自宅の応接室に入ると、既に父親はソファーにすわって信一を待っていた。
「すみません。遅くなりました」
「いや、急にすまない。ちょっと大事な話なんでね。座ってくれ」
信一は父親の向かいに座ると、いつもと違う様子に少しだけ戸惑った。



「実は、社長を譲ることにしたよ」
「え?」
突然の爆弾発言に信一の目が点になる。
信一の父親は、世界にも名だたる自動車メーカー『サカエ』の代表取締役社長、栄武彦である。その息子の栄信一は当然二代目、次期社長ということになるのだが。
「そ、それは、お父さん…僕に継げと…いうことですか?」
動揺のあまりに声が震えた。
父武彦は軽く笑ってあしらった。
「まさか。お前はうちに入社してまだニ年だろう。社長職が務まる訳ないじゃないか」
「そ、そうですよね。まさかと思いましたが。ちょっとびっくりしました」
心からホッとして
「じゃあ、どなたが?」
邦彦叔父さんかな? と信一は父の弟で『サカエ』の現副社長の顔を思い浮かべた。
ところが返ってきた答えは、信一の頭を真っ白にするに十分な衝撃だった。
「フランス人だ。ムッシュ ジェラール・カミユ・ド・ゴール。実は今回フランスのアロー社と資本提携することになってね。そこから経営陣をよぶことになった」
「ひぇ?」

『サカエ』は信一の曽祖父が、戦前からの鉄工所を戦後の高度経済成長期に自動車メーカーに転身させ、その後祖父の代で従業員三万人の世界に冠たる大企業にまでのし上げた。しかしながら、現社長の武彦の代になってから販売台数も伸び悩み、折り悪しくバブル崩壊の打撃を受け、業界トップの座を滑り落ち、今ではライバル会社『秋庭自動車』の大きく後塵を拝している。
ここ数年、財務悪化が問題にはなっていたが、まさか外資の資本を受けるところまできていたとは思わなかった信一の頭の中には
『朝起きたら、会社が外資系になっていた!』
というちょっと昔の某英会話学校のCMがクルクルまわった。





プレス発表の次の日、会社は朝から騒然としていた。

『サカエ 外資と資本提携』『実質アロー社の傘下』『フランスから最高執行責任者』

ほとんどの従業員は、昨夜のワールドビジネスサテライトか今朝の新聞で知ったのだ。
社内のいたるところで、日経新聞を片手に今後の行く末を勝手に論じている集団があった。
しかしながら、社長の息子に直接訊ねてくる社員は今のところいない。
遠巻きに注がれる視線を居心地悪く感じながらも信一は、エレベーターホールを抜け自分の部署である総務部に向かった。


「おい、信。」
信一の前に現れたのは、社内で唯一、信一に気安く声をかけられる男。大学時代の同級生の坂下貴広だった。
坂下とは大学の入学式の日たまたま隣り合わせになってから、偶然同じ学科、しかもアイウエオ順の名前続きで同じ班となって以来、もう八年の付き合いになる。
初めて自分がサカエの社長の息子だと打ち明けたとき、坂下は別に驚いた様子もなく
『どおりで、お坊ちゃんぽいと思ったんだよ。じゃ、俺、卒業したらサカエに入るから、お前俺を役員にしろよ。バリバリ貢献してやるから』
と、笑った。
そのときは冗談だと思っていたのが、実際、卒業後信一がアメリカに留学するのと同時に、坂下はサカエに入社してしまった。
留学後二年遅れて入社した信一の、会社では先輩ということになる。
「信、お前は知ってたんだろ。当たり前だよな」
「え、あ、うん。でも口止めされてたから……」
ごめん、と素直に小さく謝ると、坂下は
「そりゃそうだ。そんなのプレス発表前に誰にも話せやしないさ。でも、お前……そうだ、ちょっと時間あるか」
いつものように強引に信一の肩を押しながら、社員用のカフェテリアに向かった。



