SucceedD 良馬

『東京優駿』いわゆる日本ダービー
駿はわざと東京競馬場ではない場所を待ち合わせに指定していた。
この日、駿の騎乗は無かった。
『だって、メインレースに東西の有力ジョッキーが勢ぞろいするんだよ。その人たちが一日中乗ってるって』
と、駿は笑った。
本当は自分も騎乗したかったに違いない。サクシードの怪我さえなければ。
そう思うと駿の笑顔が切なかった。

俺は、未だに亜矢子に別れを切り出せずにいた。
――俺は、駿を愛している―――
そうはっきりと自覚してからずっと、亜矢子にどう言えばいいのか考えた。
けれども、どう告げたところで亜矢子を傷つけることになると思うと、俺の心は怯んだ。
卑怯かもしれない。けれども、俺は亜矢子を傷つけたくは無かった。
俺が怪我をして走れなくなったとき、亜矢子は泣いた。俺が泣けなかった分も、俺の気持ちを代弁するかのように、悲痛な声で泣き続けた。二度とあんな泣き顔は見たくない。
そう思ってしまうのは、俺自身が罪悪感を覚えたくないだけか?
悩んでいるうちに、ゴールデンウィークに入って、亜矢子は長野の実家に帰省した。
『ロスに行っていた姉夫婦が、姉が出産するんで帰ってきているの。久し振りだし、私もゆっくりしてくるわ』
亜矢子としばらく顔をあわせずにすむのは、正直ホッとした。
先日、東京に戻ってきたという電話をもらいながら、理由をつけて会うのを避けている。
このままではまずいと思いながら、亜矢子とのことはどうする事も出来ずにいた。

* * *
駿との待ち合わせの場所は、京王線府中駅に直結している駅ビルの大きな本屋だった。
府中らしく競馬関係のコーナーが充実している本屋だ。が、勿論待ち合わせはその場所ではなく、ちょっと立ち読みもできそうな雑誌のコーナーにしておいた。
俺が早く着いたのは探したい本があったからだが、待ち合わせの時間20分前に駿はもうそこにいた。
「駿」
「あれ、早いね。良馬」
駿がにこっと微笑む。
「お前こそどうしたんだよ。何か買ったのか?それとも、これから?」
見たところ、駿は何も持っていないようだ。
「ううん。僕はちょっと早く来ただけ」
「ちょっとじゃないだろ」
俺が言うと、駿はくすぐったそうに笑って首を傾けた。
「だれかと、外で待ち合わせなんて久し振りだから、なんかうれしくて」
こんな些細な一言で、俺の胸は熱く締めつけられる。
抱きしめたくなる気持ちを抑えて、俺は平静を装って訊いた。
「どうする?真っ直ぐ行く?」
まだ昼前だった。ここから競馬場は、どんなにゆっくり歩いても20分もあれば十分だ。
たまには競馬場以外の場所で食事をするのもいいかと考えた。
俺がそう言うと、駿は嬉しそうに
「そうだね。東京競馬場のラーメンも飽きちゃったし。美味しいもの食べに行こう。良馬、何食べたい?」
「俺は何でもいいよ。お前こそ、食事制限とかないのか?」
「やだなぁ。食事制限なんて、病人じゃないんだから」
「悪い」
「いいよ。でも、僕、本当に何食べても大丈夫なの。よく羨ましがられるよ、みんなから」
そう言ってまた笑う。
俺たちは本屋を出ると、匂いにつられてすぐ近くにあったインド料理専門店に入った。
「いわゆるカレー屋だけどな」
俺が言うと
「良馬、カレー好き?」
「ああ。駿は?」
「うん。好き。っていうか、カレー嫌いな人ってあんまりいないよね。あ、自分で聞いといて、ごめん」
笑いながら言って、小さく舌を出す。その可愛らしさに俺もつられて笑った。

メニューを見ながら、駿が小首をかしげる。悩んでいるようだ。
俺は、相変わらず即決型で、『ほうれん草とチキンがなんとか』というのにさっさと決めてしまったが、駿はなかなか決まらなかった。ほんの少し唇を尖らせて、真剣に一つ一つの写真を見ている。
長い睫毛のしたの瞳がメニューの上を右に左に動くのを、俺はほほえましく眺めた。
「うーん。どれもおいしそう」
メニューから顔をあげて駿が溜息をつく。
「カレーだけ二種類とったらどうだ?」
「いくらなんでも、そんなには食べられないし、さすがに食べちゃだめだと思う」
と、笑う。
ようやく決まったのは、『チキンとカシューナッツ、ヨーグルトのカレー』
一体どんなんだ?そのまんまか。
ナン、サフランライス、タンドリーチキンそしてサラダが山盛りに乗った大皿とカレーの入った皿が二組運ばれてくる。香辛料の効いたうまそうな香が鼻腔をくすぐる。
「うまそうだな」
「良馬のって緑色なんだ」
「ほうれん草だからな」
駿のは、なんとなく白っぽい。ヨーグルトだからか。
「後で、少しかえっこしよう?ね」
駿が上目遣いに俺を見て、にっこり笑う。
「ああ。そうだな」
お互いのカレーを交換して食べる、そんなことがこんなに楽しく思えるなんて。これじゃ高校生、いや、中学生のデートみたいだと心の中で笑った。

