SucceedI 駿

朝、目が覚めると、僕は自分のホテルに居た。
昨日の夜のことを思い出そうとすると、急激な羞恥心に襲われてベッドから飛び起きる。
(佐井さん?!)
辺りを見るけれど、当然彼の姿は無い。
確か、タクシーで送ってもらったんだ。
昨日の自分の醜態に、叫びだしたい気持ちになった。
(どうしようっ……!!)
昨日僕は、フレンチレストランで慣れないワインに酔っ払って、良馬とのことを佐井さんに話した。しかも、泣きながら……最低。
それで、佐井さんが二軒目のお店に連れて行ってくれて……記憶が曖昧だけど、たぶんそこでも……良馬のこと、話した。
思わずマクラを掴んで、顔に押し当てた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
自分が佐井さんに話したことを思い出すたびに、顔から火が出そうだ。
良馬に、キスされたことも話した。
佐井さんが、黙って聞いてくれたから、胸の中につかえていたこと全部吐き出して……。
すっきりするどころか、死にたいくらい恥ずかしいよ。
また涙がジワッと滲んできて、マクラの角で拭いたら、目の端にサイドテーブルの上の紙が映った。
「何だろう?」
手を伸ばすと、ここのホテルの便箋だった。
「佐井さん……」

未成年のお前に、飲ませてしまって申し訳ない。
空港から携帯に電話するから、ゆっくり休めよ。

手紙とも言えない走り書き。けれど、佐井さんらしい几帳面で綺麗な字だ。
僕、佐井さんに電話番号、教えていたんだっけ?
なんか、頭が痛い。二日酔いかな。
そんなに飲んじゃいないんだけど、僕は、お酒には弱かった。
その上、悪酔いしそうなことが重なったから……。
そして、再び昨日のことを思い出す。
居たたまれない。
ベッドに倒れこむと、薄い掛布団をかぶって丸くなる。
佐井さんは、どう思っただろう。
二日酔いのはっきりしない頭の中に、佐井さんと良馬の顔が浮かぶ。
(携帯に電話ってなんだろう……)
できることなら、佐井さんと顔を合わせたり話したりするのは、遠慮したい気持ちだ。


けれども、佐井さんは几帳面に約束通り電話を掛けてきた。
シーツの間から這い出て、身体を起こすと、渋々、通話のボタンを押した。
「はい……」
『駿?起きてるか』
「はい……昨日は、すみませんでした」
顔に血が上る。
『いや、俺のほうこそ、すまなかった。お前がそんなに弱いって知ってたらセーブしたんだけどな。でも、お前、自分で飲んだんだぞ。覚えてるか?』
「はい」
いっそ記憶が無ければいいんだけど、残念なことに、ほとんど思い出せている。
『そんなに、暗い声だすな』
佐井さんの笑いを含んだ声に重なって、空港の搭乗案内のアナウンスが小さく流れている。
これから羽田に行くんだ。
『駿に、一言だけ言っておこうと思って。じゃないと、余計、落ち込んでいるかも知れないし』
何だろう。
確かに朝起きたときには、むちゃくちゃ落ち込んでいたよ。
僕が黙っていると、佐井さんは言葉を続けた。
『昨日の話だけどな』
恥ずかしくて、携帯を放り投げたくなった。
『ちゃんと、その、良馬ってやつに言えよ』
(な、なに、言ってるの――――!!)
僕が固まっているのに、佐井さんは事も無げに言う。
『俺に言ったとおり、良馬に言うんだよ』
「そ、んな……」
『大丈夫だよ』
「何が、大丈夫なんですか」
ちょっとムッとして、詰め寄ってしまった。佐井さんは悪くないのに。
『俺の勘が、ね。このまま黙って落ち込んでいるより、当たって砕けた方がいいって言っている』
「砕けたくなんか、ありません」
ははは、と佐井さんは笑った。
『いいから、昨日俺に言ったみたいに言ってみろよ。まず、砕けたりしないだろ』
「そんなこと、何でわかるんですっ」
『天才の勘』
うっ、思わず言葉を失ってしまう。
『冗談だよ。でもね、昨日、駿の話を聞いて思った』
佐井さんの声が、急に真面目なトーンになった。
『その良馬っていう男が、お前の言う通りの男だったら、ふざけてそんなマネするかな』
キスという単語をわざと避けてくれた。恥ずかしいのに、耳が佐井さんの言葉を待っている。
『お前のこと特別に思ってなければ、そういうことはしない。お前の言う、強くて優しい良馬ならね』
「あ……」
昨日僕は、良馬のこと――足の怪我のことも全部――佐井さんに話していた。
『今のままよりは、ずっといいと思う』
「でも……」
『とにかく、昨日みたいな騎乗を続けられたら困る。サクシードだって、呆れて、乗せてくれないだろう。あ、悪い、時間が……』
慌てたように、早口になる。
『いいか、宿題だ。俺が帰ってくるまでに、ちゃんと本人と話をして、前のような橘駿に戻っておけよ。じゃあな……』
突然、携帯が切れる。
なんか言われるだけ言われて逃げられちゃった、って感じ。
(でも――)
僕は、またマクラに顔を埋めた。
朝起きたときの恥ずかしくて死にたい気持ちは、消えていた。
良馬に告白できるかどうかの話は別にしても、佐井さんが、僕の気持ちを真っ直ぐ受け止めてくれて、そして佐井さんらしい答をくれたことが嬉しい。
男の僕が男の良馬を好きだってこと――冷やかしも、軽蔑もしなかった。
僕のために考えて、答をくれた。それが、嬉しい。
良馬とのこと、肯定してくれた人が現れたみたいで――そして、それがあの天才佐井猛流で――。
胸が、熱くなる。
そして僕は、もう一度佐井さんの言葉を繰り返した。

