夕方、眠っていた高遠の耳に、電話の音が聴こえた。
一階の玄関から聞こえてくる。間違いなく、家の電話。
ユキは仕事だからいなくて当たり前だが、母親も買い物に出ていて居なかった。
起きるのが億劫で、高遠はしばらく無視していた。
けれど、電話のベルは鳴り続ける。
もともと几帳面な性格、居留守を使うタイプでもない。鳴り止まぬベルの音が気になって、高遠は身体を起こした。
階段を下りて、受話器を取る。取ったとたんに、よく知る元気な声。
「あっ、高遠っ、よかった。起きてたんだな」
(この電話で、起こされたんだよ)
とは、言えない高遠。
「うん。どうした?」
と訊ねると、海堂は申し訳なさそうな声を出した。
「俺さ、今日、帰り寄るって言ったんだけど、行けなくなっちまった」
「え?ああ……」
なんだ、そんなことか、と続けようとしたときに、受話器の向こうで声がした。

『龍之介くん、行こう』

「えっ、ああ、ちょっと待てよ、じゃあ、高遠、本当にごめんな」
謝る海堂に、高遠は自分でも信じられない冷たい声で応えた。
「いいよ……別に」
「えっ?」
高遠の声が、いつもと違うので、海堂は思わず聞き返した。
「笠と、出かけるのか」
高遠は、口の中に砂が詰まったような不快な気持ちになった。
頭が痛い。風邪のせいだ。寝ているところを起こされて。
「なんだよ、高遠」
「いや、いい、じゃ切るな」
「あっ、おい、たか」
ツ―――――
「なっ」
切れた電話に、海堂もキレル。
「なんだよ、あいつ、朝は無理するなとか言ったくせして」
「龍之介くん?」
笠が後ろから覗き込む。
「どうしたの?」
「なんでもねえ」
海堂、憮然としたまま。
「じゃあ、早く行こうよ。待ってるよ」
「ああ」
二郎と一緒に歩きながら、海堂は、高遠の顔を思い浮かべた。

熱で潤んだ目。汗ばんでいた額。具合は悪そうだったけど、それでも朝は笑ってくれた。
『うつるといけないから、もう行けよ』
いつもの優しい顔だったのに。
なんで、あんなに冷たい声になるんだ。
『いいよ……別に』
(あんなの……)
海堂は唇を噛んだ。
(あんなの、高遠じゃない)
高遠が、自分と笠二郎のことを気にしているなど、これっぽっちも思っていない海堂だった。


高遠は、海の底より深い所まで沈んでいた。
自分で自分が信じられない。
良く言えば平和主義、悪く言うととことん弱気な小心者高遠が、海堂に喧嘩を売る真似をしてしまった。
勢いで電話を切ったはいいが、次の瞬間ハッとして、持ち上げてまた耳に当てていた。
ツ――――――
海堂が聞いたのと、全く同じ音。
違うのは、高遠の方が、はるかに暗い気持ちで聞いた。
(俺の……馬鹿野郎)
熱が上がった気がする。
高遠は、フラフラと二階に上がった。


* * *
翌朝。
高遠の熱はすっかりひいていた。
自分の健康な身体が恨めしい。今回の風邪は悪質じゃなかったのか?
今日も熱があったら、学校を休めたのに。
珍しくズル休みまで考えた。それというのも、
(熱が下がったら、海堂を迎えに行かないと……)
要は、このこと。
昨日の今日で、気まずいことこの上ない。
だからといって、迎えにいかないと、もっとマズイことになりそうだ。
高遠らしくなくグズクズしているうちに、急がないと遅れるという時間になっている。
「ヤマト、今日も休むの?」
母親の声に
「行くよ」
返事して、高遠は思い切って玄関に出た。
自転車に乗ると、条件反射的に海堂の家へ向かう。

昨日の事を、何て言ってあやまろう。
熱があっておかしかったんだと言うか。
それとも、正直に話そうか。
(笠と海堂のことが、気になってるって……)

そして、海堂の家の前に来て、ばったり笠二郎と一緒になった。
「笠……」
「あれ、高遠くん」
二郎も驚いている。
「風邪、大丈夫なんですか?」
「なんで、お前がここに居るんだ?」
「なんで、って、龍之介くんと約束したんですけど」
「海堂と?」
(海堂と約束、海堂と約束、海堂と約束―――???)
自分がいないところで、どんな約束があったんだ。
トラノスケとの散歩だけじゃなく、朝の登校まで二郎に割り込まれた気がして、高遠は露骨に嫌な顔をしてしまった。高遠には全く珍しいこと。
二郎は、クスッと笑った。
「嫌だなあ、高遠くん。独占欲、丸出し」
「な」
「前のお昼のときも思ったんですけど、高遠くんって……見た目と違って狭量って言うか……」
「なん……」
高遠は、言葉が出ない。
「龍之介君のこと好きなのはわかりますけど、あんまり心が狭いと、そのうち鬱陶しく思われたりして」
「……笠」
「なーんちゃって。ごめんなさい、高遠くん」
二郎はペロリと舌を出して笑ってみせた。
そこに海堂が玄関から出てくる。
「あれ?」
目を丸くして言った。
「高遠、何だよ。風邪、いいのか?今日は、来れねえと思ってたぜ」
高遠は黙って海堂の顔を見つめると、そのまま背中を向けて、自転車に跨った。
そして、ボソリと呟く。
「来なくてよかったんなら、そう連絡くれれば良かったんだよ」
「おいっ」
海堂が呼びかけるのを無視して、そのまま自転車を飛ばした。
「たかとおおおっ!!」
海堂の声は聴こえたが、振り向かなかった。
胸の中が、ムカムカしてドロドロして、気持ち悪いくらいに苦しくて。

