SucceedG 良馬

馬の肌は想像以上に暖かく、馬の背は想像以上に高かった。
こんな高くて不安定なところに乗って、あれだけのスピードで走れるのだから、やっぱり騎手というのはすごい。
俺がそう言うと、駿は、はにかんだような笑顔を見せた。
「良馬だって、初心者とは思えないくらい上手だよ。やっぱり運動神経いいんだ。明日は、馬で牧場の中を回ってみようね」
「いいのか?」
「いけない所もあるけど、一緒に回るから」
「楽しみだ」
「お弁当作ってもらうね」

* * *
そして俺達は、計画通りに翌日、午前中の仕事を終えてから二人で遠乗りに出た。
俺は、サッちゃんこと往年のダートの女王(俺が勝手につけた肩書きだ)サンドラゴッディスとの息も合うようになった気がして、いたく御満悦だった。
「いい天気だな」
「うん」
七月の北海道の空は、東京では見ることの出来ない、澄んだ青色で視界いっぱいに広がり、馬の背に乗っていつもよりそこに近づいた俺を、そのまま吸い込んでしまいそうだった。
「危ないよ、良馬。ちゃんと前見て」
空を見上げてぼっとしている俺に、駿が心配そうに声をかける。
「ごめん、気をつけるよ」
俺の隣に並んだ駿は、やはり年取った乗馬用のソロンという馬に跨り、ゆっくりと歩を進めていた。
「落ちてもいいけど、馬の足元に落ちちゃダメだよ。蹴られたら大変なことになるからね」
「落ちないように、気をつけるよ」
「ふふふ……」
笑う駿の横顔。風が前髪を揺らす。
ふいに胸が締め付けられるほどの情動を覚えた。
「何?」
じっと見つめる俺の視線に気が付いて、駿が小首をかしげて振り向く。睫毛の長い大きな瞳を見開いて。
「いや……その」
上手く誤魔化す言葉すら出せず、思わずサンドラの腹を蹴ると、それを合図に速足になった。
「うわっ」
「良馬?!」
「駄目だ。止まらない。どっちに進めばいい?」
振り返って叫ぶと、駿が慌てて追ってきた。
「進んじゃダメ。手綱を引いて」
ソロンに乗ったまま俺の横に並んで、俺の手綱を握るが、サンドラが嫌がって首を振った。
落とされないように足できつく挟むと、踵が当たったらしくサンドラが暴れた。
「あっ、こら」
「良馬っ」
駿は、ソロンから降りてサンドラの手綱を取る。
俺は、首根っこにでもしがみ付けば良いのにカッコ悪い気がして、何とかそのままバランスをとろうとした。
鞍の上から、ずるりと腰が滑った。
「うわ」
「やっ…」
「あ…たっ」
サンドラゴッディスの背中から振り落とされた俺は、そのまま下にいた駿の上に覆い被さった。駿の小さな身体を下敷きにしてしまって、慌てて肘をついて身を起した。
「ごめん。大丈夫か?」
覗き込むと、牧草の上に倒れた小さな顔が、泣きそうな表情で見つめ返してきた。
「駿……」
駿は、大きな瞳を見開いて黙って俺を見返す。頬がほんのり赤く染まって、唇が小さく震えている。
駿の瞳の中に、自分の顔が映り、その後ろには北海道の青い空が見えた気がした。
その空に、吸い込まれそうな気持ちになって、俺は――――。

衝動的に、駿に口づけていた。

ほんの、一瞬のことだった――と、思う。
はっと我に返って、慌てて駿から離れた。
駿は、呆然としたまま動かない。
それはそうだろう。いきなり男からキスされたんだ。びっくりしているに決まっている。
俺は、この場をどう取り繕うべきなのか、必死になった。
「ご、ごめん」
自分の口許を隠しながら、視線も合わせず、俺は言った。
「なんか、落馬なんかして……びっくりしたもんだから……その」
駿がゆっくりと首を動かしたのが、目の端に映った。
「おふざけにしても、度が過ぎだよな。ホント、ごめん」
俺は、深々と頭を下げた。顔に血が上ったのを見られたくない。
しばらく下を向いていたら、駿の声が風の音のように小さく震えた。
「ふざけたの?」
「あ、ああ。ごめん」
自分の拳を見つめたまま応えた。駿が起き上がるのが気配でわかる。
「……そういう冗談は……好きじゃない」
冷たく聴こえる声に血の気も引いて、顔を上げると、駿の酷く傷ついたような目が俺を見た。
ズキン……と胸が痛んだ。
「ごめん……」
傷つけた。
馬鹿なことをして、駿を傷つけてしまった。
俺の、一瞬の情動のために。
どんなに謝っても、もう、無かったことになどできない。
俺は、唇を噛んだ。