『お前のこと特別に思ってなければ、そういうことはしない。お前の言う、強くて優しい良馬ならね』

どうなんだろう―――
あの日のキスを思い出して、顔が熱くなる。身体が火照る。
僕のこと――特別に、思っている?
亜矢子さんがいても――?
良馬の顔が浮かぶ。唇が重なる直前の、睫毛を伏せた端整な顔。
(良馬……)

『俺に言ったとおり、良馬に言うんだよ』

言ってみようかな。駄目で元々なんだし。
でも、もう少し考えよう。
今は、まだ、ちょっとお酒が抜けていないし、身体が、ふわふわしているし、ちゃんと考えられない。
もうちょっと……もうちょっと……眠ってから……ちゃんと、考えよう。


* * *
火曜日。函館開催での騎乗が終わって、みゆきファームに帰った次の日。
携帯のベルがなって、着信表示を見た僕は心臓が跳ねた。
「良馬」
『ごめん、今、大丈夫か』
「うん。どうしたの?」
『いや。ああ、この間はありがとう』
「え?」
『北海道、世話になったから』
「なんだ、何を言うのかと思った」
良馬ってば、律儀だ。思わず笑ってしまった。
『いや、用件は……実は別にあって』
「えっ、何?」
『来月、こっち、戻ってるんだよな』
「うん」
結局、札幌よりも新潟の方が出るレースが多くて、それには美浦に帰ったほうが都合良かった。
『それで、第ニ週の月曜なんだけど、空いていたら海に行かないか、って』
「海?!」
『忙しければ、いいんだ。無理にとは言わないから。もちろん』
「う、ううん、月曜なら休みだから」
心臓がドキドキいう。携帯を通じて伝わるとは思わないけれど。
『そっか、実はその日、福永たちが静岡に合宿に行っててさ。ちょっとでいいから駿を呼んでくれないかって、あいつがうるさいんだよ。ごめん』
「あ、そう、なの」
ちょっと、がっかりしてしまった。
そうだよね、二人きりなんてわけないよね。
『いやなら断るよ。ただ、前にクラブ祭、勝手に断ってしまったし……一応、駿の気持ちを聞いておこうかと思って』
「あ、うん。ありがとう。行きたいよ。良馬も……一緒なんでしょう?」
『えっ?ああ、もちろん。ええと、福永たちはその前から行っているから、月曜日は俺が車で迎えに行くよ』
「ホント?」
良馬と一緒に、車で、静岡。
これって、ドライブっていわない?
『ああ、東京からなら日帰りでもできる距離だし。もし、次の日も大丈夫なら、一緒にそこのペンションに泊めてもらうけど』
「待って。火曜日のスケジュール見るから」
僕はあわてて手帳をめくった。水曜、木曜は調教が入っていたけど、火曜日は特に取材もなかった。
「大丈夫、火曜の夜までに美浦に帰れれば」
『そうか、じゃあ、帰りも俺が美浦まで送るよ』
「う、うん」
顔がふわっと熱くなる。
『じゃあ、また詳しいこと電話するから』
「うん」
携帯を切ってからも、僕は落ち着かなかった。
(良馬とドライブ、良馬と海)
ふわふわした気持ちで、サクシードの馬房に向かう。
