《年末》


「今年も残すところ後わずかだな」
高遠が、空を見上げながら言った。
トラノスケの散歩の途中。いつもの空き地で、ブロックに並んで腰を掛けている高遠と海堂。この半年ですっかり成犬になったトラノスケは、小さいながらも日本犬らしい体型になった。四肢をふんばり、巻き尾を立てて、降り積もった枯葉の山の中に鼻づらを入れている。
その様子に目を細めていた海堂は、高遠の言葉にも
「あぁ」
と適当な返事をしただけだったが、はっと気づいて腰を浮かすと
「ひょっとして明日二十八日か?」
大きな目を見開いて、高遠を見上げた。
「そうだけど?」
高遠の応えに海堂はがっくりと座り直して、自分の膝の上で頬杖をついた。
「明日、うちの親たち帰ってくるよ」
「ああ、そうだったな」
「高遠との愛欲に溺れる日々ももうおしまいだな」
わざとらしく寂しげに言う海堂に
「って、人が聞いたら誤解するようなこと言うなっ!」
高遠が赤くなって叫ぶ。
「誰が、聞いてるって言うんだよ」
海堂は頬杖のまま唇を尖らす。
(海堂……こいつ、俺があれから泊まらなかったこと、根に持ってんな)
クリスマスパーティーの夜、初エッチしてから、期間限定一人暮らしの海堂はしつこく高遠に泊まっていくようすすめたが、高遠は
『無断外泊したから、年内いっぱい外泊禁止』
という、海堂をして
『てめえ、今時、どこの箱入りだぁっ』
と怒らしめた理由で、断り続けている。
それでも誘われるまま、その後も肌を重ねたのだが、高遠は正直とまどっていた。
海堂とのセックスが嫌なわけではない。いや、むしろ良すぎて、何もかもわからなくなりそうだから怖いのだ。このまま溺れるように続けてしまうと、自分が好きなのが海堂なのか、それともこの行為自体が好きなのかすら、分からなくなりそうな不安がある。
たぶん海堂には言ってもわからないだろう。海堂はいつもシンプルだ。
『好きだからヤリたい』
なんの迷いもなくそう言える海堂が、高遠はうらやましかった。
天真爛漫で熱情家で、とことん真っ直ぐな可愛い恋人の顔を眩しそうに見つめると、高遠は気づかれないように小さく溜息をついた。
「大晦日どうする?」
突然海堂が話題を変えて大きな瞳で見上げてくる。
「大晦日?」
おもわず、オウム返しに応えると
「十二時ちょうどに、初詣行かねえ?」
「ああ、そうだな」
高遠と海堂の住む街からの中間地点、それぞれ自転車で十分ほどのところに、地元でも有名な神社がある。大晦日の夜から三ヶ日にかけては、左右に並ぶ出店も賑々しく連なって、ちょっとしたお祭りよりも盛大だ。いつか高遠がその話をしたとき、転校してきた海堂は、行ってみたいと目を輝かせた。
「じゃ、紅白終わったら迎えにいくよ」
と、微笑む高遠に、海堂は嬉しそうにうなずいた。



「ただいまあ。ああ、成田って遠いわぁ。疲れちゃった」
海堂の母親麻里絵が玄関で靴を脱ぎながら海堂を呼ぶ。
「お帰り、おそかったな」
海堂は迎えに出て、母親の後ろの意外な人物を見て、驚いた。
「礼紋、どうしたんだ?」
「ひさしぶり、龍之介。どうしたはご挨拶だね」
麻里絵の弟の、中臣礼紋(なかおみれいもん)。外国の血の作り出す彫の深い整った美貌とモデル並のスタイルで人目を惹く美丈夫だ。
「親父は?」
海堂がきょろきょろすると、麻里絵が
「パパは会社に寄ってきているわ。出張の途中でグランマのお葬式に出てもらったでしょ。色々やることがあるって」
(それで、礼紋がついて来たのか)と、海堂は納得した。
麻里絵の五歳年下の弟礼紋は、海堂の父龍明を嫌っていて、龍明が居るときはあまり家に顔を見せない。
礼紋はトランクを二つ軽々と抱えると、自分の家のように奥に運んでいった。
「この家に来るのは初めてだけど、なかなか良い感じじゃないの」
リビングに入ると、ソファーに腰をおろして長い脚を組んで
「龍之介、お茶入れて」と微笑んだ。
「自分で入れろよ」
海堂はそっけない。
「冷たいな。一年ぶりの再会なのに。叔父様、泣いちゃうよ」
自分で言うところの『叔父様』が全く似合わない顔で甘えた声を出す。
「ちっ、しかたねえな」
海堂は眉間にしわを寄せながら台所に向かった。