小さくちぎったナンを指で挟んで、駿が俺の皿に手を伸ばす。
取り易いように皿を移動させてやったら、それが悪かったのか、駿の指先がカレーの中に突っ込まれてしまった。
「あ」
「あ、悪い」
「ごめん、僕こそ。指つけちゃったよ」
すまなそうに、俺を見上げる。
「べつにいいけど。俺は」
「そう?」
駿はナンを口にほおり込むと、カレーのついた自分の指をペロリと舐めた。指先を廻してもう一度舐める。
睫毛を伏せて、紅い舌の先を覗かせたその顔に、俺は激しく動揺した。
前言撤回。中学生はこんなことでいかがわしい妄想はしない。たぶん。

「ねえ、良馬」
「ん?」
「夏休みになったら、北海道の牧場に行こう」
食後のラッシーとかいう飲み物を飲んでいるときに、不意に駿が言った。
「え?」
「僕のお祖父ちゃんの牧場に今、サクシードが帰ってるんだけど、夏になったら僕、函館開催で北海道に行くから、そのとき牧場に行こうと思ってるんだ」駿の丸い眸が輝く。
「良馬も一緒に行こうよ」
ねっ、と言うようにしたから見上げる可愛らしい顔。
北海道、牧場、駿と一緒に?
俺は、一瞬答えに詰まった。もちろん嫌だからじゃない。あまりに意外なことで、なんと答えていいかわからなかったのだ。それを勘違いした駿が、表情を暗くした。
「だめ、かな……?」
「いや、そうじゃなくて」俺は慌てて言った。
「その、本当に行っていいのかな、と思って」
駿の顔が、ぱっと明るくなった。
「いいよ!いいに決まってるじゃん。だから、誘ってるんだよ」

* * *

競馬場に着いたのはニ時少し前。第七レースの発走五分前の放送が流れていた。
さすがに、競馬の祭典の当日だけあって東京競馬場の混みようは、先週のオークス以上だ。
十七万の人が入っているらしい。
「すごいな」
「外で食べて正解だったね」
確かに。落ち着いて食べるところを確保するのも大変そうだった。
「あ、このレースうちの馬が出ているんだよ」
小さく言って、第七レースの馬柱を指す。
生産地みゆきファーム。橘厩舎。騎手は当然、駿の父親の橘昇だった。
「応援しなきゃ」
そう言って、ターフビジョンの見える位置に移動する。その横顔を見つめながら、さっきの話を思い出す。
『夏休みになったら、北海道の牧場に行こう』
思いがけない言葉。
この《みゆきファーム》というのが、サクシードの生まれた、駿のお祖父さんの牧場だ。夏の明るい日差しの下で、駿と二人で歩く緑の牧草地を想像し、不意にからだの中を風が通り抜けたように感じた。その風は、とても爽やかで甘い香がした。
北海道行きをひどく楽しみにしてしまっている自分に気づく。
――――夏休みになったら―――――


「なんか、喉乾いちゃった。さっきのカレーのせいかな」
二人して人混みを縫うように歩きながら、駿の言葉に振り返る。
「なんか、飲むか」
「そうだね。あ、アイスコーヒー売ってるよ」
と、話していたら、後ろから俺の肩がいきなり叩かれた。
「藤木!」
ぎょっとして振り向くと、福永の顔があった。
「亜矢子も一緒か?」
と、後ろ姿の駿に声を掛けて、あれっというふうに駿の顔を覗き込んだ。
ちょっとビクッとしたような駿と、福永の目が合った。
一瞬の沈黙の後、福永が叫んだ。
「たちばなしゅん??!!」
ここが、新宿駅の構内だとか、うちの大学のキャンパスだとかいうのなら、どれほどの人がいてもおそらくノープロブレムだったと思う。
ところが、ここは東京競馬場で、しかも日本ダービーの当日。
橘駿といえば、只今売り出し中の大有名人だ。
「橘駿?」
「どこに?」
「えっ、うそ、いるの?」
ざわついた周囲の人々の視線が、俺達の方に集まる。駿がとっさにうつむく。
「逃げるぞ」
と早口に小声で言うと、駿はこっくりうなずいた。
俺は、駿の右手を掴んで、走り出した。

人の波を縫ってメモリアル60(スタンド)を抜けて、東京競馬場の端、東門手前まで来ると、俺はようやく立ち止まった。
「さすがに、ここまでくれば大丈夫かな」
駿を振り向くと
「そうだな」
と、息を切らした福永が汗を拭いている。
って、なんでお前もいるんだよ!
駿はどうしていいかわからない顔で、俺と福永の顔を見比べている。
「福永……」
俺は呆然と呟いた。息を整えた福永は腕組みをして
「さて、教えてくれよ。何でお前が橘駿と知り合いなんだ?」

