《出会いの春》


その日、通学電車のいつもの車両。いつものつり革につかまりながら、高遠ヤマトはいつになく緊張していた。その原因は、今、目の前に座っている。
(こいつ、女だよな。でも詰め襟着てるから男か?いや、この顔は絶対女だ。でもなんで女が詰め襟着てんだ?)
見つめる先、三人がけの座席の一番端で少し首を傾けて眠る人物は、柔らかそうな明るい色の髪、透き通るように白い肌、長い睫毛に小さめの鼻、薄く開いて白い前歯がほんの少し覗く桜色の唇。
『他人の顔をじろじろ見てはいけません』くらいの良識は教わってきた高遠だが、それがどうしても目が離せない美貌の持ち主だった。

(こ、これは、この顔は、そう、天使だ)

甚だ陳腐な表現だけれど、平凡な偏差値の高校二年男子のボキャブラリーとしてはいいとこだ。
じっと見つめているその時、急停車する電車がガタンと大きく揺れ、天使の後頭部が目いっぱい後ろのガラスに叩きつけられた。

「いでっ」

衝撃に目を開けた天使は、それまで見つめていた高遠と目が合い、次の瞬間とてつもなく兇悪な顔で凄んだ。

「なぁにガンつけてんだよ。このタコ」

(え?)
一瞬高遠の頭は真っ白になった。
『なぁにガンつけてんだよ、このタコ』
(き、聞き間違いか? いや、それより、今の顔、なんか違ってないか?)
呆然とする高遠の横を天使もどきは
「ちっ」と、舌打ちしてすり抜け降りていく。
ハッと気づいたときにはもう遅い。高遠は自分の降りるべき駅で電車のドアが締まるのを見た。

ぷしゅうー。

(しまった! )
降りそこなってしまった。
あぁっ。電車の窓から自分の行くべき学校が見える。
遠ざかる。遠ざかって、小さくなって、見えなくなった。

ついていない時は重なるもので、次の駅で反対ホームに立つと
「お急ぎのところ、大変ご迷惑おかけしております。中央線くだり快速電車、ポイント故障のため遅れております」
駅員の無慈悲なアナウンスが流れていた。

(遅刻決定、だな)






高遠ヤマトは中央線沿線にある男子校、都立和亀高校の二年生。その180pの長身とそれなりに男らしい端正な顔立ちとは裏腹の、繊細な心の持ち主。もっと言うと小心者。遅刻などには縁が無いため、それが電車遅延のためだとしても気になってしまう。
(遅延証明、もらっとこう)

教室の後ろの戸口からそっと入り、その長身をかがめて自席に近づく。担任に申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて席に着こうとしたとき、目に入ったモノに驚いて、
(いっ!)
ガタン……
椅子を倒してしまった。

「おっ。なんだ高遠。遅刻してきてそのパフォーマンスは。まさか転校生に対しての熱いアッピールじゃないだろうな。わはははは」
自分のつまらない冗談に豪快に笑う、脳味噌筋肉体育教師藤本。
「いえ、そんなキャラじゃありませんから。俺」
藤本の目を見ないように小さくつぶやき椅子を戻して座る。
教壇の藤本の横に今朝の電車で会った天使もどきが立っている。

海堂龍之介。

仰々しい名前が黒板に藤本の汚い字で書かれている。
天使もどき、もとい転校生海堂龍之介は、担任の冗談にクスリともせず、高遠のほうを見ることもなく、指定された自分の席についた。


教室窓際一番後ろ、ついでに言うと掃除用具入れの前、という転校生にお約束の席で美貌の海堂龍之介は孤高の人となっていた。窓から入ってくる四月の風に前髪をわずかに揺らし、頬杖をつき俯いて瞳を閉じている。おそらく眠っているのだろう。その天使(しつこいですか?)の横顔を野郎どもはただ遠巻きに見るばかり。

「おい、高遠。すげぇ美人がはいってきたな」
隣の席の三好常隆が小声で話し掛けてくる。一年のときからの高遠の友人。
「ああ、そうだな」
応えつつも、高遠の心中は複雑。
(だけど、俺は朝、見てしまった)

「あんまり綺麗すぎて、話し掛けづらいって感じだな。大人しそうだし」
何も知らずに薄笑いを浮かべる友に、
「そう、だな」
高遠は適当に返事をしつつ、
(でも、あの顔の下に……)
今はまだ何事もないが、今朝の出来事が夢でないかぎり、ただの美貌の転校生で終わるわけがない。
『今に何かが起こる』予感に高遠は、小心者らしく気が気でなかった。





四時間目が終わった昼休み。いつもなら購買部にパンを買いに走る生徒ですぐにざわめく教室が、今日は転校生の出方を待ってしばしの静寂を保っていた。
そこに甲高い声が響く。
「ちょっとぉ。2−Bにえらく綺麗な子が転校してきたってホント?」
ちなみに2−Bというのは高遠のクラス。声の主はずんずんと窓際の海堂の席に近づくと
「ふうん」と、たっぷり三十秒、上から下までチェックすると
「ま、まあまあってところかしらね。僕ほどじゃないにしろ」
整った女顔を引きつらせて言った。
「っていうか、お前だれ?」
海堂が初めて口を開いた。意外な低音に周りが一瞬ひく。
「僕? ふっ。僕は2−Eの川原一美。ジル(ベール)って呼ぶ人もいるけど」
長い前髪をかきあげながら見下すように微笑んで応えるのに
「汁(じる)?」
海堂が不機嫌そうに聞き返す。
「なんか、発音違うわね。アンタなまってんの?」
川原も剣呑な顔になる。
自分の美貌に絶対の自信をもつナルシスト川原。転校生の噂を聞きつけ敵状視察にきたというところ。ふたりの美少年の間に一瞬険悪な雰囲気が流れたが、
「ま、いいわ。でも、転校生。覚えておいてよね。この学園一の美少年はこの僕だと言うことを!」
びしっと人差し指をつきたてて、捨て台詞をはいたジル川原は高らかに笑いながら2−Bの教室を出て行った。
「学園? 都立和亀高校だろ?」
海堂は低く呟いた。