その日、高遠は、生まれて初めて学校をサボった。


* * *

「龍之介君……龍之介君ってば」
「ああ?!」
睨むように振り返られて、二郎は黙ってしまった。
海堂は機嫌が悪い。
高遠のせいだ。
(なんだよ、あいつ)
昨日、帰りに行かなかったことを怒っているのか?
だったら、何で迎えに来たんだよ。
迎えに来たんなら、一緒に学校に行けばいいじゃねえか。

『来なくてよかったんなら、そう連絡くれれば良かったんだよ』
そう言って背中を向けた。
その広い背中のシャツの白さが瞼から離れない。
自分から遠ざかっていった背中。
(来なくていいなんて、誰が言ったよっ)

『高遠、何だよ。風邪、いいのか?今日は、来れねえと思ってたぜ』
あの時、嬉しかったのだ。
高遠が、風邪が治った高遠が、また迎えに来てくれたこと。
『今の風邪は、悪質だから、ニ、三日は休むんじゃないか』
三好が、そう言ってたから。一日で治ったのが嬉しくて、でもそれより先に、驚いて―――それで―――
(なんで、先に行っちまったんだよ)
学校までの道のり、海堂はずっと高遠のことを考えていた。
二郎は、その横を黙って歩いていた。



「おい!高遠っ」
海堂は、まっすぐ3―Bの教室に向かった。
やっぱり、はっきりさせとかないと落ち着かない。
「あれ?海堂」
「おっ!来た、来た」
3―Bの生徒たちは三日ぶりの海堂の登場に喜んだが、肝心の高遠の姿は無い。
「高遠なら風邪で休みだせ」
「って、海堂が知らないわけないよな」
「風邪?」
海堂は眉間にしわを寄せた。
その風邪が治ったから、うちに来たんじゃないか。
「高遠、まだ来てないのか?」
「あ?うん」
「今日も、休みじゃないの」
なにしろ今流行っているのは長引くヤツだし、という友人達の声を無視して、海堂は教室を出て行った。
(あいつ、どこ行ったんだよっ)

「龍之介君」
二郎が呼びに来た。
「ホームルーム始まるよ」
「別に、いいよ」
「だめだよ。それに、一時間目の数学は宿題出てたんだから、今のうちに写したほうがいいよ」
「別に、それだって……」
どうでもいいのだが、二郎に引っ張られて自分の教室に連れ戻された。
高遠のことが気になって、数学どころじゃないというのに。


「三好っ」
海堂は、次の休み時間に3―Aの教室に走った。
「今日、高遠、どこに行ったか知ってるか?」
「は?」
飛び込んできた海堂に驚きながらも、
「どこって、昨日から風邪で寝てんじゃねえの?」
ごく当たり前のように、三好は応えた。
「お前も、知らねえのかよ」
チッと舌打ちして踵を返す海堂を捕まえて、三好は怪訝な顔で訊ねた。
「どうしたんだよ」
「あいつ、学校、来てねえんだよ」
「風邪だろ」
「ち、が、うっ!朝、俺んとこ来たのに先に行って、それで、学校に来てねえのっ」
海堂はイライラと叫んだ。八つ当たりだ。
三好は、顎に手を当てて唸った。
「珍しいことも、あるもんだな」
あの小心で、几帳面で、真面目な男が、学校をサボるなんて考えられない。
三好に言われなくとも、海堂だってそう思っている。
だから、気になるのだ。
「どっかで、事故ってたりして」
ドブ板踏み外して自転車ごと落ちた――くらいのイメージで三好がポツリと言ったとたん、海堂が青褪めた。
「そんな……」



そのころ高遠は、生まれてはじめてのサボりに緊張しながら、公園のベンチに座っていた。
(どうしよう……)
今から学校に行くのも憚られるが、このままここに居るのも如何なものか。
『やっぱり、具合が悪い』と、言って家に帰るのも一つの選択だ。
(……そうしよう)
立ち上がった時に、後ろから、声をかけられた。
「サボり?」
振り返ると、髪の長い小柄な少女が立っている。
「その制服は、和高ね」
ニコニコ笑いながら、胸のバッチを見る。
「へえ、三年生なんだ。受験ノイローゼ?」
「え?」
「登校拒否児って感じでもないけど……ねっ」
上目遣いに見上げる顔が、一瞬、海堂に重なった。
顔が小さくて、目が大きい。
綺麗な顔だと、高遠は思った。
黙って見つめていると、その少女はくすぐったそうに笑った。
「何かしゃべってよ」
「えっ、ああ、ごめん」
「何で、あやまるの?名前、なんて言うの?」
「……高遠ヤマト」
「ふうん、カッコいい名前。私は、高木りお。りおでいいわよ」
(何が、りおでいいんだ?)
高遠は思った。
初対面の女の子を名前で呼び捨てにするなど考えられない。
ところが、その少女、りおは屈託なく言った。
「ヤマト、こんなところでサボってても、つまらないでしょ?どっか行こ」
「え?」
いきなり腕をつかまれて、高遠は焦った。
(な、何なんだ、この子)






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