SucceedB 良馬

左腕には、まだ、うっすらと駿の指の痕が残っている。
その上に自分の手を重ねると、
背中から、腰にかけて、ぞくりとする震えのような痺れが走った。
「駿……」
あの日、中山のメインレースを見ていたら、不意に駿の手が俺の左腕を掴んだ。
驚いて、横にいる駿を見返したが、駿の目はただ前を見つめていた。
視線の先は、13頭の馬を従えて先頭を駆け抜けるチアズプレシャスの鞍上、佐井猛流。
自分では気づいていないらしい。駿は指が白くなるほどきつく握り締め、ただひたすら佐井を目で追っていた。
俺は、掴まれた腕よりも、胸が痛んだ。
佐井を追う駿の瞳の激しさに、胸の奥が、きりきりと痛んだ。
この気持ちは、何なのだろう。
この気持ちは ―――――― 嫉妬だ。
駿の気持ちが、佐井という男に向けられていることが、耐えられない。これは、嫉妬だ。
それでは、俺は、駿を愛しているのか?
まさか。ちがう。
駿は男だ。
だめだ。
この気持ちは、こんな気持ちは、殺してしまわないと―――――



* * * 

四月に入り、うちの大学も新入生を迎えて、華やいだ活気あるキャンパスになっている。
あちらこちらに、クラブやサークルの出張所ができて、立て看板がならび、新入生への呼び込みの声かけが賑やかだ。
俺は、学生課で三年の必修科目の時間割をもらって、選択教科との擦り合わせをした。なにしろ、二年までは、陸上しかやってないようなもんだから、一、二年でとっておくべき単位もずい分落としている。
(ま、取れなかったら、一年余計に大学生活を続けさせてもらうさ)
親不孝なことを考えながら歩いていると、前から来た女性に声をかけられた。
「良」
俺は一瞬我が目を疑った。
「亜矢子?」
俺が、事故で脚を悪くする前までつき合っていた恋人。いや、元恋人、の進藤亜矢子。
同じ大学なのだから、キャンパスで会うことはあって当たり前なのだが、俺が驚いたのは、彼女の髪がばっさりと切られて、少年のように短くなっていたからだ。
ほんの少しウェーブのかかった栗色の髪を肩の下までたらして、いかにも女性らしい雰囲気を大切にしていた亜矢子。その彼女が、驚くほど髪を短くしてしまっていたので、声をかけられてもすぐには誰だかわからなかった。
「ひさしぶり」
照れたように、亜矢子は笑った。
「ああ……」
事故以来きちんと話をすることも無く、自然消滅したような別れ方だったので、大学が始まったら自分から連絡しようと思っていたのだが、こうして会ってしまうと、間抜けな話、言葉に詰まった。
「福永君から、良が大学に出てきているって聞いて……探したの」
「ごめん。連絡しないで」
会って、ちゃんと話をしようと思っていたのだが。
「ううん」
「髪、切ったんだな」
こんなことを言いたいわけじゃない。
「切りすぎちゃった。変でしょ?」
「いや」
「…………」
新歓の声の賑わう、華やいだキャンパスで、自分たちの周りだけ時が止まった感じがする。
俺も、亜矢子も、言うべき言葉を捜して、そして見つからず、黙ったまま。
ふいに、亜矢子が声を震わせた。
「ごめんなさい。良……私、あなたの一番辛いときに、逃げてた」
うつむいて、唇を噛み、そして両手で顔を覆う。
「私、あのとき、あなたを、あんなあなたを、見ていられ、なくて、わたし……」
両手の隙間から、嗚咽がきこえる。
通りすがりの、学生たちが興味本位の視線を送ってくる。
俺は、亜矢子の背中に手を廻して、人通りの少ない道へ誘った。
亜矢子はうつむいたまま黙ってついて来た。

裏門の近くに誰も座っていないベンチがあったので、そこに二人腰掛けた。
「俺のほうこそ、悪かった。あれきり連絡もしないで」
もう一度謝ると、うつむいたままの亜矢子が小さく左右に首を振る。
「けじめはつけないと、と思ってたんだけど」
という俺の言葉に、亜矢子は弾かれたように顔をあげると、涙をためた瞳を見開いて俺を見つめた。
「良、私たち、別れたわけじゃ、ないでしょう?」
え?俺はその言葉の意味を探って見つめ返す。
「私たち、しばらく離れていたけれど、嫌いになって別れたわけじゃないわよね」
訴えるような亜矢子の声。
そう、嫌いになって別れたわけじゃない。だが、俺の中ではもう終わっていた関係だ。
どう応えて良いかわからずに黙って見つめていると、亜矢子が言った。
「私、もう一度、やり直したいの。良と」
「亜矢子……」
真っ直ぐに俺を見つめてくる視線。泣き顔なんて、普通そんなに綺麗なものじゃない。
なのに、今の亜矢子は以前つき合っていた頃よりも、格段に美しく見えた。
居たたまれなくなって、視線を逸らせて言葉をつないだ。
「お前、新しい彼氏、できたんじゃないのか」
「え?」
俺の言葉を、どう受け止めたのか、亜矢子は泣き笑いのような顔になって
「いないわよ。そりゃ、私も落ちこんでいたから、慰めてくれる人はいたけど、彼なんて呼べる人、いないわ」
すん、と鼻をすすりあげると、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「私が好きなのは、良、ずっとあなただけよ」
「…………」
終わったと思っていたはずなのに、はっきり言うと、気持ちが揺れた。
そして、その亜矢子の顔を覆い隠すように、駿の顔が浮かんできて、俺はさらに動揺した。

