SucceedH 良馬 シートベルトを締めてからもしばらく待たされ、ようやく、方向を変えるために飛行機が 動き始めた。小さな窓から覗く景色が回転する。 震えるようなエンジン音が次第に大きくなって、目の前のスクリーンには今走っている滑走路が流れ、そうしてガクンという衝撃とともに飛行機が浮く。 子供っぽいと言われるかもしれないが、昔からこの離陸の瞬間が好きだ。 滑走路を走って飛び立つという姿が、陸上に通じる気がしたからかも知れない。 離陸する飛行機の窓からつい下を眺めてしまうのも、癖だった。 次第に小さくなる家や車を確認する。さすがに緑地が多い。 駿の牧場は、あっちの方向だろうか。 駿の顔がよみがえって、胸が締めつけられる。 「駿」 思わず口の中でつぶやいて、慌てて、隣の席を盗み見た。 幸い、家族サービスで疲れ果てたようなその男性は、固く目を閉じて寝る態勢のようで、俺のことなど気にする様子もない。 シートベルトを外して座りなおすと、再び俺は、駿を思った。 駿が俺のために今週末の騎乗を断っていると知った時、ショックだった――そのことに、全く気が付かなかった自分に。 『悪いな。忙しいんだろう?』 『ううん、夏は騎乗も少ないし。それに、せっかく良馬が来てくれたんだから』 夏は、騎乗が少ない――その言葉を端から信じて疑わなかった。本当なら、新人リーディングを争っている駿なのだから、一鞍でも多く乗ったほうがいいに決まっているのに。 俺のために、二日分損するところだったんだな。 乗り替わりの話が来てよかった。 俺のためになんか、何一つ無理して欲しくない。 それでも――― 『せっかく良馬が来てくれたんだから』 そう言ってくれた駿の気持が嬉しかった。 目を閉じると、この五日間の駿の色々な顔が浮かんでくる。 サクシードの首に腕を廻して、小首を傾げる小さな顔。目の見えない母馬の姿を見つめる、光に煙るような優しい横顔。 夏の風に髪を揺らす、白く透き通った人形のような顔。 楽しそうに笑い、可笑しそうに笑い、恥ずかしそうに笑い、嬉しそうに笑う。 あんなにたくさんの駿の笑顔を見たのに、最後には、結局あの顔に戻ってしまう。 目に涙を滲ませた、傷ついた顔―――俺が、傷つけた。 両手で目を覆っても、駿の顔は消えない。 急に帰ることにしたのは、駿の騎乗の話があったからだけじゃない。 あのまま、駿の傍にいることが辛かった。 あの日、駿を傷つけてまで知ってしまった感情は、押さえ切れないところまで来ていた。 あの柔らかく甘い唇を知ってしまって―――。 それがほんの一瞬だったからこそ、俺は欲深く、それ以上のことを切望した。 駿を傷つけたという死にたいほどの後悔の深さと同じほどに、俺は駿を欲していた。 いつの間にか、駿の唇を見つめている。 その奥の小さな舌を思って背中が震える。 白い喉の薄い皮膚にも、そして華奢な鎖骨にも、口づけたい情動に襲われて耐えられなかった。 あのままいたら、また自分は駿を傷つけようとするだろう。 そして、それは俺たちの終わりを意味する。 この北海道の五日間は、俺と駿とをぐっと親しく近づけたようで、その実、二人の距離はずっと遠くになってしまった気がする。 「ふっ」 知らず溜め息が出て、また隣を窺った。男性はすっかり眠ってしまったようだ。 俺も、寝ようか。少しだけ。 きっと、また、駿の夢を見る。 せめて夢の中では、最後まで笑っていて欲しい。 (駿―――) * * * 「あら、お帰りなさい。戻りは、来週じゃなかった?」 お袋が驚いた様子で、奥のリビングから玄関に出て来た。 「ああ、ちょっと訳ありで、早く戻って来た」 靴を脱ぎながら、いつものようにそっけなく応えると 「楽しく、なかったの?」 心配そうに眉を寄せる。 「いや……」 牧場のお馬の親子を思い出した。 「楽しかったよ。そうだ。土産、買ってきた」 空港の手提げ袋に入った福ふく饅頭とかいう菓子の箱を出して、ついでのように『それ』も渡す。 「それは、お袋に」 「えっ?」 菓子箱をカウンターに置くと、お袋は、ガサゴソと包み紙を開いた。 中身は、白い絹地に北海道の花が刺繍してある大判のハンカチだ。 