「龍之介、何か感じがかわったね」
海堂の入れてくれた紅茶を受け取りながら、礼紋は海堂を見つめた。
(前は、こんなにあっさりとお茶なんか入れてくれなかったよね)
何となく、海堂から伝わる雰囲気が以前に比べて柔らかくなっている。紅茶のカップを差し出したときの伏せた睫毛には色気さえ感じた。
「なんだよ」
じろじろと見つめる礼紋のぶしつけな視線に、海堂は思い切り兇悪そうな三白眼で応える。礼紋はその頬に手を当てぐいっと上を向かせると
「そんな目をしちゃだめだよ。折角、麻里絵に似た綺麗な目をしているのに」と、微笑む。
「けっ」
海堂はその手を払う。
「ひょっとして、龍之介、ガールフレンドできた?」と紅茶を一口飲んで、からかうように礼紋が訊くと、一瞬海堂の頬が赤くなる。
「いねえよ、そんなの」
(高遠はガールじゃねえからな)
とか内心思っていたら、麻里絵がリビングに入ってきながらニコニコと言った。
「龍之介の相手はガールフレンドじゃなくって、ボーイフレンドよねぇ」
「麻里絵っ」
海堂が真っ赤になって睨みつける。
礼紋は、カップに唇をつけたまま、『はとが豆鉄砲』の顔になって固まった。
「そうなの?」
「うるせえよ」
不機嫌そうにその場を立ち去ろうとする海堂。礼紋はその腕をつかんで引き止めると、
「どんな子?」
と、興味深げに訊いた。
無視する海堂に代わって麻里絵が応えた。
「すっごい素敵な子よ。男らしくてね、真面目で優しそうで、すこし龍明さんの若い頃に似てるかも。ふふふっ」
礼紋の顔が一瞬不機嫌そうに翳った。
(あいつに似ている?)
「似てねえよ」
海堂は礼紋の手を振り切って、自分の部屋に帰っていった。



礼紋はシスコンである。恵まれたルックスを誇りながら、この歳まで独身の理由はそれだ。
初恋の相手が実の姉で、生まれて初めての失恋もその麻里絵が相手だった。ちなみに礼紋、七歳のとき。
麻里絵のほうは、五歳も年下の実弟の求愛を本気にするはずが無かったが、その後もハイスクール時代からボーイフレンドを家に連れてくるたびに、礼紋が嫌がらせをするのにはほとほと困った。海堂龍明と知り合った麻里絵が、結婚したいと家族に切り出したときは両親よりも弟礼紋の反対が強くて、一時は諦めそうになったものだ。
龍明の力強い行動で最後はハッピーウェディングをむかえることができたのだが、それ以来礼紋と龍明の仲は悪いまま。
(龍之介のボーイフレンドが海堂龍明に似てるっていうのは、穏やかじゃないな)と礼紋は眉間にしわをよせる。甥っ子の相手が男だというほうが、穏やかじゃないと思うが、そんなことはどうでもいいらしい。
(いっぺん見てやらないと気がすまない)
「ねえ、龍之介」
礼紋がノックもせずに海堂の部屋に入ると、出かけるつもりの海堂が偶然着替えているところだった。
「うわっ、いきなり開けんなよっ」
何故か異常に驚いた海堂に、礼紋は苦笑して
「なんだよ、男同士で」と、言いかけたが、ふと言葉を失った。
慌ててシャツを着込んだ海堂の胸元に、赤い印が見えた。
礼紋の記憶が二十年以上も前に遡る。
(麻里絵……)
ボーイフレンドとハイスクールのダンスパーティーに出かけた麻里絵が、首筋にキスマークをつけて帰ってきた夜。年よりもひどくマセていた礼紋はすぐにその意味を理解し、身体の中に重苦しいしこりが溜まるのを感じた。
そのときの感情がよみがえり礼紋は顔を顰めると、背中を向けて着替えている海堂に向かって言った。
「その、お友達に会ってみたいんだけど。紹介してもらえないかな」
「友達って、高遠?」
海堂が振り向く。
「高遠君っていうの」
礼紋はさも好い人そうに微笑んで
「龍之介の大切な人なら、僕にも是非紹介してよ」と、右手を差し出す。
その右手をパチンと叩いて、ぶっきらぼうに海堂は応えた。
「高遠なら、これから来るぜ。トラノスケの散歩に一緒に行くんだ」