三ヶ月間の放牧ですっかりおデブになってしまったサクシードが、僕の姿を見て、鼻を鳴らした。
「サクシード」
その首にすがり付いて顔を寄せる。
ビロードのような、すべすべして暖かい感触。サクシードの匂いがする。
「サクシード、僕ね」
小さい声で囁くように言葉にすると、胸が熱くなる。
「僕、良馬が好きなんだよ」
佐井さんに言われて、僕は心を決めていた。
良馬に気持ちを伝えよう。
駄目でも、良馬なら僕を軽蔑したりはしない。
勝ち負けで言ったら、全然、勝算無いんだけれど、でも、このままでいるよりいい。
自分でけじめをつけないと、本当に、サクシードにも乗れなくなるから。
「良馬が、好きなんだ」
練習のように、繰り返す。
「良馬が、好き」
サクシードが僕の服の背中を噛む。
「妬いてるの?サクシード」
顔を上げてサクシードを見ると、黒い瞳がとても優しかった。切ないくらいに。
「サクシード」
僕はまた、暖かな首にぎゅっとしがみ付いた。


約束の日。
良馬が、白い車――僕は、免許も持ってなくて、車の種類がわからない――で迎えに来てくれた。ピカピカだ。車種はわからないけど、新しくて立派なのはわかった。
「これ、新車?」
訊ねると、
「親父のね」
ちょっと照れたように笑った。
ドアを開けようとして、一瞬迷った。
(後ろの方がいいのかな)
助手席には彼女しか乗せない、って言ってた人を知っている。
「何してるんだ?」
後ろのドアに手をかけかけた僕に、良馬が呆れたように言う。
「後ろに乗るなよ。なんか、運転手みたいじゃないか、俺が。まあ、そうなんだけど……」
「あ、ごめん、なさい。あの、慣れてなくて」
慌てて、助手席のドアを開ける。
相手が良馬じゃなきゃ、こんなこと気にしないよ。
ごそごそ乗り込んでシートベルトを締めると、前を向いたままの良馬が笑って、
「それでは、行きますか」
キーをひねってエンジンをかけた。
僕は、運転する良馬の横顔を盗み見つつ、思いがけずプレゼントされたドライブに幸せな気持ちになった。










SucceedI 良馬


福永からその話があったときは、正直、躊躇した。
「ウマ研の合宿でさ、静岡の海の近くのペンション借りているんだけど」
「ああ?」
「橘駿、呼べないかな」
「また、何言ってんだよ」
思いっきり眉間にしわを寄せると、福永はあっけらかんと答える。
「だって、お前『クラブ祭、実は、駿も来たがってた』って、言っただろ?」
「うっ」
「誘ってみてくれよ。案外、来たがるかも」
「それは無い、と思うけどな」
「何でだよ」
「うーん」
根拠は無い。
「言っとくが、俺たちはミーハーな競馬ファンじゃねえぞ。橘駿が来たからって、キャアキャア言って迷惑かけたりはしない……と思う」
「思う、かよ。いまいち信用ならんな」
「まあ、ほら、顔出してくれるだけでもいいし、泊まってくれるなら特別ルームを準備するよ」
「ペンションでどうやって、特別ルームを」
「大丈夫、大丈夫」
福永は、屈託無く笑う。

