《骨折》


「コォートでぇわぁ♪だれでぇもぉひとりひとりきり♪……いくわよ、ひろみ」
「はい、お蝶婦人っ」
三好が高くボールを上げ、全身を使って鋭いサーブを打つ。
「あー」
上田、拾えず転倒。
「ひろみ、ボールを良く見なさい」
三好がラケットで自分の右肩をトントン叩きながら言う。
そこに、右腕にギブスの海堂がやって来た。
「おい、三好。高遠、知らねぇ?」
「あら、緑川さん」
三好が振り向く。
「あっ、緑川さんだ。緑川さんだわ」
と、これは上田。
「誰だよ。ミドリカワって?」
京都太秦でのコスプレ以来、三好と上田はたまにこういう遊びをしている。
「なあ、高遠見なかったか?」
海堂が、迷子の子供が親を捜すように袖を引っ張る。
「お前ら、さっきまで教室で一緒だったじゃねぇか」
三好が不思議そうに応えると
「俺が、便所行くって言ったら、その間に職員室行ってくるから待ってろって言って……」高遠がいなくなった、と言う海堂に、三好はおもむろに眉を顰めた。
「待ってろって言われたんだろ?それはいなくなったんじゃねぇんじゃねえの?」
「だって、職員室にもいねえんだよ」
「だから、入れ違いになったんだろっ。大人しく教室で待ってりゃよかったんだよっ」

修学旅行で骨折して以来、海堂は何をするにも高遠べったり。まさにPS2『どこでも一緒』状態。高遠が優しくするのにつけあがっているとしか思えないが、高遠がそのことを喜んで享受しているようにしか見えないのも、親友の三好としては最近目にあまるところ。
「海堂お前、そのうち左手もわざと怪我して、高遠に小便まで手伝ってもらいかねねぇな」
片眉を器用に上げて嫌味たらしく言う三好。
海堂はその図を想像して
「それって、すっげぇナイスなアイディア!」頬に手を当て瞳を輝かす。三好が慌てて叫ぶ。
「本気にすんなよっ」
「お前もな」海堂が上目遣いでにやりと笑った。
(こいつ……)
三好がラケットの面で海堂の頭をぼんぼん叩く。
「あ、やめろっ」
海堂が自由になる左手で防ぐと、そこに噂の高遠が小走りでやって来た。
「海堂、ここに居たのか」
「あ、たかとおー」
海堂、三好の脇をすり抜けて、高遠の胸に飛びこみ、顔だけ振り向いて三好をチラッと見ながら
「三好が怪我人いじめるんだよ」と、甘えて桜色の唇を小さく尖らせる。
「お前が、大人しくいじめられるタマかっ」と、三好がなおもラケットでぐりぐりと海堂の背中を押すと、
「よせよ、三好。海堂、怪我してんだから」
と、高遠がかばった。
高遠の胸の中で海堂はペろっと小さく舌を出す。
三好は腰に手を当て、大げさに溜息をついた。
「もういいよ。好きにしてろ、お前ら。おい上田、続きやるぞ」
「はーい。お蝶婦人」
「それも、もういいって」と、三好は思いっきり強くボールを打った。
「そういや、今度の球技大会、三好はテニスにしたんだよな」
高遠は二人がボールを追うのを見ながら言う。
「球技大会か」
海堂は少し寂しげに目を伏せて呟く。
「高遠はバスケなんだよな」
「ああ」
最近テニスにこっているらしい三好に誘われたけれど、個人プレイでコートを駆け回るのは気後れするので、身長を生かして得意と言えなくもないバスケットのほうにした。
「いいなぁ。俺もやりてぇ」と、遠くを見つめる眼差しで、海堂が唇を尖らせる。
骨折してから、海堂はよくこういう表情をする。
自慢の『黄金の右腕』が使えなくなって喧嘩もできず、身体を動かすことが何より好きなのに、体育の授業にも出られず、海堂は自分の身体を持て余していた。
高遠に必要以上に甘えたり、我がままになったりするのは、その反動だ。
高遠は良くわかっているだけに、だまって甘やかしている。
(三好には怒られるけどな)
今日も、下校は海堂の家まで一緒。