「良馬は、今までたくさんキスした?」
突然の駿の問いかけに、言葉が見つからない。
「僕は……」
腕や肩についた牧草を払いながら、駿が立ち上がる。
「僕は……無いよ」
膝を軽く叩きながら話す駿の顔は見えない。
俯いてこぼれかかる柔らかな前髪の隙間から、長い睫毛がほんの少し震えているのだけが、わずかに見えた。
「だから……」
顔を上げたとき、駿は泣いていた。
手の甲で唇を押さえながら、目じりに涙をためていた。

馬鹿だ―――俺は、馬鹿だ。

自分の気持ちだけで駿を傷つけ、折角のこの関係すら終わりにしようとしている。
(いや……それは、嫌だ……)
せめて、今まで通りの、仲の良い友人としての関係だけは、何としても守りたい。

「ごめん……駿……冗談だから、忘れてくれよ。酷い冗談だろうけど……その…事故だった、って……落馬した時の、偶然の事故にしてくれれば……」
言いながら、俺まで泣きそうになった。本当に、俺は馬鹿だ。
「だから、駿は、なんにも……されてなくて……」

「もう、いいよ」
駿は、ぐいっと親指の付け根で涙を拭うと、無理したように笑った。
「僕も、ごめんなさい。男のくせに、女の子みたいにグジグジ言って」
「駿……」
「サッちゃんを連れ戻さなきゃ、あんなに遠くに行ってる」
「あ、ああ」
「ソロンで先に行って捕まえてくるから、良馬は追いかけてきて。ゆっくりでいいよ」
軽々とソロンに跨ると、駿は駆け出す。
遠ざかる背中を見つめて、俺は、また唇を噛んだ。

柔らかな感触、甘い息――ほんの僅かの官能のために、失ったものの大きさを噛み締めた。













SucceedG 駿

―――それは、一瞬とも永遠とも思える時間だった―――


良馬が誤って腹を蹴ったので、サンドラゴッディスが急に駆け出した。
「うわっ」
「良馬?!」
「駄目だ。止まらない。どっちに進めばいい?」
「進んじゃダメ。手綱を引いて」
そのまま走って、他の馬がいる所まで行かれたら厄介だ。
手綱を取ろうとしたけれど、嫌がって暴れる。サッちゃんは素直で大人しい馬なんだけど、臆病だから、ごくたまにこういうパニック状態になる。
なんてことだろう、僕がついていながら。
良馬が、落馬して怪我したらどうしよう。
僕は必死にサッちゃんをなだめたけれど、駄目だった。
良馬の身体が、バランスを崩す。
せめて馬の脚からは出来るだけ遠くに落ちてもらおうと、良馬の身体を引っ張った。
当然、僕の力ではとても良馬を支えきれず、草の上に二人して倒れこんだ。
「うわ」
「やっ…」
重い。良馬の身体が覆い被さって、瞬間、息が止まるかと思った。
「あ…たっ」
慌てて起き上がった良馬が、僕の顔を覗き込む。
「ごめん。大丈夫か?」
僕は、良馬が無事でホッとしたのと、あまりにも近くに良馬の顔があるのとで、混乱して返事が出来なかった。
「駿……」
良馬の瞳がじっと僕を見つめる。
僕は、その深い瞳に見惚れて、身動きも出来なかった。
そして―――。

突然、良馬が僕にキスをした。

―――それは、一瞬とも永遠とも思える時間だった―――

良馬が、僕に、キスしている。
乾いた、けれども押し包むような唇の感触に、頭の中が真っ白になる。
唇から全身に熱が広がって、麻酔でも打たれたように動けなくなった。
良馬がいつの間にか離れていても、僕は、ぼうっと青い空を見つめていた。

「ご、ごめん」
良馬の声に、意識を引き戻される。
「なんか、落馬なんかして……びっくりしたもんだから……その」
何を、言っているの?
ぼんやりと、麻酔の切れかけた患者みたいに、働かない頭を巡らせた。
「おふざけにしても、度が過ぎだよな。ホント、ごめん」
おふざけ―――良馬の言葉に、一気に血の気が引いた。
今のキスは―――
「ふざけたの?」
本気だと、言って欲しい。
「あ、ああ。ごめん」
本気で、僕にキスしてくれたんだと―――言って欲しかった。

けれど、そんなことはありえない。僕達は男同士だし、良馬には恋人がいる。
「……そういう冗談は……好きじゃない」
呟いた言葉は、まるで他人の声のように聴こえた。
「ごめん……」
謝られて、かえって泣きたくなった。
「良馬は、今までたくさんキスした?」
何を、言うんだ。自分で自分が止められない。馬鹿なこと言ってるって分かっているのに。
でも、悲しかった。
僕にとっては、生まれて初めてのキスだった。それも、一番好きな人から貰った……
「僕は……無いよ」
一番、好きな人―――その、良馬には亜矢子さんという恋人がいる。
会ったことも無いその人の、紅い唇が勝手に浮かんでくる。
「だから……」
悲しかった。大好きな良馬から、ふざけてキスされたこと。