俺は駿の顔を思い浮かべると、いつものように、心が騒いだ。
北海道で別れたときは、自責の念で押し潰されそうになっていた。
押さえきれない衝動に、逃げるように駿から離れたものだ。
けれど、実際に離れると、苦しいほどに駿に会いたかった。
会いたい。傍にいて欲しい。

駿と一緒に、静岡の海に出かける。
それは実のところ、俺にとっても、おそろしく魅力的な話だ。
「聞くだけ、聞いてみるよ」
そっけなく言ったが、その後、駿が『行く』と言ったときには、内心、舞い上がってしまった。


「親父、来月の頭に車借りるよ」
「いいが、新車なんだから傷つけるなよ」
「つけないよ」
「ドライブか?」
「大学のサークルの合宿」
「サークルって、どこか入ったのか、お前」
親父がちょっと驚いた声を出す。
陸上をやめてからの俺が、何か始めるとは思ってなかったらしい。
「いや、友人のサークルに、ちょっと便乗」
「そうか」
「まあ、そのうち何か始めたら、教えてやるよ」
「そうか」
咳払いして、親父は夕刊を広げる。
「ご飯できたから、テーブルの上片付けて」
キッチンからお袋が出てくる。
「良馬、運ぶの手伝ってちょうだい」
「はいはい」
このところ、半年前が嘘のように、我が家は暖かな雰囲気に包まれている。
安っぽいホームドラマのようで照れるけれど、あの頃よりはずっといい。
駿と出会ったおかげだと思う。
駿に対する気持ちはまだ胸を騒がすけれど、もう二度と衝動的に傷つけるようなマネはしない。
それが、駿の傍にいるために、守らないといけないルールだ。
駿を愛している。
だから、絶対に、傷つけない。


* * *
「絶対に、傷つけるなよ」
早朝、家を出る俺に、出勤前の親父はしつこく念を押した。
「大丈夫だって」
昔から日産車好きの親父が、ついこの間思い切って買い換えたシーマ。
確かに俺は、陸上をやっている頃はドライブなんかする暇も無くて、運転することもあまり無かったけれど、それでも親父より上手いと思っているんだが。信用無いらしい。
苦笑いが出てくるのを堪えつつ、車のキーを手の中で転がす。
これから、駿を迎えに行くのだと思うと、心が浮き立ってしまうのはしょうがない。
「安全運転、心がけます」
「当たり前だ」


約束した駅前で、駿を拾う。
「これ、新車?」
小首をかしげて訊ねてくる駿は、大きなプリントの付いたTシャツに、白い膝丈のパンツ姿。ほんの少しだけ焼けた手足がすらりと伸びて、いかにも少年らしかった。
「親父のね」
あの歳にしてはいい趣味だ。親父に感謝した。
そして突然、俺は、思わずおかしな声を出してしまった。
「何してるんだ?」
駿が、後ろのドアに手をかけている。
(何で、後ろ?)
それじゃあ、タクシーかハイヤーのお迎えだ。
「後ろに乗るなよ。なんか、運転手みたいじゃないか、俺が。まあ、そうなんだけど……」
「あ、ごめん、なさい。あの、慣れてなくて」
頬を赤く染めて慌てて助手席のドアを開ける駿を可愛いと思うと同時に、不安になった。
(前に、あんなことしたから警戒してるのか?)
胸が痛んだ。
まさか……ね。
男同士なんだし、俺の考えすぎだ。
無理に、そう思うことにした。
駿の顔をチラリと探ると、なんだか嬉しそうに見える。
その顔に、俺も嬉しくなる。
「それでは、行きますか」
静岡の海に向けて、シーマを走らせた。



