「他に、好きな人がいる」
だからもう付き合えないと告げたとき、亜矢子は意外なほど冷静だった。

高田馬場にある薄暗く静かなワインバー。万が一泣かれた時のことを考えて、人目の無い奥の席を選んで座っていたのだが、そんな俺の姑息さも見通しているかのように亜矢子は薄く笑った。
「わかってた」
「わかって、た?」
俺は、気が抜けたようにオウム返しに呟く。
「だって、私から誘ってもなんだかんだと理由つけて避けてるし」
「…………」
「長野から戻ってきても、二週間近くもほおっておかれるし、これで気がつかない女がいたら、おめでたすぎて笑っちゃうわ」
「すまない、亜矢子」
他に言葉は無かった。
「いいわよ。でも、教えてくれるんでしょう」
「え?」
「良の好きな人」
亜矢子の問に、俺は小さく息を飲み込む。駿のことは誰にも話せない。
「……誰?」
焦れたように訊ねる亜矢子に、なおも俺が黙っていると
「どうして?私には聞く権利があるはずだわ。そうでしょう、良」
権利、そんなもの本当にあるのだろうか。それでも、亜矢子に対して自分のやってしまったことを考えると、ここで答えをはぐらかすことはできなかった。
「ごめん、名前は、言えない。亜矢子は知らない人だよ」
「知らなくても、名前くらい聞いておきたいわ」
「それは……」
俺が困って目を伏せると、急に亜矢子がきつい口調で詰った。
「だってそうでしょ。名前も知らなくちゃ、どうやって恨んだらいいの」
はっと顔を上げると、亜矢子の思いつめたような瞳と目が合った。綺麗に赤く塗られた唇が小刻みに震えている。
亜矢子が冷静だったなどと、どうして思えたのか。
「亜矢子、ごめん」
「良、私、あなたも恨むわ。でも、新しい彼女は、もっと恨むわ。だって私から良を盗った人よ。それくらいさせてちょうだい」
亜矢子の声は、外に出さずに飲み込んだ涙が絡んだように、掠れて震えている。それに突き動かされて俺は、唐突に答えていた。
「彼女じゃない」
軽く息を吸って、覚悟を決めた。
「男なんだ。俺の好きなヤツ」
亜矢子の顔が、驚愕に歪んだ。
「嘘」
「嘘じゃない。それに、俺の片思いだ。だから、相手の名前は出せない」
「嘘……」
もう一度、亜矢子は繰り返した。


* * *
六月の第一週の金曜土曜に、うちの大学はクラブ祭がある。
秋の学祭よりは小規模だが、新入学生の歓迎の意味とこの時期にもまだサークルが決まっていない学生向けのデモンストレーションとして、それなりに伝統のある行事だ。
『競馬研究会』も新たな部員獲得のために張り切って準備をしていた。
「お前も、入れよ」
福永は先日来、しつこく俺を勧誘している。
「俺は、いいよ」
「何、言ってんだよ。しょっちゅう部室に顔出しているくせに。」
確かに、俺は授業の合間の時間つぶしに八号室の地下に行くことが多くなっていた。
「俺達の貴重な情報をただで手に入れようなんて甘いぜ」
片手を差し出して、福永はにやりと笑った。
「ちゃんと、部費払え」
「ううーん」
俺は腕を組んで考える振りをした。
「まあ、部費を払うだけならいいけど、サークル活動には参加できないぞ」
「おっ、部費は払っていいのか」
「休憩室に使わせてもらっているからなぁ。しかたないかと」
「なんだよ、それ」
福永は一瞬破顔して、いきなり思いついたように表情を変えた。
「部費は払わなくていいし、サークル活動も参加しなくていい。部室は特別待遇で使わせてやるから……」
「待った」
俺は福永の言葉を遮った。
嫌な予感がした。
「何だよ、最後まで聞けって」
「駿がらみの話なら断る」
「うーん、さすが、いい勘」
福永は俺の肩に腕をまわして、ひそひそと囁いてきた。
「お前が、橘駿と知り合いだってことは、誰にも言ってない」
「ああ」
先日のダービーで偶然会ってばれてしまったが、約束どおり福永はサークルの連中にも秘密にしてくれている。
「でもな、俺としてはうちの奴らにも一度ナマ橘駿を拝ませてやりたいんだよ」
「ナマ?」
福永の発言に俺は目を剥いた。
「いや、すっごくかわいかったよなあ。そこらへんのアイドル目じゃないっていうか。その上、新人リーディングジョッキー……呼びたいなあ、クラブ祭」
「ダメだ」
即座に却下。
「え――ッ」
「それに、今週末は騎乗が目一杯入っているから、無理だよ」
「じゃあ、別にクラブ祭じゃ無くてもいいからさ。平日、ちょっとだけ」
「ダメったらダメだ。じゃあな」
ぶーぶーと唇を尖らす福永を無視して、俺は歩き始めた。
あの駿を、競馬オタクの巣に放り込んでしまったら、どんな目に合わされるかわからない。
福永はいい奴だが、ウマ研の連中に取り囲まれる駿を想像すると気分が悪い。
そして、その気持ちが嫉妬だと自分でもわかって、内心苦笑する。
(駿、今、何している?)
ダービーの翌日亜矢子と別れて、無性に駿に会いたかった。
けれども、ダービーの日の騎乗を全て断った駿は、今週もその次の週もびっしり騎乗が入っていて、東京開催の間に色々な取材も受けているらしく、電話をするのも憚られる状態だった。

