SucceedDの頃 佐井SS


この店は自分しか知らないと思っていたのに。
カウンターの隅に座る男を見て光岡は驚いた。内心、意外な出会いを面白がりつつその隣のスツールに腰掛けながら声をかける。
「よお、ダービージョッキー」
男は振り向き、光岡の顔を認めるとその一瞬緊張した顔を柔和にほころばせた。
「なんだ。光岡さん。おどかさないで下さいよ」
天才騎手佐井猛流。ターフのプリンス。JRAの歩く(いや、疾る)広告塔。いろいろな名前をもらっているその男は、先月の日本ダービーで若干二十七歳にして二度目のダービージョッキーという栄冠に輝いた。
名実共に日本のリーディングジョッキーである。
「ひとりか?」
光岡が訊くと
「連れがいるように見えますか」
「待ち合わせとかな、秘密の」
「まさか」
佐井は端正な顔を崩さない程度におかしそうに笑った。
「光岡さんこそ、お一人なんて珍しいですね」
たいてい、佐井や光岡くらいのトップクラスのジョッキーになると、いつでも厩舎関係者、報道関係者、若い後輩達などに取り囲まれていて、飲みに行くのも大勢で行くことが多かった。
「俺は、お前よりは一人でおること多いで。ここも、隠れ家やったんやけど、なんでお前がおるんやろ」
わざとらしく嫌な顔をしてみせる光岡に佐井は含み笑いで謝った。
「それは、すみませんでした。俺もこっちに来て偶然見つけて。いい感じなんで自分だけの店にしとこうと思ったんですけどね」
「そら、おたがい、残念やったなぁ」
「俺はかまいませんけどね」
騎手として光岡は佐井の二年先輩にあたる。歳が近い上にお互い西と東のリーディングジョッキーという立場で、新聞雑誌などでは何かとライバル扱いされることが多いが、周りが言うほどの意識はしていない。
ただ、それぞれ所属が西の栗東と東の美浦に分かれているので、こんな風に一緒に飲むことは珍しい。函館開催という、東西のジョッキーが北海道の函館に集結するこの時期だからこその偶然だった。
「セントエクセルはこっちに来とるんか?」
頼んだ水割りを口に運びながら光岡が佐井の顔を見る。
「ええ、ダービーの後さすがに疲れが出たので、夏の間、放牧に出すそうです。美浦は暑いですしね」
「ダービーか。結局俺のリアルショットは、セントエクセルのケツの穴も舐めさせてもらえんかったな」
光岡らしいもの言いに佐井が苦笑する。
「それにしても、最後まで容赦せん走りさせとったな。なんでや」
「なんで、って、最後まで追うのはあたりまえでしょう」
柔和な顔で佐井は、何杯目かのグラスを受け取りながら応える。
「切羽つまっとったで」
「おかげで、コースレコードが出せました」
東京競馬場、芝の2400mのコースレコード。ジャパンカップでオグリキャップを負かしたオセアニアのホーリックスが作ったそれを、セントエクセルは三歳で破ってしまっていた。
「なんや、レコード作りたかったんか」
「そういう事にしておきます」
「なんや、そういうことて」
光岡は、いつになくしつこく絡む。
佐井も、珍しく酔っているらしく、普段よりも饒舌になっていた。
「でも、本当のことを言えば、光岡さんの言うとおり……」
「ああ?」
「切羽つまっていたんです」
佐井の静かにうつむく横顔を光岡はじっと見つめた。

「けやきを過ぎて、あがって行ったとき、俺はもう勝ちを確信していました。負けるはず無いと。四コーナーで先頭にたったときも、他の馬の気配すら感じなかった」
「…………」
「それが、直線に入った瞬間、俺は後ろから襲い掛かってくる駿の馬の気配を感じたんです」
「駿の?」
「ええ、わかってましたよ。サクシードが出てきていないのは。当然」
佐井はグラスを空けると、人差し指で濡れた唇を拭った。その顔が男のくせにいかがわしい、と、光岡は思って、自分の不届きな考えに苦笑した。
「光岡さんも経験あるでしょう?後ろからやって来る馬の気配に、全身の毛穴が開くようなあの感覚」
「ああ」
お前の馬によくやられてるぞと、軽口を叩きたくなったが、佐井の顔があまりに真面目なので言い出せず、黙って頷く。
「弥生賞のときがそうだった。後ろから来る駿の馬の気配に全身が粟立って、並んでから、必死だった。あんな気持ちになったのは、ここ何年も無かったんですよ」
「で、サクシードを意識しとるんか」
光岡は少しつまらなそうにグラスを重ねる。
「そうですね。サクシード、というか、橘駿を」
グラスを見つめた佐井の瞳が一瞬輝く。口許にはうっすらとした微笑。
「ふーん。なんや、駿、駿て。まるで恋でもしてるような口ぶりやないか」
「恋?」
からかったつもりだったが、佐井はまじまじと光岡の顔を見つめ破顔した。
「ああ、そうですね。それに近い」
「はあ?」
逆に光岡が慌てる番だった。
佐井はおかしそうに光岡を見ながら
「それに、まるっきり片思いってわけでもなさそうですしね」
「どういう意味や」
「光岡さんの言う意味で、ですよ。駿も俺を意識しています。デビューして三ヶ月ちょっとの見習のくせしてね」
「なるほど。ちょっとばかり妬けるわ」
光岡があきれたようにため息をつく。
「どっちに?」
佐井がじっと見つめてくる。光岡は柄にも無く一瞬動揺したが
「さあ、どっちゆうことにしとこうか」
光岡の応えに、佐井は満足げに笑った。


「セントエクセルの秋は神戸新聞杯あたりからか」
「さあ、僕が決めるわけではないですからね」
「リアルショットにも、重賞とらせたいんや、ぶつからんこと祈るわ」
「秋には、あの馬も出てきますしね」
「また、駿のサクシードか、お前も重症やの」
そう言って、重賞と重症で洒落でも言おうかと関西人の血を疼かせた光岡だったが、佐井の顔を見てやめておいた。
この綺麗な顔が、軽蔑に、眉間にしわを寄せるところは見たくない。







                               





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