「あら、高遠くん。いつもごめんなさいね」
海堂の母親、海堂麻里絵が玄関からニコニコと出てくる。イギリス人とのクォーターだと言うとても綺麗な女性だ。(海堂が西洋人形みたいなわけは、その血のなせるワザだった)
「あ、こんにちは」
高遠は、少し照れながら頭を下げる。
「麻里絵、帰ってたの?」
海堂は自分の母親を呼び捨てにする。最初は驚いた高遠だったが、今では慣れてしまった。
「今日は教室がお休みなのよ」
海堂麻里絵は、新宿にあるカルチャースクールで英語とフラワーアレンジメントを教えている。不思議な組み合わせだが、ただ英語を教わるよりも花を飾りながら英語で日常の会話をすると言うそのスクールは、ハイソな若奥様やOLたちには人気が高いそうだ。
「トラノスケのお散歩終わったの?」
「うん」
「じゃ、お菓子買ってきてるから高遠くんにもあがって頂いて」
「二階で食べるから、持ってきて。行こうぜ、高遠」
トラノスケを抱えあげた海堂が靴を脱ぎ散らかしてトントンと階段を上がっていく。何故か高遠がその靴をそろえる。
「おじゃまします」と、海堂の後ろについて二階にあがる高遠に、麻里絵が微笑む。
高遠は海堂が骨折してからずっと、海堂と登下校を一緒にしている。
(三好が、過保護すぎると怒る理由の一つだ)
もともと、駅二つしかちがわず、家から家までなら自転車だと15分とちょっとしか離れていないので、海堂の家に自転車で来て、それから一緒に駅に行っている。それで、帰りも海堂宅で自転車をピックアップすることになるので、仕事で不在がちの父親とはまだ一度も会ったことが無いが、海堂の母親、麻里絵とはたびたび顔を合わせることになり、自然、親しくなった。
「本当に高遠くんのようなしっかりした素敵なお友達がいてくれてうれしいわ」
お茶とお菓子を運んできた麻里絵が、にっこり笑ってそのまま座って話を続ける。
「お茶置いたら、でていけよ」と、その息子海堂が不機嫌そうに言う。
「あら、いいじゃない。ママだって高遠くんとお話したいわよ」
すまして居座ろうとする麻里絵。
「邪魔なんだよ。ばばあ」
わざと目つきを悪くして睨むと、麻里絵がキレる。
「ばばあ?ばばあとは何よ。こんな若くて綺麗なママつかまえてっ」
「若くねぇよ。もう四十だろっ」海堂が言い返すと
「まだ三十九よっ!このっこのっ」と、海堂の頬を両手でつかんで左右に引っ張る。
「ひゃめろっ」
海堂、左手をグーにして振り回す。
「あ、あの、海堂、お母さん」と、高遠が間に入ろうとする。
さすがに年の功で一瞬のうちに自分を取り戻した海堂麻里絵。
「あらやだ、ごめんなさい。高遠くん。変なとこ見せちゃったわ。ほほほ」優雅に笑う。
「早くでてけよっ」
海堂がしつこく言うので、麻里絵はしぶしぶ腰を上げる。
「はいはい。じゃ、またね。高遠くん……そうだ、お夕飯食べていく?」と、なおも未練を残して話し掛ける。
「あ、いえ……家で用意しているので」
高遠が遠慮がちに断ると、麻里絵は首を傾けて本当に残念そうに微笑む。
「そうね。じゃ、この次はお家の方に言ってから来てちょうだい。私、月、木、金なら帰り早いのよ。ね」
「いいから、もう」
海堂が、麻里絵を押し出し、ドアの向こうまでやってバタンと閉めた。
「ったく、やんなるぜ。何が月、木、金なら、だよ。今まで、そんな早く帰ったことねぇくせして」
海堂がブツブツ言う。そして、高遠を見て
「あいつ、高遠のこと好きなんだよ」
「え?」
突然の話をふられて、高遠は、リアクションに困った。
「高遠がうちに来るようになってから、やたら早く帰ってくるし、お菓子とか用意するし」
「はあ」
「あんまりいい顔するなよ。つけあがるから」
(って、海堂、お前が言うか)と、内心つっこむ高遠。
「あいつに誘惑されても、絶対のるなよっ」
「それはない。絶対」
高遠は真面目な顔で応えた。