「少し、考えさせて、くれないか」
自分のつま先に視線を落として、俺がつぶやくと
「考えないと答えが出ないようなことを、迫っているのかしら、私」
と、亜矢子は悲しそうに薄く笑った。そして
「いいの、ごめんなさい。当たり前よね……でもそれなら、考えてほしい。私、待ってる」
亜矢子はゆっくり立ち上がった。
もう一度俺を見て微笑むと、そのまま裏門からキャンパスを後にする。
少しだけ肩を落として、けれども一度も振り返らず、真っ直ぐに歩いて行く。
亜矢子が変わったのは髪型だけではなかった。
事故で、嫌が応でも俺の人生が変わってしまったように、亜矢子もまた俺の事故を境に変わった。
遠ざかる亜矢子の、その後ろ姿を見送りながら、俺はまだ立ち上がれずにいた。

しばらくベンチに座っていたが、いつまでもそうしている訳にもいかず、俺は、駅に行くために正門の方に向かってキャンパスを突っ切って歩いた。さっきの亜矢子の顔を思い出しては、ときおり足取りが重くなる。
いきなり強く肩を叩かれ、俺はびくりと振り返った。
「よう、藤木」
福永が、また競馬雑誌を片手に笑っていた。
「よお」
返事をしながら、亜矢子が『福永君に聞いた』といった言葉を思い出した。
「帰るのか?良かったら、うちの部室、寄っていかないか」
福永が誘ってくる。このまま家に帰っても、どうせ亜矢子のことで悩むだけだと思うと、福永のサークルを覗いてみるのもいいかと考えた。

「ようこそ、わが『競馬研究会』、略して『ウマ研』へ」
八号館の地下には大小さまざまな部屋があり、それぞれ怪しげなポスターが貼られ、あまり健全とはいえなさそうなサークルの部室が並んでいた。
その中の一室に、福永は大仰なしぐさで俺を招き入れた。
中では、二人の男がタバコを吸いながら、競馬新聞を手に真剣に話をしていた。
手前に座っているほうが振り返った。
「おう、福永。新人か」
「いや、俺のクラスの奴。ちょっと遊びにね」
福永が応えた。
「ひょっとして、藤木良馬じゃねえか」
奥にいた、とても学生とは思えないヒゲ面の男が俺の名前を呼んだ。知り合いかと顔を見返したが、あいにくと俺には心当たりが無い。
「安さん。何で知ってんの」
福永が驚いて訊くと、その安さんと呼ばれたヒゲ男は事も無げに応えた。
「陸上の藤木だろ、有名じゃねぇか」
といっても、俺が事故って走れなくなったことまでは、知られていないらしい。
福永が困ったように眉を寄せて笑って俺の顔を見た。俺は軽く頷いた。
「俺、陸上はやめたんですよ」
たぶん年上だと踏んで、敬語を使った。ヒゲ男はちょっと驚いた顔をしたが、
「へえ、もったいないな。俺は、あんたの走りは好きだったよ。って言っても一回しか見たことねえけどな」と、ニヤリと笑った。
やめた理由も聞かない。今の俺にはホッとするような自然な対応。福永も安心したのか、わざと気を使わぬそぶりで言う。
「それで、時間ができたようだから、ウマの道に引きずり込もうかってね」
俺に、手近にあったパイプ椅子をすすめて、自分も座った。
「あ、一応、紹介しとくわ。こっちは、俺たちと同い年、教育学部の田村洋介。奥が、競馬道二十年このサークルの大御所、安さん、こと安田孝司(やすだたかし)さん」
「二十年」
俺がおもわず呟くと
「はじめて競馬場でみたGTは、オヤジに連れて行かれたカツトップエースの皐月賞だぜ」と自慢げに笑った。
わからない。
『ウマ研』の部室らしく、会議室によくあるような細長い机の上には、競馬情報誌が山積みされている。
最新号の《週刊ホースレース》の表紙に駿の姿があった。サクシードと一緒に写っている。
それを手にとって眺めていると、福永が
「ああ、それ、この間話した弥生賞の新人ジョッキー。えらい可愛いだろ。顔だけ見たら女の子かと思ったよ」と言った。
確かに、この写真もとても可愛いいが、それでも実物の可愛らしさには到底及ばない。
などと、考えてしまう自分が変でおかしい。ぱらぱらとめくって中を見た。
《特集『皐月賞』》
今月の第三週の日曜日に中山競馬場で行われる『皐月賞』の有力馬の紹介。駿のエアサクシードは見開き2ページにわたって記事を書かれているのだからかなり期待されているのだろう。同じく、セントエクセル、チアズプレシャス、ディグニティらが、見開きで特集記事になっていて、他にも、少し小さい写真でリアルショットや、ミヤノワンズウィッシュなどの名前があった。

