SucceedF 良馬

千歳空港には駿が迎えに来ていた。
牧場で働いている河田さんという人が一緒で、その人が車を運転してくれると言うので、俺と駿は後部座席に並んで座り、外の景色を一緒に眺めた。
「悪いな。忙しいんだろう?」
「ううん、夏は騎乗も少ないし。それに、せっかく良馬が来てくれたんだから」
駿はニコッと笑った。
一時間も走らないうちに、窓の外は緑鮮やかな牧草地に変わっていた。
遠くに馬の姿が見える。
「あっ」
俺が小さく声を出すと、駿がそれに気がついて言った。
「お馬の親子、だよ」
「本当だ」
母馬らしい大きな馬の横に、ぴったりと仔馬が寄り添っている。仲良く歩く様子は、まさに童謡のポックリポックリというフレーズがピッタリだった。
車が走るにつれ、馬の姿が増える。
こんな風に道の左右に馬が見えたりすると、牧場に来たんだという実感が湧く。
「駿のお祖父さんのみゆきファームはどの辺なんだ?」
もうそろそろだろうか、と訊ねると、運転していた河田さんが笑った。
「ここはもう、みゆきファームの中ですよ」
「え?」
そうなのか?と駿を見ると、駿もコックリ頷いた。
「広いんだな。じゃあ、あの馬たち全部みゆきファームの馬なのか?」
「預かってるのもいるから」
「何頭くらいいるんだ」
窓の外に遊ぶ馬の姿を眺めながら尋ねると、
「さあ……数えたこと、無いけど」
駿が困ったような声をだす。河田さんが運転席から代わって応えた。
「正確にはわかりませんが、二百頭前後でしょうか。この時期は仔馬もたくさんいるし、入厩前の他所の馬も預かっています。サクシードみたいに放牧の為に帰ってきている馬もいますしね」
「二百……」
かなり、規模の大きい牧場だという事がわかった。
サクシードの名前が出たので、駿の顔を見る。
「サクシードの怪我は、もう大丈夫なんだろう?」
「うん」
駿の顔が、上気して頬が薔薇色に染まる。
「昨日もね、元気に走ってた。早く、良馬に会わせたいよ」
「ああ、俺も……」
駿と同様、サクシードは俺にとっても特別な馬になっていた。


「やあ、いらっしゃい。馬しかないところだけど、ゆっくりして行って下さい」
駿のお祖父さんは、これだけの大牧場のオーナーというから恰幅の良い紳士を想像していたのだが、グレーの作業着に長靴を履いた、ごく普通のおじさんの姿で現れた。
「お祖父ちゃん、また何かやってたの?」
駿が呆れたように、
「歳なんだから、無理しないで、皆に任せておけばいいんだよ」
笑いを含んで言うと、お祖父さんは持っていた桶を振り上げるようにして怒った。
「馬鹿言え、私は橘のテキ(調教師)より十も若いんだぞ」
怒ったふりをしても、目が笑っている。
仲の良い二人を見て、微笑ましくなる。
「良馬、荷物を置いたら、サクシードに会いに行こう」
「ああ」
「なんだ、来たばっかりなんだから、お茶くらい飲んで休んでいけ」
お祖父さんが引き止めるが、駿は聞かなかった。
「サクシードは昨日と同じとこ?」
「そうだが、気を付けろよ」
「はーい。行こう、良馬」
嬉しそうな駿の笑顔が、眩しい。陳腐な表現だが、眩しいとしか言い表せない。
緑草の匂いの中、走る駿を追いかけた。

柵の向こうに数頭の馬が放牧されている。
その中で、遠目にも一頭、堂々と逞しい黒い馬体が目立っている。
「あれだな」
「うん」
駿は、柵に身を寄せて叫んだ。
「サクシード!」
馬が、名前を呼ばれて来るものだとは思っていなかった俺は、驚いた。
犬みたいだ。
サクシードは耳を立て、駿を認めると、こっちに向かって走って来た。
「うわっ」
目の前に迫る巨大な生き物に一瞬身体を引いたが、サクシードは柵の前で止まると駿に鼻面を擦りつけた。
「サクシード、良馬だよ。覚えているでしょう?」
サクシードは、駿の顔をベロベロと大きな舌で舐めながら、俺に一瞥をくれた――気がする。
駿は、くすぐったそうにその舌を片手で避けながら、
「サクシード、わざわざ東京からお前に会いに来たんだから、良馬に挨拶して」
サクシードの首筋を叩いた。
ぶひひひひ――ん
「うわ」
間近で馬のいななきを聞いたのは初めてで、またも俺は仰け反ってしまった。
そんな俺の反応を楽しむように、サクシードは前足で地面を蹴り、頭を振った。
「サクシード、良馬のこと覚えているって」
駿がサクシードの首筋にしがみつきながら、俺を見て笑う。
「そう?」
駿が言うと、本当にサクシードにそう言われた気になって、俺も笑った。

