SucceedC 良馬

サクシードの故障を知ったのは、大学に行く電車の中だった。
向かいの席に座った男の読んでいるスポーツ新聞に大きな見出しで
『エアサクシード骨折!ダービー回避』と書かれているのを見て、俺は思わず座席から腰を浮かした。それが車内の視線を集めてしまったようで、ちょっと気まずい思いで次の駅で降りると、すぐにキオスクで新聞を買った。
記事によると、骨折ではなくて骨にひびが入ったという内容だったが(スポーツ紙の見出しとはそういうものだ)、それでも、サクシードがダービーに出られないのは間違いないようだった。
昨日の駿の涙は、ただ佐井に負けたからと言うだけではなかったのか。
あいつは何も言わなかったから、俺にはわからなかった……。
駿の顔を思い浮かべると、胸が詰まる。我慢できずに携帯のボタンを押した。
四回、五回とコールを鳴らしたが駿は出なかった。留守電にもならなかったので、しかたなくそのまま切る。その手の中の携帯を見て、ほんの数時間前の電話で亜矢子に言ったことを思い出して、嫌な気持ちになった。
嫌な気持ちになる自分が嫌だ。
亜矢子とは、今日、授業が終わった後で会う約束をしている。
以前のように、二人で会って、ほんの軽く飲みにでも行って、そして……。
何が嫌なんだ。俺は、どうしたいんだ。


大学に着いたら出るべき授業はもう半分終わっている時間だった。それでも、出席を確保するために大教室の後ろからそっと入る。こういうとき、うちのようにやたら学生の多い大学はラッキーだ。しかも四月は、まだ真面目な一年生がちゃんと出て前列の席を占めてくれている。
昨日あまり眠れなかったから、すぐに睡魔が襲ってくる。
遅刻の上に居眠りじゃ最低の学生だなと、なんとか睡魔とは闘ったが、結局眠らなかったというだけで授業の内容はほとんど頭に入らなかった。
それでも授業の終わりに後ろから廻ってきた出席カードに名前を記入すると、ひと仕事終えたような充実感があっておかしい。大学生だなという実感。
この後の授業まで、まるまる二時間空いている。
昼飯を食ってからあとはどう時間をつぶそうか。とりあえず学食に行って考えようと歩いている途中、八号館の前に通りかかった。
ふと、福永の顔を思い出す。『ウマ研』に寄ってみるか。
福永がいるかどうかはわからないが、いなかったら帰ればいい。どうせ階段を下って上がるだけの手間だ。

結局、俺はサクシードが、いや、駿が、気になっていた。

八号館の地下に下りて、過去数年分の競馬カレンダーの切り抜きに飾られた『競馬研究会』の部室の扉を開けた。
「すいません。福永いますか?」
「おっ、藤木良馬」
ひげ男、安さんが大きな声で呼ぶ。
きつね顔の田村もいたが、福永の姿は無かった。他には知らない男子学生が二人。
「福永なら、もう少ししたら来ると思うぜ。たぶんな」
田村が言う。
そう言われても、来るかどうかわからない相手を、お待ちしますというほどの用でもない。
「あ、それじゃあ」
と部屋を出て行こうとしたところで、安さんの声がとんできた。
「おい、待てよ。藤木良馬」
「はい?」
なんでこの人は、俺をフルネームで呼ぶんだ?
「飯は食ったのか?」
「いえ、これから」
振り向いて応えると、安さんはひげ面で笑って
「ちょうど良かった。これから出前頼むから、いっしょに頼もうぜ」
「出前?ここで?」
こんなところまで持ってきてくれるのかと言いそうになって、こんなところは失礼だなと言葉を飲みこむ。
「ああ、まあ座れよ」
とパイプ椅子を促がされ、俺は、しょうがなく素直に座った。
安さんが、俺の向かいに並んで座っている二人を手で指して
「紹介するわ。この二人、一年の鈴木と桜井。茶髪のほうが鈴木で、眼鏡のほうが桜井」
そして次に俺を指すと
「三年の福永の同じクラスの藤木良馬」
なんで俺だけフルネームなんだ。って、俺も大概しつこいな。
「どうも」
「宜しくお願いします」
新人らしく、一年生二人がペコリと頭を下げるのに、『俺はここの部員じゃないんだけど』と否定する間ももらえず、安さんがメニューを突き出す。
「どれにする」
「はあ、じゃ、親子丼」
どうでもいいことだが、俺はあまりメニューに悩むタイプでは無い。
「おっ、即決だな。じゃあ俺はカツ丼だ。お前らは?」
「うーん。俺もカツ丼かな。しかし、カルビ焼肉丼と、しょうが焼きも捨てがたい」
田村が腕を組む。
「そうやって、最後まで悩んでハズすんだ。お前は」
安さんが笑うと、
「って、出前に勝ち負けはないでしょう」
田村が怒る。一年生が笑う。
いつのまにか俺は『ウマ研』の連中と仲良く昼飯を食うはめとなっていた。