「ごめん……駿。冗談だから、忘れてくれよ。酷い冗談だろうけど……その、事故だったって……落馬した時の、偶然の事故にしてくれれば……だから、駿は何にも、されてなくて……」
懸命に言い募る良馬の言葉が、胸をえぐる。
ふざけたこと――僕にキスしたこと――後悔しているのがすごく良く分かるから、胸が苦しくなる。
「もう、いいよ」
良馬は悪くない。ふざけただけ。
僕の勝手な想いが、良馬を困らせているんだ。
自分で、勝手に傷ついているんだ。
冗談だったんだから、もっと軽く受け取るべきだったのに――カッコ悪い。
涙なんか見せて。
「僕も、ごめんなさい。男のくせに、女の子みたいにグジグジ言って」
「駿……」
「サッちゃんを連れ戻さなきゃ、あんなに遠くに行ってる」
「あ、ああ」
「ソロンで先に行って捕まえてくるから、良馬は追いかけてきて。ゆっくりでいいよ」
ソロンに飛び乗って、思い切り蹴った。
また、涙が出てきた。
駄目だ。良馬が追いつくまでには、ちゃんとしておかないと。
何でもないように、見せないと。
僕は大きく息を吸って、もう一度、涙を拭った。



* * *

それから僕達は、少しだけギクシャクしながらも、何事もないように一日を過ごした。
良馬は相変わらず優しかったし、僕も、いつも通りを心がけた。
けれども、不自然なくらい、さっきの良馬のおふざけについての話題は出なかった。
当たり前だよね。僕が、あんな過剰な反応しちゃったんだから。
きっと、良馬も内心呆れている。

次の日の朝、いつものように早起きして、良馬と一緒に馬房の掃除をしていると、いきなり山本さんが現れた。
「久しぶりだな、駿」
「山本さん、どうしたんです?こんなに早い時間に」
「いや、こいつが牧場に行くなら、夜明けの風景を取りたいってしつこく言うんでね」
山本さんの後ろから、天城さんが申し訳無さそうに顔を出した。
「ごめんね。一度、断られているのに来ちゃって」
「天城さん……」
「いや、こいつは、今回は俺の取材の同行者だから」
山本さんが、言い訳する。
「馬を撮るのに、付いて来て貰ってんだよ」
「そのついでに、駿君の写真もちょっとだけ撮れると、嬉しいんだけどね」
「馬鹿っ、それは後で、って言ったろ」
山本さんが、天城さんの脇を小突く。
僕は、つい吹き出してしまった。
正直、昨日のことで良馬と気まずい今は、山本さんたちが来てくれたことがありがたかった。あの時は、邪魔しないでなんて思っていたのにね。本当に勝手な考えに自己嫌悪。
「あ、良馬。紹介するね。一昨日話した《週間勝鞍》の山本さんと、カメラマンの天城さん」
「はじめまして」
「こちらこそはじめまして、宜しく。君が、駿の初めてここに連れてきた友達って奴だ」
山本さんは、まだ良馬の紹介も終わっていないのに、馴れ馴れしく手を取って握手する。
「何で、知っているの?」
「電話で、オーナーから聞いた」
お祖父ちゃんてば。
「それで、今週末は騎乗を入れなかったんだってな。全く、新人のくせにレース選ぶなんて。生意気だよ」
山本さんの言葉に、良馬が僅かに眉を開いて僕の顔を見る。
マズイ。
「そんなことより、山本さんは、何を取材しに来たの?サクシードなら、あっちの馬房だよ」
「ああ、実は先に見てきたよ。後で写真も撮らせてもらう。かなり太いようだが、もう大丈夫だな」
「うん、どうせ今月末からは調教ダイエットするんだから、今はあれくらいでいいんだよ」
「サクシードの全弟も受胎しているってな」
「エアシンディでしょ。もう高齢出産だから、大事を取っているの。写真はお断り」
「おいおい」
上手く話しは逸れたけれど、良馬は何か言いたげだった。


