《夏休み》


「プール?」
トラノスケの頭を撫でる手をとめて、海堂は高遠の顔を見た。

八月の日差しの強い夏休み。
約束どおり高遠は、毎日自転車で海堂の家に来て、海堂の愛犬豆柴トラノスケの散歩に付き合っている。いつもの空き地で並んで座っているときに、高遠がプールに行かないかと海堂を誘った。
「今年、うち(和亀高校)のプール工事中で、体育で水泳なかっただろ。だから、この近くの市民プールでも行かねぇ?」暑いしと誘うと、海堂は不思議そうな顔で訊ねた。
「高遠、泳げるのか?」
ワザとらしくムッとした高遠が
「失敬な。俺はこれでも中学まで水泳部で、うちに入ったときも熱心な勧誘受けてんだからな」
と応えると、海堂は目を見開いて
「なんで入部しなかったんだ?それとも途中でやめたのか?なんでだ?」と、無邪気に聞く。
「う、それは、最初から入んなかった、んだけど……理由はあんまり言いたくねぇな」
少しだけ暗くなる高遠に、海堂は
「じゃ、言わなくていいぜ」と、笑った。
実は高遠、練習で出す個人の記録は結構良いものを持っているのだが、生来の小心が災いして、大会となると力が出せない。中学までならともかく、高校生レベルでは通用しないだろうと自分で見限って『水だけに、足を洗った』(山田、座布団、持ってっちまいなあ)のであった。高遠がプチトラウマを感じていると海堂が
「でも、泳げるだけすげえよ。俺、泳げねぇもん」
そう言って高遠を驚かせた。
「えっ?海堂、泳げないのか?!」
海堂と言えば歩く運動神経。その腕っぷしの強さも、身体能力の高さも知りすぎているだけに、高遠はかなりびっくりした。
「おうよ。今年は体育でプールが無くて、実はホッとしてたんだぜ」
と、海堂は空を見上げる。
「意外だな」
高遠の言葉に、海堂は大きく溜息をつくと、膝の上のトラノスケを抱き直して
「俺さ、小学校2年の時、それこそ近所のプールでさ、水の中で変態野郎に抱きつかれて」と、衝撃の告白を始める。
「あっちは冗談半分だったのかもしんねぇけど、こっちは本気で溺れると思って、必死でさ。それから水ダメで。だから泳ぎも全然……」
「そうか、そんな……大変なことが……」
俺のトラウマなんか比じゃねぇな、と高遠が眉間にしわをよせて海堂を見ると、その海堂は
「あんの野郎。もし今会えたらんなら、メッタメタのボッコボコにして、頭蓋骨陥没させて、ヘロヘロの廃人にしてやるっ」
急に険悪な顔になって両手の拳をきつく握っている。トラノスケが驚いて膝から跳び下りた。
「まっ、まぁ、落ち着けよ」
高遠は横からその肩を掴んで、右手で背中をさすってなだめた。
「じゃ、プールの話は無し。悪かった。気にすんなよ。なっ」