海堂が口を開いたため、周囲で見守っていた級友たちがほっとして話し掛ける。
「気にしなくていいよ、海堂君。ジル(あだ名)はいつもああだから」
「そうそうあいつも焦ってんだよ。ほら和亀祭近いから」
「ミス和高、連覇かかっているからなぁ」
と、海堂の隣の席の上田誠。
その言葉に海堂が反応する。
「ミス和高?」
話し掛けられたと思った上田はちょっと嬉しげに説明する
「六月にあるうちの学祭でさ。毎年クラス代表出して女装の美人コンテストやるんだよ。部外者投票のね。うちは海堂君が出てくれれば……」
と、お調子良くそこまで言ったところで
「なぁんで俺が、女装しなきゃいけねぇんだ。ああ?」
凄んだ海堂がいきなり上田の胸倉を掴んだ。
あまりの豹変ぶりに、周囲の人間は一斉に固まった。
『今に何かが起こる』予感に成り行きを見守っていた高遠だけが
(上田、あぶないっ)
とっさに後ろから羽交い絞めにして海堂を止めた。
「やめろ。海堂」
次の瞬間
「俺に後ろから近寄んじゃねえぇぇっ」
振り向きざまに、海堂の右ストレートが炸裂した。
(ゴ、ゴルゴ……?)と、思った直後、高遠は気を失った。





気がつくと保健室だった。
海堂の心配そうな顔が高遠を見下ろしている。
「あ、気がついたか」
ちょっとホッとした顔。
高遠、気を失った後、すっかり眠り込んでいたらしい。もう放課後。
「あれ。海堂…くん。俺……」
「悪かったな。いきなり殴って」
海堂が謝る。
「いや」
強烈な右ストレートをくらった顎を触ると湿布がしてあり、痛みは思いのほかひいている。
「ホントわりぃ。俺、条件反射でさ」
「条件反射?」
「ほら、俺こんな顔だろ。昔から変態野郎にケツなでられたり、後ろから抱きつかれたり、大変だったんだよ。そんで、ついね」
「ああ、そうなんだ。そりゃ、今まで災難だった、な」
と、ボンヤリ言いつつ高遠は思った。
(災難は俺のほうじゃないのか?)

「……でも、今までついていてくれたんだ。ありがとう」
起き上がりながら言うと
「俺のせいだからな」
海堂は申し訳なさそうに微笑んだ。
その顔が胸にじんとくるほどに可愛かったのでつい惹きこまれて
「それにしても、すごいパンチだったな」
顎をさすりながら高遠も微笑むと
「ああ。護身用にね、一通りやってんだよ。前んとこでは番張んねぇかって話もあったんだけど。うざってぇからやめといた」
海堂はその顔に似合わない台詞で高遠を凍らせた。



転校初日にそんなことがあったのと、海堂が引っ越してきた駅が高遠の駅の二つ隣だったことなどもあって、とりあえず転校生海堂龍之介の最初の友人は高遠ヤマトになってしまった。
それぞれ外見と中身にギャップのある二人がくっついているのを、三好は面白がっているようで、
「高遠のやつ。すっかり海堂の舎弟になっちまったな」
含み笑いで呟いた。





* * *


「そうか、わかった」
ある日高遠は大変な事実を発見したかのように大げさに手を打った。
「なんだ?」と、見上げる不審そうな顔。
「海堂、お前、三白眼なんだ」
それが深い睫毛の影に隠されているうちは天使の美貌。急激に恐ろしく変貌して見えるのは、上目遣いに見上げる三白眼の目つきの悪さにある。そう言うと、海堂はこともなげに頷いて笑った。
「ああ、そうかもな。中学のときはけっこうガンつける練習もしたし。タマモノだな」
(やっぱり……)
海堂にとっては賜物なのかもしれないが、できれば天使の顔を見ていたい高遠にとってはちょっと悲しい事実。二人の身長差15cm。並んで歩くと常に見上げられる状況では天使よりも悪魔君のほうが出会う確率が高いのだ。



