《試験前》


月曜の朝。

海堂は右腕を振り回しながら、元気よく自宅の玄関から飛び出してきた。
「おはよっ。高遠」
「おはよう。ギブス取れたんだな」
海堂家の玄関脇のスペースにいつものように自転車を止めて、カギを掛けながら高遠が笑いかける。
「ああ、長かったけど、ようやくはずれたぜ」
嬉しそうに右手を差し出して見せた後、海堂はふと真面目な顔になって高遠を見上げると
「でも、明日からも俺たち一緒に学校行くんだよな」と、訊いた。

海堂が修学旅行で骨折して以来、毎日一緒に登下校している二人。海堂にしてみれば、ギブスが取れたのは嬉しいが、それで明日から高遠の迎えがないというのは寂しいところ。
高遠は、海堂の髪をくしゃっと撫でながら、
「海堂がよければね」
海堂に悪かろうはずがない。へへっと笑って高遠の腕に両手を廻してしがみついた。
「う、海堂、重い、んだけど?」
高遠が、自分の右腕にかかる異様な重さに一瞬たじろぐ。
「あ、これ?」
海堂が、学生服の袖をシャツごと捲り上げるとお馴染みのアームバンドが出てきた。それも両腕。海堂は無邪気に笑って言った。
「折角左腕に馴染んできたから、この際右腕もやって、鍛えようかなって」
「そんなら、俺に体重を預けるのはよせ」
わざとウンザリしてみせた高遠の言葉に、海堂はちょっと小首をかしげて考える。
あっさり両手のアームバンドをはずすと、自宅のポストに押し込んだ。
「はずしたから、からだ預けてもいい?」
嬉しそうに、再度両腕でしがみつく。ずっと片腕だったから、ギブスがはずれたら真っ先にやりたいと思っていた。
「歩きづらいからダメ」という高遠の言葉は耳に入らないふり。



学校に着いたら、三好が海堂の腕を見て喜んでくれた。
「おっ、ギブスはずれたんだな。よかったな」
「サンキュー」
海堂ニコニコ顔。今日の海堂は、ご機嫌のホワイトエンジェル海堂。
「試験に間に合ってよかったな」と、三好が言葉を続けると
「え?」
可愛らしく笑った顔のまま、海堂の顔がこわばった。
「忘れてたのか?」
三好が無慈悲な視線を送る。
「試験って?」
そろそろと高遠の顔を見上げる海堂。ホワイトからブラック海堂に次第に表情が変わっていく。
「本番の期末試験は再来週からだって。でも、今週から小テストがあるって、言ってたろ」
高遠も少し困ったような呆れ顔。
「聞いてねえ!」
拳を握り締めて言い張る海堂に、三好も高遠もため息をつく。
「寝てたんだろ?お前」



金曜日。全教科の小テストの結果が返ってきた。
海堂の解答用紙を見つめて、呆然とする三人。
「海堂。お前、どうしたんだ?」
高遠が海堂の顔を覗き込む。
試験では、三好はいつも上位クラスだが、高遠も中の上程度の位置はキープしている。二学期の期末試験では、海堂と高遠の成績はそれほど差が無かったはずだが、今回の小テストでは、海堂は見るも無残な結果をもらっている。
「…………」
高遠の呼びかけに何も応えられない海堂に代わって三好が口を開く。
「つまり、こうだ。もともと勉強嫌いの海堂が、右手を骨折してノートもとらないでいいという大義名分を得て、まったく授業に参加していなかった」
うんうん、と高遠と海堂がうなずく。
「で、参加してないから、わからない。わからないから、参加しないという悪循環から、学力急低下。これはもう偏差値のデフレスパイラル現象だ」
「ひとの頭を日本経済と一緒にすんな」
キッと三好を睨みつける海堂。
「でも、ここで脳内の構造改革を断行しとかないと、日本の将来と同じくらい、お前の将来暗いぞ」
「抵抗勢力は俺自身。ってか」
海堂、頭を抱える。
(こういう会話は出来るのに、どうして試験はこんなに悪いのか)
高遠は不思議だった。
「とにかく、期末試験は赤点とると冬休みに補習があるから、ちょっと勉強したほうがいいな」という高遠の呟きに、さすがの海堂も腹をくくることにした。
これから、クリスマスという楽しい時期に補習なんかやっていられない。
「よし、早速今日から勉強するぜ。俺は」