「佐井はセントエクセルに乗るのか」
記事を読んだ俺が呟いたら、福永が身を乗り出してきた。
「そうなんだよ。スプリングSの勝ちっぷりからいってチアズプレシャスかと思っていたんだけどな」
福永の言葉に、安さんが反論する。
「いや、スプリングSは、馬が強かったというより、佐井が上手かった。馬としてはやっぱりセントエクセルだろ」
田村がそれに対して
「そうだけど、チアズプレシャスも相当だぜ。前回無理してない分、上積みがあるかもよ。前田はラッキーしたよな」
「ああ、前田ね」
「上手いんだけど、強引なところがあるよな。佐井のようには乗れんだろ」
どうも話を聞いていると、佐井がセントエクセルに乗ることにしたために、乗り役のいなくなったチアズプレシャスに前田という若手の騎手が乗ることになったらしい。
「しかし、サクシードがとったら、橘駿はデビューから最短でGTジョッキーだな」
安さんが言う。
「やっばり、橘の息子ってのは大きいよな」
「というより、調教師とオーナーブリーダーがバックにいることのほうが大きいんじゃないの」
「だから、それが橘の息子ってことだよ」

三人の会話を聞きながら、初めて駿に会った日のことを思い出した。
『そうだね。普通は、出られないよ』そう言って睫毛を伏せた駿の顔。
たぶん、誰しもがこういう会話をしていて、それは駿の耳にも届いていて、それでも彼は堂々とサクシードに乗るのだ。妬みからの意地の悪い視線も、過剰な期待からのプレッシャーもはねのけて。
俺の知る駿には、恵まれた環境に甘んじている様子は微塵も無かった。
俺はもう一度、表紙の、あどけない駿の笑顔を見つめて、この裏にどれほどの覚悟が隠されているのかと思って胸を熱くした。

「なあ、お前も皐月賞、中山に見に行かないか?」
福永が、突然言ってきたので、俺はとっさにごまかすこともできず
「あ、ああ」
と応えた後、しかたなく言った。
「行くことになっているんだ。その……友達と」
「なんだ。それならあっちで合流しようぜ。ケータイ鳴らすから」
「それが……」
レースが終わったらまた、弥生賞の日と同じくけやき公苑で駿と会うことになっている。
だからレースの間は、俺は一人なのだが、そのあと福永たちと上手く別れるのは難しそうだ。俺が困っていると、福永は何か勘違いしたようだ。にやっと笑って
「あ、そうか。悪い。気が利かないで」
「え?」
「進藤亜矢子と行くんだろ」
亜矢子の名前が出て、ドキッとする。俺がうろたえたのを肯定と受け取ったらしい福永は、何故か嬉しそうに言う。
「そうか、よかった。より戻ったんだな。俺、あいつにお前の話したとき、実は泣かれちゃってさ」
俺はたぶん困った顔をしていたんだろう。福永は慌てて言葉をつないで
「いや、泣いたっていっても、ちょっと涙ぐんだくらいで、その、わんわんじゃないぞ。なんての、お前がまた大学戻ってきたのが、すごい嬉しいって感じで、その、えーっと……」
俺の顔をみて、ますます焦っている。
「わりい、やっぱ、俺なんかが口を挟む話じゃなかったな」
机に手をついて頭を下げる。
「いや、いいよ。心配してくれて……」
ありがとうとまでは、さすがに言えなかったが、この、人のよい福永にあえて事実を言うこともないだろうと、亜矢子の件はうやむやにしておいた。

「いいねぇ、青春だね。競馬場のデートはいいぞ」
俺たちのやり取りを聞いていたらしい安さんがニヤニヤと笑いかける。
田村というやつもうんうんと肯いて、実況がかった口ぶりで言う。
「春の日差しも眩しいここ中山で、同じ新聞を見つめながら勝ち馬を探す、二人の初めての共同作業」
安さんが続けて
「満開の桜が二人に贈る、祝福の万馬券」
競馬新聞を丸めてマイクのように持った田村と安さんがハモる。
「中山名物『ふあふあコアラ』も拍手を送る、本馬場入場です!」
なんなんだ。一体??
「二人とも、藤木がヒクからやめてくれよ」
福永がこめかみに手を当ててうなった。
なかなか楽しそうなサークルだ。その後も『ウマ研』のバカ話は続き、おかげでというか、俺は、亜矢子のことをしばらく忘れることができた。

皐月賞当日、俺は午後遅くから中山競馬場に行った。
福永たちも来ているので、ひとりでいるところを見られたらどうしようかなどと考えていたのだが、そんな心配をする必要ないほど、競馬場は混んでいた。
さすが、GTだけあってこの前来たときの比ではない。十万人をこえる人が集まっているらしい。俺はコーヒーを買って、ターフビジョンが見える適当な場所を捜して歩いた。ちょうどいい柱を見つけて、そこにもたれる。
駿に教わった馬柱の見方を参考に新聞を見る。
エアサクシードは 5枠10番で、黄色の帽子だ。
駿の言っていた『水戸のひとつマル』がエアサクシードについている。だが、一番人気はまたもや佐井のセントエクセルだ。二番がエアサクシードで、単勝7・6倍。10倍を切るのはこの二頭だけで、混戦模様だと伝えられている。チアズプレシャス、ディグニティ、リアルショットなどの馬にも印はたくさんついていた。
今から、佐井と駿がこの中山の2000メートルを共に走るのだと思うと、複雑な気持ちがした。自分も陸上選手時代、ライバルと思う相手がいた。相手のタイムが気になって、相手の調子が気になって、『自分自身との戦いです』なんてカッコいいこと言っても、いつもそいつのことを気にしていた。
駿にとって佐井がそういう存在なのだということを、この前、二人で見たスプリングSで感じた。いや、たぶん、俺が昔ライバルに抱いた感情以上に、駿は佐井を意識している。
駿はおそらく気づいていないだろう。あの時、駿の全身全霊が佐井に向かっていたことに。
パドックの様子がターフビジョンに映った。馬体重の増減を周りの人たちが書きとめている。エアサクシードはマイナス2キロだった。