ゴールデンウィーク明けの麗らかな昼休み。高遠と海堂が弁当を食べていたところに、三好がひそひそと一枚の紙を持ってきた。
「高遠、これ、例の。今回の有力メンバー。全部の枠が入るのはまだ先だけど、こん中で決まりだろうな」
そう言うと、にやりと笑って去っていった。
さほど興味もなさそうにながめる高遠の横から覗き込んだ海堂は
「なんだよ。この川原一美ってあのトン汁野郎だろ」
用紙に書かれた名前の一つを指した。
「うん。(トン汁じゃないけどな)今度のミス和高参加者の優勝候補だよ」
高遠が用紙を説明すると
「お前ら、暇だな」
海堂は呆れたように、箸をくわえて嘲笑った。
「まあ、なにぶんお金かかっているから、事前の情報収集も大事ってやつ」
「金?!」
とたんに海堂の柳眉がぴくりとはねた。
「なんだよ。金って」
「いわゆるトトカルチョだよ。誰が優勝するか事前に賭けといて当日ひそかにオッズ発表。参加費三百円の一口三百円から。毎年結構盛り上がんだ」
当然、学校側には内緒ということになっているが、知っていて黙認している教師も多い。それくらい『ミス和高』は和亀祭の華で、『トトカルチョ』は和亀高校の名物だった。
「優勝者には集まった参加費の半分が渡されるから、結構大きい……」と言う高遠の話を遮り海堂、
「参加費の半分っ?!」大声を出す。
「って、いったいいくらだ。おい」目が怖い。
「そ、そうだな。全校生徒が約六百人強で毎年七割がた参加するらしいから」高遠は慌てて計算して「六万ちょっと、ってもんじゃないか?」
海堂の迫力に押され、ビビりながら答える。
「六万っていったら大金じゃねぇか。おい。なんでそんな大事なこと、今まで俺に黙ってたっ」
海堂は、高遠の胸倉を掴んでガクガク揺する。
「だ、だって上田がその話はじめたとき、ぶちキレたの……」
お前じゃねぇかと言いたいが、首が苦しくて声にならない。
「よし!」
いきなり掴んでいたシャツの襟元を離し、高遠を投げ打つと海堂は
「俺も出るぜ」と、こぶしを握り締めた。
「えええええぇぇっっ」
おもわず裏返った声で叫ぶ高遠。
「女装は嫌だったんじゃ?」
「金がかかれば話は別だぜ」
「で、でももし、もし優勝できなかったら?」
嫌いな女装だけやらされて、万が一優勝できなかったときの海堂の荒れようが恐ろしい。高遠が恐る恐る訊くと、
「高遠。お前、俺の女装見たこと無いよな」
「も、もちろん」
「ふっ。見せてやるぜ。俺の美女ぶり」
海堂は不敵に笑った。




海堂龍之介出馬!
この情報は一気に和亀高校を駆け巡った。都立和亀高校のジルベールこと川原一美の一人勝ちかと思われていたトトカルチョが俄然面白くなった。ミス和高の話題は嫌が応にも盛り上がる。
「頑張れよっ」
「お前にかけるぜ」
海堂が歩いていると上級生からも続々声がかかる。その声援に海堂は普段見せない極上の微笑みで応える。気が乗ると手なんか振ってみたりして。
その愛想の良さは、なんとなく高遠の気に触る。
「別に部外者投票なんだから、校内で愛想振り撒かなくても」
むっつりする高遠に、
「タァコ。こんな学祭来る奴のほとんどはここの奴らの関係者だろ。自分が賭けたのに入れてくれって言うだろ」
海堂は小声で囁き、あざとく笑った。
(海堂……お前って奴は)



ミス和高二連覇を狙うジルこと川原は面白くない。
「あいつ。今ごろになって出てくるなんて」
唇をキリキリと噛んで、その後すかさず鏡を見る。自分の赤くなった唇にちょっとうっとりするナルシスト川原。鏡を学生服の胸ポケットにしまって、
「とにかく、学園一の美少年の座は絶対に譲るわけにはいかない。なんか考えなくちゃ!」
だから学園じゃなくて都立高校だろ、川原。という突っ込みは彼の耳には一生入らない。お約束の悪魔的微笑で『ミス和高優勝奪取大作戦』を思案する。
「あ、いいこと思いついちゃった」
人差し指を顎に当て、上目遣いでにんまりした。




下校中。高遠はこのところ気になっていたことを訊く。
「あのさ、海堂、何でそんなにお金がいんの?」
そりゃあお金はあるに越したことはないが、ちょっとおかしい。よく考えると、以前はそんなにお金に固執していた様子はなかったのだ。
「ん?」振り向いて海堂は「俺、今、欲しいもんがあんだよ」と、あっさり答えた。
「えっ。何だ? 海堂の欲しいものって」
何故だかいたく興味をひかれる。
「うーん。教えてやってもいいけど。なんなら今から見に行くか?」
「行く」
高遠は大きく頷いた。


そこは駅前のペットショップだった。
ガラスケースの中に可愛い犬や猫が眠っている。パピヨンだとかアメリカンショートヘアだとか書かれたケージの前を通り過ぎ、
「こいつ」
と、海堂が指差したのは黒いむくむくとした小さな日本犬だった。今はクシャッと集められたペットシーツの真ん中で、首を自分のお腹にくっつける様に丸くなって眠っている。
「豆柴だよ。トラノスケ」
海堂が目を細めて言う。
「トラノスケ? なんで名前ついてんの? 売り物だろ?」
高遠が不思議そうに訊くのに
「俺がつけたんだよ」と、唇を尖らせる。
「ほら、俺が龍之介だろ。弟が生まれたら虎之介にしてくれって親に頼んでたんだけど、結局弟も妹も生まれなくて……ったく不甲斐ないぜ親父」
ちっ、と忌々しげに舌打ち。
「はぁ……」
なんと言っていいやら。高遠は、ふとその値段を見て驚愕した。
「げええっ。十万?! 何で犬が十万もすんだ?」
そんな高遠に冷たい視線で海堂は、
「なに言ってんだ。フツーはもっと高いんだよ。でもこいつ、もう大きいだろ」
「小さいよ」
「タコ! 大きさじゃねぇ。だんだん成犬に近づいてるってことだよっ」
(はぁ、そうですか)

なぜタコ呼ばわりされなきゃいけないのかはわからないが、兇悪天使海堂が意外な動物好きでこの犬に執着しているということだけはよくわかった。
寝ていたトラノスケが気配に気づいたか、起きて海堂を見ると嬉しそうに尻尾を振って近寄ってきた。
「うっ、起きたか。トラノスケ」
海堂は本当に嬉しそうだ。ガラス越しにケージに手のひらを当ててトラノスケがそれを舐めるのをくすぐったそうに――実際は直接あたっちゃいないのだが――喜んでいる。
その無邪気な横顔をみると高遠も、なんとか海堂に優勝させて、賞金を手に入れさせてやりたいもんだと思った。