『ねえ、良馬―――夏休みになったら、北海道の牧場に行こう』

駿の少女めいた小さな顔が浮かぶ。
7月に入ったらすぐに、俺は北海道の牧場に行くことになっていた。
北海道開催の間、駿のお祖父さんの牧場で過ごす。
そのことを考えると、胸が高鳴った。
その前に、試験やレポートや、片付けないといけない事が山積みだったが。












SucceedE 駿

『良馬の彼女』―――僕は、いやらしい程それに拘っていた。

よく考えれば、良馬はあれだけカッコいいんだし、大人だし、特定の相手がいないって言うほうが不自然だ。でも―――。

どんな人なんだろう。亜矢子さん。
後ろ姿で僕が間違えられたくらいだから、髪は短いのかな。背も僕くらい?
同じ大学の人?綺麗な人?いつから付き合っているのかな。
そういえば、初めて良馬と会ったとき、恋人の話も出たような気がする。
けれど、そのときはあんまり意識しなかった。
あの時は、ただ、苦しそうな良馬の言葉が、辛くて……。

でも、今は凄く気になる。良馬の恋人。
今の僕は良馬が好きだから。その気持ちに気がついたから。
気づいた瞬間はとても幸せだったのに、そのあと冷静になってヘコんだ。
良馬には、恋人がいる。
自分の気持ちに気づいたとたんに、失恋しちゃった。
っていうか、失恋と同時に気がついたっていうほうが正しいかも。
「ふうっ」
汗を拭いながらつい溜息を吐いたら、頭の上から声をかけられた。
「どうしたの?駿君」
カメラマンの天城さんが、一眼レフを抱えて立っていた。
「心配事でもありそうな顔だけど」
「あ、いいえ。そんなことないです」
慌ててタオルで顔を擦る。
赤くなってはないよね。
「そう?ならいいけど、さっきの調教でも、何だかいつもと違っていたから」
「え?」
ぎくっとした。
思わず、強い口調になる。
「何か、変でしたか?」
調教タイムは計算通りだった。しまい重点もきっちり押さえたし、誰にも気づかれるようなヘマはしていないはずだ。
「え、いやあ、変というより、いつもの顔じゃなかった、ってところかな」
天城さんが、少し慌てたように言う。
「いつもの……顔?」
「ごめん、ごめん、気にしないで」
「どう、違っていたんですか?」
僕は、むきになっている。
「え?」
「僕の顔が、どう違っていたんですか?いつもと」
「うーん、ちょっと恐い顔。今みたいに」
困ったように天城さんは笑った。
僕は、顔にさっと血が上った。
「そう、ですか。すみません」
僕は天城さんに背を向けて、調教スタンドを後にした。
「あっ、駿君?待って」
さすがはカメラマン。被写体の表情には敏感ってわけだ。
確かに今朝の調教は、いつもと違っていた。

もう何日も良馬に会っていない。せっかくの東京開催なのに。
来週末からは函館開催になって会う機会もなくなるから、今日こそ電話して来週の月曜日に会うつもりだったのに、突然、テレビ局の取材が入ってしまった。
断りたかったんだけど、佐井さんや光岡さんほどの人もスケジュールを調整して時間を作ったと聞いて、新人の立場では断れなかった。
(また、会えない……)
そう思うとついイライラして、今朝の調教では馬と一つになれなかった。
馬の気持ちが、感じられなかった。
馬に乗って、こんなふうに気が散ったのは初めてだ。
「待って、待って」
後ろから呼び止められた。天城さんが追いかけて来ていた。
「歩くの速いね。駿君」
「何ですか?」
「実は、お願いがあってね」