「あんまり、実用的じゃ無さそうだけど」 照れもあって言うと、 「ううん、すごく綺麗よ。ありがとうね、良ちゃん」 お袋が、涙ぐんでいる。 良ちゃん――その呼び名は、中学で卒業したはずだ。 「別に、泣くほどのことじゃないだろ」 わざと呆れたように言って、荷物を取り上げると自分の部屋に向かった。 「だって、貴方がこんな風にお土産くれるのなんて、修学旅行以来じゃないの」 背中からの声に、つい振り向いた。 グスンと鼻をすすったお袋がそのハンカチで鼻を拭いて、直後慌てて自分のハンカチを取り出した。 「いやだ。シミになるかしら」 土産物のほうのハンカチをタオルに広げて、懸命に叩いている。 俺は、可笑しくなってクスクスと笑いながら、部屋に入った。 「あっ、そうだ、良馬」 お袋が、大きな声を出す。呼び名は戻ったようだ。 「留守の間にね。福永さんっていうお友達から電話があったわよ」 「福永?」 「携帯に電話して下さいってお願いしたんだけど、通じなかったって」 「ああ」 あっちにいる間、俺は携帯の電源は切っていた。 駿と二人でいるときに、携帯を持ち歩く必要など感じなかったのだ。 「電話くださいって。わかった?伝えたわよ」 「わかった、ありがとう」 なんだろう? 今年に入ってから、福永とはかなり親しくなったと言えたが、携帯が通じないからといって家にまで掛けてくるような用事があるのだろうか。 とりあえず、携帯のメモリーを開いて福永の番号を押した。 * * * 「悪いな、こんなところまで呼び出して」 「いや、どうせ暇だし」 翌日の昼。 福永に「会って話がしたい」と言われ、東京競馬場で待ち合わせた。 函館開催中も東京競馬場は開放されていて、ターフビジョンでは各地のレースを流している。当然馬券も購入できるから、まるで巨大なウィンズだ。夏休みだからか、家族連れも多い。 俺は、第六レースに出る駿を見たかったので、ちょうど良いと思っていた。 「今日は、ウマ研の奴らは来てないのか?」 「居るかもしれないが。まあ、ここには来ないな」 「今日は、パドックは用無しだからな」 「ああ、それに、昔は掲示板のオッズや馬体重を見に来たもんだけど、最近はオッズプリンターがあるから」 「ふうん」 俺たちは、パドックの裏にある公園のような場所で、真っ昼間から生ビールを飲んでいた。 北海道に比べて暑さもひとしお厳しい東京の夏だが、こんな風にビールを飲むにはいい感じかもしれない。 ここに来るまでに喉が渇いていたのでビールをぐっと空けると、汗のかいた紙コップをクシャリと握りつぶして訊ねた。 「で、話って?」 「ん?ああ」 呼び出しておきながら、福永の口は重い。ビールのカップを下唇につけたまま、何か考えるようにして言いよどんでいる。おおよそ彼らしくない態度に、焦れて再び訊ねた。 「何だよ。今日変だぞ、お前」 「あのさ」 下を向いたままボソリと呟くように言った。 「進藤亜矢子のことなんだけど」 「亜矢子?」 意外な名前が出るのに驚いて、思わずオウム返しに言うと、 「別れたんだよな、お前ら」 福永が、俺を見た。 唐突な質問に、福永の意図が読めない。 「あ、ああ」 「だったら、その…俺が、亜矢子と付き合ってもいいか」 (ああ、そういうことか) ここに来てようやく俺は、福永の態度がおかしい理由もわかった気がした。 「別に、もう俺は関係ないんだし……亜矢子がいいなら……全然」 別れた俺にまで筋を通そうとする福永に、かえって俺は戸惑った。 「そっか。サンキュ」 「いや、だから、俺は、もう関係無いから」 同じ言葉を繰り返した。 亜矢子に対しては、冷たい言葉かもしれないが。 「そうは言ってもさ。もともと俺と亜矢子が近づいたのって、お前の件があってだし」 「え?」 「前、言っただろ。お前が大学戻ったっていう話をしたら、亜矢子に泣かれたって」 「ああ、そういえば、あったな」 春。髪を切った亜矢子と大学で再会した日を思い出した。『福永君から聞いた』と確かに言っていたな。 「それから、たまに偶然会ってお前のこと聞かれたり。