ミス和高がメインイベントとだしても、学祭では各クラスの出し物や模擬店も当然ある。ちなみに高遠のクラスは手軽に儲かりそうなお好み焼き&焼きそば屋だ。六月の声を聞くと校内はそれぞれの学祭の準備で、俄然活気づいてきた。
その頃になると、海堂もジルに対抗した呼び名を陰でつけられていた。『ビヨルン』
昔の映画の美少年からとったらしいが、当然、高遠も海堂もそんなヤツ知らない。
初めてそれを耳にした海堂は火がついた様に怒って、高遠は抑えるのに相当苦労した。
「そんな、伸びきったパンツのゴムみたいな名前で俺を呼ぶんじゃねぇ!」
「落ち着け。落ち着くんだ海堂っ」



放課後、資材を運ぶ学生たちの騒ぎを横目で見つつ、ジルこと川原は校舎の裏にそっと向った。
呼び出しておいた人物は先に来ている。
「待った?」
待たせても悪びれることのない笑顔。
「いや」
何時間待たされたとしても相手はそう答えただろう。川原の中学時代からの付き合い、一年先輩の中村猛。ジル信者の一人である。
「内緒のたのみ事っていうから何かと思った」
「ふふふ……」
例の作戦を依頼して来た川原に、中村は
「けど、なんだかあの綺麗な顔を殴(ボコ)るって言うのは気がすすまねぇなぁ」と、あまり乗り気でない。
「何いってんの。綺麗じゃ困るから頼んでるんじゃない」
川原は細い眉を吊り上げ
「タケシは、僕に勝って欲しくないの?」
と、今度は拗ねた様に甘える。
「お前はこんな事しなくても、十分、一番綺麗だよ」
中村が応えると、川原は
「そんなこと、わかってるよ」
冷たく言い放ち
「念には念を入れってね。何も、怪我させろって言ってんじゃないよ。二、三日、顔が腫れてくれればいいんだから」
それは、十分怪我のうちだよ。
と、思いつつ、惚れた弱みで断れない中村だった。



和亀祭前日。その日の放課後も、高遠と海堂は駅前のペットショップに寄った。
「店長。また来てますよ。あの二人」
「ほんと、仲いいわね」
「いつも、あの豆ちゃんの所にいますね」
「ふふふふっ」
毎日のように豆柴の様子を見に来る高校生の二人組みはペットショップの店員の間でも話題になるほどだったが、二人はそんな視線も気にならないほどトラノスケに夢中だった。いや、正確に言うとトラノスケに夢中なのが海堂で、その海堂を見るのが高遠の楽しみ。
「あーあ。早くあの中から出してやって、おもいっきり抱きしめてえ」
ショップを立ち去りながらも未練たらたらの海堂に、高遠は
「明日の和亀祭でミス和高になればいいんだろ。今回の参加者、例年以上に多くて参加費だけでも十五万近いって聞いたよ。半分でも七万以上だ」そこでふと疑問がわいて、
「残りのお金は大丈夫なんだよな?」
尋ねると、海堂はにやりとした。
「俺に一万賭けてんだ。ま、オッズが低くて二倍くらいにしかなんなくても二万円。意外に他の奴らが健闘して集めてくれていりゃ、三万はいくって計算だ」

(ギ、キャンブラー……)
優勝狙い、その上なおかつ自分に賭けている自信家。まさに川原といい勝負かもしれないと高遠は思った。
そんな二人の前を、見るからにワルそうな三人組みがさえぎった。
「よう、お二人さん。デートかい?」
「いいね。いいねぇ」
両手をポケットに突っ込んでガムをクチャクャ噛んでいる(今時いるか?)百年前の漫画にいそうなステロタイプの不良に、高遠と海堂は怪訝な顔をする。
「その制服は和亀ちゃんだね」
二人の周りをフラフラ周りながら
「こちら可愛いねぇ」
不良の一人が海堂の顔を覗きこみ、
「お兄さんにはちょっと勿体無いんじゃないの」
別の一人が高遠を軽く突き飛ばした。
「な、何するんだ」
流石に温厚な高遠もむっとする。
その高遠を右手で制して海堂は
「知り合いじゃねぇよな」
ちらと見上げて、念を押す。
もちろん、と頷く高遠。
「じゃあ遠慮はしねぇぜ。てめぇら、誰にアヤつけてんだよ」
海堂は低い声で凄んだ。
小さくて可愛いほうが喧嘩を買ってきた様子に、一瞬三人組みは呆気にとられたが、すぐに一番ガタイの大きいのが
「っざけんな。てめぇこそオレらを何だと思ってんだよぉ」
と掴みかかってきた。
「あぶないっ」高遠は小さく叫んだ。
(……相手が)

ズゴッ。バキッ。ドスッ。

海堂は掴みかかってきた相手をひらりとよけると、そいつの伸びた右手を掴んで引き倒しながら、みぞおちに膝蹴りをかまし、その勢いで半回転すると同時に飛び掛ってきた二人目を黄金の右ストレートで殴り倒し、ついでに先に倒れてうめいている奴のわき腹を思い切り蹴りつけた。あまりにも一瞬の出来事に、不良その3は動くことも出来ず。はっと気づいてあわてて二人を起こしに行った。
「ち、ちくしょう。」不良たちはヨロヨロと起き上がり、
「名前だけ聞いといてやる。お前の名前だ」
「高遠ヤマトだ」
『しえええぇぇっ???!!!』
高遠は声にならない叫びをあげる。
「和亀高校の高遠だな。覚えてろよっ」
お約束の捨て台詞で去っていく三人。
「か、か、か、海堂。な、何で俺の名前?」
「だって、あんな奴らに自分の名前なんか覚えて欲しくないだろ」
「だったら余計俺の名前なんか出すなよっ。何でもいいじゃねぇか。偽名でっ」
「あ、そうか、その手があったな」
「海堂ぉぉっ」
すたすた歩く海堂の後ろを、高遠はよろめき追いかけた。