詳しい話は省略して、俺が婆ちゃんの田舎に行った時、たまたま美浦のトレセンを見学して、偶然、駿と知り合ったのだと話した。
「ふーん。でも、お前、そんなこと今まで一度も言わなかったじゃないか」
福永が憮然とする。
それはそうだろう。なにしろ『ウマ研』で俺は、まったくの部外者として、知らん顔して駿の噂話も聞いていたのだから。
「悪かったな。ごめん」
俺はちょっと、いや、かなり気まずかった。
けれども、福永はすぐにその憮然としていた表情を和らげて
「まあ、言えない事情も何となくわかるけどな。今みたいに大騒ぎにもなりかねないし」と、屈託なく笑った。そしてすぐにとぼけた顔で
「あ、大騒ぎを起こしかけたのは、俺か」
そう言ったので、駿がぷっと吹きだした。
「良馬の大学の友達?」
駿がはにかんだような顔で俺を見上げる。
「ああ、同じクラスの福永敦生。大学では『競馬研究会』ってサークルの副会長だよ」
「競馬研究会?」
駿が大きな目を見開いて首をかしげる。首をかしげるのは、駿の癖だ。
「あ、そうなんですよ。だから、話題の新人橘駿騎手に会えて、光栄です」
駿に見つめられて緊張したように福永が言う。こいつ、急に敬語だ。
駿はにっこり笑って言った。
「僕も、良馬の友達に会えて、光栄です」
その言葉に少しドキッとして駿をみると、駿の花のような笑顔は福永に向けられている。
そのことに軽く嫉妬した。
そして、そんな自分に呆れた。
俺は急に喉の渇きを覚えて、先に駿がそう言っていたことを思い出した。
「あ、じゃあ、俺、そこの売店でアイスコーヒー買ってくる。福永、お前は?」
「俺は、いらんよ」
じゃなくて、一緒に買いに来い。と思ったが、駿を連れて行くのはさっきの事があるし、一人置いておくのも忍びないので福永に後を頼んだ。
「じゃ、あそこの丘の木の下にでも居てくれよ」
「うん」

福永はいらないと言ったが、念のため三つ買った。本当にいらなかったら俺が二つ飲む。
混んだ売店から急ぎ足で戻ると、木の陰に隠れるようにして、駿と福永が話しているのが見えた。
駿の横顔に胸が痛む。
そんなに可愛らしい顔で、楽しそうに他の奴と話さないで欲しい。
(まったく、重症だ)
俺は、いつのまにこんなに狭量な男になったんだ。

アイスコーヒーの入った紙コップを渡すと、駿は受け取りそこなって、コップを落とした。
「あっ」
「わっ」
二人同時に叫ぶ。
「あ、ご、ごめん」
駿はものすごく慌てて、紙コップを拾おうとするが、それより駿のコットンパンツが汚れなかったかと心配だ。
「コップはいいから。足汚れなかったか?」
「え、あっ、大丈夫、それは」
駿は真っ赤になっている。
「ならいいよ。ちょうど三つ買ってきたし」
福永、すまん。
「え?」
と、不思議そうに駿が見上げる。まだ顔が赤い。
「はい」
俺は持っていたもう一つのアイスコーヒーを、駿の目の前に差し出した。今度はしっかりと駿が握るまで、俺も手を離さなかった。
「それって、俺の分じゃなかったの?」
福永が飄々と言う。
「お前、いらないって、言っただろ」
「まあね」

* * *

「それで、ダービーのパドックは見ないの?もうすぐだけど」
福永が聞くと、駿はちょっと困ったような顔で俺を見上げた。
「良馬がかまわなければ、ここのターフビジョンで見たいんだけど……レースも」
「俺は、かまわないよ」
駿をまた、あの人混みの中に連れて行くのは、気が進まない。
「そうか、じゃあ、俺は行くわ。サークルの奴らとも待ち合わせしてるしな」
福永が新聞を持った右手を上げる。
「ああ、それで」
俺が呼び止めると
「わかってる。橘駿のことは内緒にしとくよ」
「すまないな」
「いいって。これで俺も秘密の仲間入りだな」
『ひみつ、ひみつ♪』と昔のアニメソングらしいおかしな歌を歌いながら、福永はパドックの方向へ歩いていった。