翌週の月曜は夏休み中に一日だけある登校日。
高遠と海堂が、そろって仲良く通学してくるのを見て、校内のあちこちから溜息が聞こえたが、当の二人には全くわからない。三好はいやに機嫌が良い。
「おはよう、お二人さん。今日も仲が良くて結構だな」
「三好……」海堂は、三好が高遠を好きだと言う告白を聞いている。そのお陰で自分の気持ちに素直になれて高遠と仲直りできたものだから、なんとなく三好には申し訳ないような気持ちになった。
その微妙な表情に気づいて、三好は海堂の首に腕を廻すとヘッドロックをかけた状態で耳元に口を寄せ
「お前、アノこと、高遠に話したか?」と、小声で訊いた。
「いや……」
海堂はやはり小さな声で応える。それを聞くと三好は、にっこり笑って言った。
「いう必要ねぇぞ。あいつに余計な気を使わせたくねぇからな」
実は、話していたならいたなりの対応は考えていたのだが、話していないとなれば、ここは一つ海堂に貸しを作っておいたほうが面白いと三好は考えた。
案の定、海堂は『それでいいのか?』という目で見返す。
三好は内心の笑いをかみ殺し、生真面目に頷いた。
「お前ら、何やってんだよ」
高遠が不機嫌な声を出す。
(海堂にベタベタさわんなよ)と、三好に向かって目で牽制する。
三好は腕をほどくと、軽く両手を挙げて「はいはい」と笑い「今、海堂にキャンプに行かないかって、誘ってたんだよ」と、いきなりな話をした。
「キャンぷう?」
高遠が間の抜けた声で聞き返す。海堂も首をかしげる。
「実はうちの車買い替えしてさ、けっこうデカイんだけど、うちの兄貴が今度それで彼女とキャンプに行くのに下見したいって言ってさ」兄の話に苦笑いする三好に
「下見ってキャンプのか?」と高遠。
「そう。ほら、初めてのとこ行って、訳わかんなくて彼女と気まずくなるってあるだろ?それが嫌みたいで。A型なんだよねぇ」日本人の三分の一がそんな性格とはかぎらないだろう、三好。しかし、ともかく、三好の兄はそういう性格らしい。
「でも、いいのか?折角、兄弟水入らずで」
と、高遠が言いかけると、三好は不機嫌そうに口を尖らせた。
「何が嬉しくて、男兄弟が、二人っきりでキャンプしないといけないんだよ」

「どうする?海堂?」
いつもの事だが海堂の気持ちを優先する高遠。
海堂は「うーん」と首をかしげて「でも、トラノスケの散歩があるから」と、少し残念そうに断った。
「連れて行けばいい。ペット可だから」と、三好。
「え?」海堂の瞳が輝く。
トラノスケとのキャンプ。
(それは、むちゃくちゃ楽しそうだ!)
その顔を見て高遠が、
「行こうぜ。海堂」と、肩をポンと叩いた。



* * *

キャンプの日。高遠が海堂の家に来て待っていて、そこで三好兄の運転する車に、二人とトラノスケを拾ってもらうという運びとなった。
4WDのワゴンから降りてきて挨拶する三好の六つ年上の兄義隆は、海堂の顔を見て驚いた。そして困ったような顔で弟を見る。その視線の意味に気づいた三好は
「男だよ。海堂龍之介。俺のクラスメイトっていっただろ」
呆れたように言った。義隆は、
「あ、そうなの。そうだよね。男子校だからね。でも、いや、ちょっと驚いちゃって」と、早口で言うと慌てて謝った。
「ごめんね。海堂君」
海堂はトラノスケを抱いてむすっとしている。高遠は苦笑した。確かに学生服でない私服の海堂は女の子に見える。可愛く豆柴なんか抱いているから尚更だ。それにしても、三好の兄の柔らかな物言いや遠慮がちな様子。弟とは大違い。二十三歳と聞いているけれど、弟の三好のほうが背も高いし、顔も大人っぽいくらいだ。
(この人なら確かに彼女とのデートの前に下見をしておきたいと思うかもな)
高遠はなんとなく好感を持った。
八王子インターから中央自動車道に乗って、途中休憩を挟みながら山梨に向う。
助手席に座った三好が地図を見ながらテキパキと道を指示する。
高遠と海堂は後部座席に、トラノスケがシートを汚さないようにバスタオルをひいて座っているが、トラノスケは落ち着かないらしくなかなかじっと座ってくれない。結局、海堂が膝の上に抱えて押さえつける形になった。
「トラノスケちゃん、大丈夫?気分悪そうだったら言ってね」と義隆が運転しながら訊く。
「大丈夫です。すみません」海堂が、トラノスケの背を撫でながら応える。
意外にも、初対面の人にはちゃんと敬語も使える海堂。
「いいなぁ、黒柴でしょ。僕も犬、大好きなんだよ。あとで触らせてくれるかな」
義隆のその一言で、海堂も三好兄に好感を持った。
「もちろん、いいですよ」
さっきの勘違いも帳消しにしてやろう。