 その様子をジルこと川原一美と中村猛は青ざめて一部始終眺めていた。
「おい、川原。俺、無理だわ。あれだと俺のほうがボコボコにされちまう」
「そ、そのようね」
(なんなの、あいつ。化け物っ?!)
実はこの二人、この何日か海堂を狙うチャンスを窺って後を付け回していたのだが、なかなか機会に恵まれず、今日偶然他校の不良にからまれる海堂を目撃し、その怪物じみた強さに腰を抜かしている。
「よかったぜ。先に手ぇ出さないで」
ほーっと息をつく中村。そして、眉間にしわを寄せ
「でも、さっきの奴ら、たしか青狼会じゃねぇか」と独り言。
「なにそれ?」
左の眉を上げて尋ねる川原。
「三多摩青狼会っていって、このあたりの族だ」
「なあに? その『三多摩』ってダサくてチープなネーミング。せめて『関東何とか会』とかつけられなかったのかしら」
とフンと鼻で笑う川原に
(自分も多摩住民だろ、川原!)
とは口が裂けても言えない中村であった。



その噂の三多摩青狼会では、ヤキが入れられていた。
「てめぇら三人もいながら、たった一人にやられやがって。三多摩青狼会の名前を汚すんじゃねぇ」
凄む長身の強面は木崎彰人。『三多摩青狼会』で頭(ヘッド)を張る男。短く切りそろえた髪を金色に染め、鋭い眼光を隠す黒いサングラスがトレードマーク。
「す、すいません。アキトさん」
「許してください」
「けど、ホントにすっげぇ強かったんです。もう一瞬で二人やっつけられちまって」
床に転がった三人が口々に言いわけする。
木崎はそんな三人を毛虫でも見るように、顔をゆがめて
「どこの何て奴だ?」と、きいた。
「和高の高遠ヤマトって奴です」
「和高の高遠。だな」
木崎はサングラスの下の、針のような目をさらに細めて繰り返した。



和亀祭当日。
早朝から高遠は、自分のクラスの焼きそば準備に追われていた。何しろ食べ盛りの男子高校生の集団である。用意する焼きそばの量も半端じゃない。和亀高校から半径一キロ以内のスーパーにあった焼きそばは、全てここに集まったといったところ。
「そのまま入れとけばいいんだよ」
三好がポリバケツに入ったお好み焼きの生地をかき混ぜながら言うのに
「いや、焼くとき固まっちまうから先にほぐしといたほうがいいんじゃないか」
高遠は几帳面に焼きそばを袋から出してほぐしながら自分のポリバケツに入れていく。ここにも性格が表れている。
隣の台では、恐ろしいほどの速さでキャベツを切っていく男。
「おおっ味平!」
「味平だ」
級友たちの賞賛の声。

わけわからない興奮の中、学祭が始まる。




「おいっ、海堂がきたぞっ」
誰かが叫んだ。その声に高遠も慌てて裏方から出て来た。
教室の戸口にピンクのツーピースをきた海堂が立つ。
『おおおおおおおおおっ』
声にならないどよめきが教室中を包む。焼きそばを食べにきていたよそのクラスの生徒も全員、箸が止まる。
前髪をふんわり上げサイドは後ろ、耳には服とお揃いの大ぶりのピンクのイヤリング。何より化粧をしたその顔は、女優もはだしで逃げ出す美しさ。どこで手に入れたかヒールの高い靴まで履いて、海堂はゆっくり教室に入ってきた。
自然と皆が道を開け、まるでモーゼの十戒。海堂の前には一本の道ができ、まっすぐ高遠に向って進んでくる。
「か、海堂……」
高遠は動けない。
海堂は高遠の前に立つと、ゆっくり顔を上げて
「見たか、俺の美女ぶり」
にっこりと、微笑んだ。



これで海堂の優勝は間違いない。
級友全員そう思った。クラスメイトの義理も有り、ほとんどの生徒が海堂に賭けている2−Bとしてはこの事実は何より嬉しい。焼きそばを焼く手、青海苔をふりかける手、そしてお好み焼きを裏返す手にも力が入るというものだ。2−Bの教室は異様に活気づいた。
海堂は「とりあえず浮動票獲得のため」フラフラ歩き回ってから、ミスコン会場の体育館に行くと言って去っていった。
「ぜったい勝つから、見に来いよ」
と、背中を向けたまま手を振って。



海堂の姿を思い出すと、高遠は顔に血が上り、息が苦しくなる。
真っ直ぐ自分を見つめた瞳、にっこり微笑んだその唇。それらが目の前にチカチカと浮かんで、消えてくれない。
「おい、高遠」三好が声をかける。
「高遠ってば、おい」高遠の耳には何も聞こえていない。
「おい、高遠!前!」三好の叫び声に初めて我に帰って
「えっ?」と、振り向いたときには高遠の足はお好み焼きの生地の入ったバケツを蹴倒し、
「うわっ」
それにつまづいて、自分も思い切りお好み焼きのコロモをまとっていた。
級友たちの冷たい視線が突き刺さる。
「いっぺん、焼いてもらうか?」
三好が鉄板を指差した。