出前が届くまでの間、長机の上の新聞や雑誌でサクシードの記事を探した。
今日発売された《週刊ホースレース》でも、真ん中のカラーページに昨日の皐月賞の写真が載っていて、二着に入ったサクシードが故障のためダービーに出られないことまでも既に書かれていた。
安さんが俺の手元のその写真を覗き込んで
「昨日の皐月賞は、かわいそうだったな」
俺が目をあげると、眉間にしわを寄せてサクシードを指差して言った。
「エアサクシードは前田の左鞭があたってよれたんだろ。それがなけりゃ、勝ってたかもしれないのに。その上、怪我でダービーまで出れなくなったんだからな」
「俺もビデオで何度も見ましたよ」
一年の桜井が言う。
「コマ送りもして見たんですけど」
と、ちょっと笑って
「はっきりとは見えませんでしたけど、前田の鞭、当たってましたね」
「ありゃ、わざとだろ」
と田村が言う。
「わざと?」
聞き捨てならない言葉に、オウム返しに俺が聞き返すと田村は訳知り顔で頷く。
「だって、直線でわざわざ左に持ち替える必要ねぇもんな。結構良くあるらしいぜ、そういうの。実際当たったって言うのは、あんま見ないけど」
「まったく、前田って奴はそういう奴だよ」
「って、お前、そんなに知ってんのか?」
鈴木が調子よく言うのに、桜井が突っ込むのを訊きながら、俺はまた昨日の駿の涙を思い出していた。
本当に、俺は何も知らない。
それが、悔しかった。
どうして、駿は、何も言ってくれなかったんだろう。俺じゃ、ダメなんだろうか。
泣くほど悔しい思いや、悲しい気持ちを、話す相手は俺じゃダメだったのか。
あいつの生きている世界と、俺のいる世界は、かけ離れている。そのことを痛感した。
(そしてこいつは、駿と同じ世界の人間だ)
一着でゴールした佐井の写真。その、勝負師にしては優しげな整った顔を見て、俺は、無意識に唇を噛んでいた。

「まいどー」
出前の岡持を下げた福永が入ってきた。安さんがガハハと大笑いする。
「何で、お前がもって来るんだよ」
福永の後ろで、白い前掛けをつけた定食屋のオヤジが苦笑いしている。
「俺の分も頼んどいてくれれば良かったのに。ハイ、カツ丼お待ちっ。850マン円」
お約束の関西オヤジ系ギャグを言いつつ、俺に気づいて
「あれっ、藤木」
「お邪魔してます」
「俺が誘ったんだ」
カツ丼を取り上げながら安さんが言うと、福永はすかさず
「入部?」
「昼飯だけだよ」
俺は慌てて否定する。
「なんだ。やっとその気になったかと思ったのに」
何が、やっとで、その気なんだか。
とはいうものの、ここでは駿の話も聞けるし、『ウマ研』を嫌う理由も無い俺は、何となくずるずるとここに顔を出してしまいそうな予感もしていた。
結局、昼飯を食った後も、次の授業までの二時間近い時間を福永たちの話を聞きながら『ウマ研』で過ごした。