派手なGTのファンファーレが鳴って、十万人の歓声が上がる。スタンド全体が揺れるような感覚に、GTの凄さを感じた。これだけでも、鳥肌ものだ。
ゲート入りは順調。駿の黄色い帽子が収まったのがわかった。
ゲートが開いて18頭の牡馬が一斉にスタートした。目の前を地響きが過ぎていく。
スタートしてすぐはポジション争いで、一コーナーを過ぎるまで、しばらくごちゃついた。
駿のエアサクシードは、弥生賞の時と同じく中団やや後方よりだが、最内ではない。内に二頭、そとに一頭。たぶん、いつでも外に持ち出せるいいポジションなのだと思う。
そう思っていても、心臓の音が自分で聴こえるほど高鳴っている。このまま、最後まで中団のままだったら。前が詰まってしまったら。先頭を走るあの馬まで届くのだろうか。
向こう正面から三コーナーにかけて、縦長になりながら、比較的落ち着いた流れだったが、四コーナーが近づくに連れ、各馬忙しくなってきたようだ。
四コーナーを廻って、直線に向かうところで、エアサクシードが上がっていった。佐井の馬も上がっている。ここにきて周囲の叫び声も大きくなる。ウォーッという喚声の中に、それぞれの思う馬の、騎手の名前が連呼される。
「そのままーっ!」
「いけーっ、いけぇーっ!佐井ぃぃぃっ」
「よしっ、橘っ、上がれ、いけ、いけ、いけっ」
「サクシードぉおおっ」
「エクセぇルぅぅーっ」

新聞を握り締めて絶叫する人たちに混じって、俺は駿の名前を心で叫んだ。
―――勝ってくれ、駿。

そして、俺の目の前で、信じられないことが起きた。
直線で、駿の馬が、エアサクシードが、よれて外にいた馬にぶつかった。
「駿っ」
俺は思わず小さく叫んだ。
スタンドがザワリと揺れた。電光掲示板に審議の青いランプが灯る。
(なにが、あったんだ?)
そのまま、サクシードも、ぶつかった馬も走り続けている。
残り、100メートル。佐井の馬は、すでに馬群から抜け出している。
駿は必死に追い続けたが、二着。佐井のセントエクセルに、半馬身届かなかった。サクシードがぶつかった馬は四着に入った。
放送が流れる。
『只今のレースは、最後の直線走路で13番ディグニティ号の進路が狭くなったことに対して審議を行っています。お手持ちの勝馬投票券はお捨てにならず、そのままお持ちください』
『お知らせいたします――――』
繰り返される放送に、周囲もざわついている。
「橘のサクシードだろ」
「だから、新人がGTに出てきちゃダメなんだよ」
知った風に話している男たちを睨みつけて、俺はひたすら結果を待った。
(駿、何があったんだ)

俺にとってはひどく長く感じられた時間の後、審議の結果が放送で流れた。
『お知らせいたします。只今のレースで、最後の直線走路で13番ディグニティ号の進路が狭くなったことに対して審議を行いましたが、失格、降着の馬は無く、入着どおりに順位が確定いたしました』
電光掲示板のランプが確定に変わる。
ホッとした雰囲気があたりに生じ、払い戻しの機械の前には、早速、長蛇の列ができた。
『一着セントエクセル、二着エアサクシード、馬連840円……』
配当の結果を告げるアナウンスが続いている。
何事も無く良かったという安堵と、駿のエアサクシードが佐井のセントエクセルに負けてしまったのだという失望が同時に押し寄せてきて、気持ちが混乱した。
駿に会いたい。
気持ちの昂ぶりのまま、待ち合わせたけやき公苑に、俺は足早に向かった。