「高遠、これ、麻里絵の弟の礼紋」
いたって素っ気無く、海堂が高遠に紹介する。
「はじめまして高遠君。中臣礼紋です。龍之介の叔父ですが、まあ、親がわりの様なもの」と、右手を差し出しながら言いさす途中で
「うそつけっ。誰が親だっ」海堂が突っ込む。
高遠は、いきなり現れた美貌の人物にただぼうっとしている。
「握手は、してもらえないのかな」
右手を差し出したままの礼紋が、唇の端を上げて笑いかける。
「あ、すみません」
ごく普通の日本人高校生高遠に、初対面でシェイクハンドをするという習慣は全く無い。緊張して右手を差し出して軽く握ると、礼紋の握力があまりに強くて驚いた。
(いてっ)
思わず相手の顔を見るが、礼紋は相変わらずにっこりと微笑んでいる。でも、気のせいか目が笑っていない。
(なんか、綺麗な人だけど、苦手かも)
高遠にしては珍しく、そういう印象を持った。

一方、礼紋のほうでもしげしげと高遠を観察している。
(確かに、背は高くて、ちょっとはカッコいい部類に入るのかもしれないが、僕に言わせれば十人並みだな)
自分の美貌に自信のある人間特有の不遜さ。
(特に、龍明に似ているって程でもないが、共通する雰囲気はあるかも)
礼紋がぶつぶつ考えていたところに、海堂麻里絵が飛んできて
「高遠君、久し振りね。留守の間もトラノスケの散歩手伝ってくれていたの?ありがとう。高遠君にもお土産買ってきたのよ、あがってあがって」
早口で話し掛けながら高遠の腕に手をまわす。
礼紋が、目を見開いてそれを見た。
「麻里絵っ、高遠はこれから俺と散歩に行くんだよっ」
海堂がその腕を振り解いてトラノスケをつれて外に出る。
高遠は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて、その後ろに続いた。
「じゃあ、散歩から戻ったらあがっていってね」
麻里絵が未練がましく背中に声を掛けるのを見ながら、礼紋は切れ長の美しい眼を細めて口の中で呟いた。
「かなり、気に入らんな」
「え?何か言った?」
振り向く麻里絵に、礼紋はこれ以上無く優しげに微笑んで
「いい感じの子だね、って」
「でしょう?」
そう嬉しそうに言ってリビングに戻る麻里絵の背中を見送って、礼紋は次第に険しい目になった。
(さて、どうやっていじめてやろう)
麻里絵によく似た可愛い龍之介の恋人という立場にあり、なお且つ麻里絵にもひどく気に入られている高遠という男。うらやましいにも程がある。
(人生そんなに甘くないということを教えてやらねば)
中臣礼紋、三十四歳。外見からは想像もつかない、屈折した子供っぽい思考の持ち主だった。


「ねえ、麻里絵。ママが里帰りついでにしばらくイギリスに残るって言うから、神奈川の家、僕一人になるんだよね。正直、お正月一人って寂しくて、しばらくここにいてもいいかな」
と、礼紋が甘えた声を出す。姉の麻里絵は驚いて
「それはかまわないけど、年末年始は龍明さんも居るのよ?」わかってるの?と念を押す。
「わかっているよ」
今は高遠にいじめの矛先が向かっているので気にならない。
ゲストルームをあてがってもらった礼紋は、ベッドに寝そべるとノートを取り出して、早速シナリオを考える。といっても、礼紋の仕事が脚本家とか言うのではない。ちなみに仕事はIT関連だ。ここでいうシナリオとは、ずばり『高遠いじめ』の計画。
「やっぱり、相手は十七歳のガキなんだから、変にまわりくどくするよりも正攻法でいじめた方がいいね」
ボールペンを指先で廻しながら独り言。
(となるとずばり、別れさす!)
礼紋の唇がゆがむ。
「大体男同士なんだから、この関係は、多少は後ろめたいに違いない」
何事かノートに一生懸命書き綴ると、思い出したように呟いた。
「そうだ。この計画の作戦名を決めねば」

『背徳の十字架』男同士の恋愛の後ろめたさを表してみました。
(耽美すぎかな。これだけじゃ意味わかんないし)

『背徳の十字架は重すぎて』
(ちょっと昼メロっぽくなってきたぞ。安っぽいか。かなり)

『背徳の十字架を背負いて、そのあまり重きに泣きて三歩あゆまず』
(これだ!!)