「ほら」
坂下はインスタントのコーヒーを二つ買ってきて一つを信一に手渡す。
カフェテリアの一番奥のテーブル。さすがに始業間もないこの時間は人も少ないが、それでも社内では顔の知られた『二代目』がこの話題の時にいるとなると周囲の視線が集まってくる。坂下はその視線を気にする風でもなく、とはいえ多少声を落として
「お前、これからどうなるんだ?」
と、心配げに信一郎の顔を覗き込んだ。
「うーん」
なかなか即答できる内容では無い。
「フランスからの最高執行責任者っていっても、現社長は会長職とかで残るんだろ? お前もいずれはちゃんと社長になれるんだよな」
「うーん。それは、ちょっと……わからないよ。なにしろ、うちの親がダメで今回こんなことになっちゃったんだし、会長って言っても名前だけで権限は無いんだよ。経営陣も結構変わるみたいだし。もう、同族って考えは捨てないといけないんじゃないかと」
初めてこの話を聞いた日から今まで考えていたことを、信一は吶々と語った。
坂下は、眉を吊り上げて
「何言ってんだよ。サカエはお前の会社だろ。俺はお前がいるからサカエに入ったんだぞ」
男らしい整った顔がぐっと至近距離に迫ってきて、信一は思わず身をひいた。
「ごめんね、タカヒロ。役員にはしてあげられないかも」
「ばっ、馬鹿か、お前っ、そんなこと言ってんじゃねぇよ。俺は……」
俺はお前が心配で、という言葉をぐっと飲み込んで
「サカエは、お前の会社だって言ってんだよっ」
坂下は、憮然とコーヒーをすすった。
「僕の会社?」
信一はちょっと感動した。
(そうか。今まであんまりそんな風に考えたこと無かったけど。僕の会社だったんだな)
そう思ったとたん、今回の外資の傘下に入る提携が悲惨な事実としてヒシヒシと身にしみてきた信一だった。





「おい、坂下、何してる。部長が捜してたぞ」
坂下の所属する営業企画部の課長が呼びに来た。
「しまった。これから会議だったんだ」
慌てて立ち上がると、坂下は自分の手中のコーヒーを見て
「信、飲むか?」と訊ねた。
フルフルフル
左右に首を振る信一の、両手握った中にも同じものが湯気を立てている。
「そりゃ、そうだよな」
笑うと、坂下はぐいっと一気に飲み干して、バスケット選手よろしく、かなり離れている屑箱めがけて投げ入れた。
「ナイッシュ!」
軽く右手でガッツポーズをつくると
「じゃ。また連絡する」
そう言って、カフェテリア入り口の課長のほうに走っていった。
友人の一連の動きに見惚れていた信一にも、呼び掛けの声があった。
「信一君」
見ると、信一の叔父副社長の栄邦彦が秘書や本部長クラスの面々を引きつれ歩いている。
昨日の発表を受け、今後に備えてひと会議終わらせてきたといった様子。
「どうしたんだい。今朝は社長に呼ばれてるんだろう」
「あ!」
そうだった。僕もすっかり忘れていた。
信一は立ち上がると、飲みかけのコーヒーを副社長秘書の本田に握らせて
「ごめんなさい。宜しく」
ニコッと微笑んで、そのまま駆け出した。





社長室は最上階の三十九階にある。
バブル時期に建てた自社ビルのそれは、全面ガラス張りになっており、夜になると西新宿の夜景が素晴らしい。
信一はそのクリスマスのイルミネーションのような眺めが好きで、以前は用もなく入り浸っていた。
(でも、もうそういうこともできないんだな)
ちょっと感傷的な気分に浸りながら社長室に入ると、中では、今のところまだ社長の父武彦と社長秘書筆頭の榊が待っていた。
「遅いぞ。今朝はまっすぐここに来るように言っていただろう」
眉間に深いたて皺を刻む父親に
「すみません」
忘れていましたとは言えず、信一はペコリと頭を下げる。
「まあ、いい。早速だがこれから成田に向かってくれ。運転は榊君がする。言い忘れていたが、今度の社長の秘書も榊君に引き継いでもらったから、そのつもりで」
「はあ」
言い忘れていたも何も、全体の話が見えない。
(何で成田?)
と、キョトンとしている信一に、武彦は訝しげに眉をひそめて
「お前、まさか、忘れているんじゃないだろうな。今日はフランスからムッシュ ド・ゴールが来る日で、お前には通訳をかねて迎えに行ってもらうと言っていただろう」
「ええっ。そうでしたっけ?」
驚く信一に
「お、お前は、何を聞いていたんだっ!」
武彦はあきれて大声を出した。
筆頭秘書の榊はそんな親子のやり取りに苦笑したが、それと知られないようさり気なく目を伏せ、口元を隠した。
「そういえば、あの日、そんな話があったような……」
信一は曖昧に応えてみたものの、初めてアロー社との資本提携の話を聞いたときは『アタマ真っ白』で、記憶もおぼろというのが実情。
「でも、お父さん、じゃなくて社長。僕は、フランス語は出来ませんよ」
「大丈夫だ。ド・ゴール氏は英語での会話を希望している」
「ああ、そうですか」
英語なら、もともと幼少の頃から叩き込まれている上に、ニ年間の留学中に十分ブラッシュアップしているとの自信がある。
でも、秘書室には他に帰国子女も大勢いるのに、なぜ自分なのだろう。と、尋ねると
「本当に、聞いてなかったんだな」
武彦は、不肖の息子に苦虫を噛み潰した顔で答えた。
「お前には、今後ド・ゴール氏の通訳を兼ねて仕事を補佐しながら、経営というものを勉強して欲しいと言ったはずだが」





