着かなくなる。
部下のプライベートには一切口出ししないという主義のジェラールが、珍しく信一のことは気になった。





* * *

翌日、昼からの会議の為に、ジェラールと信一たちは三十階の会議室に向かっていた。
そこに営業企画部も定例の会議を終わらせて集団で歩いていた。最高執行責任者とすれ違うことになった一行は、それぞれ廊下の端に身を寄せる。
信一はその中に坂下の顔を見つけハッとした。それは隣にいたジェラールにも知れるほどの動揺。信一は書類の束をぎゅっと抱きしめると、身体を硬くしてうつむき加減に歩いた。
信一を気にしたその時、ジェラールは、自分を見つめる強い視線を感じてそっと振り向いた。
ひときわ印象的な、精悍な青年が、まるで狼のような眼で自分を睨んでいる。
(喧嘩を売っているのか? 私に?)
興味は惹かれたが、残念なことに相手にする暇が無い。
自分に注がれる尊敬や羨望の視線と同様に軽くかわして、にこやかに微笑みながら立ち去り、ふと信一を見やると、うなじにうっすらと上った血が緊張していることを伝えていた。


その日の会議では立川の工場を閉鎖することがほぼ決定となり、サカエの古いメンバーを少なからず動揺させた。サカエはもともと立川の小さな鉄工所から自動車メーカーに転進した企業である。『栄自動車』から『サカエ』に社名変更したときも会社の登記は立川のままだった。世界に名だたる大企業となるうちに全国に工場は広がり、本社も新宿に移転して現在にいたっているが、栄の一族はもちろん、古くから会社に携わっている役員達にとっても、立川は特別な地であるといえた。
「どうしても、立川でないといけないのかね」
自分の屋敷も立川にあり、その地の経済に貢献してきたという自負も十二分にある副社長の邦彦がもう一度念を押す。
「もちろん、立川以外の工場の閉鎖も同時に行います。車種の数に比べて効率の悪かった生産部門はより強度なIT化、スリム化、を行う中で、今までの半分でやっていけるようにします」
ジェラールの言葉を通訳しながら信一は複雑な思いをしていた。
自分にとっても立川は実家であり、当の立川工場は子供のころの遊び場だった。
親子三代にわたってサカエの工場勤務とかいう、古くからの馴染みの工員も大勢いる。
その人たちがみなリストラの対象となっている。
会社の状況から見て当然の措置とはいえ、心情的にはつらかった。
立川工場はサカエの一世紀近い歴史のシンボルでもあり、その閉鎖は新聞でも大きく報道された。ジェラールはコストカッターの異名をもらい、いつのまにか『ジェラール・ド・ゴール』といえばリストラの代名詞ともなっていた。






最後の説明会も兼ねた立川工場の閉鎖式については、ジェラールも直々に行くことになった。副社長をはじめとする他の役員もこぞって参加した。それだけ思い入れがある工場なのだ。
会場につくと開始まではまだ時間があった。待ち時間のあいだの通訳などを榊に頼んで信一は少しだけ時間をもらった。信一にとっても思い出深い工場を、最後にもう一度見ておきたいと思ったのだ。
小さいころ、工場の昼休みにキャッチボールをしてもらっていた場所に行く。
あの頃は野球もできそうに広く感じていたけれど、今見ると――
(こんなに狭かったっけ)
やはりキャッチボールがやっとだろうと小さく笑み漏れる。
たしかあの頃は毎朝ラジオ体操をしていたけれど。
(今でも続いているのかな……)
などと感慨深く歩いていると
「ぼっちゃん。信一坊ちゃん」と、声をかけられた。
びっくりして振り向くとそこには
「松本のおじさん!」
信一が小学生の頃遊んでもらった、懐かしい工員のひとりだ。
「松本さん。お久しぶりです。確かもうご定年じゃありませんでしたか」
歳は父親よりもずいぶん上だったはずだ。もうここの工場にはいないと思っていたのだが。
「いやぁ、息子からここが無くなっちまうって聞いてね。最後に立ち会いたいと思って来たですよ」
「ああ、息子さんも」
「ここで働いとります。ここは、地元に長く根づいた工場ですからね。親子で勤めとる人も多いんですよ。今日は、昔の頃の仲間も結構来てますよ」
しんみり言った後、信一の表情の変化に気づいて
「まぁ、みんな地元だから自転車ですぐですから」
と、顔をしわしわにして笑った。
信一はその『松本のおじさん』のしわの刻まれた顔をみて鼻の奥がつんと痛くなった。今まで何人の人々がこの工場で生活し、歴史を刻んできたのか。その歴史を、生活を、断ち切ったのは自分たちだ。
いや、正確には「誰が」という話ではない。仕方無いのだ。
けれども、サカエがずっとうまくいっていたら、ジェラールが来ることも無く、リストラもなく―――この人たちは今まで通り働きつづけて、松本さんの息子さんのそのまた息子だってここで働くことができたかもしれなかったのだ。
ジェラールが、書類の山に囲まれた本社の一室で出した決定が、実際の人々の生活にどれほどの影響を与えるのかと、今更ながら胸が痛んだ。





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