実は……一度だけ、相談されたこともあったんだ」 「そうか……悪かったな」 「いや、だから、それで俺は……亜矢子に近づけたんだけど」 と、言って突然、福永はガシガシと自分の頭をかきむしった。 「ああっ、もう、こういうの俺のキャラじゃねえんだけどよっ」 「福永?」 「だって、嫌じゃん?付き合ってる男とのことで相談受けときながら、そいつと上手くいかなくなったところで横から……」 「そんな、気にするなよ」 「気にするよ。その前の男ってのが、自分の親友だったりして。そういうの、ドラマとかでも、すげえ嫌なヤツだって俺は思っていた」 「え?」 福永の言葉の変なところで、俺は驚いた。 「俺、いつの間に、お前の親友になってたんだ?」 「だから、それは言葉のあやで……っていうか、俺が親友ってそんなに嫌かよ」 「いや、そういうわけじゃ」 何だか論点がずれている。俺のせいか。 「とにかく、俺は、もしこのまま俺と亜矢子が付き合い始めたとしても、お前に変な風に思われたくないんだよ」 「思わないよ」 思うわけがない。 亜矢子に対しては、本当に悪い事をしたと思っている。 福永だったら、いいヤツだし、俺なんかよりずっと幸せにしてもらえるだろう。 「こんなこと言うの変だけど、俺のことは気にしないでくれよ」 「そうか?」 「ああ」 俺が頷くと、福永は大きく息を吐いた。 「よかった。まあ、お前はそう言うだろうとは思ったんだけど、やっぱ、落ち着かなくてさ」 膝を叩いて、立ち上がりながら、 「ビール買ってくるわ。飲むだろ」 俺の返事も待たずに、売店に走っていった。 その背中を見ながら、俺は何となく口許が緩んだ。 亜矢子との話も驚きだったが、さっき福永が勢いで口にした『親友』という言葉がくすぐったかった。 「ほい、これは俺のおごりだ」 生ビールの白い泡の盛り上がったカップを差し出して、福永がいつもの調子で笑う。 「サンキュー。じゃ、遠慮無く」 カップに口を付けたとたん、 「そういや、お前も好きな相手ができたってな」 福永の言葉に心臓が止まりそうになった。 「……亜矢子から、聞いたのか?」 「ん?いや、聞いたと言うか……」 背中が汗ばむのは、暑さのせいばかりじゃない。 俺は、亜矢子に対してのせめてもの誠意として、好きな相手が男だと言う事実を打ち明けている。その亜矢子が、福永に話したとしたら……。 「お前と別れたって話を聞いたときさ。あいつが、振られたって言って」 「うん」 「お前に、好きな相手が出来たからだって。俺に、相手を知っているかって聞くんだよ」 「…………」 気分のいい話じゃないが、しょうがない。 亜矢子は、そして、言ったのだろうか―――その相手が男だと。 「誰なんだよ?」 「えっ?」 「まあ、教えたくねえなら、いいけどさ」 福永は、美味そうに喉を鳴らしてビールを飲み、枝豆を口に放り込む。 (そこまでは話してないのか……) けれども、福永と亜矢子が付き合うようになったら、いつかは亜矢子の口から伝わるだろう。そのとき、この男は、どう思うのだろう。 「ひみつ」 「やっぱりな」 「何だよ、やっぱりって」 「いや、なんか、お前って、恋愛話とかペラペラしそうにないもんな」 「そうか?」 「むっつり何とかってヤツ?」 「違うだろ……」 「冗談。でも、いつか教えてくれよ……そうだな……」 福永が、目を細めて空を見上げる。 「せめて、俺が『俺たち親友じゃん』っていっても、お前が驚かなくなったころにでも」 福永の言葉が胸に染みる。 「……なんだよ、さっきの、根に持ってるのか」 「持ってるワヨ」 俺は、笑った。 笑いながら思った。 いつか、本当にいつか、駿のことを福永に話せる日が来るといい。 この男なら、きっと、ちょっとだけ驚いてそして明るく笑うだろう。 そんな日が―――いつか来るといい。 SucceedH 駿 僕は、自分の指が無意識に唇をなぞっていることに気づいて、慌てて手をポケットに突っ込んだ。 急に顔が熱くなる。 あのことがあってから、僕は無意識に良馬の唇の感触を追うことがある。 たとえ冗談だったとしても――そう思うのは、ひどく辛いけれど――それでも、僕にとってのこの夏の最大の出来事だった。 「良馬……」 今ごろどうしているだろう。 亜矢子さんと会って、お土産を渡しているのかもしれない。 