福永がいなくなって、一瞬二人の間に沈黙が流れた。
静かにうつむいている駿の横顔がどこか儚く見えて、俺は言葉を捜した。
「ごめん、よく考えたらあいつのせいだよな」
「え?何が?」
駿が、ちょっと驚いたように顔をあげる。本当に大きな目だ。
「だから、こんなとこに隠れなきゃいけないの」
「あ、ああ」
「本当なら、今の駿は、特別席にでも座ってゆっくり見ることもできるんだろうに」
「そんなこと」駿は強い口調で「僕が、ここで見たいと思ったんだよ」
「そうか」
「うん」
あらためて、木の陰に腰を下ろす。駿が隣に座る。
気持ちのいい風が吹いた。
ターフビジョンは少し離れたところにあるが、ここが小高くなっているので、その大画面を遮るものは無い。画面では、去年の日本ダービーを流している。もうすぐ、今年のダービーのパドックが映るだろう。
駿は、じっとその画面を見つめている。
走る馬の姿に、自分とサクシードを重ねているのだろうか。

ターフビジョンにダービーのパドックが映った。
セントエクセルは、堂々としていた。二人引きでゆったりと歩く落ち着いた様子は、とても三歳の若駒には見えない。初夏と言ってもいい五月の強い日差しを受けて、栗色の馬体が光る。
「強そうだな」
思わず小さく呟くと、すぐにそれとわかったようで
「うん。セントエクセルが、勝つよ」
駿が画面を見つめたまま応えた。
「わかるのか?」
俺が、少し笑いを含んで訊くと
「そう言ってたからね」
駿も、軽く笑っていった。視線はセントエクセルに注がれたまま。
「佐井が?」
思わず口に出た。
「え?うん」
駿が振り向いて、俺を見上げる。
俺達は、じっと、見つめ合った。
何か、言葉に出来ない何かが、俺と駿の間にあった。
俺は、佐井のことを聞いてみたい気持ちに揺れたが、結局、言い出せなかった。

* * *
ターフビジョンとは逆の方向から、大きな歓声が聴こえる。ダービーの本馬場入場が始まったのだ。ターフビジョンでも、その様子が映る。
競争馬の頂点を目指す、選ばれた優駿たちが、紹介とともに軽やかなキャンターで次々と画面にその雄姿を現す。
ダービージョッキーという栄冠を、その背に贈るのは……
はたして、セントエクセルなのか。
「駿のお父さんも出てるんだよな。12番のユーキャンドリーム、か」
「うん。賞金足りなかったんだけど、抽選でね。出られて良かった」
「橘厩舎の馬じゃないんだな」
「うん。でも、そこのオーナーさんは良く知ってるんだ。ダービーに出せたの初めてで、本当に、すごく、嬉しそうだったよ」
「本当に、夢なんだな。ダービーって」
「うん。そうだよ。競馬に関係する人みんなの夢だよ」
まずい事を言ってしまったかと、駿の顔をそっと窺ったが、どこか儚げなその表情には、辛いとか悲しいとかの色は無かった。それこそ、夢を見るように画面を見つめている。
俺は、もう、言葉を掛けず、一緒にただ観ることにした。

東京優駿『日本ダービー』――――この夢のレースを。

派手なファンファーレとともに、東京競馬場が揺れる。
ターフビジョンが十八頭のゲート入りを映す。
ゲートが開いて、俺達の後ろの方向から大歓声が聴こえた。
佐井のセントエクセルは中団に待機している。先頭集団には、皐月賞で知った馬たちがひしめいている。俺は、どうしても佐井の馬から目が離せない。ターフビジョンも、一番人気のセントエクセルを常に意識して画面に入れているようだ。
後ろから聞こえてくるスタンドの喚声が、嵐の音のように響く。
佐井の馬が、三コーナー過ぎで早くも上がっていった。
四コーナーを廻って、頭一つ抜け出す。
直線で他の馬を大きく突き離した。
完全に先頭になっても、佐井はセントエクセルを追いつづける。後ろからは何も来ないのに。何かに怯えるように、いや違う、挑むように、セントエクセルを押し続ける。
弥生賞のサクシードとの追い比べがよみがえった。
そして、俺の目にセントエクセルの横を走るサクシードの姿が見えた。
金色に光る矢のようなセントエクセルの横に、真っ黒なサクシードが、影のように寄り添い、首の上げ下げで先頭を競う。
府中の長い直線を、佐井の馬はただ、駿の馬と戦っていた。


俺には、最後にセントエクセルをかわしたサクシードの姿が見えたが、実際にはセントエクセルが他馬を大きく引き離して、その強さを見せつけて、ダービーの栄冠をものにした。
そして、天才騎手佐井猛流は、若干二十七歳で、二度目のダービージョッキーに輝いた。