石川啄木テイストをいれ格調高くなったぞ。この『三歩』は、奴らの犬の『散歩』と掛け詞にしてもいいな。ふふふ、と満足げにうなずく礼紋。いや格調高くは無いだろう。ホモの十字架と母を一緒にされたら啄木も泣くというものだ。
ともかくそのノートの表紙に、恥ずかしげも無く大きく記入した。
そうこうしている内に、トラノスケの散歩から二人が帰ってきた。


「高遠君にもね。セーター買ってきたのよ。龍之介と色違いなの」
麻里絵はハロッズの包装紙にリボンを付けた箱を差し出して、開けてみてと目で語る。
紅茶の香りが拡がるリビング。
「そんな」
高遠は躊躇するが、麻里絵は
「遅くなったけど、クリスマスプレゼントも兼ねているんだから、ほら早く」と、せかす。
その隣では海堂が自分の包みをベリベリと破って、早速取り出している。なかから出てきたのはクリーム色のセーター。ざっくりとした風合いが手編みらしい。スコットランド伝統の複雑な編込みがなされている。
「サンキュー麻里絵」
それを大きく広げて、笑う海堂。
「ほら、高遠君も開けて」
「あ、はい」
と、丁寧に包装紙をはがして箱を開けると、海堂と色違いのブルーグリーンのセーターが出てきた。
「へえ、いいじゃん。海の色だ。高遠に似合うよ」
海堂は、嬉しそうに覗き込む。
「高遠君大きいから、一番大きなサイズにしたんだけど、どうかしら」
「ありがとうございます。でも、本当にいただいていいのか」
まだ困った顔をしている高遠に、麻里絵が何か言おうとすると、それを遮って海堂が先に、はしゃいで言った。
「いいんだよ。麻里絵は高遠が好きで買ってきたんだから、でも、俺とペアなんて気がきくぜ。麻里絵っ」
「……ペアじゃないわよ」
麻里絵が意味深な目で息子を見る。
「え?」
海堂が、意味がわからす見つめ返すと、その目の先に
「じゃーん。ママもお揃いで買ってまぁす」
ブルーグリーンのレディス用のセーターが広げられた。
「あっ、てめえ、ばばあっ!何で高遠とおんなじ色なんだよっ」
「だっていい色じゃない」
麻里絵はけらけらと笑う。
「じゃあ、俺もその色にしろよっ」
「龍之介は小さいから、そういう色のほうが似合うわよ」
「小さいはよけいだっ」
いつものように麻里絵にくってかかる海堂。
高遠は困ったように二人の様子を見つめている。
そんなやり取りをひとり剣呑な顔になって見ている礼紋。飲みかけていた紅茶のカップをそっと高遠のほうに近づけると、おもむろに倒した。
「あっ、ごめん」
「え?
」突然の出来事に何が起きたかわからなかった高遠だが、次の瞬間自分の膝に紅茶がこぼれている事に気づく。
「やだ、礼紋、何やってるの」
慌ててタオルを取りに行く麻里絵。
海堂はテーブルの上の物を避難させる。
「悪かったね。しみになるから、洗面所に早く」
礼紋が高遠の腕をつかんで引き立てる。
「いえ、大丈夫ですから」と、高遠が言うのに、有無を言わせぬ勢いでずんずん引っ張っていく。


風呂場につながる洗面所に高遠を押し込むと、礼紋は後ろ手でかちゃりと鍵をかけた。
「やっと、二人っきりになれたね」
礼紋が整った美貌で妖しく笑う。
(いっ?)
高遠、一瞬変な想像をして焦る。
「そんな顔しないでよ。別に君を襲おうとか思ってないから。第一、君は僕の趣味では無いからね。まったく」最後の『まったく』に力を込めて吐き捨てるように言う。
「単刀直入に言うよ。高遠君。今後、うちの龍之介には近づかないで貰いたい」
ほんとに単刀直入だ。別れさすとは、こういうことか。
「意味が、わかりませんが」
「わからない?日本語だよ。それとも、今思わず英語で言ってしまったか?」
綺麗な瞳の上の眉が不審げに寄る。
「……いえ、日本語でしたが。あの、近づくなってどういう意味ですか?」
高遠が静かに訊ねると、礼紋は顔を近づけて小さい声で囁く。
「言葉通りだよ。あのね。僕は見てしまったんだよ。龍之介の胸についたキスマークをね」
高遠の顔が真っ赤になった。礼紋はそれを憎々しげに見ると続けて
「やっぱり君なんだね。イヤラシイなぁ最近の高校生は。龍之介は大切な一人息子でね。言っただろ、僕は親代わりだって。大事な息子が、彼女をつくってくるならまだしも、男の恋人にキスマークつけられていちゃ」
「やめてください」
火のついたように赤くなって、高遠が耐え切れず遮る。
「やめてくれっていうのは、こっちの台詞」と、冷たい目で礼紋が返す。
「ねえ、高遠君。叔父の僕でさえ許せないんだよ。龍之介の父親が知ったらどう思うかな」
はっとして、高遠が顔を上げる。
「麻里絵はあんな調子だけど、龍之介の親父ってのが、ほんっとやなヤツでね。もう、どれくらい嫌なやつかって言うと……ま、それは今はどうでもいい。とにかく、君達のこと知ったら、ただじゃ置かないよね」
赤くなっていた高遠の顔から、次第に血の気が引いていく。