キャンプ場には昼前に着いた。
山梨でもあまり知られていないこのキャンプ場は、入り口でお金を払って案内を受け取ったら、後は車を走らせて適当なところで自分たちのスペースを確保する、といういたって素朴なものだ。売店やトイレなどのある出入り口を過ぎると、キャンプ場というより本当に自然の山の中に入ったようだった。食料は途中で充分買ってきているので、義隆は売店で冷えた缶ビールを1ダース買った。
「台風でところどころ道がふさがっているから、気をつけてなぁ」
案内所の老人が言う。
しばらく奥に車を走らせると、老人の言った通り、台風の跡がちらほら見えた。
「まさか、土砂崩れとか無いだろうな」と、言う三好に、義隆が
「地盤は固そうだから大丈夫だと思うけど。それより木が大変なことになってるね」
たしかに、台風でなぎ倒された木や枝が散乱している。
「こっちのほうが川にも近くていいところらしいんだけど」と義隆がハンドルを廻して進んだ先に巨大な木が立ちふさがった。
「あちゃー」
全員、車を降りてその木の前に立つ。道の端に立っていたのが大風になぎ倒されたらしく、ひと抱えもありそうな大木が、左手の崖から道路側に斜めに倒れていて、それより先を進入禁止にしている。
「動かせねぇかな」
木に手をかける三好を手伝い、高遠と海堂も力を貸すが、なにしろ大きすぎて、ちょっとやそっとではびくともしない。
「っせーのっっ」
懸命に力を入れるとほんの数センチは持ち上がったが、とても道の脇にどけるほど動かせそうにはない。
「この車で突っ込んだら何とかなるんじゃねぇか?」平然と聞く海堂に
「よしてくれ。一応、新車なんだぜ」と三好が眉を寄せる。
「しょうがないな、あきらめるか」と義隆が言うのと
「しゃあねぇ、やってみるか」と海堂が言うのが同時だった。

海堂は木の幹を触って適当な場所を探っていたが、振り返って
「ちょっと離れてろよ」と言った。
高遠はトラノスケを抱えあげると二メートルほども下がった。三好はとっくに離れている。三好兄義隆だけがそのままボーッとみていると、海堂はその場で軽く二、三度跳ねて
「はああああっ!」
気合とともに、身体を一回転させての廻し蹴り。
バギッ
という音が響いて、巨木の幹が折れた。
義隆の目が点になる。
海堂はくるっと振り向いて
「これで動かせるぜ」と、にっこりした。

「海堂君はすごいんだね」義隆はまだ感心している。あれから、木をどけて奥に進み、渓流の綺麗な川岸にスペースを確保した。それまで進入禁止になっていた道だから、他のキャンパーの姿は無く、いたって静か。本格的に山に入った心地がする。
とりあえずテントを張って、その隣にもシートを敷く。バーベキューセットを組み立てて、コンロで火をつけてみる。火は勢いよく燃えて網を焼き、いつでも食べられる準備が出来た。
トラノスケは初めて来た場所に喜んでいるのか、駆け回ってあたりをクンクン嗅ぎまわる。
「うっひゃー。水つめてぇ」
川の水に足を浸した高遠が子供のように笑う。
「折角だから泳ごうぜ」と、三好が言ったとき、高遠は
『あ……』と海堂を見た。海堂は
「俺はこの辺で見てるよ。トラノスケもいるし。高遠、泳げよ」と、明るく言った。
「元水泳部の泳ぎを見せろよ」
海堂が少しからかうように言うと、
「ようし、見てろよ」高遠がTシャツを脱ぐ。
「おおっ」海堂は思わず高遠に近づくと、その胸をぺたぺた触る。
「すっげぇ、高遠。だてに水泳やってなかったんだな。いいなぁ、俺もこんな胸板欲しいぜ」羨ましそうになでまわす。
高遠はあわてて
「ち、ちょっと、海堂、さわんないで」(感じちゃうから)と赤面した。