「三回目」
亜矢子が呆れた声を出す。ここは高田馬場駅前の喫茶店。以前亜矢子とのデートによく使っていた店だ。授業が終わって俺たちはここで待ち合わせていた。
「え、何が?」
俺が尋ねると
「あくび」
わざとだろう、唇を尖らせて
「そんなに私といるとつまらないの?」
久し振りのデートなのに、と言葉に出さない分を視線に込めて亜矢子が俺の顔を見つめる。
「いや、ごめん。ちょっと、昨日あまり寝てないから」
ちょっとうろたえた俺が、口許を隠しつつ応えると
「私ともう一度付き合うってこと、そんなに悩んだ?」
ちょっと意地悪そうに、上目遣いで見上げる。
「いや、ああ、まあ、そうだな」
はっきりしない態度でモゴモゴ言うと、亜矢子は笑った。
「わかったわ。それで寝てないんなら、私にも責任あるものね。あくびは許す」
俺は、居たたまれない気持ちになる。
「ごめん」
「だから、いいって言ってるじゃない」
そうじゃなくて。俺が、俺が謝りたいのは……。
朝の決心が、既にぐらついていることに不安になる。
福永たちと、駿の話をしたからだ。
一度思い出してしまうと、駿の顔が頭から離れない。
俺は、よほど暗い顔をしてしまったのだろう。亜矢子が心配そうに俺を見つめて言う。
「大丈夫?本当に顔色悪いみたい」
「あ、ああ」
真っ直ぐ見つめてくる亜矢子の瞳が見返せない。
自己嫌悪に胸がむかついた。
「ごめん。俺、やっぱり具合悪いみたいだ」
「そう。それじゃ、今日はもう帰ったほうがいいかもね」
残念そうな亜矢子の声。まだ会って一時間も経っていないのだ。
「悪い。また、連絡する」
そう言って、俺はレシートを持って立ち上がった。
「あ、私も出るわ」
亜矢子が立ち上がる。
「いや」
と、まるでついてくるなと言わんばかりの応えをしてしまい、俺は、慌てて言葉をつなぐ。
「いや、その、送ってやれなくて悪いんだけど……」
「いいわよ。なに言ってるの」

結局駅まで一緒に帰り、亜矢子の乗る西武線の改札で別れた。
「大丈夫?気をつけてね」
亜矢子が手を振る。
俺が事故に遭う前、何度となく繰り返された光景。
長野から出てきていて西武線沿線で一人暮らしの亜矢子のマンションには、何度か泊まりに行ったこともある。
JRの改札を通ってホームに立つと、別れ際少し寂しそうに微笑んだ亜矢子の顔が思い出されて、胸が痛んだ。
俺は、たぶん、本当に酷いことをしている。
そして、もう一度俺は、朝と同じことを自分自身に言い聞かせた。

そのとき、携帯のベルが鳴った。

表示を見て、思わず背中が震えた。
「駿」
『あ、もしもし、良馬?』
携帯電話から、駿の声が聴こえる。
昨日会ったばかりなのに、もう、ひどく懐かしい声。
『着信が入っていたから。ごめんね。今日、っていうか昨日から、僕、携帯、鞄に入れっぱなしで忘れてきてて』
駿の声が耳をくすぐる。
『今、届けてもらって、気がついたんだけど……聴こえてる?良馬』
「あ、ああ、聴こえてるよ」
俺は、近くにあったベンチに座った。
ちょうど山手線の電車が内も外も入ってきて、周囲の人々がいなくなる。
『どうしたの?』
「いや、新聞で見て」
『うん。そうかなって、思った』
「駿」
『大丈夫。昨日、良馬のおかげですっきりしたから』
少し恥ずかしそうに、ふふっと笑った。
俺の?俺は何もしていない。何もできなかっただろ。
ただ――――。
『大丈夫だから。サクシードもすぐに良くなるって。夏の間は北海道の牧場に返すことにしたんだ』
「そうか」
お前は、本当に大丈夫なのか?
無理に元気な声を出しているんじゃないかと気にかかる。
『それでね。まだ先だけど』
「うん」
『あ、やっぱり、いいや』
「なんだよ」
『ううん。会ったときに話す』
「会ったとき?」
『うん。えっと、今週末から東京開催だから、府中なんだよ。良馬の家、近かったでしょ』
「ああ」
そうだ。府中にある東京競馬場なら、俺の家から歩こうと思えば歩けるほどの距離だ。
『また、来てくれる?』
甘えたような駿の声。可愛い。もう一度訊きたい。
訊き返したい衝動を抑えてうなずいた。
「うん」
『よかった』
ホッとしたような笑いを含んだ声に、駿の、花がほころぶような笑顔が浮かぶ。
ダメだ。
自分の気持ちに気がついてしまった。いや、前から気づいていて、ごまかしていただけのものだったが。