「家帰ると、トラノスケがいて勉強にならねぇんだよ」
勉強嫌いの海堂。集中力も無いので、嫌なことを始めるとすぐに逃避してトラノスケをかまい始める。そこで放課後、図書室で居残り勉強しようということになった。
試験が近いからか意外に人の多い図書室で、適当に空いている場所を見つけて海堂と高遠が席についた。
「なんか、図書室来るのって初めてかも」
海堂、きょろきょろとあたりを見回す。
「俺も」
「今回、高遠、小テスト良かったよな」
「ああ」
実は海堂のために一生懸命ノートをとってやったのが良かったのか、高遠のテスト結果は二学期に比べかなりよかった。
「俺のおかげだよな」と、鉛筆を握り締めて、にこっと笑う海堂。
「たぶんそうだけど。お前が笑っている場合じゃねぇぞ」
数学の問題集を開きながら高遠が心配そうに眉を寄せる。
「わかってるって」
海堂が下唇をちょっと突き出して応える。
そんなやり取りをしているところに、一年生の集団が通りかかった。
「あ、高遠先輩」
その中の一人に富士万太郎がいた。
海堂の眉がぴくんとあがる。
万太郎は気にせず、海堂と反対側の高遠の隣が空いていたので、そこに席をとって嬉しそうに話し掛ける。
「期末試験の勉強ですか?」
「あ、うん。万太郎くんも?」
「はい。あ、そうだ」
高遠の開いている数学の問題集を見て、
「僕も、数学でわからないところがあって。あの、良かったら、教えていただけませんか?」
つぶらな瞳で頬を染めて訊く万太郎。
「え?」
高遠は突然の申し出にうろたえる。海堂がすかさず断った。
「俺たちも自分の勉強があんだよ」
万太郎は高遠ごしに海堂のほうを見て言い返す。
「海堂先輩に頼んでません」
「高遠だって勉強しねぇといけねえんだよ」
やはり高遠ごしに身を乗り出して、海堂が剣呑な顔をする。
高遠は左右から繰り出されるバトルに挟まれて動けず。
「ひとに教えると、より理解が進むからいいと思います」
くっきりした眉をつり上げる万太郎。海堂も柳眉を跳ね上げて
「教えてもらう分際がエラソーに何言ってやがるっ」
「じゃ、教えてもらっていいんですね」
「だーっ」
「そこっ、図書室で騒がないっ」
図書室司書の先生から厳重注意を受け、周りからの白い視線を浴び、やむなく図書室を後にする。というより、海堂は万太郎から高遠を引き離したいため、腕を取ってぐいぐいと引っ張り外に連れ出した。
「やっぱ、図書室なんかじゃ勉強できねえ」
海堂が頬をふくらませ、口を尖らせる。
学校の図書室がだめなら一体どこがあると言うのか。
「じゃ、俺んちでやるか」
高遠が頭をかきながらボソッと言う。
「え?」
海堂が驚いて目を見開く。
(高遠の家で?やる?)
「ま、今日は遅いから明日からな」
「うん」と、海堂は瞳を輝かせた。
海堂、さっきまでの不機嫌は何処へやら、ついゆるむ頬を抑えきれず、両手で頬を包む。
(言っとくが『やる』ってのは試験勉強だぞ、龍之介。やらしいこと考えんなよっ、俺)と自分で自分を諌めつつもどうにも笑いがこみ上げてしかたない海堂。それを高遠に気づかれないように、うつむいてぎゅっと顔を押さえると声を震わせ呟いた。
「俺、勉強、がんばるから……」
「海堂……」
突然、殊勝になった(ように高遠には見えた)海堂に驚いて、高遠は海堂の背に手を廻すと優しく励ます。
「大丈夫だよ。試験までまだ時間あるし。やれば出来るさ」
「うん」
喜びに肩を震わす海堂の内心を全くわからず、そっと背中を撫でる高遠はとことんお人好しだった。