麻里絵が部屋を出て行った後、海堂は、高遠の横に来て座る。
「そういえば今日、職員室何しに行ってたんだ」
「ああ、それなんだけど」
高遠はちょっと言いにくそうに目を伏せる。
「なんだよ」
「球技大会の朝練で体育館を借りることになったんだ」
「朝練って、バスケットのか?」
「ああ」
高遠は、今月末行われる球技大会を海堂がどんなに楽しみにしていたか、それが腕の骨折で出られなくなってしまった為にどんなに海堂が悔しがっているかもよく知っている。
それだけに、この話題をするのは気が引けた。
「高遠も、朝練やるんだよな。もちろん」
例の唇を尖らせた表情で俯いたまま訊く。
「ああ。それで、朝の通学……」と、高遠が言葉を濁すと
「俺も、朝練行く」
海堂が、顔を上げて高遠を見つめる。
「え?」だって、おまえ出られないのに、と高遠の目が語るのを察して、海堂は笑って
「高遠の練習見てる」だから一緒に学校に行きたいんだと強い目の光で応えた。
高遠も笑って
「そうか、そしたら明日から早起きだぞ。大丈夫か?」
「おう」うなずく海堂
「よし」高遠は海堂の髪に手をやると、くしゃっと撫でた。



翌日、いつもより一時間も早く起きた海堂は眠い目を擦りながら高遠の自転車を待った。
まだ、明けきっていない暗い中、高遠がやって来る。
駅に向かう道の途中で白々と夜が明ける。
「十一月の日の出って遅いんだな」と、海堂が感動した。
体育館は、バスケットとバレーボールの朝練の生徒で賑わっている。
海堂は邪魔にならないようにすみっこに腰を下ろすと、膝を抱えて高遠がプレイするのを見る。
高遠は、球技のときもでしゃばらない。いつもの性格そのままに、自分がどこに行けば一番いいのか、誰にボールをやればいいのか、よく考えて動いている。
身長が高いから、シュートのチャンスも多いけど、それ以上にリバウンドをしっかり拾って、きちんとチームメイトにつなげている。
(派手じゃないけど、一番良く動いている)
惚れた欲目でなく海堂はそう思った。
その日から毎朝、海堂は高遠の朝練について行って、体育館の同じ場所に座って、ひたすら高遠を見つめた。
高遠が走る。高遠がボールを追う。ジャンプする。取ったボールをパスして笑う。シュートを決めた友人とハイタッチして喜ぶ。
(俺もやりてぇ)
じっと見ているうちに海堂は、悲しくなってきた。
(なんで、高遠がボールを渡す相手が俺じゃねぇんだ。笑いかける相手が、俺じゃ……)
おもわず涙が出てしまって、慌てて抱えた膝頭の間にうつむいて、腕をつっている包帯でさっと拭った。