(海堂のお父さんに話す?)
礼紋はその高遠の顔を見てニヤリと笑うと駄目押しの言葉を繋ぐ。
「龍之介が高校転校した理由、聞いてる?まあ、本当の事なんて言ってないだろうけど、実は前にもこういう事があって、無理やり別れさせるのに転校させたんだよね。あの石頭の親父が」
高遠の目が見開かれる。
「うそ、だ」
小さく呟く声は掠れて聞こえないほど。
「嘘を言ってどうするよ。僕に何の得があるの」
(ありありだけどね)
内心ほくそえむ礼紋。
高遠は真っ白な顔で唇を噛んだまま、動けなくなっている。
「とにかく、龍之介にはもう会わないこと。電話もだめだよ。ちょっとでも近づいたら、龍明に、龍之介の親父に言うよ」
「……海堂と、一度話をさせてください」
俯いたまま呟く高遠に、礼紋は厳しい口調で突っぱねる。
「ダメ!今ここでした会話もだれにも言ってはダメ。龍之介のこと好きなら、ちょっとは考えろよ。あいつと話してどうなるんだ?」
「…………」
「龍之介はね。後十年もすればむちゃくちゃカッコいい男になる。僕のようにね。君では釣り合わない」
礼紋の言葉を、高遠はぼうっと頭の中で繰り返す。
(釣り合うとか、釣り合わないとか、そんなこと考えたことも無かった)


「おい、高遠、大丈夫か?いつまでかかってんだよ」海堂が洗面所のノブを廻す。
礼紋が慌ててドアを開いて、
「ああ、なんかやっぱり取れなかったみたい。高遠君、帰って着替えるって」
「そうなのか高遠?」
海堂は高遠の顔を見て、驚いて近寄る。
「どうした?顔色悪いぞ」
「あ、ああ、大丈夫」
無理に笑いかけようとするが、隣から突き刺さる礼紋の視線に顔がこわばる。
「具合悪いのか?」
海堂が心配そうに見上げる。
「そうらしいから、今日はもう帰ったほうがいいね」
礼紋が高遠の背を押すように洗面所から連れ出した。


結局あの後、礼紋に追い立てられるように海堂宅を出た高遠は、今、自分の部屋のベッドに寄りかかって宙を見つめている。
『とにかく、龍之介にはもう会わないこと。電話もだめ。ちょっとでも近づいたら、龍明に、龍之介の親父に言うよ』
礼紋の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
帰りしな玄関を出るときにも、海堂にわからないように念押しされた。
『明日から、散歩にも来られないって、後で僕が言っておくからね』
(海堂……)
礼紋が一体どう言っておくのか分からないが、夏からほとんど毎日のように続いているトラノスケの散歩に突然行かなくなったら、海堂は心配するだろう。いや、怒るというのが正しいかもしれない。やはり、明日行って直接海堂に話すべきだろう。
(でも、本当に海堂のお父さんに俺たちのこと知らされたら……)
高遠は礼紋の想像以上に小心者で、繊細な心の持ち主だ。
(うちの親にも知られたくないけど、海堂のお父さんなんて)
仕事で日本と海外を飛びまわっているとかで、高遠は半年以上も海堂の家に通っていながら、海堂父には一度も会ったことがない、それだけに恐ろしい。
『龍之介が高校転校した理由、聞いてる?―――無理やり別れさせるのに転校させたんだよね。あの石頭の親父が』
礼紋の声がまた聞こえてくる。
(海堂が、転校してしまう?)
「それは、絶対に嫌だ」と、思わず呟く。
海堂との関係を知られるのも嫌といえば嫌だが、それ以上に、海堂が自分の傍から居なくなってしまうということを考えると、泣きたくなるほど嫌だった。
ついでに考えると、自分と付き合う前に海堂にそんな相手がいたということも初耳で、高遠は、深く暗く落ち込んでいる。