そんな高校生のはしゃぐ姿に目を細めつつ、義隆は500mlの缶ビールを一本開け、残りを川に浸して冷やした。
タバコを一服して、ビールを飲みながら網の上に買ってきた肉や野菜、ソーセージをのせていく。ちゃんと火の通りの悪そうなものから置いていくあたり、やはりA型。
「そろそろ焼けるぞ」義隆の呼びかけに、お腹をすかせた三人と一匹が集まってくる。
「うまそー」網の上を覗き込む。
「兄貴、俺たちもビール」と手を出す三好に義隆は
「ええっ?君たちは未成年だろ」と大げさに驚いてみせる。
「っていうか、いつも自宅で飲まされてんですけど?」低い声で返す三好に向かって兄は
「お友達の前なんで、一応、言ってみました」と笑いながら両手で缶ビールを差し出す。
「ほい、高遠。ほい、海堂」三好が缶ビールを渡す。
「サンキュー」高遠も海堂も自然に受け取り、プルトップを引く。義隆が呆れて
「まったく、今日びの高校生ときたら」というと、その弟が一口飲みながら
「おやじくせぇよ」と突っ込んだ。

「おっ。おい、その玉ねぎは俺がキープしてたんだぞっ」
「もう、焼けてるじゃねぇか」
「裏がまだなんだよ。返せ」
「グビッ」
「玉ねぎならまだあるからのせようね」
「これもらっていいか」
「こっちのほうが焼けてると思うよ」
「グビグビッ」
「ああっ、てめぇ、だからそれは俺のだって」
「お前、焼きすぎなんだよ」
「ほらほら、こっちも焼けてるよ」
「トラノスケに肉やっていい?」
「これが、味付けてないやつ」
「ありがとう。グビッ」
「おい、肉、追加するぞ」
さて、どれが誰の台詞でしょう。
ともかく、育ち盛りの高校生、これでもかと買ってきた食材のほとんどを食い尽くす勢い。
「あとで、売店で夜の分買ってこないとね」と義隆が笑う。
ふと見ると、海堂の様子がおかしい。頭が左右にゆらゆらと揺れている。
高遠が驚いたように背中に手を当て、顔を覗き込んで
「おい、海堂大丈夫か?」と訊くと
「うーん」と小さく応えてそのままシートの上にパタッと横になった。
「海堂?」
「酔っ払っちゃったのかな」と驚く義隆の言葉に
「って、まだ二本目だろ」三好が唖然とつぶやく。500ml缶二本が酒量としてどうなのかは見解の分かれるところだが、どう見ても酔ったとしか思えない海堂の様子に高遠は慌てる。
「おい、海堂、大丈夫か?気持ち悪いのか?」おろおろと顔を覗き込んでいると、いきなりぱちっと目を開けた海堂が真っ赤な顔をしてむくりと起き上がり
「たかとおっ、好きだぁっ」ガバッと高遠の首に抱きついた。
「えええっ、ちょっ、海堂っ」三好兄弟の面前で、高遠の顔も赤くなる。動揺する高遠に
「たかとぉ、好き」海堂、ぶら下がったまま、今度は甘えた声で囁く。
「ぶーっ」と吹き出す三好。兄のほうは、何がなんだかよくわからず、ボーッとしている。
その兄に解説するように三好が
「この二人、禁断の愛に目覚めちゃってるんだよ」と、クククと可笑しそうに話すと、海堂がそれに応えて、酔っ払いのわりによく聞こえる声でぽつりと言った。
「うん。でも、三好も高遠のこと愛してるんだよ」