「おい、高遠、高遠、起きろっ」
三好がとなりから突付く。極端に眠気を誘う遠藤の世界史。
「あ」と、高遠は自分が寝ていたことに気づいて慌ててシャープペンシルを握りなおす。ノートのとれない海堂に変わってノートをとると言う大切な使命があるのだ。
その海堂は左手で頬杖をついて美しく優雅に寝ている。天使の寝顔。
休み時間。三好が心配そうに話し掛ける。
「高遠、お前大丈夫か?」
「なにが?」
「岩淵の古文も寝てたろ」
「ああ、朝練すると、結構キツイからな」
あくびを噛み殺してちょっと疲れた表情で呟く高遠に、三好は軽く舌打ちして言った。
「別にいいけど、目ぇつけられない程度にしろよ」
「おう。気をつけるよ」
その二人の会話に海堂が横から加わって
「俺なんか今日の午後ずっと寝てたぜ」と、あっけらかんと言うと
「お前はいつでもそうだろ」
三好が眉間にしわを寄せた。


三好はちょっとだけ苛々していた。
高遠という男は、外見に似合わす気真面目で小心者なところがとりえだ。いや、他にもとりえはあるのだが、三好としてはそこが一番気に入っている。
その高遠が、このところ授業中に居眠りしたりしている。今まで無かったこと。別に授業中寝てはいけないなどと優等生的ダサい文句をつけるつもりはさらさらない。
ただ、疲れているのがありありとしているのに、高遠の恋人であるはずの海堂がなんにも気が付いていないというのが腹が立つのだ。
(アホ海堂)
その朝、三好はテニスの練習をせずに体育館のバスケットの朝練を覗いた。体育館の隅に海堂が座っている。じっと見つめている視線の先は高遠。ふっとため息をついて、三好は海堂のところに近づいていった。
「海堂」
声をかけると、海堂はハッと顔をあげた。それまで三好が近づいてくることなど、全く気がつかなかった様子。
「三好、どうしたんだ?」
と、言う海堂の質問には答えず、三好は隣に腰を下ろして
「高遠、どうだ?」と、訊ねる。
「かっこいいよ」
間髪入れない返事。
三好はちょっとふきだして、すぐに真面目な顔になって言う。
「最初の頃に比べて、動き鈍くなってねぇ?」
海堂はびっくりした顔で三好を見つめた。たしかに、今日の高遠はちょっと元気が無いように見えた。どうしたんだろうと思っていたところにちょうど三好が話し掛けてきたのだ。
「なんで?」わかるのか?と訊ねると、三好は
「なんで……」気づかねぇかなと苦笑い。
首をかしげる海堂に、三好は
「簡単じゃねぇか。疲れてんだよ」

「海堂、算数だけどな。高遠の家から学校まで自転車と電車で25分、お前の家から学校まで40分、駅まで歩きだからな、高遠の家からお前の家まで自転車で15分から20分。さて、高遠君は朝の貴重な時間をどれだけロスしているでしょう」
「…………」
「帰りもおんなじだけど、ま、朝のほうがつらいわな。特に朝練始まってからはね」
三好は体育館の天井を見上げる。
うつむいた海堂の顔にさぁっと血がのぼって、耳まで赤くなった。
(そうだったんだ……俺、今まで自分の事しか考えてなかったから、全然気が付かなかった……)
自分が、球技大会に出られないのが悔しくて泣きたくなったり、高遠と一緒に学校に行きたいから、我がままいって迎えに来てもらったり。
自分がいつもより一時間も早く起きていると言うのなら、高遠だってそれ以上だ。その上こんなにキツイ練習もしているのだ。
今まで全く思いつかなかったということも、それを三好から指摘されたということも辛い。
左手が白くなるほどきつく膝を握り締め、うつむいたまま海堂は唇を震わせ呟いた。
「サンキュー。三好」
三好は黙って立ち上がって、ラケットを肩にのせて体育館を出て行った。
海堂は顔を上げて、高遠を見た。プレイしているその横顔を見たとたん涙があふれた。
(ごめん。高遠)
拭うくらいではごまかせない涙に、海堂は立ち上がると体育館を出て、トイレに向かった。

「海堂、どうしたんだよ。いきなり居なくなって」
朝練が終わって、教室に入ってきた高遠が笑いかける。
「あ、ああ。ちょっと」海堂は言葉が見つからず「トイレに……」
「なんだ ……まさか、腹こわしたりしてないよな?」
爽やかに笑いながらも、さり気なく海堂のことを心配する高遠。
「そんなことないよ」海堂も無理して笑う。