ミス和高コンテストが行われる体育館。毎年の事ながら大盛況。特に今年は和亀高校のジルベールとビヨルン・アンドレセン(誰だよ。どっちも)の一騎打ちとの前評判に会場は異常な興奮に包まれている。
高遠も海堂の応援のために、焼きそば係を抜けさせてもらって来た。大本命二人の前の生徒たちは前座のようなものだったが、それでもたまに一年生のニューフェイスの中から可愛いらしい美少女(?)が出たりすると体育館は異様な盛り上がりを見せる。
「ふん。ぜんっぜん大した事ないじゃない」
ピンクハウス系のワンピースに身を包んだ川原が舞台の袖から冷たい視線を送る。明らかに不細工な少年のときは軽く無視しているが、ちょっとでも可愛い子がでるといちいち文句をつけている。
「なんなの、あのポシェットのたすき掛け。ギャグ?!」
ピーコのおしゃれチェックも真っ青だ。
(やっぱりあたしのライバルはあいつだけね)
女装のため僕があたしに変わっている川原。



ふいに体育館入り口がざわめいた。
が、会場の興奮のため前方までは届かない。
初夏だというのに皮ジャンを着た、見るからに『族』の看板を下げた集団が高遠を探している。
「ここに、高遠ヤマトって奴が来てるだろ」
「おとなしく渡せば、関係ねぇ奴には手ぇださねぇから安心しろや」
「おい、高遠!出で来い」口々に叫ぶ
比較的後ろの席でコンテストを見ていた高遠は、突然自分の名前が呼ばれるのを聞き、びっくりしてそちらを振り返った。あれは、まさかひょっとして昨日の不良の仕返しか?! 
そっと身体を小さくしてみたけれど何人かの視線が自分に注がれるのを感じる。髪を赤く染めたニキビ面の男がそれに気づいてこっちを見た。周囲の視線が気の毒そうに高遠に集まった。
(なぜだ? 知っている奴ならともかく、なんで全然知らない奴まで俺を見てんだよ)
不審に思う高遠の、着ているジャージの背中にはくっきり名前が縫い付けられている。先般お好み焼きをかぶった時に着替えたのだった。
(しまったぁっ!!)
我が身の不幸に頭を抱えてももう遅い。
ぞろぞろと三多摩青狼会の連中が高遠の周りに集まってくる。周りにいた生徒たちはその場から逃げ、高遠は囲まれた形。不良集団の後ろから、ゆっくりとヘッド木崎がその大きな身体を現した。
「お前が高遠か。昨日はうちのヤツラが世話になったな」
低い声、その迫力に
『ち、ちがう。いや、俺は確かに高遠だが、お世話したのは海堂だ』と言いたいのだが、緊張して喉が引きつり声が出ない。
悲しいことに黙って立っている高遠は、不良の三人も倒せそうな外見だけは持っている。
そっと目だけを動かして自分を取り囲む顔を見回すとその中に、高遠は昨日の不良その3を発見した。その3は高遠の顔とジャージの左胸(何とここにも縫い取られている)の名前を見比べ、不思議そう。
『そうだ。人違いだ! 昨日お前らをノシたのは、この俺じゃない』
じっと目で訴える。
『う、今さら間違ってますなんてヘッドに言えるかよぉ』
その3の目も語っている。
『何を言うんだ。言うは一時の恥、言わぬは一生の罪だぞ。ホントのことを言え』
『うるせえ、俺はこれ以上、ヤキいれられたくねぇんだよぉぉっ』
と、いう目と目の語り合いは、周りの連中には因縁の二人の、迫力あるガンの飛ばし合いにしか見えない。
「いい面構えだぜ」
木崎はサングラスを外しながらふっと笑い、叫んだ。
「てめぇら、きっちり礼してやれっ」
「おおっ」
一斉に高遠に跳び掛る青狼会。
見ていた周りから、大きな悲鳴があがった。



「なんだ?」
突然の騒ぎに、舞台裏にいた海堂が会場を覗く。
後ろのほうで乱闘が起きている。
驚愕に目を見開いた。
乱闘の中心にいるのは!(何故かジャージ姿の!)
「高遠おぉっっ」
叫んだと同時に大きく壇上から跳び降りると、海堂は一直線に乱闘の渦に飛び込んだ。
まっピンクのスーツをきたモデルばりの美女が、野郎どもを掻き分け、蹴散らして行く。
「てめぇら、高遠に、なにしやがるっっ」
高遠を殴ろうとしている奴の腰めがけて、スカートも裂けよとばかりの回し蹴り。
「ぐげっ」
左右の男を、黄金の右腕のストレートとアッパーカットでなぎ倒し、高遠の襟首を掴んでいた男の、腕を掴むとゴキッと鈍い音を鳴らせて背中にねじり挙げた。
「う」「げっ」「うおぉっ」
あっという間に四人が床に転がる。
木崎はこの美女の鮮やかな舞に唖然とした。
「大丈夫か。高遠」
女装の海堂が高遠を抱き起こす。
「あ、こっ、こいつ。こいつです。アキトさん。昨日俺たちをヤッたのは!」
不良その3が海堂を指差す。
「なにぃっ」
木崎はその3を睨めつけると
「てめえっ、女にヤラレた上に、別人襲わせたんかいっ」
凄んで、その3の胸倉を掴むと締め上げた。
それを目の端に捕らえながら
(だからホントのこと言えって……)
と、高遠は海堂の腕の中で意識を失った。
「高遠っ、高遠、しっかりしろっ」
海堂の声が遠くに聞こえる