最終レースが終わって、かなりの時間が過ぎた。
まだ、駿は現れない。
さすがに皐月賞という大舞台の後なのだから、抜けられなくなったのだろうか。
あたりが次第に薄暗くなる。さっきまではちらほらといた人たちも、姿が無くなった。
来られないなら連絡くらいありそうなものだが、と携帯を見る。着信は無かった。
(駿、どうしたんだ。何かあったのか)
さっきのレースが頭をよぎる。
エアサクシードが一瞬よれてしまったことを、駿は気にしているだろうか。
佐井に負けたのは残念だけど、二着だって大したものだ。駿が来たらそう言ってやりたい。
けれども、駿は現れなかった。
ふと目を上げると、公苑のライトに照らされた桜の花が幻想的に美しかった。
(夜桜見物でもして、帰るか)
そう思って、立ち上がったときに小さい影が見えた。
「駿?」
そう声をかけながら足早に近づくと、紛れも無く駿だった。
「良馬、待っててくれたんだね……こんな…遅く……」
暗くて顔がよく見えない。どんな表情(かお)をしてるんだ。思わず肩に手をかけて軽くゆすって上を向かせる。
「駿」
覗き込むと、俺を見上げる駿の大きな瞳から涙があふれた。
そのまま、俺にすがりつくように抱きついた。
(駿?!)
駿が、俺の胸の中で泣く。肩を小さく震わせて。両手で俺のセーターの胸元を握り締めて。声を出さないようにして、苦しそうに嗚咽を堪えて泣いている。
俺は、その華奢な身体を抱きしめようとして、一瞬、躊躇した。
(ココデ抱イタラ、後ト戻リデキナイ)
頭の中で、声がする。
だが、俺は、耐えられなかった。頭の中の警告を無視して、駿の身体を抱きしめた。
「うっ……ふ……」
駿の嗚咽が喉から洩れる。
口づけたい衝動に、駿の髪に顔を埋めた。
駿の髪は、日なたの干草の匂いがした。


その夜、俺はなかなか眠れなかった。
あの後、駿は、何も言わずに静かに泣き止むと、
『ごめんね。ありがとう』
そう言って、俺からゆっくり身体を離し、サクシードの様子を見に行かないといけないと言って、帰っていった。
『ごめんね、良馬。また、連絡していい?』
『ああ』
『ありがと。ほんと……居てくれて、嬉しかった』
手のひらで涙のあとを擦って微笑んだ駿に、俺の心臓は裂けそうなくらい痛んだ。
駿の儚げな後ろ姿が小さくなるのを見つめ、追いかけたい気持ちを押さえることができたのは、我ながら不思議だ。
駿に対して抱いた気持ちがよく判らないまま、理由不明な自己嫌悪を抱きながら家に帰った。
眠れなくて、それでも明け方うとうとした時、夢を見た。


夢の中で、俺は駿を抱いていた。
裸の駿を押し倒し、貪るように口付けた。駿の白い喉がのけぞって、切ない吐息が洩れた。
夢の中で、俺は狂ったように駿を抱いていた。


朝、目を覚まして、俺は自分自身に吐き気を催した。寝汗がひどい。自分の額にはりついている前髪をかき上げる。時計を見ると、8時45分。
(たぶんまだ、出かけてはいないだろう)
枕もとの携帯電話を手にすると、指が覚えている番号を押す。
四回目のコールで――相手の携帯にも俺の名前が表示されているのだろう――はしゃいだ声がした。
「良、どうしたの?おはよう」
「ああ、亜矢子、あのさ」
俺は、砂をかむような気持ちで言った。
「考えたんだけど……お前ともういっぺん、付き合う。いいか?」
「え……ほんと?……嬉しい」
亜矢子の本当に嬉しそうな声を聞いて、俺は彼女にひどく残酷なことをしているのではないかと後悔した。
いや、俺が亜矢子を愛せばいい。亜矢子は俺を好きなのだから、俺が亜矢子を愛せれば、彼女に対して酷いことをしているとは言えない筈だ。
そう、自分自身に言い聞かせた。
そして、こうでもしないと自分の気持ちが、取り返しのつかない方に進んでいくことを予感して恐れた。

駿は、男だ。
俺にとって、ある意味恩人で……かわいい弟のような友人。
駿を愛している?
まさか。ちがう。
俺は、駿を愛してなどいない。
駿は男だ。
だめだ。
この気持ちは、こんな気持ちは、殺してしまわないと―――――          
                                     













SucceedB 駿
「15.0」
調教コースの六ハロン棒を過ぎたところから、僕は自分の中で時計を刻んだ。
「14.5、13.5、13.5、12.0、11.5」
よし、あがり三ハロンは、かっきり37秒でまとめた。
今日の一番時計かもしれない。古馬でもなかなかここまでの時計は出せないはずだ。
エアサクシードの調子は絶好調といってもよかった。
小川さんが嬉しそうにやってきた。
「取材の人が待ってるから、後は、やっとくよ」
「ありがとう」
僕は、鼻から大きく息を吐いているサクシードの首を撫でた。
「サクシード、また後でね」
「それにしても、完全に仕上がったね。うちの厩舎からもいよいよ三冠馬の登場かねぇ」
サクシードの口を取りながら、小川さんが目を細める。
「そんな、まだ始まってもいないんだよ」

『皐月賞』『ダービー』『菊花賞』の三歳限定のクラシックレース。この三つともを勝った馬を三冠馬と言う。今週の日曜に行われる『皐月賞』が、その第一戦だ。
小川さんにはああ言ったけれど、ほんとを言うと今のサクシードならとれそうな気もする。
調教スタンドに入ると大勢の取材記者に取り囲まれた。皐月賞の最終追い切りの後なのだからしかたない。
「エアサクシードはずい分強く追い切ったね」
「はい」
「弥生賞と比べてどう?」
「調子は上向いています」
「ライバルはやっぱり佐井君のセントエクセルかな」
佐井さんの名前が出ると、まだ少しだけ緊張する。
「ライバルは他にもいます。でも、サクシードを信じて乗りますから」
そう、僕はサクシードを信じている。そして、サクシードも……。