* * *

高遠の家は、海堂の家が最近はやりのツーバイフォー住宅であるのに比べると純日本風の造りで、二階にある高遠の部屋は十畳もある和室だった。窓側にはごくシンプルなパイプベッドがあり、その隣にクローゼットと本棚が並んでいる。勉強机は無い。その代わり直径150cmもありそうな巨大な円形の卓袱台が部屋の真ん中で存在を誇示している。その上には雑誌やCDが積み上げられているが、几帳面な高遠がきちんと整理して置いているので、乱雑な印象は全く無い。
高遠は卓袱台の上の物をおろして、部屋の隅に片付けると海堂に座るよう促した。
「でけぇテーブルだな。高遠ここで勉強してんのか」
海堂はぺたんと座布団に座って、卓袱台にひじをついた。
「うち兄弟三人だろ。三人並んで勉強できるようにって、俺が小学校のときにコレになったんだよ」
「兄ちゃんと姉ちゃんがいるんだよな。いいなぁ」
一人っ子の海堂は兄弟というものに憧れを持っている。
「そんないいもんじゃねぇぞ」
と言いつつも、高遠はこの卓袱台で兄弟三人並んで勉強していたころを思い出して口許を緩めた。三つずつ歳の離れた兄と姉だったから、両親の思惑通りそれぞれ下に教えてやっていたが、受験が重なったときは大変だった。
(三人だと狭かったんだけど、一人抜け、二人抜け、で、広くなっちまったな)
高遠の兄は去年大学を卒業して、今は就職した保険会社の九州支店に配属されている。営業職員のサポートをする業務企画部というセクションだがいわゆる雑用で、毎日忙しいらしくほとんど連絡も無い。姉のほうは短大の二年生。地元の信用金庫に内定がでていて、最後の短大生活を、バイトに遊びにフルに楽しんでいるところ。
「高遠?」
黙ってしまった高遠を不思議そうに海堂が見上げるので、高遠ははっとして軽く頭を振って微笑むと参考書と問題集を積み上げた。
「さ、海堂。何からやろうか」
「うーん。何でもいいんだけど」
卓袱台に頭を乗せて、くたっとした海堂の隣に座って、高遠は背筋を伸ばすと
「じゃ、数学かなやっぱり」と、問題集を開く。


海堂は頬杖をついて、問題を解く振りをしながら横目で高遠の横顔に見惚れる。
すこし伏し目がちにした瞼から伸びる意外に長い睫毛。頬や顎の線は、すでに少年らしさを卒業して男のそれになっている。鼻梁から唇まで、自分には無い精悍な男の色気。
(もうだめ)
海堂、一問も解けず。
「どうした?」
高遠が顔を上げて海堂を見て、問題集を覗き込む。
「げっ、一問もやってねぇ」
真っ白なページに高遠が顔をしかめた。
「わかんねぇんだもん」
ホントは違う理由だけど、甘えた声を出してみる。
「何でだよ。これなら、俺にだってわかるぜ」
「じゃ、教えて」
「だから、ここに書いてあるX=(7x−y)の2乗ってのは……」
高遠が海堂の問題集を押さえて、右手に持ったシャープペンシルでグリグリ書き込む。
海堂は問題集に添えられた高遠の左手を両手で包んで引き寄せる。
「なに?」
高遠が怪訝な顔をする。
「続けろよ。ちゃんと聞いてるから」
海堂は問題集の上の、高遠が握ったシャープペンシルの先を見つめながら言う。
高遠の左手をしっかり握り締めて。
「え、と、だからこの数式をここに代入して」と教える高遠の顔に血が上る。
海堂が高遠の左指を一本一本確かめるように撫でまわしているのが気になって仕方ない。
「うん」
高遠の説明に頷きながら、海堂は高遠の爪の形をゆっくり指先でなぞる。
「ただしxはゼロ以上の整数なんだから……」
左手を持っていかれたまま懸命に数学を解く高遠。指を弄ばれているというのに、無理に何でもないようにストイックに振舞うその様子が逆に海堂を刺激する。横顔をチラッと見上げて海堂は、高遠の指に唇を近づけると、人差し指を甘く噛んだ。
「はうわっ」
高遠が素っ頓狂な声を出し、あわてて左手を引いて、卓袱台から仰け反った。
「変な声だすなよ」と、海堂も驚いたような声で言う。
「お前こそ変なことすんなよ。セクハラ親父みたいな真似すんなっ」
畳に両肘をついて、真っ赤になって怒鳴る高遠。
セクハラ親父?海堂の眉間にしわがよる。
「俺の愛情表現がセクハラだっていうのか?」
じりじりと高遠に向かって膝を進める。
「あ、いや、その」
高遠、うろたえまくり。
(海堂、言っとくがうちはお前んとこと違って和室なんだ。襖一枚隔てて隣の部屋で、鍵なんかねぇんだ。下にはおふくろが、フジテレビのサスペンス劇場〈再〉に夢中になっているが、しっかり居るんだよーっ)と心で叫ぶが、言葉に出たのはたった一言。
「ダメだってば」(トホホ)
「って、何だよ!俺が襲ってるみてえじゃねえか」と、海堂が迫る。いや、その通りだ。
「俺は、どっちかと言うと、高遠に襲われたいんだ」
高遠の上に膝を乗り上げて、顔を近づける。海堂の人形のように整った綺麗な顔。その瞳が微熱を持ったように潤んでいる。
(海堂……)
高遠の理性もあわやという時にガタッと襖が開けられた。
「ヤマトぉ、すっごい可愛い彼女連れてきたんだって?」
高遠の姉、高遠ユキが短大から帰ってきたところ。
畳の上に組み伏せられている弟を見て
「……えーと……お邪魔だったかしら」
「ちがう。誤解だ。アネキ」