放課後、帰る道すがら、ずっと考えていたのに何もいえず、とうとう自分の家の前まできたところで海堂は思い切って口に出した。
「あのさ、明日から俺、朝練つき合わねぇ」こんな言い方しかできない。
「え?」
高遠が驚いて海堂を見る。
「なんで?」
何でと訊かれて、海堂は困った。三好に聞いたこと、自分が考えたことをそのまま言ったら、優しい高遠のことだから心配するなと言うに決まっている。
今までだって嫌な顔ひとつしていないのだ。
「それは……」と、口篭もると、思ってもいない言葉が浮かんで口に出してしまった。
「やっぱ、自分出れないのに、他人の練習とか見るのつらいじゃん。バカバカしいし」
「海堂」
高遠の目が見開かれる。そして、海堂の肩に手をかけようとしたのを、海堂が振り切って
「だから、明日から迎えに来なくていいから。お前一人で行け」
そう叫んで、家の中に駆け込んでいった。
自転車のハンドルに手をかけたまま、高遠は少しの間動けなかった。
「あら、高遠くん一緒じゃなかったの?」
玄関から飛び込んできて階段を駆け上がる海堂に、麻里絵が下から声をかける。
「うるせぇっ」と、叫んで、海堂はベッドに倒れこんだ。
(何で、ああいう言い方になっちまうんだよっ)
自分の言ったことを思い出して、その酷さに涙が出る。
自分の言葉の至らなさが不甲斐なくて、情けなくて。でも、今だって、ほかのいい言葉なんか見つからない。


翌日、高遠はいつものように早起きして、海堂の家に寄った。
(ひょっとしたら、出てくるかもしれない)
しばらく待ってみたけれど、やはり海堂が出てくる気配は無い。
しかたなくペダルに足をかけると、自転車をこいで駅に向かった。
駅に行くまでの間、電車に乗っている間もずっと海堂の言葉が耳を過ぎった。
『自分、出れないのに、他人の練習とか見るのつらい』
(海堂、そんなふうに見ていたなんて、気づいてやれなかった)
いや、球技大会に出られないことをどれだけ悔しがっていたかは良く知っていた。だから、それくらいのこと気づいてやって当然だったのに。海堂が自分も一緒に朝練に行くと言ったとき、つい嬉しくて毎朝つき合わせてしまった。
朝練がはじまっても高遠の心の中は海堂のことで占められていて、全く集中できない。
体育館のいつもの場所にそっと目をやると、その誰もいない空間がとても寒々しい。
(海堂……)
「オイ!高遠っ」
ボールを取りそこなった高遠。今日、何度目か。
「お前、大丈夫か?具合悪いんじゃねぇの」
級友が心配げに声をかける。
「ああ。わりい、今日ちょっと抜けるわ。ごめん」
高遠、片手を挙げてコートから出る。
「そうしたほうがいいな。気ぃつけろよ。試合近いんだし」

高遠が朝練を抜けて教室に入っても、海堂の姿はまだ無かった。話をしたかったのだが、海堂は始業のベルぎりぎりに入ってきた。こころなしか目の周りが赤い。
一限目が終わるのをもどかしく待って、高遠は休み時間に海堂を連れ出した。
黙ってついてきながら、海堂の表情は暗いままだ。海堂は昨日自分が言ったことを後悔して、それでもほかに言いようが無く、どうにもならない気持ちを抱えている。
高遠はそんな海堂の様子に、球技大会に出られない海堂の辛い気持ちを思いやった。
朝練に無理につき合わせてしまった後悔に胸が痛む。
人目の無くなったところで高遠が謝る。
「海堂、俺、ごめんな。お前の気持ち全然わかんないで」
えっ?と海堂が目を見開く。高遠は苦しそうに眉を寄せたまま続ける。
「自分が怪我して思うように動けないときに、人が楽しそうに動いているの見るの、辛いよな。俺、そこまで気がまわんなくて」
真摯な瞳が申し訳なさそうに翳る。
「ちがっ」海堂は思わず遮って、
「なんで、お前が謝るんだよ」唇を震わせる。
(なんで、いつもいつもお前が謝るんだよ。悪いのは俺じゃねぇか。そんな顔すんなよ。悪いのは、そうやっていつもお前に……)
自分の言ったことで、また高遠を傷つけている。海堂は胸が詰まって苦しくなった。
その苦しさに左手で自分の喉許を押さえると、海堂は掠れた声で
「わりぃのは、俺だ」
そう言って教室に駆け戻った。
「海堂っ」
高遠は呆然と立ち尽くす。