金曜日、皐月賞の枠順が決まった。エアサクシードは 5枠10番。いいところだ。ちなみに佐井さんのセントエクセルは4枠7番。
その出馬表を見ながら、僕はレース展開を予想する。
たぶん、光岡さんのリアルショットは今回も先に行くだろう。3番のスカーフェイスが逃げ宣言をしているし、ペースはいくぶん早めかもしれない。エアサクシードは、最後に長くいい脚を使えるから、後方待機でもいいけど、ペースを考えると真ん中あたりかな。できれば、セントエクセルと8番のチアズプレシャスを前に見て行きたい。
もちろん他の馬がどう動くのか、必ずしも予想通りにはいかないから、本番で流れを読むことが大切だけど、今は自分にとっての最高のレースを、最高の展開をイメージする。
サクシードと一番で駆け抜けるゴール板。
僕はいつまでも、出馬表を眺めた。


皐月賞の当日、僕の騎乗は他には午前中だけだった。第2レースと第3レースでは連続一着に入ったし、僕の調子も良かった。浮かれてしまって、ジョッキールームに入るときに、中から出てきた人とぶつかってしまった。
「あっ、すみません」
「いや」
見ると相手は佐井さんだった。
こうして近くに並んでみると、佐井さんは騎手にしては背が高い。170は超えている。体重はどうだろう。僕は元々小さいし、いくら食べても太らないからいいけど、背の高い騎手はその分減量に苦労するって聞いている。佐井さんも苦労しているのかな。そうは見えないけど。なんて、つまらないことを考えてぼけっと見つめていたら
「何?」
佐井さんが、面白そうに僕を見返した。
「え?あっ、いいえ。どうもすみません」
ペこりと頭を下げて、すれ違おうとしたら、急に腕を捕らえられてびっくりした。
「駿」
「はい?」
「俺の言ったこと、覚えてるよな」  
佐井さんの、いつも優しげな綺麗な顔が、怖いくらい真剣に僕を見つめる。
それは、あの美浦の調教コースでの言葉のことだろう。
『借りは返すよ』
弥生賞での追い比べで、佐井さんの馬にハナ差で勝った僕への言葉。忘れるわけ無い。
「はい」
僕も真っ直ぐ佐井さんを見つめて答えた。すると、佐井さんは急にいつもの佐井スマイルに戻って僕の腕をとっていた手で肩をポンと叩いて言った。
「楽しみだな。今日のレースが」
ジョッキールームに入ると、前田がすごい顔で僕を睨んでいる。
第3レースで、前田の馬を差し切って勝ったこと、根に持っているのかな。何かと僕とは合わないらしくて、感じ悪いんだよね。

そして、いよいよ『皐月賞』が始まる。パドックでサクシードに騎乗して、真っ白な誘導馬に導かれて、本馬場へと続く地下道をくぐる。サクシードの蹄がコツコツと小気味良いリズムを刻む。地下道には、僕のお祖父ちゃんたちもいた。普段とは違う、かしこまった背広姿のお祖父ちゃんやみんなを見ると、ああ、GTなんだなって実感してしまった。こんなことで実感していちゃダメかしら。なんだか可笑しくなってクスッと笑ったら、引き綱をとっていた小川さんが見上げて
「余裕ですね」
と微笑んだ。

ファンファーレが鳴り響いて、スタンドが共振するように揺れる。
これから、中山の2000メートルを、僕とサクシードが一緒に走る。
「一緒に風になろう。サクシード」

ゲートが開いた。
皆が自分の狙ったポジションを獲りに動く。ハナに立ったのは予想通りスカーフェイス。その後ろに光岡さんのリアルショットがついた。セントエクセルは前から四、五番手といったところか。前田のチアズプレシャスはセントエクセルのぴったり後ろについている。
僕は、中団のやや後ろにつけた。前に出るのはもっと先でいい。僕のすぐ後ろにディグニティ、その外にマイネルブライアンとミヤノワンズウィッシュが続いている。僕の外にはダイリュウホウが一頭いるだけだ。
ペースが速くなって縦長の展開になった。先頭のスカーフェイスは結構とばしている。あれじゃ最後まで脚は持たないだろう。まだだ。まだ、ここでじっとしているんだよ、サクシード。四コーナーを廻るまで我慢するんだ。
ミヤノワンズウィッシュが動いた。二番手のリアルショットに並びかける。セントエクセルはまだ動かない。
まだ。まだだ。
四コーナーを廻ったところで、スカーフェイスの脚色が鈍った。リアルショットが前に出る。佐井さんの手も動いた。チアズプレシャスも追われて凄い脚で上がっていった。
「行くよ、サクシード」
僕も、サクシードを外に持ち出した。ハミを噛ませると、サクシードは一気に加速する。追うのは最後の一ハロンでいい。ミヤノワンズウィッシュと内のリアルショットをかわして前に出た。
先頭は佐井さんのセントエクセルに変わっている。
チアズプレシャスをかわそうとした時、前田が左鞭を使った。
(あっ!)
前田の鞭が、自分の馬じゃなくて、僕のサクシードの顔を強く打った。一瞬ひるんだサクシードは外によれた。後ろから突っ込んできていたディグニティとぶつかる。
「サクシード!」
叫んだとき、前田がこっちを見た。
ゴーグルを通しても、その目の色で僕はわかった。
(わざとやったんだ)