そのころ、海堂の家では礼紋がさっそく行動を開始。
「あのね、龍之介。高遠君だけど、明日からしばらく来られないって言ってたよ」
「は?」
意味がわからず怪訝な顔の龍之介。
「しばらく来れねえって何だよ」
「だから、家にね。明日から龍明がいるだろ?何か、顔を合わせるのが気まずいらしくって」
と、先般作った『三歩あゆまず』計画のシナリオ通りに話しをすすめる。
「そんなこと、何で礼紋が知ってんだよ」
海堂、得意の兇悪面で睨みあげる。
「えっ、いやあ、さっきね、洗面所で聞いて」
その目にビビりながらも頑張って応えると
「高遠がいきなりそんなこと初対面のお前に言うか」
と、ばっさり切り捨てられた。
「う」
礼紋、アドリブには弱かった。
(シナリオでは、ここで龍之介がぐっと詰まって、かつ龍明を恨むという場面なのだが)
しかし、頭の中でシナリオを修正。
「でも、本当に打ち明けてくれたんだよ。誰かに言いたかったのかもね……」と睫毛を伏せて、意味深長な重々しい語り口に変える。
「何を?」
さすがに、海堂も気になった。
「龍之介、高遠君とヤッちゃってるでしょ」
海堂の耳元に唇をよせて囁く。いきなりの台詞に海堂も動揺した。まさか、自分がキスマークを見られていたとは思いもしないので、高遠が話したのかと見上げる目元が赤く染まる。
(よっしゃ!)礼紋、心の中でガッツポーズ。
こういうのは、相手を自分のペースに乗せた方が勝ちだ。
「でね、やっぱり男同士だし、悩むところあるらしいよ。いや、龍之介にはそんなこと、これっぽっちも言っちゃいないだろうけど」『これっぽっちも』を強調しながら、訳知り顔の礼紋。海堂の顔色を窺うと、意外に大きな反応あり。
「高遠が、そんなことを……」
海堂にしてみれば心当たりがありすぎた。クリスマスに初エッチをしてから、泊まれといっても泊まってくれず、抱けといっても、なかなかその気になってくれない高遠。
(真っ昼間だから、恥ずかしがってただけかと思ってたけど)
その通りだ。が、海堂は会話の流れでこう考えた。
(あいつ、本当は嫌だったのかも)
「ほかに何か、言ってたか?」
海堂、蜘蛛の巣にかかった蝶の如し。
「うーん」
言おうか言うまいか悩む振りをしてみせて、思い切ったように
「しばらく、距離をおいて考えたいって」
「うそっ?」
青ざめる海堂の肩に手を廻して礼紋は優しげに慰める。
「いや、べつに『まだ』別れるとか言っているんじゃないから。ちょうど学校も無くていい機会だから、しばらく会わずに色々考えたいんじゃないの」
「…………」
海堂の頭の中に、さっきの高遠の顔がよみがえる。その後さっさと帰っていったのも気になっていたのだ。
「俺、高遠のとこ、行って来る」と、駆け出しそうになる海堂の手をしっかと掴んで、礼紋が言った。
「だめだよ。彼の気持ちも考えてあげなさい」
「でも」
「僕が、何とかしてあげるから」って、何とかって何だよと、内心自分に突っ込みつつ、優しく微笑む礼紋は、良いお叔父様を演じきっていた。
(第一幕、終了だな)


その夜、海堂の父龍明が帰って来た。久し振りの家族団らんの夕食。
「なのに、何で関係無いやつが混じっているんだ」
箸を動かしながら龍明が言う。
「龍明さん」
麻里絵が小さくたしなめる。礼紋はわざとらしくニコニコと
「かまわないよ。麻里絵。だれだって、『血のつながった』家族がいいよね。……この中で、僕にとっての赤の他人は一人だけだけど」
「礼紋っ」
麻里絵が険しい目をして睨む。
海堂は珍しく大人しく食べている。それに気づいた父、龍明が
「どうしたんだ?龍之介、元気が無いな」と、聞くと
「うるせえよ」と、海堂はぶっきらぼうに席をたった。
残された龍明と麻里絵は顔を見合わせて、どうしたんだと首をかしげる。
礼紋だけが、密かにほくそえんでいた。



翌日、高遠はまだぐずぐずと悩んでいた。いつもなら、トラノスケの散歩に付き合う時間だ。でも、会いに行ったら、海堂の父親も礼紋もいる。考えているうちに、時間が過ぎる。
「どうしよう」
卓袱台で頭を抱えて悩んでいると、頭の上から声がした。
「あんたさあ、うっとうしいからでかい図体して、悶々としないでちょうだい」
「姉貴」
目線をあげると、高遠の姉ユキが、腰に手を当てて仁王立ち。
「いっ、いつからそこに居たんだよっ」
「さっきからずっとよ。襖開けたのも気がつかないで。何なの?」
「かってに開けんなよ」
高遠は、恥ずかしいのをごまかすため、むっとしてみせる。
「あんたが昨日から、変だからこっちも落ち着かないのよっ。夏休みもそうだったけど、あんたって学校が休みになったら、ウツになるとか、そうゆう病気?」
「え?」
(夏休み……)