駿の瞳はいつまでも、ターフビジョンを見つめている。
画面には、たった今終わった夢のレースのクライマックスが繰り返し流れる。
金色の光のようにゴール板を駆け抜けたセントエクセル。
その鞍上で、高らかに鞭を握った右手を上げる佐井。
駿が何を考えているのか、どんな気持ちでこのシーンを見つめているのか、気になった。
「駿」
小さく声を掛けると駿はゆっくり振り返った。黒目がちの瞳が俺を見る。
駿は何も言わず、俺の言葉を待っている。
「え、と」
言葉を捜した俺は、ついさっき自分が感じたことをそのまま口に出してしまった。
「俺には、セントエクセルの前を駆け抜けたサクシードが見えたよ」
駿の瞳が、一瞬大きく見開かれて、次の瞬間、涙が零れた。
「駿」
しまった。俺は、言ってはいけない事を言った。
走りたくても走れない辛さは、この俺が一番良く知っているはずじゃなかったか。
「悪い、俺」
駿がうつむいて、ぽろぽろと涙を流す。どうしたらいいんだ。
思わず駿の肩に手を掛けると、駿はびくっと肩を震わせた。
「駿」
「あ、ごめん、なさい」
慌てたように、駿が涙をぬぐう。俺も、慌てて腕を離すと
「大丈夫か?その、ほんとに悪かった」
と尋ねた。まったく、ほかに気の利いた言いようがないのか。自分に腹が立った。
「ちが、ごめ、ん、ね。ちょっと」
うつむいた駿が、両手の甲で涙を拭いている。ぼろぼろと涙を流しつづける子供のような姿にどうしようもなく抱きしめたい衝動が起きる。
俺は、ポケットからハンカチを出した。
「ありがと」
赤い目をした駿が、受け取りながら、照れたように笑った。
俺も、仕方なくぎこちなく笑い返す。
「ありがとう。良馬」
「え、いや、俺は」
「僕、良馬が好きだよ」
駿の言葉に、俺は一瞬言葉を失い。呆然と駿の顔を見つめた。
駿は、大きな目のふちを赤く染めたまま、優しげな野の花のように微笑んで
「良馬がいてくれて、よかった。皐月賞の時も、そうだったけど。良馬がいてくれて、本当に、よかった」

ああ、違う。駿の好きと言う言葉に、俺の考えるような意味は無い。あたりまえだ。
だが俺は、明日こそ亜矢子にはっきりと言おうと、言わなければいけないと、心に決めた。

『僕、良馬が好きだよ』
この言葉に、俺の期待する意味は無い。
そう自分に言い聞かせながらも、俺は駿の髪に腕を伸ばす。髪に手を入れ、ゆっくりと胸に引き寄せると、駿は素直に身体を寄せてきた。暖かく、小さな身体が、俺の腕の中におさまる。
俺は、決して口には出来ない言葉を胸の中で呟く。
(駿、俺も、お前が好きだ)















SucceedD 駿

サクシードが北海道に放牧のため帰ってから三週間が経った。
僕は、東京開催でも順調に勝ち鞍をあげることが出来て、新人騎手のリーディングに立っていた。お陰で、新人のわりに騎乗依頼も増えている。
サクシードがいないのは寂しいけれど、それまで僕も、もっともっと腕を磨いておかなくちゃ。
朝の調教を終えてタオルで汗をぬぐっていたら、不意にシャッターの音がしたので、僕は、慌てて振り向いた。
「天城さん」
「ごめんごめん」
カメラを抱えた天城さんが、にこにこと笑っている。あんまり、ごめんという顔じゃないので、たぶん僕はちょっとムッとした顔をしたんだと思う。
天城さんは、今度は本当に申し訳なさそうに
「あ、おこっちゃったかな。ごめんね。とてもいい顔してたから」
僕は多分に照れもあって、タオルで顔をゴシゴシ拭きながら冷たく言ってしまった。
「急に撮られるのは、困ります」
「うーん。でも、撮らせて、っていうと固くなるでしょ」
それもそうだった。
「……すみません」
自分でオッケーしておいて、そんなわがままを言うなんて。少し反省。
天城さんはちょっと考えるそぶりをして
「や、わかった。今度からシャッター音消して、隠し撮りにしよう。ストーカーみたいに」
「そんな!もっと、困ります」
僕達は、顔を見合わせてふきだした。

「そういえば、駿君、ダービーの日の騎乗、全部断っているんだって?山本さんが言ってたけど」
「いえ、そういうわけじゃ」
本来なら、少しでも騎乗経験を積むべきこの時期に、新人の僕が依頼を断るなんて。
「ただ、その日は父も東京なので、父に乗ってもらうようにしただけです」
そのほうが、馬主さんも安心だと思う。なにせ『名手、橘昇』だ。
「そうなの。じゃ、その日はまるまる観戦?」
「はい」
ダービーの日、僕は良馬と一緒に観ることにしていた。
関係者席ではなくて。良馬と二人で。