昼休み。高遠が大きなため息をつく。
あの後教室に戻ると、海堂は腕の通院といって早退してしまっていた。そんなこと聞いていなかったから、たぶん嘘なんだろう。どうして、避けられてしまったのか。
朝、謝ったときの様子も気になる。
『わりぃのは、俺だ』と、苦しそうにつぶやいた海堂の顔が頭から離れない。
何度目かのため息をついたとき、三好が高遠の横に来た。
「わるかったな」三好が謝る。
なんでだ?なんで今日はこうやって皆、自分が悪いと謝るんだ?
高遠はぼうっと三好の顔を見る。
「海堂のこと」と、言う三好の言葉に高遠がぴくっと反応する。
「よけいなこと吹き込んじまったみたいだ」
「どういうことだ?」
眉をひそめて、探るように見返す高遠の精悍な顔を、三好は少し申し訳なさそうに見つめると、自分が昨日の朝海堂に言ったことを話す。


「……なんで、そんなこと」
高遠が声を震わせる。
「お前が疲れてたのは事実だろ。無理して早く起きているのも」
「俺は、無理なんかしていない」
高遠は、歯を食いしばるように顔を歪めた。
「そうだな、今日の様子じゃ、一人のほうがよっぽどシンドそうだ」
「三好っ」
高遠が三好の胸倉を掴む。
三好はされるがままになって、じっと高遠の目を見つめた。
「殴るか?」
ふっと目で笑った三好の言葉はあまりに優しげで、高遠はその手を離すと、
「んなわけ、ねぇだろ。俺にできるか」
目を伏せて言った。
この親友が本気で自分を心配してくれていたことも、痛いほどわかってしまう高遠だった。


次の日、海堂が玄関からとぼとぼ出ると、目の前に見慣れた自転車があった。
「たか、と……」
呆然と見つめる海堂の視線の先に高遠が微笑んでいた。
「高遠、なんで?」
信じられない思いで、頭がぼうっとする。
「一緒に学校に行こうと思って」
高遠が、いつもの、海堂の大好きな顔で笑う。
「だって、朝練……」
「あれね、誰かさんが見ててくれないと、俺、全然ダメなんだよ。昨日も、もうヤンナクテイイって言われたくらい」
高遠は、照れ隠しにポケットに手を入れて、下を向いてハハッと笑う。
「高遠」
「俺、少しでも海堂と一緒にいたいから、これからもこうやって学校に行きたいんだ……いいよな?」
優しく見つめてくる高遠の瞳が嬉しくて、見返す海堂の瞳には涙が滲む。
「高遠っ。俺……俺、変だ……怪我してからなんか、涙腺弱いってゆうか……」
そのまま、高遠の胸に飛び込んで肩を震わせて泣いてしまう。
「うん」
高遠は優しく背中に手を廻して、広い胸にすっぽりと海堂を包み込む。

そうやって、家の前で抱き合う息子とその友人を窓から眺めつつ
「このままじゃ遅刻するわよ」と、言おうか言うまいか、海堂麻里絵は困ったように微笑んだ。
「若いっていいわねー」                            




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