気づいたら、また保健室だった。
学生服に戻った海堂が心配そうに覗いている。
「あ、気がついたか」
ホッとする海堂の顔。
(なんか……前もあったな……)
高遠、かすかな既視感。
「骨は折れてねぇみたいだから安心しろ。悪かったな。また俺のせいで痛い思いさせて」
しゅんとする海堂に
「べつに、お前のせいって訳じゃねぇよ。昨日は一緒にからまれてんだし。助けてくれたんだろ。サンキューな」
微笑む高遠。海堂はちょっと赤くなった。
「それより、残念だったな」
突然悲しそうに言う高遠に、海堂はキョトンとする。
「ミス和高」
高遠がぽつりと言うと
「ああ、俺優勝したぜ」
海堂は、自慢げににっこり笑った。
「ええっ?」
当然中止になったと思ったのだが。
あの後、木崎の一言で三多摩青狼会は鮮やかに引き上げていった。ミス和高コンテストは少々中断したものの無事再開され、海堂、ダントツの一位を得た。
「そっか、よかったな。ホント」
心の底から喜んでくれている高遠の笑顔に、海堂は、自分の心臓がドキンと鳴るのを聞いた。それが相手にも聴こえたんじゃないかという焦りに、急にあわてて外を見て
「あ、ファイアーストーム、まだ間に合うぞ。行くか?」
聞くと、高遠は苦笑した。
「俺は、まだちょっと。海堂、行って来いよ」
その応えに、海堂はすとんとベッドの端に座り
「じゃ、俺もここに居るぜ」
と、うつむいて言った。



和亀祭から五日後。ようやく海堂の手元に賞金も入り、今日は日曜。トラノスケを迎えに行く日。意外と大した怪我でなくてよかった高遠も、付き合って駅前のペットショップに行った。電車の中からずっとはしゃいでいる海堂に、高遠の頬もいっしょに緩む。
ところが、いつものケージのなかにトラノスケの姿が無かった。
「すみません。ここにいたトラ、じゃなくて黒い豆柴、どうしたんですか」
慌ててそのショップの店長に尋ねると
「ああ、あの子ね。昨日、買われて行っちゃったのよ」と、気の毒そうに返事が返ってきた。
その女性店長も、いつも豆柴に会いに来るかわいい高校生ペアをよく覚えているため、かなり申し訳なさそうだ。
「そんな……」
海堂の顔が青ざめる。高遠はその顔を見て思わず
「誰が、買ったんですか?」と、尋ねた。
「誰が、っていわれても、ちょっと、それはね」
店長は躊躇する。
「わからないんですか?」
高遠は引き下がらない。海堂は呆然と黙ったまま。
「わからなくはないけど」
「お願いします。訊いてみたいんです。訊くだけです。譲ってもらえないか」高遠は必死に頼み込む。
「それがダメなら、もう一度見るだけでもいい。会いたいんです」
いつも通って来た二人に好感を抱いていただけに、最後は店長も
「じゃ、住所だけ教えてあげるから尋ねて行ってごらんなさい。でも、むちゃは絶対しないでね」
念を押して顧客名簿からメモをとって渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
喜ぶ高遠。
海堂の顔にも血の気が戻り薔薇色に染まった。
二人で店を飛び出した。

教えてもらった住所は意外に近かったが、住宅街で番地が複雑に並んでいたため、何度か迷いながら目的のマンションにたどり着いた。
インターフォンを押すときになって、海堂は『大丈夫かな?』と不安げに高遠を見上げる。トラノスケのことになるといつもの調子が出ないらしい。高遠は『大丈夫!』と目で力強くはげましてインターフォンのボタンを押した。
「はい」
機械を通してどうしても冷たく聴こえてしまう声。
「あの、突然申し訳ありません。僕たち和亀高校の生徒です。お願い事があって、お伺いしました」
高遠が、精一杯丁寧に挨拶する。
「……なんでしょう?」
不審そうな声。そのトーンに少し怯みそうになったが、高遠は
「昨日、ペットショップで買った柴犬のことです」
勇気を振り絞って言った。
「…………」
しばらくしてドアが開いた。
マンションの主は三十歳くらいの派手な顔立ちの女性だった。水商売風の印象を受ける。高遠は、ドアを開けてくれたことに対して
「ありがとうございます」きちんと頭を下げて礼をいい、尋ねてきた理由を言った。
女性の顔が呆れたようにゆがむ。
「何言ってるの、君たち。もう、私が買っちゃったのよ」
「わかってます。だからお願いしているんです。お金ならちゃんと払います。どうか、お願いします」切羽詰った顔で頼む高遠。
ここでも海堂はきゅっと唇をかんだまま、言葉を失っている。
「お金の問題じゃないわよ。私もあの子が気に入って買ったんだから。君も別の子を見つけなさい」と、冷たく突き放される。
「トラノスケじゃないとダメなんです!」
高遠は叫ぶように言った。
「トラノスケ?」
女性がその細い眉をひそめる。
「俺たち、その名前で、ずっと見てたんです。ずっと、待ってたんです。飼えるの」
高遠の声が震える。
こぶしを握り締めていた高遠が、いきなり玄関に土下座した。

「お願いしますっ」


「た、高遠……」
それまで黙っていた海堂が、驚きに目を大きく見開いて小さく叫ぶ。
相手の女性もこれにはびっくりした様子。
「お願いします。トラノスケを譲ってください。あいつじゃないと、ダメなんです」
言い続ける高遠に
「も、もういいよ。高遠。帰ろう」
海堂が肩に手をかけ、立たせようとする。
「よくねぇよ。お前、あんなにトラノスケ可愛がってたじゃねぇか。飼いたがってたじゃねぇかっ」
土下座したままの高遠の肩が小刻みにふるえる。
「高遠……」
海堂の顔が赤く染まる。