俺は、駿を愛している。

でも、だからどうなるというんだ。
携帯をきった後、やりきれない思いに両手に顔を埋める。
駿の顔と亜矢子の顔が、頭の中に交互に浮かんでくる。
自分が、亜矢子に言ってしまったことが、苦い後悔となって押し寄せる。
俺は、バカだ。
バカだ。バカだ。バカだ。
無意味に亜矢子を傷つけて。そして、俺の想いは、どこに行くんだ。
どこにも行き場はない。
気づきたくなかった。ごまかし続けたかった。

それでも、俺の想いは、この気持ちは、殺せなかった。

―――― 俺は、駿を愛している ―――――――











SucceedC 駿

「げ」
携帯電話の着信の量にちょっと驚いた。昨日から手元に無かったので覚悟はしていたんだけど、それにしてもかなりの量だ。僕の携帯は留守番電話サービスなんて頼んでないから、メッセージは三つでいっぱいになる。その三つとも、競馬記者の人がうめていた。どこで僕の携帯の番号知ったんだ?
今日は月曜日。本当なら僕にとっては休日のはずだったんだけど。
皐月賞二着馬のサクシードが故障でダービー回避というニュースは、当然競馬関係者には昨日のうちに知れ渡っていた。そのことでの取材や、その他いろいろやることがあって僕も朝からとっても忙しかった。
何番目かの着信履歴の表示に良馬の名前を見つけて、ドキッとした。
昨日のことを思い出して、顔に血が上る。
時間は10:52am
あーっ。今日一日無視していたみたいになっちゃうじゃない。結果的にそうだけど。
留守番電話のメッセージを使い切った記者の人たちにも、恨みが募る。関係ないけど。
僕は急いでボタンを押した。

『駿』
携帯電話からすぐに良馬の声がした。昨日の僕を慰めてくれた優しい声。
名前を呼ばれただけなのに、こんなにホッとするのはどうしてなんだろう。
「あ、もしもし、良馬?着信が入っていたから。ごめんね。今日、っていうか昨日から、僕、携帯、鞄に入れっぱなしで忘れてきてて、今、届けてもらって、気がついたんだけど……」
しまった。今まで連絡できなかったことを言い訳したくて、つい一方的に話してしまった。
「聴こえてる?良馬」
『ああ、聴こえてるよ』
よかった。

良馬はやっぱり、サクシードのことを新聞で見て心配してかけてきてくれたのだった。
嬉しい。
僕は、自分でも意外なくらい立ち直りが早かった。今日、サクシードの元気そうな様子を見て、絶対『菊花賞』でリベンジしてやるって思った。
でも、そう思えるようになったのも、きっと良馬のおかげだと思う。何故かって言葉にするのは難しいけど、良馬がいてくれたから。
足の怪我で神様から『走ること』を取り上げられて、それでも強くて優しい良馬を僕は尊敬している。大げさに言うと、僕にとっては、心の拠りどころだ。良馬には迷惑かもしれないけどね。
僕はもう大丈夫。ありがとう、良馬。
「大丈夫だから。サクシードもすぐに良くなるって。夏の間は北海道の牧場に返すことにしたんだ」
『そうか』
僕は今朝の夢を思い出した。夏になったら、良馬と一緒に北海道のお祖父ちゃんの牧場に行きたい。
「それでね。まだ先だけど」
『うん』
「あ、やっぱり、いいや」
『なんだよ』
「ううん。会ったときに話す」
会って、良馬がどんな顔をするか見たい。喜んで、行くって言ってくれるといいけど。
『会ったとき?』
「うん。えっと、今週末から東京開催だから、府中なんだよ。良馬の家、近かったでしょ」
なんだろう。話しながら、すっごく心臓がドキドキしてきた。
『ああ』
「また、来てくれる?」
声が小さくなる。なんで?なんだか、顔が熱い。
『うん』
「よかった」
きっとうんって言ってくれると思って訊いたのに、何でこんなに嬉しいんだろう。
待ち合わせの時間と場所を決めて電話を切ると、僕は鼻唄でも歌いだしそうにご機嫌になっていた。
サクシードが怪我しているときに不謹慎だけど。