厩舎に戻ると、お父さんが電話で謝っている。
「いえ、すみません。ええ、ええ、そうですね。では、また」
なんだろう。
「どうしたの?」
電話を切ったお父さんに尋ねた。
「おう、駿。おかえり」
たった今までと違う、明るい口調。
「だれ?馬主さん?」
「ああ、園部さんだよ。チアズプレシャスに乗ってくれないかって言われたんだけどね」
「え?」
驚いた。やっぱり前田、おろされるんだ。
「断ったの?」
「まあな」
お父さんは顎をさすりながらニヤニヤ笑っていた。
「もったいない。チアズプレシャスなら、ダービー狙えたかもしれないのに」
「だったら、お前、乗せてもらえ」
「だから、僕は」
そこで、ハッと思い出した。
「お父さん、ひょっとして園部さんに『トンビ』って言われたの根に持ってる?」
「まさか」大げさに驚いて見せて
「そんなことで騎乗依頼を断るような俺じゃないぞ」
いいや、絶対そうだ。
僕が不審気にじいっと見ると、お父さんは笑って僕の頭を撫ぜた。
「先に依頼を受けている馬があるんだよ」
「えっ?」
ダービーに?どの馬だろう、と頭の中でいろいろな馬の顔を思い出していると
「薄井さんのところのユーキャンドリーム号」
意外な名前にびっくりした。
確か、新馬戦はお父さんが乗って楽に勝ちあがったけど、そのあとは一勝しかしてなくって、ダービーに出るには賞金足りなかったんじゃなかったっけ。
「抽選でね、出られるかどうかわからないんだが、もし出られることになったら、ぜひ乗って欲しいって薄井さんに頼まれているんだ」
お父さんの言葉に、薄井さんの朴訥そうな赤ら顔が浮かんだ。
薄井さんは千葉で缶詰工場を経営している、親子二代の馬主さんだ。先代が亡くなった後、工場を継いで、今は馬を見るのが唯一の楽しみだといってよく美浦にもやってくる。
どの馬もそんなに強い馬じゃないけれど、とても馬を大事にしていて、無理して走らせていない分、900万下クラスではそこそこ入着している。
「お父さん、若いときに、薄井さんのお父さんによく騎乗させてもらったって言ってたね」
「ああ、乗り馬が無いときに、乗せてもらえてね、勉強させてもらったもんだ」
「それで」
「いや、それにな。薄井さんにとって、ユーキャンドリームが出られたら、初めてのダービーなんだよ。」
そうか。薄井さんのところは、先代からずっと馬主だけど、一度もダービーには持ち馬を出せなかった。その薄井さんの念願のダービー出馬に、乗り役として一助となりたいってお父さんは思ったんだね。
「でも、抽選に外れちゃったら、お父さんもダービーに出られないのに」
「いいんだよ」
お父さんは、笑った。
お父さんは、名手といわれながらも、一度もダービージョッキーにはなっていない。
それなのに、チアズプレシャスに乗れるチャンスを蹴ってまで、薄井さんの馬を選んだお父さん。僕は少し感動してしまった。

* * *
『東京優駿』日本ダービーの当日。待ち合わせの朝。
僕はずい分早く部屋を出て、約束した本屋に向かった。
今まで、良馬とこんな風に外で待ち合わせたことなどなかったのでちょっと興奮している。ううん。よく考えたら、僕は人と外で待ち合わせたという経験がほとんど無い。だって、競馬学校の三年間はずっと学校の中か、厩舎でしか人と会わなかったし、騎手になってからも、トレセンか競馬場でことが足りている。出かける時は、そこから皆で一緒。
なんか、本当に狭い世界にいるんだな、僕って。

約束の一時間以上前に本屋についてしまった。
待ち合わせたのが本屋で良かった。といっても、本を立ち読みする気にもならなくて、背表紙ばかりうろうろと眺めながら、良馬を待った。
落ち着かない。
約束の雑誌のコーナーに行って、階段のほうを見る。絶対、まだ来ないけど。
それでも、良馬がその階段を上がってくるところを想像しているだけで、時間が過ぎていく。待ち合わせって、楽しいんだ。
そうしていたら、思ったよりずっと早く、良馬が現れた。
駅につながる階段を軽く駆け上がってくる。
薄いブルーのシャツにスリムなジーンズ。こうして見ると初めて会ったときよりも髪が少し伸びている。前髪が額にかかって、男らしい眉と涼しい目をほんの少しだけ隠す。笑っていない良馬も凛々しくてカッコいいと思った。うつむいて歩く横顔を、すれ違う女性が振り返って見ている。
僕に気がついて、驚いたように眉を上げた。
「駿」
「あれ、早いね。良馬」
僕は、ずっと見ていたことは内緒にして、今気がついたみたいに言った。
「お前こそどうしたんだよ。何か買ったのか?それとも、これから?」
「ううん。僕はちょっと早く来ただけ」
これも、嘘だ。一時間も早く来たなんて言ったらきっと笑われる。
「ちょっとじゃないだろ」
「だれかと、外で待ち合わせなんて久し振りだから、なんかうれしくて」
これは、ほんとの気持ち。