『今度何かあったら、絶対、俺がお前のとこに行くから』

七月、泣きじゃくる海堂に約束した言葉がよみがえる。
「俺って……奴は。あーっ、もう」
いきなり高遠は立ち上がった。

海堂は怒っていた。昨日はショックで落ち込んだが、よく考えれば高遠が悪い。一方的に距離を置きたいなんて
「嫌なら嫌って言えばいいんだっ」
礼紋の言ったとおり、高遠はトラノスケの散歩の時間になっても来ない。ムカムカする気持ちを押さえきれず、家中で当り散らしている。
「龍之介。一体、今度はどうしたんだ?」と尋ねる父親に
「うっせぇーっ」と、黄金の右ストレート。
さすがに直接は狙わないが、怒りのままに振り回す拳に、海堂家、家庭内暴力の嵐。麻里絵が怒って叫ぶ。
「もうっ。いいかげんにしなさいっ!龍之介っ」

海堂は、一人でトラノスケをつれて出た。久し振りに一人で歩く散歩道。
「高遠。あいつ……」
ムカつくのと悲しいのとで思わず、泣きそうになった。
そこに、急ブレーキの音が高く響く。
「海堂っ」
自転車を飛ばしてきた高遠が、それを乗り捨てて駆けてくる。
「高遠……」
突然のことで、一瞬呆然、出そうだった涙も引っこんだ海堂。
トラノスケが嬉しそうに高遠の足にじゃれついた。
「高遠、どうしたんだ」
ひどく真面目な顔の高遠が、海堂の空いている手をとって
「お父さんに会いに行こう」
と、ずんずん歩き出した。
「えっ?」
右手にトラノスケのリードを持って、左手を高遠の手に握られて、自分の家に引っ張って行かれる海堂。高遠の手のひらが熱い。唇を固くむすんだ高遠の横顔を見て、心臓がドキドキ高鳴ってきた。
(親父にって、高遠……)

海堂家のリビング。異様な緊張感が漂う。
ソファーに座る海堂の両親の正面で、高遠が膝の上に拳を握り締めてガチガチに固まっている。その隣には、柄にも無く大人しく小さく座っている海堂。顔が赤い。
海堂の父龍明は、ゴクリと唾を飲み込んで、息子の友人の言葉を待つ。
しばらくの静寂。
高遠は、口を開こうとするが、喉がひきつったように動かない。
(言わないと、ちゃんと)と、思えば思うほど緊張で声が出ない。額に脂汗も滲む。大きく息を吸うとぎゅっと目をつぶって、口を開こうとした
「あの……」
「息子さんを僕にください」
なあんちゃって、と言って、海堂の母麻里絵が笑った。
緊張の糸がぶっつり切れて、高遠と海堂がソファーに沈んだ。
「麻里絵」
同じくソファーに沈みかけた龍明がたしなめる。
「ごめんなさい。何だかそんな雰囲気だったから」
まだ、クスクス笑う麻里絵に、龍明もちょっと笑って
「高遠君だよね。麻里絵から話は聞いているよ」
と、先に話し掛けた。
はっとして顔をあげた高遠が、背筋を伸ばして慌てて言う。
「あのっ、海堂を転校させないで下さい」
「転校?」
海堂ファミリーの目が一様に点になった。
リビングの入り口からひそかに覗いていた礼紋が、そおっと部屋に戻っていく。
「転校って、どういうことだよ」
当の本人の海堂が、不思議そうに高遠を見上げる。
高遠は赤くなりながら、たどたどしく、礼紋から聞いたことを話す。もちろんキスマークの話は省略。
聞いているうちに海堂の眉が顰められ、目が険悪になっていった。
がばっと立ち上がると
「礼紋―っ」
ゲストルームに走って行く。
「礼紋っ。てめえっ、何、嘘ばっか言ってやがるっ」
海堂はドアを蹴破るばかりに飛び込んで、ベッドのすみに逃げ込んでいた礼紋に殴りかかる。
「やっ、やめろ、龍之介」
布団をかぶって逃げる礼紋を押さえ込むと、海堂は上から首を締める。
「くる、し、やっやめ……」
苦しくてじたばたする礼紋の足が枕を蹴って、その下に隠していたらしいノートがバサッと落ちた。