「おっ、思ったより元気そうだな」
いきなりよく知っている太い声。
「お父さん?!」
僕の父、騎手の橘昇。昨日まで阪神競馬場で騎乗していた。
先々週の桜花賞ではうちの厩舎のプリンセスドリームで二着だった。なんか、親子して二着ってのもね。今週末からは東京開催で騎乗するから、帰ってきたんだ。
「おかえりなさい。ドリーム、惜しかったね」
「何言ってるんだ。お前こそ、大変だったな」
お父さんは、笑って僕の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「なんかやだな、これ。いつまでも子ども扱い」
僕が両手で自分の頭をかばって、身体を引くと
「だって子どもだろ。俺の」
と、また笑った。本当は、別に嫌じゃない。僕はお父さんのことを騎手として尊敬しているけど、それ以上に父親として大好きだ。
「サクシードが怪我したっていうから、相当落ち込んでいると思ったんだがな。元気そうでよかった」
「落ち込んだよ。昨日は」
「今日は、大丈夫なんだな」
「うん」
僕はお父さんの目を見て、うなずいた。
「そうか。それでいい。はっきり言っておくが競馬に事故は付き物だ。馬は怪我をする生き物だ。何ごとも無いように、精一杯努力しても、事故は起きるし、故障もある。―――それでいちいち立ち直れないほど沈んでいたら、騎手はつとまらないからな」
ゆっくりと話すお父さんの一言一言が胸にしみた。
お父さんも、五年前にお手馬だった天皇賞馬のブレイヴを宝塚記念での骨折で失っている。その夜、自分の部屋で声をあげて泣いているお父さんを、僕は知っている。
佐井さんも、光岡さんも、レース中の事故でお手馬が死んでしまった経験をしていた。
予後不良。考えたくないけれど、それはいつか僕も経験するのだろう。
本当に、考えたくないけれど。
しんみり聞いていると、急にお父さんが背中を叩いた。
「サクシードは、ひびだけですんでよかったじゃないか。菊花賞で頑張れ」
「うん、そう思っているよ」
僕は、お父さんの励ましが嬉しくて、ちょっとわざとらしいくらい元気に応えた。
「そういえば、さっき園部さんに会ってな」
園部さんというのは、チアズプレシャスのオーナーだ。皐月賞の日に前田と話をしていた姿がよみがえる。
「お前が、サクシードでダービーに出られないなら、プレシャスに乗ってくれないかとか言ってたぞ」
「ええ?!」
「佐井君はセントエクセルだからな」
「だからって、何で僕……」
「それだけお前の騎乗が認められている証拠じゃないか。新人でも、驚異的な勝率だって?トンビが鷹を生んだかって言われたよ」
お父さんは嬉しそうに笑っている。僕は唖然とした。
名手と呼ばれた橘昇をつかまえてトンビ?信じられない。それだけで、園部さんを嫌うには充分だけど。
「プレシャスには乗れません」
前田に乗り替わろうなんて、とんでもない。
大体、サクシードが怪我をしたのに、他の馬で出るなんてできないよ。
こういう考えは、プロとしては失格かもしれないけれど。サクシードだけは特別なんだ。
「まあ、俺もまだ早いとは思っているがな。なんせ、俺が初めてダービーに出れるような馬に乗れたのはデビューしてから四年後だったからなぁ」
しみじみ言うお父さんの顔を見て僕はくすっと笑う。
お父さんのデビュー当時は、お祖父ちゃんも駆け出しの調教師で、今みたいに良い馬は全然無かったっていうのが、お父さんの口癖だ。
北海道で牧場を経営するオーナーブリーダーの娘だったお母さんと結婚してから、そこの馬を任されるようになったんだよね。
やっかまれて大変だったって話してくれた。
馬のことより、お母さんが評判の美人だったからだって、お祖父ちゃんは言ってたけどね。
お父さんとお母さんはとっても仲がいいから、息子の僕は幸せだ。
「お父さん、東京開催じゃ、僕と一緒のレースもあるんだよね」
「ああ。お前には負けられん。と言いたいが、トンビだからな俺は」
大声で笑う。
「やめてよ」
僕はお父さんの背中を拳で軽く打った。