「ねえ、良馬」
「ん?」
「夏休みになったら、北海道の牧場に行こう」
お昼のカレーを食べながら、どういう風に言おうかと考えていた。ちなみに、カレーはとっても美味しかった。良馬のたのんだ『ほうれん草のカレー』も。
かえっこしてもらえてよかった。
「え?」
僕の言葉に、良馬はびっくりしたみたいだ。
「僕のお祖父ちゃんの牧場に今、サクシードが帰ってるんだけど、夏になったら僕、函館開催で北海道に行くから、そのとき牧場に行こうと思ってるんだ」
その頃にはサクシードの怪我も治っている。僕は、前に見た夢の風景を思い出していた。
「良馬も一緒に行こうよ」
僕の誘いに、良馬は黙ったままだった。

――ひょっとして迷惑だったんだろうか―――

図々しい事に、そんなこと考えもしなかったので、急に胸が締めつけられたように痛くなった。
「だめ、かな……?」
声が震えてしまった。
「いや、そうじゃなくて、その、本当に行っていいのかな、と思って」
良馬が、少しあわてて、照れたような表情で言う。
よかった。嫌じゃなかったんだ。
ホッとしたんで、ついはしゃいでしまった。
「いいよ!いいに決まってるじゃん。だから、誘ってるんだよ」

* * *
東京競馬場の混みようは、やっぱり半端じゃなかった。ダービーだから当たり前だよね。歩きながら、つい良馬のシャツの端を掴みそうになる。気をつけないと。
知っている人もずい分来ていて、今日は本当にパドックには近づけないと思った。
喉が乾いて、アイスコーヒーを買いに行こうとしたとき、不意に後ろから声を掛けられた。
「藤木!」
良馬を呼んだその人は、僕に向かって
「亜矢子も一緒か?」
そう言って、顔を覗き込んできた。僕と目を合わせて、その人はきょとんと不思議そうな顔をした。
一瞬の沈黙。
「たちばなしゅん??!!」
その人が叫んで、周囲の人々の視線が、僕達に集まる。
どうしよう、まずい。
「逃げるぞ」
良馬が、僕の手を掴んで走り出した。
良馬の走りについていくのは結構大変だった。
(さすが元スプリンター、とか言ったら傷つけちゃうな。ごめんなさい)
右手をぐんぐん引っ張られて、それに必死について行くと、あっという間に東京競馬場の端の端まで来てしまった。
東門近くでようやく立ち止まる。気づいたら、さっきの男の人も一緒だった。
いいのかな。

やっぱり、その人は、どうして僕と良馬が知り合いなのか問い詰めている。
良馬はかなり困っているようだったけど、僕は何も言えず、ただ二人のやり取りを眺めていた。でも、その人は悪い感じじゃない。なんだか、飄々として面白い人だ。競馬記者の山本さんとかと、少しだけ感じが似ているかもしれない。
話が落ち着いたので、僕はそっと良馬に尋ねてみた。
「良馬の大学の友達?」
「ああ、同じクラスの福永敦生。大学では『競馬研究会』ってサークルの副会長だよ」
「競馬研究会?」
「あ、そうなんですよ。だから、話題の新人橘駿騎手に会えて、光栄です」
そんな、照れるよ。僕だって、良馬の友達に紹介してもらえるなんて、凄く嬉しい。

「あ、じゃあ、俺、そこの売店でアイスコーヒー買ってくる」
良馬が思い出したように言う。そういえば、僕達はアイスコーヒーを買いに行く途中だった。
「じゃ、あそこの丘の木の下にでも居てくれよ」
「うん」
福永さんと二人きりで残されて、急に僕は緊張した。
いろいろ聞かれたらどうしよう。
(あ、そういえば……)
突然、最初に福永さんが僕に言ったことを思い出して、つい自分から聞いてしまった。
「亜矢子さんって、誰ですか?」
「え?」
「さっき、僕と間違えて」
「ああ、ごめん。そうだった」
福永さんは、申し訳なさそうに頭を掻いて、笑いながら言った。
「藤木の彼女だよ」

その瞬間、僕は自分でも驚くくらいショックを受けていた。

良馬の彼女?
いきなり心臓をつかまれたような、すごく冷たい水を浴びせ掛けられたような、なんだか凄いショックで、でも、それが何故だかもよくわからなくて、僕は頭の中が次第にぼうっとしてきた。
福永さんが何か話している。
僕も何か応えている。
でも、何の話をしているんだろう。よくわからないよ。
僕の頭の中では、さっきの言葉がぐるぐると廻っている。

『藤木の彼女だよ』

良馬が戻ってきた。
アイスコーヒーの入った紙コップを僕の前に差し出す。
僕は受け取ろうとして、手に力が入らず、コップを落としてしまった。
「あっ」
「あ、ご、ごめん」
僕はものすごく慌てて、紙コップを拾おうとして、それも上手くいかないくらい動揺している。顔が熱い。
「コップはいいから。足汚れなかったか?」
「え、あっ、大丈夫、それは」
「ならいいよ。ちょうど三つ買ってきたし」
「え?」
なんだかよくわからなくて、ゆっくり良馬を見上げると、優しく笑ってアイスコーヒーを差し出してくれた。
「はい」
良馬の長い指が紙コップを握って、しっかりと僕の手の中に入れてくれた。指先が触れたとき、身体がジンと熱くなった。