しーん。シラフに近い男三人のわずかな酔いがすうっと醒めていく。
「な、何言ってんだ。お前」三好が引きつった顔で笑いながら、海堂の頭を軽くはたく。高遠は首に海堂をぶら下げて固まったまま。海堂はムキになったようにますます首にきつくしがみつくと大声で叫ぶ。
「だって、三好、言ったじゃんかっ、本当は三好も高遠好きだっ、て。俺が別れたんなら自分がもらっていいかっ、てっ」
凍りつく三好。固まり続ける高遠。
「でも、俺も、好き、だから……」と海堂はだんだん小声になって、うーっと小さく唸ると「三好に、高遠は、渡さないっ」と、首にしがみついたまま自分の額を高遠の胸元に擦りつける。高遠呆然とされるがまま。
(じつは、わが弟も、禁断の愛に目覚めてしまっていたのか)
男同士の三角関係を目の当たりにし、義隆が、怯えたような目で弟の顔を見つめる。
「ち、ちがう、兄貴。これには訳が」予想外の展開に、いつに無く動揺する三好。それがかえって信憑性を増してしまうという恐ろしさ。
「でもぉ、そのことは口止めされてるから、絶対、いわねぇ」むにゃむにゃと眠りに落ちる酔っ払い海堂。
「てめぇ、言うだけ言って、寝てんじゃねぇっ」三好の叫び声が山にこだまする。

しばらくの間、実の兄からの白い目と親友からの気まずい視線に居たたまれなかった三好。懸命の言い訳に、さすがに当事者高遠はわかってくれたようだ(というより、海堂の言うほうは信じたくないのが本音というところか)。しかしながら実の兄のほうはまだ疑っている様子。高遠と海堂カップルのこともあるので、義隆は急に妙な理解を見せて、にこやかに頷きながら言う。
「まぁ、アメリカじゃ、よくある話だし、恋愛は自由だからな」
「だから、俺はちがうってばよぉ」兄の思い込みは激しい。
このままでは、三好家の家族団らんの場で
「お母さん、常隆、実はホモなんですけど、温かく見守ってあげましょうね」くらいのことは言い出しかねない義隆だ。
(なんとかしなくては)三好の目はうつろ。

母猿にしがみついた小猿のような海堂をようやく引き剥がして横にすると、高遠は大きく息をついた。まったく海堂にはいつも驚かされる。熱血しやすくて、感情もすぐ表に出るし、愛情表現も豪快だ。自分がシャイで、それにうまく応えてやれないことにちょっとだけ苛立ちを感じる高遠だった。
「じゃ、俺たち買出しに行ってくっからよ」三好がげっそりと立ち上がる。
「あぁ。あっ義隆さん、車、大丈夫ですか?」ビールを飲んでいた義隆に、高遠が運転のことを気にすると、義隆は笑って
「大丈夫。そんなに飲んでないし、さっきの件で醒めちゃったから、って、痛っ」
三好に殴られている。
(この買出しの間に上手いこと説明しないと、ホントに兄貴に誤解されたままだぜ)
三好は強い決意を胸に車の助手席に乗り込んだ。
車を見送ると、高遠は眠っている海堂の横に座って寝顔を見つめる。海堂の寝顔を見るのは何度目だろう。初めて会ったとき、一瞬で心を奪われてしまったその可愛らしい顔。普段の口の悪さも気の強さもこの寝顔からは想像できないな、と考えて、高遠はその海堂の気の強いところもちょっと外道なところも、むしろそういうところが、好きになっている自分に気づいてクスリと笑った。
酔っ払って眠っている海堂は、上気した顔で、うっすら汗をかいている。額に張り付いた髪に手をあてそっとぬぐうと
「う……ん」と掠れた声を出した。
そのあまりの艶めかしさに高遠は背中がゾクッと痺れて、慌てて手を引っ込めた。
そういう目で見てしまうと、汗ばんで上気した頬、少しだけ苦しげに寄せられた眉、薄く開かれた唇も、酷くいかがわしい気がして、高遠は動悸が激しくなる。
海堂の顔から無理に目をそらすと、今度はショートパンツからすんなり伸びた足が目に入ってしまった。
「まっ、まずい」条件反射的に反応してしまう自分自身に戸惑う高遠。
「そ、そうだ。泳ごうっ」
健全な青少年は、青春の高ぶりをスポーツで昇華するのだった。