水曜日。
調教を終えた僕のところに、前田がすごい顔をしてやってきた。
「ちょっと、顔かせよ」
いきなりけんか腰の態度に僕もむっとする。何なんだ?
前田は、ひと気の無いところまで僕を引っ張っていくと、切りつけるように言った。
「お前、プレシャスに乗りたいって、言ったんだってな」
はあ?何?なんでそういう話になるの?!
「サクシードがダメなら、プレシャスなんて、図々しいんじゃないのか」
前田は、今にも殴りかからんばかりの凶暴な目になっている。
「ちょっとまってよ。誰がそんなこと言ってるの?」
「園部オーナーがテキ(調教師)に言ってたんだよ。聞いたんだからなっ」
はき捨てるように言う。
「僕は、言ってない」
その話は、お父さんとの会話に出ただけだし、それだって『乗れない』って僕は言った。
「うそつけっ」
前田が僕の胸倉を掴んだ。そのとき
「やめろ。前田」
押し殺したような低い声がした。僕も前田もビクリと振り向いて、その人物に驚いた。
(佐井さん)
やはり調教を付けてきた後らしい、銀色の調教ジャンバーを来た佐井さんが、眉を吊り上げて立っていた。
「その手を離せ」
佐井さんの言葉に、固まっていた前田がのろのろと僕から手を離した。
普段からは信じられない、怖い厳しい目をした佐井さんが、前田を睨みつけて言う。
「乗り替わりっていうのは、俺たちの世界じゃ当たり前の事だ。勝つ為に最高の条件で走らせたいのは当然だろ。それを替わられた相手にあたるなんて、お門違いもいいところだ」
前田がうつむく。
「くやしかったら、腕をあげることだ。駿以上にな」
佐井さんの言葉が終わらないうちに、前田は走って行った。

「佐井さん」
お礼を言わなきゃ。
「お前が、前田に引っ張られているのが、見えたんだよ」
走って行った前田の方を見ていた佐井さんが振り向く。
「あ、ありがとうございます」
「いや」
「あの、でも、ホントに乗り替わりの話は無いんです」
誤解は解いておきたかった。
「ああ、そうだろうとは思ったよ。どうせ、園部さんがそうしたいと思っているっていうような話だろ」
佐井さん、いつもの穏やかな顔だ。でも、さっきは……
「僕、佐井さんの怒っている顔、初めて見ました」
「え?」佐井さんが自分の顔をひと撫でする。
「怒ってた?……ああ、怒ってたかもね。うん」
そう言って、僕を見てふっと笑った。
「皐月賞で、サクシードとの勝負に水をさされたこと、結構、根に持っているんだよ」
(ああ、佐井さんも……)
「サクシードは、強い馬だ。他の馬と接触して、それで俺の馬に半馬身まで迫ってきた。あの事故が無ければサクシードが勝っていたと思っている人間も多い。いや、俺自身、そうかもしれないと思っている」
「佐井さん」
「だから、本当に、残念なんだよ」
厳しい顔でうつむく佐井さんの横顔。僕は、言葉にならなくて、ただ見つめる。
「駿。俺はダービーで勝つ」
え?
「サクシードが出てこないのに、他の馬に負けるわけにはいかない。セントエクセルでダービーを取るよ」
佐井さん。
ダービーを、誰もが一生に一度でもいいから取りたいって思っている夢のレースを、こんなに堂々と勝利宣言してしまえるなんて。
僕に向かって唇の端を上げて微笑む佐井さんの周りに、オーラが輝くようだった。
これが、連続リーディングの、王者の微笑み。
僕は思わず、見惚れていた。
「駿、知ってるだろ」
あ、僕は我に返った。佐井さんが言う。
「皐月賞は最も早い馬が勝つ。ダービーは最も運のある馬が勝つ」
知っている。そういう意味では、僕のサクシードは運が無かった。
「そして、菊花賞は」
佐井さんが答えを促すように僕を見つめる。僕は応えた。
「最も強い馬が、勝つ」
「そう。だから俺は、ダービーを勝って、菊花賞でお前を待つ。橘駿とサクシードを、ね」
感激した。感動といってもいいかも。胸が詰まって、涙が出そうになって……僕はただ頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
これだけしか言えなかったけど、多分、佐井さんはわかってくれた。
「ま、それまで他の馬でもぶつかるだろうけど、お手柔らかに頼むよ」
いつもの柔和な佐井スマイルで、軽く右手を上げて去っていく。
ああ、よく考えると気障なんだけど、いちいちポーズが決まる人なんだよね。
僕はその後ろ姿を見送って、胸の中が燃えるのを感じた。
負けたくない。
あの人に近づいて、いつか――超えてやる―――。