シルクの綺麗なハンカチだった。 ああいうのが似合う女性(ひと)なんだろう。 僕は、また、今日の騎乗を受けたことを後悔し始めている。 もっともっと良馬と一緒に居たかった。 (たった四日と少し……) この騎乗が無ければ、その倍の時間が過ごせたのに。 そう思うと、大事なレースの前なのに気持が全然入らない。 こんなんじゃいけないって、わかってはいるんだけど。 ジョッキールームに入ると、前田のぶしつけな視線が待っていた。 (また…) 不愉快な気持が、顔に出ないよう気をつけながら、前を通り過ぎようとすると 「上手くやったよな」 聞こえよがしの言葉を投げつけられた。 無視しようと思ったのに、前田はしつこく絡んでくる。 「さすが、超大物ルーキー。レースが選べて結構だよな。あのウマなら乗りません。アイネプリンスなら、乗ってもいいです。いったい、何様だよ」 「なっ…」 何で、前田にここまで言われなくちゃならないんだ! カッと頭に血が上った。 「別に、好きで乗るわけじゃない」 良馬の件があって、つい、そう叫んでいた。 「なん、だとお……」 前田の顔が、醜く歪んだ。 「本当に、何様だよ、こいつっ」 乱暴に掴みかかってくる。 「やめろよっ」 その腕を振り払おうとすると、壁に背中を叩きつけられた。 鈍い衝撃にムカッと来て、右足を思いっきり蹴りだしてやった。 「何するんだよっ」 「うっ」 ジョッキールームでいきなり始まった喧嘩に、先輩たちがとんで来た。 「やめろ、前田」 「駿も、よさないか」 「お前ら、騎乗停止になりたいのか!!」 騎乗停止――その言葉に、さすがに少しだけ頭が冷えた。 はあはあと荒い息をつきながら、左右に引き離された僕たちは、それでもまだお互いを睨んでいた。 「いったい、どうしたんだ」 年長の川地さんが、聞いてくる。前田が、僕を指差して、吐き捨てるように言った。 「こいつが、アイネプリンスに、乗りたくて乗るわけじゃないって言ったんですよ」 一瞬、ジョッキールームの空気が冷たく凍った。 それまで、成りゆきを見守っていたような先輩騎手たちが、じっと僕を見る。 その目は明らかに、僕を非難していた。 理由は、直ぐにわかった。 アイネプリンスは、来年のクラシックを狙える良血馬だ。 乗せて欲しいと、富士沢先生に頭を下げた騎手はたくさんいた。 結局、富士沢厩舎の主戦騎手の小早川さんのお手馬になるところだったけれど、落馬で骨折してしまって、僕が乗れることになった。 そのことを羨んだり妬んだりするのは、前田だけじゃないはずだ。 なのに、僕は――――。 「そりゃ、コバの怪我での代役じゃ、プレッシャーも感じるだろう」 川地さんが、場の空気を和ませるようにのんびりと言ってくれた。 「川地さん……」 ポンポンと僕の肩を叩いて、 「まあ、気楽に乗れよ」 軽く笑って、離れていく。 僕達を取り囲んでいた皆も、ゆっくりと散った。 僕はぺこりと頭を下げて、部屋の隅の椅子に座った。 前田は、忌々しそうに僕を見たが、それ以上は絡んでこなかった。 何人かの騎手が前田と話しながら、ちらちらとこっちを見ている。 居たたまれない。 川地さんが取り成してくれたけれど、今日の騎乗を、乗りたかったわけじゃないと思っていたのは事実だ。 プレッシャーとかじゃない。 単に、自分の都合。自分の楽しみが阻害されたのが嫌で、思わず口から出た言葉だ。 『別に、好きで乗るわけじゃない』 僕は―――最低だ。 騎乗を受けろと言ったときの良馬の顔が浮かんだ。 厳しい顔をしていた。まるで、怒っているかのように。 怒っていたのかな、こんな僕に。 仕事に対して、甘いって思ったのかな。そう思われても、しょうがない。 自然と片膝を引き寄せてうつむいた僕の、頭の上から声がした。 「駿」 顔を上げると 「佐井さん」 さっきまで居なかった彼が立っていた。 「何か、あったのか?」 いつもの落ち着いた微笑み。 「……いえ」 どう答えていいか分からずに、目を逸らして唇を噛むと 「レースの前に気を散らすな」 思いのほか、厳しい口調で言われた。 「すみません」 「一人がぼうっとすると、他の人や馬に迷惑がかかる。