サクシードは、踏ん張った。行く気をなくすどころか、体勢を立て直すと僕が追うよりも先に加速している。後ろのディグニティが気になったけど、もう最後まで追うしかない。
「がまんして、がんばって、がまんしてよ、サクシード」
前方を見詰め、心の中で叫びながら、必死にサクシードの首を押す。
サクシードが、それに応えるように、首を低く下げて地面を蹴る。
前田のチアズプレシャスをかわした。
佐井さんは、まだ前だ。
「サクシード、サクシード、サクシード」
祈るように叫びつづけて、全身の力をこめて追って、ゴールしたとき―――
右手を上げる佐井さんの背中が見えた。

このレースは、審議だ。
僕が、僕のサクシードが、ディグニティにぶつかったから。
でも―――
サクシードの背中を撫で、降りて検量を済ませると、僕は、真っ直ぐ前田に向かっていった。前田も、ゴーグルをはずした剣呑な目で僕を見る。
「わざとやったんだろ」
僕は、食って掛かった。たぶん怒りで顔が赤くなっている。
「何のことだよ。自分でヨレといて、言いがかりつけんな」
前田の言葉にかっとなって思わず拳を振り上げると、後ろからその腕を掴まれた。
振り向いて、意外な人に、僕はちょっと怯んだ。
「光岡、さん」
「やめとき」
関西のリーディングジョッキーの光岡さんは、普段からあまり話をするほうでなく、僕は、話しかけられたのはこれが初めてだった。
「ほんまに不利受けたんは、井守やで」
僕は返す言葉も無く、光岡さんを見つめる。
井守さんのディグニティは、掲示板を見ると四着だった。その掲示板には審議の青いランプが灯っていた。
光岡さんは、かがんで僕の耳元で小さく言った。
「ここで暴力沙汰おこしたら、騎乗停止やぞ。前田のアホの為に、そないな目におうてええんか」
「すみません」
僕は拳を下ろしてうつむいた。光岡さんの言うとおりだ。

じりじりして裁決を待ったが、結局、前田の左鞭が当たったのは偶然の事故ということになり(信じられない!)、僕がよれたこともやむを得ない事故の延長ということで、着順を変えるほどではないという判断が下った。入着順通りの確定。
検量室で、整列し
「確定!」という言葉に礼をする。
僕は井守さんにもう一度謝りに行った。
「すみませんでした」
井守さんは、かなり残念そうな顔で、それでもきっぱりと言った。
「いや、あれがなくても俺の馬は届かなかっただろう。三着までの馬はどれも強かったよ」
僕は、前田を盗み見た。何事も無かった顔でチアズプレシャスのオーナーと談笑している。前田のプレシャスは三着。前田に先着したのは嬉しいけれど、やっぱり、このレースは納得できなかった。佐井さんの勝利騎手インタビューが聴こえる。
(負けたんだ)
唇を噛んだ。
そこに小川さんが来て、慌てて僕を呼ぶ。
「坊ちゃん。サクシードが」

小川さんが昔のように僕を坊ちゃんと呼ぶのは、緊張や、動揺をしているときだ。
サクシードと聞いて、心臓が跳ねる。
「サクシードが、どうかしたの?」
自分の怒りに頭がいっぱいで、サクシードのことを忘れてしまっていた。急いで駆けつけると調教師の橘のお祖父ちゃんや、調教助手の遠藤さん、みんなが揃ってサクシードを取り囲んでいる。
「駿」
橘のお祖父ちゃんが、振り返って僕を見る。
「脚をちょっとやっちまったようだ」
「え?」
獣医師の先生がいるのを見た瞬間、心臓をぎゅっと鷲づかみにされたように感じた。
「レントゲンをとって見ないとわからんが。ひびが入っているかもしれん」
「ひび……って、骨?」
そんな!あの、レース中に?
気づかなかった。
レース中も、レースが終わったあとも……。
呆然とする僕に、お祖父ちゃんが呟いた。
「残念だが、ダービーは諦めんといかんな」
ダービ−に出られない。
それ以上に僕がショックだったのは、サクシードの怪我を全く気づかなかったことだ。
この僕が!
いつ、怪我してたんだ?
あの、前田の鞭で外によれたとき?それとも、僕が坂道を追いこんだとき?
サクシードの顔を見ると、静かな瞳が見返してくる。その瞳は、表面に水が張ったように潤んでいる。痛いの?サクシード。わからない。何を考えている?
情けなくて、悲しくて、僕も涙が出てきた。
「サクシード。ごめん。ごめんね」
両手をサクシードの首に廻してすがりつくと、サクシードはその鼻面を静かに僕に押し付けた。
僕は、馬の気持ちがわかるって、馬を気持ちよく走らせてあげたいって、いつも思っていた。それなのに、こんな、こんなこと―――全然ダメじゃないか。バカだ。僕は――――
(ごめん。ごめんね、サクシード)