成田に向う車の中。後部座席で、身体を深く沈ませて信一は窓の外の景色を見ていた。
夏も終わり、街路樹もそろそろ秋めいた色に変わってきつつある。
「窓開けてもいい?」
運転する榊に声をかける。社長秘書の中でも筆頭といわれる彼は、武彦にもう二十年以上仕えている。会社だけではなく栄の家にもよく出入りしており、信一も小さかったころはよく遊んでもらった。その気安さで、ついつい甘えてしまうのはいけないと社内では一応気をつけているのだが、今は他に人がいるわけでも無いので昔のままに話し掛ける。
「榊さんも大変だね。運転手なら他にいるのに。成田まで往復なんて、キツイよね」
「いえ、かまいませんよ。運転は好きですから」
榊は目尻に柔和なしわをよせて前を見たまま応える。
「それに、ド・ゴール氏の依頼らしいです。運転手は要らないから、英語に堪能な秘書に来てもらいたいと」
「ふうん」
(そういえば、榊さんも英語はペラペラなんだよね)
車内に入る風に前髪をなびかせ、信一はこれから会う次の『サカエ』の最高執行責任者を想像する。フランスアロー社で辣腕を揮い三十代で権力のトップについたという男。
(どんなひとなんだろう)
信一は小さなため息をついた。




「榊さんは、顔を知っているんだよね」
「ええ、写真で見ていますから」
国際線の出迎えロビーに入って、榊は、ド・ゴール氏の名前の書かれたスケッチブックを胸に掲げた。
「あ、そういえば」
信一が突然言って、榊は振り返った。
「どうしました?」
「ご家族は、一緒に来日しないのかな?」
「ああ、ド・ゴール氏は、独身ですよ。正確にいえば、離婚歴ありです」
「えっ、そうなの?」
「はい」
「ふうん…仕事に夢中になりすぎて、家庭不和になっちゃったのかな」
「さあ、そこまでは……」
榊は、苦笑いして、
「ああ、あの方ですよ」
視線で促した。
見ると、SPらしい大柄なフランス人を二人従えた長身の男性が颯爽と歩いて来る。
仕立ての良いスーツを着こなした隙の無い身のこなし、短く整えたプラチナブロンドの髪にフランスでも珍しいに違いない深緑の瞳。
信一は、どこかのブランドの外人モデルかと思い、目を瞠った。
「はじめまして」
と、右手を差し出され、あわてて応える。
「はじめまして。ムッシュ ド・ゴール。私は栄信一です。今回通訳とお世話をさせていただきます」
お世話って表現は変だったかな?と言ったあとから考えていると、
「ジェラールでかまいませんよ。信一。私もそう呼ばせて頂いていいですね」
にっこり笑って右手を強く握り締められた。
「あ」
信一は握られた右手に一瞬電流が走ったような気がした。
カリスマとは、こういう人間をいうのか。
見かけの美しさだけではない、何か強烈なオーラがジェラールを取り巻いている。
さっきから、通り過ぎる人、男も女も、必ずといっていいほどジェラールを振り返る。
もう四十近いと聞いていたのに(それでも最高執行責任者としては驚異的な若さだが)、今目の前に立つこの人は、とても若々しく、そして魅力的だった。




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