トラノスケの現在の飼い主は、そんな二人を、腕を組んで壁に寄りかかって眺めていたが
ふーっ。
大きなため息をついて天井を見上げると、廊下の奥に去っていった。
「ちょっと待ってなさいよ」と、一言残して。
トラノスケを抱いて戻ってきた彼女は、
「しょうがないわね。そんなに好きだったんじゃ。私が諦めて別の子をさがすわ」
呆れた顔で笑いながら、トラノスケを海堂の方に差し出した。
高遠は跳ね起きた。
「あ、ありがとうございますっ」
二人は、嬉しさに顔を真っ赤にしてトラノスケを挟んで抱き合った。
「よかった。よかったな。海堂」
「うん。ありがとう、高遠。ほんと嬉しいよ。よかったなぁ、トラノスケ」
トラノスケも二人の興奮が伝わったのか、尻尾をちぎれるほど振っている。
『元』飼い主になった女性はその様子をやれやれと言った顔で眺めていたが、最後に
「でも、いいの? 君たち。そのコ、女の子よ」と、笑った。



トラノスケの名前はそのままだった。

「ま、トラちゃんって呼べばいいか」と、言う高遠に
「だめだよ、ちゃんとトラノスケって呼んでくれないと」
海堂は、唇を尖らす。
今、二人は海堂の部屋にいる。海堂は自分のベッドに寝ころんで、トラノスケと『タオルのひっぱりっこ』で遊んでいる。高遠は海堂の学習机に座って、元飼い主がおまけに付けてくれた『柴犬の飼い方・しつけ方』と言う本を読んでいたが、あるページで、
「なあ、しつけは最初が肝心だから、子犬をベッドに上げるのは良くないみたいだぞ」と、クルリと椅子を回して振り向き、アドバイスする。
「あー?」
海堂はトラノスケを見てニヤニヤ笑ったまま。
タオルを引っ張る愛らしい姿に夢中。
(ちっ、聞いてねぇな)
高遠はまた机に向かい続きを読み始めた。



どれくらい時間がたったのか、ふと高遠はベッドが静かになっているのに気づいて振り向いた。
海堂とトラノスケはいつのまにか眠っている。
身体を小さく丸めて眠るトラノスケの横で、安らかに規則的な寝息をたてている海堂。初めて出会ったときの天使の寝顔そのままに、白い肌、長い睫毛、そして桜色の唇が無防備に高遠の目の前にあった。その寝顔に見惚れるうちに高遠は、胸の奥からからだの中心に次第に熱がたまるのを感じた。
ふらふらとベッドに近づく。
覗き込んでも海堂の息は乱れない。気が付けば海堂の唇からもれる甘やかな寝息が顔にかかるまでに高遠は近づいていて、自分でも信じられない衝動に動かされて、唇を海堂のそれに重ねていた。

そのとき海堂がぱっちり目を開けた。

(うっ!)
あわてて後ろに跳び退く高遠。尻でずりずりと後ずさりしながら
「ご、ご、ごめ」
ごめんと謝りたいのだが、喉が引きつってそれ以上声にならない。
とんでもないことをしてしまった恥ずかしさに気も遠くなりそうだ。
冗談で済ませたいのに、それすらできない。
海堂はむっくり起き上がると

「いいぜ。俺」
ぼそりと言った。
「い? ……!」
言葉の意味がよく理解できない高遠。
「俺、今回の事ではお前に借りがあるし」
海堂はシャツのボタンに手をかける。
「ち、ちょ……」
高遠、まだ、声が出ない。
「実際、俺のために土下座までしてくれたときは」
ひとつ、ふたつ、ボタンが外れる。
(な、なにすんだ。海堂っ)
高遠、声は出ないが、目も離せない。
「ちょっと、感動した」
みっつ、よっつ。
「だから、いいぜ、俺」
全部のボタンを外してシャツをぬぐと、海堂の程よく筋肉のついた締まった裸身が露わになる。
「お前、俺とヤリたいんだろ?」


「ちょっと待ったぁぁあ!!!」

右手を肩の高さに挙げて大きく前にかざし『ちょっと待った』のポーズ。ようやく声が出るようになった高遠は、顔を真っ赤にして、
「おっ俺はっ、お前のっ……、そのあんまり可愛く寝てるから、ち、ちょっとキスしたいと思っただけで」息が乱れる「その、そのなんだ、それ以上のことは望んではいませんっ。本当ですっ」
(かあー。俺、なに言ってんだ。しかも最後は、ですます体)

「そうなのか」
海堂はじっと高遠を見て
「わかった」と言ってシャツを着た。
それをちらっと横目で見て、
(やっぱ、ちょっと惜しかったかな)
などと思いつつ、椅子に戻ろうと高遠がふらりと立ち上がりかけたところ、その腕を海堂がぐっと掴んで引き寄せた。
(えっ?)
両手で高遠の顔をはさむと、思いっきり口づける。
(海堂?!)
いきなりの事に、またも高遠はパニックを起こしかける。
中腰になった身体を引こうにも、顔は海堂の両手に押さえられ、唇は離れない。
(よ、よせ、海堂)
ねっとりと角度を変えて何度も唇が重ねられる。
(海堂っ)
海堂の舌が高遠の歯をねじ開け差し込まれる。高遠の舌を探して生き物のように口腔をさぐる
(うっ、たのむ。海堂……)
舌を絡めとって強く吸い上げてくる。
(たのむから……)
きつく吸ったと思ったら次には柔らかく上あごを舐めあげ、海堂の舌は存分に高遠の口腔を犯していく。
(たのむから……せめて……)

(せめて、目は瞑ってくれーっ)


結局、先に目を閉じたのは高遠のほうだった。
海堂は満足げに唇を離すと、薔薇色に上気した頬で、
「キスだけなんて子供だましだけど、高遠がそれでいいって言うんなら、俺もいいぜ」と、にっこり笑った。
へたり込んでいる高遠は、
「あ、ありがとう……」
ゼエゼエと肩で息をしながら応えた。



トラノスケは丸まって眠っている。もうすぐ二人の夏が始まる、六月の最終日曜日。



 




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