「おおおっ!!」
「来た来た、本当に来た!」
競馬研究会のメンバーは、もう夜のバーベキューに向けて野菜を切ったり肉に味付けしたりと忙しそうにしていたが、俺たちが着いたのを見て、駆け寄ってきた――駿を、見たくて。
俺は、色々考えて駿のことを秘密にする事はやめたのだが、こんな風に駿が騒がれるのは、正直、嬉しくない。独占欲だろうか。
途中、名物のうなぎを食べたりして、ことさらゆっくり来たのはそのためだ。
「うわ、本物だよ、橘駿」
「写真より、可愛い」
「やっぱり、小さいな。アッ、失礼」
鈴木や桜井が興奮して口々に言うのに、後ろからのっそり現れた安さんが
「こら、お前らぁ、天才ジョッキー捕まえて、何、失礼かましてんだ」
一、 二年生を押し退ける。
駿は、びっくりして固まっていたが、安さんの顔を見て、ふっと笑った。
「あ、安さんですね。良馬から聞いてます」
大学生のくせに競馬道二十年、年齢不詳の安さんの武勇伝は、来る途中での話題の一つだった。
「うれしいねえ。野郎ばっかりのつまんねえ合宿だけど、楽しんでってくれよ」
髯面の強面だが、目が優しい。
そう駿には言っていたのだが、まさにその通りの顔で笑う。
「はい。お邪魔します」
駿がペコリと頭を下げると、周りから歓声が湧いた。

競馬研究会のメンバーの中には俺自身初対面の相手もいたけれど、安さんが上手く計らってくれたおかげで、夕方からのバーベキューは和やかに楽しめた。
案の定、駿は人気者で、入れかわり立ちかわり取り囲まれては質問攻めにあっている。
けれど、けっして嫌そうではなかった。
初めのうちこそ、俺は、独占欲を刺激されて胸がチリチリしたけれど、頬を少し赤くして一生懸命応える駿の顔を見て、次第に微笑ましい気持ちになる。
何より、応えるたびに、
『これで、いいかな?』
と言わんばかりに、俺の顔を見上げる駿が、可愛くてたまらない。
ときたま、俺を呼ぶのにシャツの裾を引っ張る仕草も、可愛い。
口許が緩みかけるのをごまかすのに、ビールを度々口に運んだ。
駿の前には、皆が持ってきた肉や野菜が山のように積まれている。
ビールを注ごうとする奴もいたけれど、
「未成年なんで」
駿が断ると、
「じゃ、かわりに保護者の方に」
そのまま俺のグラスに注ぐ。
俺は、自分が意外に酒が飲める方だということを知った。
「藤木、このままウマ研、入れよ」
福永が、嬉しそうに言う。
「あれ?まだ、入ってなかったんだっけ?」
田村が、肉を食いちぎりながら俺を見る。
「悪いな、どっちつかずで」
俺が言うと、安さんがガハハと笑った。
「どっちでもいいぜ、藤木良馬。お前らセットで名誉会員だ」
「いいんですか?」
軽い気持ちで応えると、
「名誉会員は、会費は倍だぞ」
「そりゃ、いいや。名誉職だからな」
安さんと、田村の言葉に隣にいた駿が笑った。
「僕、それでもいいですよ。名誉会員にしてください」
駿が言うと、またもや歓声が上がる。
楽しそうな駿の顔に、ここに来て良かったと思った。


「今、何時だ?」
突然、安さんが尋ねると、
「八時…」
「八時五分っすよ」
口々に返事が返る。
「そろそろ始めるか」
のっそりと、安さんが立ち上がる。
「そうですね」
「暗くなったし」
「ここは、このままでいいよな」
ウマ研メンバーが、次々立ち上がるので、俺と駿は顔を見合わせた。
それに気がついた安さんが
「花火だよ。これも恒例なんだ」
それらしい大きな袋を両手にかざして笑った。