「お前、ほんと泳ぐの好きな」なんとか実兄の誤解を解いてきたらしい三好が、機嫌よく高遠に話し掛ける。
(ほっとけ)
海堂は未だ眠っている。
「花火あるけどどうする?」とかばんの中をごそごそと探っていた義隆が振り返る。
「折角だからやろうぜ。どうする?海堂起こすか?」と三好。
「うーん。でも、寝かせといてやろう」と高遠が寝顔を見て微笑む。
「明日起きて、怒りそうだよな」にやりと三好が笑う。

* * *
夜明け前、高遠はふと目が醒めて、海堂の姿が無いことに気づいた。
(海堂?どこいった?)
二人を起こさないようにそっと起き上がると、まだ明けきらない山独特の、冷たく澄んだ空気の中に出る。
(海堂?)
よく見ると、川の中に膝まで浸かった海堂の姿。ご丁寧に川原には靴が揃えて置いてある。
高遠は慌てて、自分も水の中に入ってバシャバシャと駆け寄る。海堂が驚いて振り向く。
「お前、何してんだよっ」
手を伸ばして海堂を抱き寄せようとするが、その勢いで、川の中の苔に足をとられてすべる。
「えっ、あ、高遠?」
と、転びかけている高遠を助けようと海堂も手を伸ばし、結局支えきれず二人して川の中。
「つ、つめてぇ……」
腰から下を思いっきり水につけ、へたり込んだ状態で、お互い呆然と顔を見合わせる。
ふいに、海堂が吹き出し、
「なんだよ。高遠っ」と右手で川の水をバシャッと高遠の顔めがけてかける。
「うっ」と顔をそむけてそれを避けながら
「何だよって、お前こそ、こんなところで、こんな時間、なにしてんだよっ」と言い返すと、海堂はケラケラ笑って
「こんな時間っていったって、目が醒めちまったからしょうがねぇじゃん」とまた、パシャッとやる。何しろ昨日の昼から寝ているのだ。
「そりゃ、そうだけど、なんか……お前、泳げねぇのに……」
びっくりして、心配して、とゴニョゴニョ言いつつ次第に口を尖らす高遠に
「泳げねぇから、入ってみたんだよ」と川の中に浸かったまま、後ろ手に身体を支えた海堂が首を傾けて微笑む。
「え?」高遠も川の中に座ったまま首をかしげる。
「昨日、お前と三好がすっげぇ楽しそうだったから、俺もちょっと水に慣れてみたいとか思って」はにかんだように言って、唇をきゅっと結ぶ。
「海堂……」高遠は、普段粗暴な海堂のたまに見せるこんな表情にめちゃくちゃ弱い。
そのまま、手を伸ばすと、ぎゅっと抱きしめて、思わず押し倒す。
「げっ、たか、と、やめろっ。うわっ」
後頭部から水に浸かって、顔まで沈みそうになった海堂は、必死の形相でじたばたする。
「あ、ご、ごめん。海堂」
自分も思い切り水に沈んでしまい、あわてて起き上がり、溺れかけた海堂を抱き起こす。
海堂はぜいぜい言いながら
「今度から、泳げねぇ原因、お前にするぞ」と唸った。

しらじらと山の夜が明ける。
朝起きて、びしょびしょの二人をみた三好は、目を丸くする。
「お前ら、何してたんだ?」
そして、ひらめいたように高遠に近づくと、肩に手を廻して耳元で囁く。
「なんか、いやらしいこと、してた?」
「ふざけん、なっ」小声で言い返しながら、その頬を思いっきり引っ張って顔をはがす。
その一見ベタベタした様子に義隆が(やっぱり、なんかありそうだよね)と目を細める。
海堂が、起きてきたトラノスケに餌をやるために見ていなかったのは幸い。
「海堂っ」高遠の呼びかけに振り向く海堂。「濡れついでだから、朝飯食ったら泳ごうぜ」教えてやるぜと優しく目で誘う高遠に、海堂は「んっ」と極上の笑みで応える。

海堂の水嫌いも今年で終わりの予感。


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