調教スタンドに戻ると、山本さんから声をかけられた。
一人じゃなくて連れがいる。
その、男にしては異様に長い髪を前髪ごと後ろに一つで結んでいる印象的な髪形を見て、どこかで見たことがあると思った。
「駿、紹介するぜ。カメラマンの天城信夫(てんじょうしのぶ)。フリーなんだけど、うちの雑誌の写真も撮ってもらっているんだ」
「こんにちは」
山本さんより三つ四つ若そうな感じの、大人しそうなその人が。笑って頭を下げた。
「……どうも」
なんとなく嫌な予感がして、僕は挨拶もちゃんとできなかった。
そして、その予感はある意味、あたったんだ。

「写真集?」
山本さんから聞いた話に、僕はおもむろに嫌な顔をした。
「そんな眉間にしわを寄せるなよ。別に水着を着ろって言ってんじゃないんだから」
山本さんの冗談にも笑えない。
「お断りします」
きっぱり、はっきり断ってやった。
「いいじゃねぇか、佐井だって出してるぞ。いくつも」
「僕と佐井さんは格が違いますから」
「またまたぁ、そんな思ってないくせに」
「なんですか?それ。どういう意味?」
僕がキッと睨みあげると、山本さんは肩をすくめて困ったように天城さんを見た。
「なっ、ダメだろ」
天城さんは、微笑んだまま。
「俺は、こいつはそう言うと思っていたんだよ。アイドル扱いされるの死ぬほど嫌っているからな」
山本さんが、申し訳無さそうに天城さんと僕を交互に見た。
それまで黙っていた天城さんが、手にしていた封筒を開きながら言った。
「橘君。僕は君をアイドル扱いしたいわけじゃない。ただ、君を撮りたいんだ。騎手としての橘駿をね」
封筒から、何枚もの写真を取り出して、僕に差し出す。
「見てもらえないかい」
それは、僕の写真だった。デビューした日の初めてのパドック。初騎乗での本場馬入場。そして弥生賞。サクシードの背に跨った僕。サクシードと走る僕。何枚も何枚も。
そして、弥生賞の表彰式。ウイナーズサークル。
僕の目が一枚の写真に止まった。
スタンドを見上げて、笑う僕の顔。
これは、良馬を見つけたとき。ああ、あのとき僕はこんな顔で笑ったんだ。
胸が熱くなった。
あのとき、離れたスタンドから、聞こえるはずの無い良馬の声を、僕は確かに聞いた。
―――駿――――
その声が、よみがえってくるようだった。

「いい表情(かお)でしょう」
天城さんの声に、我に返った。どうしよう。僕の顔は赤くなってないかしら。
天城さんは微笑んだまま
「この写真を撮ったから、僕は本気で君を撮りたいと思ったのかもしれない。すごくいい顔だ。見ているこっちの胸も温かくする」
顔に血が上る。やっぱり、絶対、僕は赤くなっている。
「でも、走っているときの君もすごくいい。ほかにも、このあいだの皐月賞とか撮っているんだよ。自分で言うのも何だけど、いい写真がたくさんあって。大勢の人に見てもらいたいって思ったんだ」
何て答えていいかわからない。
でも、天城さんの写真は確かにいい写真だと思った。この僕が思うくらいだ。
「僕は、カメラに向かったり、ポーズとったりはできないです」
「ああ、僕もそんな写真が撮りたいんじゃない」
天城さんが声を弾ませる。
「じゃあ、今までどおり、こういうふうに撮るんなら、別に気にしないです」
「あ、ありがとう」
「あっ、でも、写真集とかいって出すんなら、僕がもっと重賞とってからにしてください」
なに言ってんだろう、僕。
「騎手として、認められていないうちに、そういうの、恥ずかしいです」
なんか、写真集のこと、オッケーしちゃってる。
「うん。わかった。それまでいい写真をとるよ」
天城さんが、僕の手を握る。山本さんも嬉しそうにニヤニヤ笑って
「こいつなら、あっという間に重賞の二つ三つ続けて取っちまうよ」
「うん、そうだね。僕もそう思う。よろしく、橘君」
天城さんにこんなに嬉しそうにされると、かえって申し訳ないような、気恥ずかしい気持ちになった。
「あ、それで」
僕は、勇気を出して言った。
「この写真、もらってもいいですか」
さっきのウイナーズサークルの写真。良馬との再会の日の。
「ああ、もちろんだよ。なんならパネルに」
「いいっ、いいです。このままで」
僕は、たぶんまた真っ赤になった顔で、ぶんぶんと首を振った。
                                       




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