『背徳の十字架を背負いて、そのあまり重きに泣きて三歩あゆまず』

へたくそな字の書かれたノートを見て、海堂が手を伸ばす。
「あっ、それはっ」
慌てる礼紋の前で、海堂はそれを開いて読んだ。
海堂の顔が、最高に兇悪になる。久し振りのブラック海堂の出現。
礼紋、絶体絶命。
海堂が礼紋をボコボコにしているところに、龍明と麻里絵も入ってきたが、誰も止めようとはしなかった。
龍明は落ちていたノートを読んで、溜息をつく。隣に立つ麻里絵に向かって
「お前の弟は二十年前から、まったく変わらないな」
「実はもっと前からだけどね」
麻里絵は申し訳なさそうに下を向いて額に手を当てた。




「私は、息子を信じているし、君のことも麻里絵から聞いて、信用しているよ」
海堂の父にそう言われて、高遠は恐縮した。
「これからも、息子をよろしく頼むね」
よろしくに、どれだけの意味があるのかわからないが(たぶん深い意味は無いのだろうが)高遠にとっては昨日からの悩みが晴れる嬉しい言葉だった。
来るとき夢中で、思わず自転車を乗り捨ててきたので、海堂と取りに行くことにした。
薄暗くなった道を歩きながら、海堂が高遠の手を握る。
高遠が、頭一つ低いところにある海堂の顔を見返す。
二人の顔が赤いのは、十二月の北風のせいではない。
「高遠が、親父に会うっていうから、何かと思った」
ぽつりと海堂が言う。
「麻里絵さんが言ったようなこと、期待した?」
高遠が小さく尋ねる。
「少し」
うつむいて恥ずかしそうにする海堂に、高遠は微笑んで、
「ごめん。まだ、そんな勇気ねぇ」
そう言って、握った手にぎゅっと力をこめた。
海堂は、その暖かさが嬉しくて、自分も強く握り返すとその手をブンブン振って
「そのうち、俺が、高遠んちのお父さんに言いに行ってやるよ」
と笑った。
「うっ、それは、ちょっと」
高遠の顔が引きつる。
「なんでだよ。うちはもう、親公認だぞ」
海堂が可愛く唇を尖らせる。
(いや、たぶん、海堂のお父さんもそこまでは言ってない)
高遠は苦笑いしつつ、立ち止まって、海堂の尖らせた唇にそっとキスした。
軽く重ねただけで、唇を離すと高遠は爽やかに笑う。
「お父さんの信頼を裏切れないから、ここまでなっ」
「えーっ」
海堂は不満げ。
(うーん。やっぱりこいつ……)
海堂の胸の中に『高遠エッチ嫌い疑惑』が再び湧いてきた。
ちょっとうらめしげに見上げるが、高遠の笑顔があんまり優しいので、それでもいいやという気になった。
(そのうち、俺が変えてやるぜ)
海堂は不敵に笑って、つないだ手を胸に抱き寄せると身体をすり寄せる。
「歩きにくいよ。海堂」
「だって、寒いんだもん」
自転車を取りにいったはずが、いつの間にか、いつもの散歩コースを歩いている。
気づかずに二人は、いつまでも寄り添って歩く。

そのころ海堂家では、礼紋がボコボコに殴られた顔を冷やしながら、自分の家に帰る準備をしていた。
「帰るの?」
麻里絵が覗きに来た。
「計画が挫折した今、龍明がいる家なんて居たくないからね。でも、これからはアイツがいない時には寄らせてもらうよ」
スーツケースに荷物を詰めながら、愛する姉にニッコリ笑いかける。
「いいけど。でももう、龍之介と高遠君にちょっかい出すんじゃないわよ」
麻里絵は、腕組みして入り口にもたれて立つと、睨みをきかせて言った。
礼紋は、心外だと言うように大袈裟に目を見開くと
「何言ってるの、麻里絵。僕は今ではあの二人を心から応援しているよ。できれば結婚させてやりたいくらいだ」
政治家になって法律を変えてやろうかとうそぶく。
「何よ。急にそんなこと言うの、変よ。どうしたの」
不審げに眉を顰める麻里絵。
「だって、さっき二人を見送った後の龍明の顔。麻里絵は見なかった?ものわかり良さそうにしてたけど、相当、胸中複雑って感じだったよ」
目の中にちらりと意地悪そうな光を宿して
「だから、あの二人がくっついた方が龍明にはダメージが大きいんじゃない」
礼紋は青痣があっても美しい顔でこれ以上なく鮮やかに微笑んだ。
「あんたって……」
呆れた麻里絵は目眩をこらえつつ部屋を出て行く。

高遠と海堂は、強力な協力者を得た。―――といえるか(?!)




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