「あぶねぇから、こっち向けんな」
「火くれ、火」
「だから、あぶねえってばっ!!」
「ヤメロー!桜井っ」
情緒の欠片も無い、爆弾のようなロケット花火を大量に打ち上げて騒ぐ鈴木たち一、二年を見ながら
「なぁんか、男ばっかの花火大会ってウツクシくないねぇ」
俺の隣に並んだ田村が言った。
「そういえば、競馬研究会って、女子はいないのか?」
「いや、何人かいるけど。この合宿は毎年男ばっかりなんだよ」
「何で?」
「オンナいると、面倒なこと多いじゃん。大体、圧倒的に男の方が多いんだし。そこにニ、三人女が混ざると、ややこしいんだよね」
田村と俺がそういう会話をしていると、花火の束を手にした福永が来て言った。
「とか言って田村は、本当はマユミちゃんが合宿に来ると、他の奴らがちょっかい出すんじゃないかと気が気でない」
「なんだよ、福永ァ」
睨む田村を軽く無視して、福永は、俺と駿に花火を手渡しながら言った。
「こいつってば、今年入った新人の女の子まんまとゲットしたんだよ、結構可愛いの」
駿に向かって、ふざけたような顔で笑いかける。
「どこが良かったんだかね、このキツネ面の……」
と、最後まで言わないうちに田村に後頭部を殴られた。
「てっ……いてぇよ、本気で殴ったな」
「人のことベラベラしゃべるくらいなら、自分の話しろ。そういや、お前だって国文科の亜矢子とデートしてたろ、この間」
「えっ、ばかっ」
俺を気にして、福永が慌てた。
田村は、俺と亜矢子のことは知らない。
俺は、何でもないように笑った。本当に、今はもう何でもないのだから。福永に、余計な気は使わせたくない。
「よかったな、福永。彼女いない歴の更新が止まって」
「藤木……」
「そうそう、馬の尻しか追いかけてないと思っていたら、いつの間にやら、あんな美人とくっついてんだからなァ」
田村がニヤニヤ笑いながら、
「藤木、知ってる?国文科の進藤亜矢子」
吸っていた煙草で花火に火をつけようとする。
「え、まあ…よく」
言ってしまってから、少し意地が悪かったかと福永を見ると、福永は気まずそうに頭を掻いた。
「うぉっとぉ」
田村が手に持ったレインボウなんとかと言う名の花火の先から、勢いよく火が吹き出した。
最初の火が収まると、その名の通り七色の光がシャワーのように広がって、暗い中に大輪の花を咲かせる。
「へえ、これは綺麗だな」
素直に、感嘆の声が出た。
「俺は、もっと情緒のある線香花火なんか好きだけどねぇ……しみじみと、控え目な俺らしくて」
「田村、両手にそれ持って言っても、嘘臭いぜ」
いつもの調子に戻った二人のやり取りに笑い、そして花火を持つ駿に向かってライターを差し出す。
「ほら、駿もやろう」
何故か駿は、ぼうっとした顔で俺を見返した。
「どうした?」
「あ、ううん」
花火を握って差し出した。
ライターで火をつけようとすると、花火の先が揺れて、うまく火がつかない。
見ると、駿の指が小刻みに震えていた。
「駿?」
「あ、ごめんなさい」
「ひょっとして、寒い?」
「ちが…っ、その、ちょっと、緊張……」
ふっ、と俺は笑った。そりゃそうだ。真夏の静岡、夜になってもこれだけ暑いのに、寒いなんて聞いた俺はどうかしている。
「いいよ。貸して」
俺は、駿からいったん花火を受け取って、火をつけるとすぐに返した。
駿に花火を持たせるとき指先が触れて、情けないことに、まるで初恋中の子供のように胸がときめいた。
赤、オレンジ、黄色、緑……次々に変化する光の華を、二人で見つめる。
横顔をそっと窺うと、花火の光で駿の小さな顔が闇に浮かび、それはちょっと幻想的なくらいに綺麗だ。少し伏せられた長い睫毛が、頬に影を落とす。何か物思いに耽るような、儚げな表情。
花火よりも駿の顔に見惚れていたら、視線を感じたのか、駿が静かに振り向いて俺を見た。
「あ、ごめん」
目が合って慌ててしまい、咄嗟に何故か謝った。
「良馬……」
駿が小声で話し掛ける。
福永も田村も皆自分たちの花火で盛り上がっているので、俺たちの会話が聞かれることは無かっただろうが、駿は俺の袖を引くようにしてその場を離れた。
「どうした?」
駿の様子が、おかしい。
「良馬……」
「うん」
「あの……さっき言ってた、亜矢子さんって……良馬の恋人じゃないの?」
「えっ?」
驚いた。
何で、駿が亜矢子のことを知っているんだ?

俺たちは、じっと見つめ合った。




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