山本さんと天城さんに、今年生まれたうちの子を紹介しながら、ゆっくりと牧場を歩いた。
良馬は少しだけ離れたところから、僕たちの話を聞いている。
たまに天城さんが気を使って話し掛けると、穏やかな笑顔で応える。その顔を見ると僕は切なくなった。
「良馬君って、いい名前だね。そういえば上の名前聞いてなかった」
「藤木、です」
「藤木良馬……」
天城さんが小さく呟いた。山本さんが、それを受けた。
「聞いたことあるな。何か、スポーツやってたか?」
「え?はい……陸上を」
「ああ、あの百メートルの!」
山本さんが大声を出す。
どうしよう。良馬の足のことを思い出してヒャッとした。
良馬は、変わらず穏やかな顔で、
「残念ですが、足を悪くして、今はやめたんですよ」
ごくあっさりと応えた。
「そうか。そりゃあ、残念だったな。俺は、スポーツ記者になりたての時……」
山本さんの話に、良馬が頷いている。陸上の話に笑っている。
その横顔に、また胸が苦しくなった。
良馬が、好きだ。
強い良馬が好きだ。
強くて、優しい良馬が……
「駿君?」
突然、呼びかけられて、ビクッとした。
「どうしたの」
「いえ」
天城さんがカメラを構えて微笑む。
「一枚だけ、撮っていい?」
「いえ……」
「写真集用じゃないよ。記念写真。みゆきファーム訪問記念」
「え」
「ほら、ヤマさんも入って、良馬君も」
「いえ、俺は……」
「ホラホラ」
いつになく妙にテンションの高い天城さんに振り回され、気が付けば《撮影会inみゆきファーム》が始まっていた。
そういえば、良馬と一緒に写真に写るのは初めてで、ちょっと照れくさいけれど嬉しかった。


お昼を食べに皆で家に戻り、食後のお茶を飲んでいた時に、山本さんの携帯が鳴った。
「はい。どうした?……え?……それで、容態は?……そうか……アイネプリンスの、そうか、ああ……いるよ…待って」
山本さんは、携帯を僕に差し出した。
「小早川が、今朝の調教で落馬したらしい」
「え?」
「それで、今週末の新馬戦でアイネプリンスの乗り役がいなくなって、富士沢先生がお前に乗って欲しいと言っているらしい」
「え……」
「電話は、うちの緒方だ。先生に繋ぐって。ほら、出ろよ」
「ま、待って……」
富士沢厩舎は、毎年全国のリーディングに立つ、優秀な馬をたくさん抱えた厩舎だ。
橘のお祖父ちゃんの厩舎も頑張っているけど、まだ一度もダービーはとってないし、富士沢先生の所に比べたら、まだまだだ。
その富士沢先生が、アイネプリンスの乗り役に僕を指名してくれたっていうのは、ものすごく光栄な事だけど……
「何、考えてんだよ、駿。アイネプリンスだぞ」
山本さんの声が厳しくなった。
「アイネクラウンの全弟で、来年のクラシックを狙おうかって馬だ。そのデビュー戦に乗せて貰えるのに、何、悩む必要がある」
そうだ。本当ならこっちから頭を下げて乗せてもらうほどの馬だ。
それなのに、僕は、今週末に騎乗を入れることを迷っている。
「駿、俺は明日帰るよ」
突然、良馬が言った。
「俺に合わせて、騎乗を断っていたんなら、気にしないで入れてくれよ」
良馬の端整な顔が、眉を顰めて歪んでいる。
「ちがう」
「違っても、何でも……駿、その騎乗は受けるんだ」
口調がきつい。
「良馬……」
どうしよう。良馬……怒っている?
「おいおい、とにかく早く電話に出てくれよ」
山本さんが、呆れたように携帯を振るので、渋々受け取った。
「……もしもし」
『ああ、橘君』
電話の声は、既に富士沢先生に代わっていた。
「すみません、お待たせして」
『いや、どうにも困ってね。佐井君はもちろん、井守君も児島君も、皆、先に依頼された馬がいて。でも、君が空いていて良かったよ。君なら、アイネプリンスを任せられる』
「先生……」
僕は、山本さん、天城さん、そして良馬の見つめる中、騎乗の依頼を受けた。


* * *
「ごめんね。最後こんなに慌しくなって」
「何、言ってる。楽しかったよ。ありがとう、駿」
千歳空港で良馬を見送って、僕も直ぐ函館空港に飛ぶことになっている。
「あ、そうだ」
チェックインをしようとした良馬が、何か思い出したように首を巡らせて
「土産、買っていかないと」
空港の売店に足早に行くと、迷わず手近の和菓子を取った。
そして奥の方を覗いて、今度は少しだけ迷いながら、女性物のハンカチを手にした。
ズキッ、と胸が痛んだ。
亜矢子さんへのお土産だ。
「悪い、待たせたな」
「ううん」
「じゃあ、本当に、ありがとう」
「うん、また」
「ああ、また……レース、頑張れよ」
「うん」
良馬は微笑んで、クルリと背を向け歩き出した。
搭乗待合室に入る直前、一度だけ振り返った。


―――そうして、僕たちの夏が終わった。




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