天城さんの申し出に、僕は無意識に眉を顰めてしまった。
「うちの牧場に……ですか?」
「そう、駿君は函館開催の間、あっちの宿舎やホテルとかじゃなくてお祖父さんの牧場に泊まるって聞いてね。」
「泊まるっていうか、家ですから」
「そうそう、それで、駿君が育った牧場と、そこでの駿君の写真を是非撮らせて欲しくて」
「それは……」
「だめかな、一週間ほどお世話になりたいんだけど」
ふいに、良馬の顔が浮かぶ。
「駄目です」
「ええっ?」
たぶん、断られるとは思っていなかったんだろう。天城さんはあまりにも素直に声をあげた。
「すみません」
「や、いや、あの、当然、泊めてもらった間の……」
頭を掻きながら言う姿が、大きな身体に似合わず子供みたいで、ちょっと申し訳なくなった。
「そういうことじゃないんです。あの……おじ…いえ祖父も、お客さんは歓迎する人で……普段ならたぶん……でも、今回は……」
良馬を呼んでいる牧場に、なるべく他の人に来て欲しくない。
これは、僕のわがままだ。
「本当に、ごめんなさい」
頭を下げると、天城さんは残念そうに、それでも無理に笑ってくれた。
「いや、こっちこそ、図々しかったね。申し訳ない」
「そんな……」
天城さんにそう言われて、恐縮する。
今日の僕は、やっぱり変だ。
自分で自分が嫌になって、ムカムカする気持ちを持て余しながら、厩舎に帰った。


いつもの他厩舎の挨拶回りも終わって、自分の部屋のベッドでゴロゴロしていたら、ふいに携帯のベルが鳴った。
着信の表示を見て、心臓が跳ねた。
「良馬」
とび起きて、早口で出たら、笑いを含んだ声が受話器から流れた。
『今、大丈夫か?』
「うん」
『忙しいのに、ごめんな』
「え、そんな、忙しくないよ。今だってゴロゴロしていたんだし」
『そうなんだ。ええと、今日、福永と会って、駿の話が出たもんだから、さ』
「福永さん?」
あの、僕と亜矢子さんを間違えた人。また、ちょっとだけ胸が痛んだ。
『ああ、あいつが前に、駿をクラブ祭に呼べとか言って、俺が断ったもんだから、今日はしつこく絡んできて』
「クラブ祭って?」
『先週終わったんだけど、うちの大学の……』
良馬から色々と聞くうちに、行ってみたいと思った。良馬の大学。
「行きたかったな、それ」
『えっ?』
良馬は驚いた風な声を出す。
『駄目だよ。あんなところ』
「あんなとこって……自分で言ったくせに」
可笑しくなって、クスクス笑ってしまった。
『いや、そうだけど……』
「……行きたかったよ、僕」
行きたい。行って、見てみたい。良馬の大学、良馬の友達、そして良馬の……。
また、胸が詰まった。
『悪い。じゃあ、ちゃんと言えばよかったな、クラブ祭のこと。勝手に断って……』
「あ、ううん、違うの。ずっと、良馬に会えなかったから、そこに行けば会えたのかなって……」
『えっ』
良馬が小さく息を飲んだ。
変なことをいったかな?
僕も黙ってしまった。
お互いに、しばらく黙っていると
『もしもし?』
良馬の声がした。
「も、もしもし……」
『あ、良かった、切れたかと思った』
ホッとした声。
「あ、僕も……」
僕も何だよ?自分で言って内心突っ込んだ。
心臓が、ドキドキする。
僕の言葉が続かないので、良馬から話を振ってくれる。
『そういえば、北海道なんだけどさ』
「う、うん?」
『寒いのかな?七月っていっても、北海道だし……俺、北海道行ったことなくて』
「あ……」
『気が早い?結構、いや、かなり、楽しみなんだ』
照れたように、良馬が笑う。
楽しみなんだ――それだけの言葉に、身体が浮き上がりそうなほど嬉しくなった。
「寒くはないけど、東京よりは涼しいし……あっ、朝はちょっと寒いかも…」
北海道の牧場のことをあれこれ話しているうちに、すごく気持ちが高揚していく。
『サクシードにも、会えるな』
「うんっ」
僕は、朝からのイライラが全部無くなっている自分を感じた。
(ありがとう、良馬―――)


そして、僕たちは北海道で夏を迎えた。




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