大事故だって有りかねないんだからな」 静かな声で諭された。 いちいちもっともで、言葉が胸に突き刺さる。 (早く頭を切り替えなきゃ) そう思ったけれど、第六レースの新馬戦、僕は圧倒的一番人気のアイネプリンスに乗りながら、二着に終わってしまった。 「あそこで包まれたのは残念だったけれど、まあ、プリンスにはいい経験になったよ。馬ごみを怖がらない事もわかったし」 富士沢先生がそう言ってくれたけれど、僕は後悔に胸を塞がれていた。 勝てるレースだった。 アイネプリンスは、最後まで足をあまらせていた。 調教師の富士沢先生も、オーナーも、誰も僕の騎乗を責めなかったけれど、アイネプリンスの目が語っていた。 不完全燃焼―――。 誰に何を言われるより、その瞳が痛かった。 その後のレース――小早川さんの乗替に他にニ鞍頼まれていた――も、散々だった。 やっぱり、今日の騎乗は受けるべきじゃなかったんだ。 苦い気持ちで帰り支度をしていると、 「駿、この後何もないなら、ちょっと付き合わないか」 佐井さんに声をかけられた。 「え?」 こんな風に、佐井さんから誘われたのは初めてだ。 「明日は、騎乗ないんだろう?夕飯、奢るよ」 とっさに、どう答えていいのか分からず黙って見つめ返した。 「じゃ、車のところで待ってる」 僕が黙っているのを了承と受け取って、にこやかに微笑むと、先に立って行った。 (なんで?) よくわからないけれど、佐井さんの誘いを断れる新人騎手などいないだろう。 僕も、色々な気持ちを持て余しながら、断りきれず後に続いた。 「佐井さんも、明日の騎乗は無いんですか?」 佐井さんが連れて来てくれたお店は、やっぱり彼らしく上品で高級そうな香りがして、僕は落ち着かず、自分から懸命に話題を探った。 「明日の夜の便でフランスに行くんだよ」 「あ……そうでしたね」 「九月には、帰ってくる」 「ええ」 秋のGTシーズンには、当然いないといけない人だ。 ふと、思った。 「明日からフランスなのに、僕とこんな所でご飯食べてていいんですか?」 佐井さんは、可笑しそうに目を見開いた。 「こんな所は失礼だろう?函館では、最高とまではいかないが、それなりの店だよ」 「あっ、違います。こんなって、お店の話じゃなくて、僕なんかと、って意味だったんです」 慌てて訂正すると 「冗談だよ」 クスクスと佐井さんは笑った。 そして、ちょっとだけ真面目な顔になって言った。 「明日からしばらく会えないから、なおさら話がしたかったんだよ」 その顔に、ドキッとする。 話って? 「……話って……なんですか?」 佐井さんは、黙ったまま、ゆっくりとグラスに口をつける。 僕も、落ち着かなくて、目の前の赤い液体を喉に流し込む。 未成年だけど、こういうところに入って水とか言うのもなんだから、軽いアルコールを貰っていた。 「サクシード、元気だったか?」 突然サクシードの話で、肩に入っていた力が抜けた。 「え?はい」 「秋は、何処から始動するんだ?」 「まだ、よく分かりません。決めるのは、お祖父ちゃんだし……」 あ、お祖父ちゃんって言ったのは、マズかったかも。ちょっと赤面した。でも、佐井さんはそれには気がつかない振りで 「そうか、セントエクセルは、たぶん神戸新聞杯からだ」 目の前の皿に優雅にフォークを滑らせる。 「駿」 「は、はい」 「前にも言ったけれど、俺は、もう一度サクシードと勝負がしたい。正々堂々。どっちが強いのか……」 僕の顔をじっと見る。 「はい」 佐井さんの持つオーラに身体が震える気がした。 「サクシードは、怪我も順調に回復して、来週あたりから調教が始まるって聞いている」 知ってるんだ。それだけ、サクシードのことを気にしてくれている。 僕は、セントエクセルのこと、気にしていただろうか……。 「サクシードが、順調でも……駿、お前がそんなだと、張り合いが無いな」 佐井さんの言葉に、胸を突かれた。 「それ、は……」 「どうしたんだ?今日のレース、お前らしくない」 「…………」 「ダービーの後からかな。たまに『らしくない』乗り方をするようになって」 「すみません」 声が震える。 「責めているんじゃないよ。