「ね、もうすっかり元気なんだよ」
地面に生えていた草を掴んでちぎると、駿はサクシードの口許に持っていく。
駿の小さな手が噛まれそうで、ひやっとしたのだが、サクシードはその大きな歯に似合わず器用にそれを食べた。
「良馬も、やる?」
草を持つ華奢な指先に見惚れていた俺に、勘違いして駿は訊ねる。
「や、俺は、いいよ」
「大丈夫だよ。噛まないって」
クスクス笑いながら、駿はしゃがんで、
「これがチモシー、ケンタッキーブルーグラス。こっちがクローバー、マメ科の草。サクシードはこれが好きなんだ」
「ふうん」
俺には『全部まとめて牧草』としか見えない草を摘んで、次々教えてくれる。
「うちの牧場は、こういった草も全部考えて育ててるんだって。お祖父ちゃんが言ってた。だから、良い馬が育つんだって。他所から預かってくれって言われるのも、それでなんだよ」
「ふうん、なるほど。確かにね。人も食事には気をつけるけど、馬だってそうだよな」
良質の草、澄んだ水と太陽。いかにも、優駿がすくすくと育ちそうだ。
ふと見上げると、空が高い。
青い空と、白い雲、そして眩しい緑の草や木々。どこまでも広がる大らかで優しい空間。
駿も、ここで、生まれて育った。
「なんか、駿が、すくすく育ったのもわかるな」
俺が呟くと、それを聞き逃さなかった駿が、少しむくれて唇を尖らす。
「それって、いやみ?」
「え?」
「どうせ僕は、すくすく伸びなくて、こんなに小さいですよ」
「やっ、身長のことじゃないよ」
駿の、邪気の無い素直な性格を言ったのだが……。
横を向いた駿を慌てて覗き込むと、唇をきゅっと結んで笑いをかみ殺していた。
「こいつ」
「いたっ」
思わず頭を小突いたら、それまで柵のそばでじっとしていたサクシードが、
ひひん!
俺の頭に噛み付いてきた。
「うっ」
髪を喰われそうになって、慌てた。頭をガードしながらよろめいた俺を見て、駿はこれ以上無いほど嬉しそうに大笑いした。
「駿を苛めたんじゃないぞ、俺は」
サクシードに向かって、叫ぶ。
サクシードは、いななきながら、前足で柵を蹴って抗議する。
「だめだ。やっぱり、俺が手を出したら喰われる」
柵から、二、三歩離れながら言うと、駿が笑いすぎで滲んだ涙を拭いながら、
「サクシード、やきもち妬いたんだって。僕たちに」
さらりと言った。
「え……?」
俺は、つい真剣にその言葉を受け止めてしまった。
一瞬、固まった俺に気がついて、駿が慌てたように言った。
「なんちゃって。馬鹿だね、サクシード」
「え、ああ、そう、だな」
自分の動揺を悟られないように、俺も無理に笑った。
まったく中学生じゃあるまいし、自分の反応が恥ずかしい。

チリンチリンと鈴の音がして、見ると、一頭の仔馬が近づいてくる。首に鈴を付けている。
「クリ」
駿は、腕を伸ばした。
仔馬は、駿の掌に鼻を擦り付けるが、
「ゴメンね。今日はにんじんは持っていないんだよ」
駿が、掌を両方開いてみせると、つまらなそうに首を振った。
チリンチリンと鈴が鳴る。
仔馬は、サクシードに近づいてしばらくの間鼻を擦り付けると、また元の場所に駆けていった。
「サクシードも、行っておいで」
駿が、ぽんぽんと首筋を叩いたら、サクシードもゆっくりと群れの中に戻って行った。
「呼びに来たのかな」
「うん、そうみたい」
「何で、あの仔馬は鈴を付けているんだ?」
何かの目印だろうかと思って訊ねると、
「あの子のお母さん、目が見えないんだよ」
と、駿が応えた。
「それで、自分の子供がどこにいるかわからなくて不安にならないように、鈴を付けているの」
「目が、見えない?」
鈴をつけた仔馬は、母親らしい馬のそばで草を食んでいる。
「見えなくても、子供を育てられるものなのか?」
「うん、モモは、目が見えなくても、立派なお母さんだよ。他のお母さんと変わらない。ううん、むしろ優しくて一生懸命で、すごくいいお母さんだと思う」
「へえ……」
目を細めて眩しそうに馬の姿を見つめる駿の横顔に見惚れながら、ある種の感動を覚えた。