サクシードはレントゲンをとるために馬運車に乗せられた。
「僕も行く」
「何、言ってるんだ。まだそんな格好で」
お祖父ちゃんに言われてみると、僕はまだ黄色に赤の派手な勝負服のまま。
「すぐ着替えてくるから、お願い」
「しょうがないな。遠藤、悪いが、駿を車で連れてきてくれ」
「はい」
遠藤さんが頷いてくれた。
「待ってて、すぐ行くから」
急いでシャワールームに飛び込んでしたくを済ますと、遠藤さんの車に乗り込んだ。

「大丈夫ですよ」
僕が沈んで黙り込んでいるから、運転しながら遠藤さんが慰めてくれた。
「ダービーは残念でしたけど、菊花賞には間に合いますよ」
ダービー。遠藤さんの言葉に、小川さんの顔が浮かんだ。嬉しそうに目を細めた顔。
『うちの厩舎からもいよいよ三冠馬の登場かねぇ』
サクシードは、今日の皐月賞に負けた。
その上、怪我をしてダービーにも出られない。
あらためて、ショックだった。三冠馬はもちろんだけど、ダービーをとるのは、橘厩舎のみんなの長い間の夢だった。
橘厩舎はまだダービーには勝ったことが無い。名手と呼ばれる僕のお父さんですら、まだダービージョッキーになったことが無い。だから、橘厩舎では、ダービーは本当に大きな夢で、その希望を託された馬がサクシードだった。
僕が、僕さえしっかりしていれば、サクシードは怪我をしないですんで、来月のダービーで今日の借りを返せたんじゃないだろうか。
もう一度、佐井さんと勝負できたんじゃないだろうか。
そう考えると、また涙が出てきた。

レントゲンの結果、サクシードの怪我は第三中指骨のひびだけだった。
「まあ、三ヶ月もすれば良くなるだろう。夏は牧場に帰してゆっくりさせてやろう」
お祖父ちゃんの言葉に少しホッとした。
サラブレッドが足を悪くすることは、命がなくなることに直結している。骨折して治らないとなったら安楽死させられてしまう場合だってある。
「サクシード、よかった。本当にごめんね」
そして、ふと、時間を気にして愕然とした。
(良馬!)
僕たちは、レースの終わった後、弥生賞のときと同じように中山競馬場の横のけやき公苑で会うことにしていた。僕が何時になるかわからないから、時間は決めずに。
時計はもう七時に近かった。
こんなに遅くなって、まさか、もう待っていないよね。でも……
遠藤さんの車をお願いしようとして、考え直した。財布を確認して、タクシー乗り場に走った。運良く、一台だけタクシーが止まっている。
「中山競馬場までお願いします」
最終レースが終わって、すでに二時間以上経っている。良馬は、僕が来られなくなったと思って帰っただろうか。普通なら、帰る。だから居なくて当たり前なんだから。と、自分自身にいいきかす。そう考えながらも、僕は心のどこかで良馬が居ることを、僕を待ってくれていることを期待している。
タクシーが信号で止まるたびに気持ちが焦る。
早く。早く。早く。
そうだ、良馬の携帯に電話をすればよかったと、間抜けなことに、今ごろ思いついた。
そして僕の携帯はカバンの中に入れたまま、置いてきてしまっている。本当に間抜けだ。

けやき公苑についた時には、もうあたりは真っ暗だった。
いるわけない、そう思いながら、待ち合わせたベンチに向かうと
(いた!)
良馬が、居た。今まで、こんな時間まで、ここで待っててくれていた。
驚くのと、嬉しいのとで、胸がいっぱいになって、ほんとは走り出したいのに何故か足が動かなかった。
「駿?」
良馬が来てくれた。
「良馬、待っててくれたんだね……こんな…遅く……」
胸が詰まって、唇が震える。
急に良馬が僕の肩を掴んだ。見上げた僕を、深く優しい瞳が覗き込む。
「駿」
良馬が問い掛けるように僕を呼ぶ。その声を聞いて、その顔を見て、僕は不意に涙があふれた。
そのまま、良馬の胸にすがりつくように抱きついた。
何故かわからない。ただ、良馬の胸で泣きたかった。
サクシードのこと、佐井さんのこと、前田のこと……今日一日で色々なことがあって、たぶん、自分の感情を持て余していたみたい。でも、何より、今ここで、良馬が待ってくれていたことがひどく嬉しかった。
良馬が僕の背中に手を廻して抱きしめてくれた。僕の身体が良馬の中にすっぽりと収まる。
それは、とても気持ちが良かった。
「うっ……ふ……」
甘えたように、声が出てしまった。
そう、僕は良馬に甘えたかったんだ。良馬が僕をきつく抱きしめてくれて、僕は泣きながら、幸せだった。


その夜、僕は夢を見た。
牧場で、サクシードが走っている。
眩しいくらいの緑の中で、黒いたてがみをなびかせて、サクシードが天馬のような優雅さで走る。
それを僕は見つめている。隣に、良馬がいる。二人で並んで、サクシードを見ている。
良馬が振り向いて僕に微笑む。
(ほら、もうサクシードは大丈夫だよ)
僕も、嬉しくて笑う。
幸せな夢から覚める意識の中で、ぼんやり考えた。
そうだ。夏になったら、良馬を北海道のお祖父ちゃんの牧場に誘おう。サクシードが生まれた場所を見せたい。そしてこの夢のように、二人で、眩しい緑の風を感じたい。
夢の続きを、二人で――――                          
             




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