謝るな」 ちょっと笑って、佐井さんはグラスを空ける。 僕も緊張で喉が渇いて、目の前のグラスを空けて、そして、咳き込んだ。 「おいおい、大丈夫か」 「あ、すみません……」 「だから、謝るなって」 佐井さんが手を伸ばして、グラスを避けると、ハンカチを顔に近づけてきた。 「口、赤くなってるよ」 そのまま受け取って唇をぬぐうと、佐井さんの薄い水色のハンカチに赤いシミが出来てしまった。 「あっ、すみ、ません」 「だから……」 佐井さんは可笑しそうに目を細めて、僕の差し出すハンカチを見た。 「このままあげてもいいんだけど……返して貰うかな」 「え?」 咳き込んだ後の涙目で見上げると、佐井さんはハンカチをポケットにしまいながら、いつもの微笑で訊ねてきた。 「何が、あった?駿」 何、と訊ねられて、どう答えていいのか全然分からない。 色々なことがあった。 でも僕にとって、今、本当に重大なことは、たったひとつだった。 「……言えません」 佐井さんは、首を少しだけ傾けた。 「俺には、ってこと?」 「……だれにも」 俯いて、唇を噛む。 良馬のことを思い出すと、急に体温が上昇する。 身体が、熱い。 「そうか……じゃあ、しょうがないな」 佐井さんが優雅に口許を拭っていると、後ろからお店の人が――ウェイターじゃなくてギャルソンとか言っていた――佐井さんのグラスにワインを注いだ。 静かに僕の後ろに回って、僕のグラスにも注がれる。 僕は、無性に喉が渇いて、そのワインも一度に飲んでしまった。 「駿?」 「はい」 「お前、そんなに飲めないだろう」 「はい」 「馬鹿」 馬鹿……そうだ。僕は馬鹿だ。 身体が熱くなって、目の奥も熱くなった。 頭の中を色々なことが、ぐるぐる回る。 サクシードのこと、アイネプリンスのこと、今日のレースのこと、富士沢先生のこと、前田のこと……牧場のこと……そして良馬のこと――――――――。 (良馬……) 今ごろ、亜矢子さんと会っている。 あの綺麗な花の刺繍の入ったハンカチを渡して、そして、そして――――。 頭の中がぐちゃぐちゃになって、鼻の奥がツンと来て、気が付いたら涙が出ていた。 「駿?」 「僕……もう、駄目です」 自分で、何を言い出したかわからない。 「もう、前みたいに、馬に乗れない……」 泣きたくないのに、涙が出る。 「馬と、ひとつになれない……」 「駿」 「こんな、こんな気持ちのままじゃ、きっとサクシードにも……乗れない……」 口に出して、ものすごく胸が痛くなった。 ごめん、サクシード。 今の僕は、お前に乗る資格は、無いよ。 「うっ……ふっ……」 カッコ悪いけど、嗚咽が出てしまった。我慢する為に、唇を強く噛んだ。 フォークを掴んだままテーブルの上で固く握り締めた僕の手に、佐井さんがそっと手を重ねた。 「誰にも話せないから、苦しいんだろう」 僕は、ゆっくりと顔を上げた。 「俺でよければ、聞くよ」 佐井さんの瞳は、優しかった。 「話して、楽になることもあるだろう?」 佐井さん――でも―― 「だめ……です」 そう答えながら、熱っぽい頭のどこかですがっている。 この気持ちを、誰にもいえないこの想いを、誰かに聞いてもらいたい。 それくらい、僕の気持ちは切羽詰っている。 佐井さんは、いつもの静かな口調で語る。 「一人で解決できるなら、それでもいい。でも、もし、抱え込んで、そのことで苦しくてしょうがないのなら、吐き出したほうがいい」 真摯な瞳で見つめてくる。 「俺が何か助けになれるなんて……思ってない。でも、今のままじゃ駄目だ」 握っていた手に力がこもった。 「今のままの橘駿では、困るんだ。俺が、待っているのは――今のお前じゃない」 「佐井…さん……」 頭の芯がぼうっと痺れて―――そして僕は、良馬のことを話していた。 辛くて、悲しくて、切なくて、どうしようもない気持ち。 愛しくて……愛し過ぎて……苦しい気持ち。 佐井さんが黙って聞いてくれるあいだ、ただ、ひたすら、自分の思いを告げていた。 まるで、良馬自身に告白するように――――。 |
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