ふと自分の母親のことも思い出して、北海道土産くらい買って帰ろうと思った。















SucceedF 駿

良馬と一緒の牧場は、想像以上に楽しかった。
毎朝、僕達は早起きして、馬の世話をすることにした。
お祖父ちゃんは、
「お客さんに、そこまでさせなくても」
と、笑ったけど、良馬が自分で「やりたい」と言ってくれたんだ。
僕は、いつもやっていることだし、むしろ久しぶりに帰ってきた牧場で色んな馬と触れ合えるこの時間は楽しかった。
何しろ自分でサクシードの世話をできると言うのも、ものすごく嬉しかった。
それに良馬が付き合ってくれるのは、嬉しいの二乗。

「重いだろ?」
「え?ううん。大丈夫」
飼い葉桶を一緒に持ってくれる良馬の手が、嬉しい。
「意外に、力持ちなんだな」
目を細める良馬の笑顔が、嬉しい。
「そりゃあ、昔っからこれくらい運んでいるもの」
「その割に、駿は筋肉付いてないんだよな」
桶を挟んで並んだ二人の両腕を比べている。
僕は、良馬の日に焼けた腕に何故だかドキッとして、誤魔化すようにわざとむくれて見せた。
「ぶー、これからだよ。そのうち僕だって逞しくなるんだから」
「やめろよ、似合わないから」
良馬は明るい声で笑った。

「馬に、乗ってみたいな」
サクシードを馬房から出して二人で連れて歩いている時に、良馬が言った。
「本当は、サクシードあたりに乗ってみたいけど」
サクシードの顔を見上げる。
「ええっ?!」
僕があんまり驚いて見せたから、良馬はちょっとだけ憮然とした。
「わかってるよ。現役競走馬に、素人が乗れるわけ無いって。冗談」
「あ、ごめんなさい。でも、乗馬用の馬がちゃんといるから」
僕は、もちろん、良馬にはここで乗馬も楽しんでもらおうと思っていた。
「素直な馬だから、大丈夫だよ。サッちゃんて言うの」
「サッちゃんかぁ……できれば、サンダーボルトとかファイヤーなんとかとか、激しくカッコいい名前の馬がよかったなあ」
良馬が笑う。
「サッちゃんの本名は、サンダーボルトだよ」
「えっ、嘘?」
「嘘」
「……駿」
良馬が横目で、呆れたように睨む。
「本当は、サンドラゴッディス。カッコいい名前でしょ?」
「ゴッディス、女神か。競走馬だったんだ」
「うん、ダートでは結構走ったって。お祖父ちゃんは、名前にサンド(砂)って入れたからだって言ってた」
「そっか」
そうして僕達は、いつまでも他愛無い話で笑い合いながら、サッちゃん達のいる馬房に行った。

「すごい、良馬。上手」
さすがは、元名スプリンター……って、足の速さは関係ないけど、身体能力の勝利だろう。普通の人が、三日かかりそうなところを、良馬は半日でマスターしていた。
「まだ、あんまりスピードは出せないけどな」
「当たり前だよ。無理しないで」
「ああ、想像以上に高いし、ここから落とされたくはないよ」
そう言いながらも良馬は鞍の上で巧みにバランスをとっている。
今にも速脚になりそうだ。
「気をつけて。急に走り出したりしたら、危ないからね」
人が馬に乗っているのを見て、こんなにドキドキしたのは初めてだ。
「わかってるって。心配性だな、駿。自分はもっと危ないことしているのに」
「僕は、プロです。危なくありません」
「ごめん、ごめん」
それでも、良馬のまるで新しいおもちゃを貰って喜ぶ子供のような顔を見るのは、嬉しかった。
ここに居るうちに、良馬と遠乗りもできそうだ。
それを考えると、僕も頬が緩んでしまう。


たっぷり乗馬を楽しんで、少し遅いお昼を食べに家に帰ると、お祖父ちゃんが迎えに出てきた。
「駿、さっき山本さんから電話があったぞ」
「勝鞍の?」
「ああ、あさって取材に来るらしい」
「ここの?僕の?」
「両方だろう。馬も見せてくれって言ってたが、お前がいることも確認していたからな」
「……ふうん」
せっかく良馬と二人で過ごしているのに。
あの煙草を唇にはり付かせた飄々顔を思い出して、ほんの少し気が重くなった。
山本さんが嫌なわけじゃない。ただ、この夏は特別だったから。
「勝鞍って、あの《週間勝鞍》?」
良馬の言葉に、我に返る。
「あ、うん、そうだよ」
「福永のウマ研にも毎週置いてあるよ。駿の記事もそれでよく見た」
「えっ」
「福永なんか、ダービーで会ってから、駿の記事さかのぼって全部スクラップにしてるし」
「ええっ、やめてよ。っていうか……勝ったレースだけにして」
「言っとく」
そういえば、良馬の友達の福永さんは何となく山本さんに似ていた。飄々としたところがね。そして、僕はちょっとだけ、山本さんに良馬を紹介するのが楽しみになった。
どう思うかな、良馬のこと。
外の友達なんて初めてだから、驚くだろうな。





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