「なんだぁ、男の子だったのね。お母さんが『美人』とか言うからてっきり彼女かと思っちゃった。あはははは」
高遠の姉、ユキは屈託無く大きな口を開けて笑った。
海堂がムッとするかと高遠は顔色を窺ったが、意外にもにっこり笑って挨拶している。
「かわいいーっ。ヤマトと同じ人種に見えなーい」
両手を合わせて喜ぶユキ。
(人種で言ったらお前も同じだよ)と、高遠は内心突っ込むが、口には出せない。三つ違いのこの姉は一言でいうと高遠と正反対の性格で、小さい頃からから何かとからかわれてきて、いまだに頭が上がらない相手。自分と海堂の関係を知られてしまったら、と思うだけでドキドキして苦しくなる高遠だった。
「アネキ。バイトいいのか?」
「あ、そぉーだ。もう出なきゃ。残念、海堂クン、また来てねっ」
名残惜しそうに出て行く姉の姿を見送って高遠は大きくため息をつく。
「な、うちはプライバシーってのが希薄なんだよ。普通は突然入ってこないだろ?」
うちは違うんだなと首を振る高遠。
漫画で言うなら目と同じ幅の涙が直線で流れている感じ。
「べつに見られて減るもんじゃなし」
海堂はさっきまでの良い子ぶりっ子の仮面を脱ぎ捨て、妖しく笑う。
「おまえなぁ」と、怯えたように見つめる高遠に
「冗談だよ」
海堂がすばやく近づいて下から盗むように口付けた。
「ばっ…」
手の甲で口をおさえ真っ赤になる高遠に海堂は天使の笑顔を見せて言った。
「やっぱ、見られたら減りそうなくらい、もったいないもんね」
「ばかやろう」
高遠に怒られてしぶしぶ勉強を始めた海堂。でも、どうしても集中できないのはお互い様。
高遠がふと、思い出して
「そういえば、どうしてアネキにあんなに愛想良かったんだ?おまえ」と訊ねると、海堂はあっけらかんと応えた。
「だって、将来、家族になるかも知れねえし」
「はい?」
家族って、どういうことだ?海堂の言動にかき回されて、高遠も全く勉強どころではなくなった。このままでは補習の仲間入りか。


「で、何で今日は三好がいるんだよ」
海堂が不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。
「俺だって、高遠が泣いて頼んでこなきゃ、貴重な日曜をこんなことで潰しやしねえよ」
翌日の高遠家の卓袱台を、高遠と海堂と三好が輪になって囲んでいる。
高遠が問題集や参考書を真ん中に積み上げて、申し訳なさそうに笑う。
「ほら、分かんない者同士でやるより、三好先生に来てもらったほうが、俺たち二人とも勉強になるだろ」
「俺は高遠と二人のプライベートレッスンでいいんだよ」
海堂が唇を尖らせる。
「おまえがそんなだから、高遠が困ってんだよ、色ガキ。勉強しろっ」
英語の問題集の角で三好が海堂をコツンと殴る。
「何すんだよ」
負けず嫌いの海堂が、もっと分厚い参考書の角で三好を殴る。
「あっ、こいつっ」
三好が英和辞典を手にすると、海堂は『チャート式世界史』分厚さ最大級を持ち上げる。
「そーゆー使い方すんなよ」
高遠は困ったように二人を見つめ、何となく兄弟三人で勉強していた頃を思い出して懐かしい気持ちになった。

三好先生のおかげで、海堂が補習を免れるのは二週間後の話になる。




HOME

小説TOP

NEXT