それから、僕はドキドキして良馬の顔が見れなかった。
ドキドキする理由を考えると、よけい混乱した。
話し掛けられて、目を合わせてもすぐに視線が泳いでしまう。
どうしよう。良馬に変だと思われただろうか。
動揺しているのを知られないようにターフビジョンを見つめる。
良馬の視線を痛いくらい感じながら、僕はじっとターフビジョンを見続けた。

ターフビジョンにダービーのパドックが映る。
馬たちの姿を見るうちに、僕のドキドキは少しずつおさまってきた。
お父さんのユーキャンドリーム号。オーナーの薄井さんの顔が浮かぶ。馬主席で赤い顔をして、汗拭きながら見ているんだろうな。
チアズプレシャス、リアルショット、ディグニティ、ワンズウィッシュ、みんな元気そうだね。ダービーの晴れ舞台だからね。みんな、どうか最後まで無事に走ってね。
佐井さんのセントエクセル。今日はいつにもまして堂々としている。調子は間違いなく絶好調だ。佐井さんの言葉がよみがえる。

『駿。俺はダービーで勝つ』

『サクシードが出てこないのに、他の馬に負けるわけにはいかない。セントエクセルでダービーを取るよ』

ああ、きっと佐井さんは勝つだろう。きっと、きっと。 
隣で良馬がつぶやいた。
「強そうだな」
「うん。セントエクセルが、勝つよ」
「わかるのか?」
良馬がからかうように訊く。
「そう言ってたからね」
自信たっぷりの佐井さんの、王者の微笑みを思い出した。
良馬、今回は単勝馬券買っておく?
「佐井が?」
良馬の口調が、普段と違うのでちょっと驚いた。
「え?うん」
僕は振り向いて、良馬を見上げる。
良馬もじっと僕を見つめる。
何だろう、この感じ。
良馬の深い瞳に吸い込まれそうで、またさっきのドキドキが復活しそう。
胸が苦しくなって、耐え切れなくて、僕はそっとターフビジョンに視線を戻す。良馬も黙って前を見つめる。

そして、日本ダービーが始まった。

三年前、僕が競馬学校に入った年。
その年に生まれた何千というサラブレッドの中の、選ばれたたった18頭。
その優駿たちが、走りだす。それぞれのゴールを目指して。
本当なら、サクシードもここで一緒に走っていたんだ。
そう思うと、やっぱり胸が痛む。
(サクシード……)
サクシードなら、いまどこを走っているだろう。
佐井さんの、セントエクセルのすこし後方。あのワンズウィッシュのあたりかな。
馬場の状態も良いしスピードも出そうだから、中団よりは後方で、佐井さんをみながら、今日は早めに仕掛けていこう。
三コーナー過ぎで早くも佐井さんの手が動いた。
四コーナーを廻って、頭一つ抜け出す。僕のサクシードも一緒にあがる。
府中の長い直線。他の馬はついて来れない。
500メートル、セントエクセルとサクシードが走る。光と影のように寄り添い、金色の馬と漆黒の馬が並んでゴール板を目指す。
そして―――――

* * *
「駿」
声を掛けられて、自分が意識をとばしてしまっていたことに気づいた。たった今、目覚めたような感覚。
良馬が僕を見つめる。
僕は、どこかぼうっとした気持ちで良馬の言葉を待った。
「え、と……俺には……」良馬が優しい瞳で静かに言った。

「セントエクセルの前を駆け抜けたサクシードが見えたよ」


僕は、自分の目から涙が溢れるのを感じた。
どうして、僕は、良馬の前だとこんなにもすぐ泣いてしまうんだろう。
「駿」
良馬があわてて謝る。
「悪い、俺」
違う、違うよ良馬。僕は悲しいんじゃない。
嬉しいんだよ。良馬が言ってくれたこと。僕と一緒にサクシードを感じてくれたこと。
そして、今ここに、僕の隣に良馬がいてくれること。
良馬が僕の肩に手を廻してきて、一瞬身体が痺れた。それは、不思議に甘い痺れ。
良馬が、ポケットからハンカチを出して、僕に差し出す。
良馬の端正な顔が、困ったように歪んでいる。
「ありがと」
僕がハンカチを受け取ったら、良馬は困った顔のまま笑いかけてくれた。
いつもの優しくて深い瞳。
「ありがとう。良馬」
僕はもう一度言った。何度でも言いたい。
そして、この気持ちも伝えたかった。
「僕、良馬が好きだよ」
さっきのショックも、ドキドキも、そしてこの涙の意味も、本当は全部わかってる。

僕は、良馬が好きだ。
誰よりも―――――

良馬が僕をそっと抱き寄せてくれた。僕は、幸せな気持ちで、身体をあずけた。




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