SucceedA 良馬 事故以来、初めて陸上部の部室に顔を出した。 春休み中とはいえ、ほとんどの部員はトラックに出ている。 マネージャーの木村が慌ててコーチを呼びに行ってくれた。 「事前に連絡もせず来てしまって、すみません」 「何言っているんだ、藤木。お前はまだ陸上部員なんだから、いつ来たっていいんだぞ」 早口で言うコーチの顔を見ながら、ちょっと前の俺なら、この『まだ』って言う言葉にもムカついたんだろうな、とおもわず苦笑しそうになるのをこらえて、内ポケットから封筒を出した。 「長い間お世話になり、ありがとうございました」 俺は深々と頭を下げた。 「これは」 俺のあまり達筆とは言えない字で『退部届』とかかれた封筒を見て、コーチは目を伏せた。しばらく黙っていたが、顔を上げると 「藤木、お前は才能があって頭もいい。お前がその気なら、後輩の指導にあたるということも充分可能だ」 そう言って、ひどく真剣な目で俺を見つめた。 不思議だ。三ヶ月前、あれほど憎かったコーチが、今は慕わしく感じられる。 「ありがとうございます。でも、いまは陸上から離れてみます。それもいい機会だと思えるようになったので」 「藤木……」 コーチの顔が驚いている。俺は笑って言った。 「いろいろ、ご心配をおかけしました。陸上からは離れますが、大学は続けます。これから陸上以外で、自分のやりたいことを見つけます。真面目に勉強もしますよ」 最後の一言は、おまけだ。 「そうか」 コーチは残念そうな顔に、どこかほっとしたような色を滲ませて、笑い返してくれた。 「藤木なら、何をやっても大丈夫だよ。やりたいことが見つかったら、私にも教えてくれ」 「はい」 もう一度頭を下げて、俺は部室を後にした。 出るときに部屋の中を見渡すと、一年からそこでずっと過ごした自分自身の影が、ロッカーの前に、白板の横に、椅子の上に、そして、窓の向こうのトラックにも映ったが、不思議と後ろ髪を引かれることも無く、清々しい気分で別れを告げることができた。 「あれっ、藤木じゃねえか。おい」 学食の前を通りかかったとき、突然肩を叩かれた。 振り向くと、クラスメイトの福永だった。うちの大学は名前順にクラス編成があるので、『ふ』行の俺と福永とはどの教科でも班を組むことが多かった。それで一年からの付き合いともなると、クラスでの交流が少なかった俺でも、よく知っている一人だ。 「福永。どうしたんだ?春休みなのに」 「新歓の準備だよ。うちみたいなマイナーなサークルは、入学式でぱっと目立たないと、部員が集まらないんでね」 さっきまで、立て看板でも書いていたらしく、絵の具で汚れた手のひらを見せる。 「へえ、お疲れさん」 「お前んとこみたいにバリバリの体育会系は、ほっといてもやりたい奴が来るからいい…」 と、そこまで言って、とたんに福永は顔色を変えた。 焦って俺の顔を見るその表情の変わりようが可笑しくて、俺は軽く頬を緩めた。 「大丈夫だから、気にすんなよ」 「あ、ああ、悪い、何か……あんまりお前が普通だったから、忘れちまってた……」 福永は気まずそうに汚れた手で鼻の頭を擦り、すると緑色の絵の具がそのまま鼻にベッタリついた。それが可笑しくて、俺は本当に吹きだしてしまった。 「お前、その顔、可笑しすぎ」 「え?何?なんだ?」 福永は慌てて顔に手をやって、こんどは茶色い絵の具を移している。 脚のことがふっきれてから、俺はわかった。 今まで、俺は『腫れ物に触るようにしか接してくれない』と周りを恨んでいたが、何のことは無い。自分自身が『腫れ物』になりたがっていたのだ。 自分が変わったら、こんなにも周りは自然に接してくれる。 そして、俺が変われたのは、駿のおかげだ。駿に出会えた偶然が無ければ、今でも俺はうじうじと世間を恨んで、ひがみ続けていただろう。 笑いながら、ふと、福永が小脇に挟んだ雑誌に目が行った。 「福永、その本」 「え?これ?」 《週刊ホースレース》 その、表紙の右下にエアサクシードの名前を見つけた。 「福永、競馬やるの?」 「へ?」 俺の質問に、きょとんとして福永は応えた。 「俺、言ってなかったっけ?俺のサークル『競馬研究会』って」 「え?」 今度は俺がきょとんと(などという可愛らしさは無いだろうが)見返す番だった。 「その本、見てもいいか?」 俺が尋ねると、福永は嬉しそうに差し出してくれた。 「なんだ、藤木も競馬好きだったのか。言ってくれよ。なんなら、サークル入るか?」 「いや、それほど、では……」 モゴモゴ言いつつ、雑誌を受け取ってページを開くと、ちょうどカラーページの真ん中に、中山の坂を駆け上がってゴール板を突き抜けた駿とエアサクシードの写真があった。 《黒い弾丸!エアサクシード》 まさに、俺が目の前で見て鳥肌を立てたあの瞬間の写真だ。 「ああ、それね。凄かったよな。お前、見た?」 「あ、いや」 とっさに嘘をついてしまった。別にやましいことは無いのだが。自分が何故競馬場に行ったかを話すことで、駿の話題になるのを避けたかったのかもしれない。 ……本当にやましいことは何も無いのだが。 「そうか、俺はビデオで何度も見たんだけどな。凄いんだよ、そのジョッキー、その日がデビューだったんだぜ」 知ってる。と思ったが、当然口には出さない。 「で、四コーナー廻ったとき、後ろの馬がかぶさって来て、身動き取れなくなったんだけど、一瞬開いた内ラチ沿いの隙間に、真っ直ぐ突っ込んでいったんだよ。それが、ほんとにようやく一頭入るか入んないかって隙間でさ。新人であんな乗り方できるなんて、信じられねえな」 興奮気味に話す福永の言葉に、俺は嬉しくなった。 駿の走りは、確かに、見た者みんなを魅了したのだ。 「二着に来た馬は外を走らされた分、届かなかったけど、佐井だからな。次は絶対巻き返すに決まってるし、皐月賞が楽しみだよ」 にまにまと福永が笑う。 「佐井」 一番人気だったセントエクセルの騎手だ。 あの日、弥生賞が終わってから、俺と駿は中山のけやき公苑で会った。 祝勝会があるというので駿にはあまり時間が無かったが、それでも駿は頬を上気させていろいろな話をしてくれた。 その中で、何度も出てきた名前が佐井だ。 『勝ちたかったけど、本当に佐井さんに勝てるなんて、すっごく嬉しい』 瞳を輝かせた駿の笑顔。そして、レースの前に佐井が駿に言ったという言葉。 『最後の直線を、俺の馬に並ぶのは』駿のエアサクシードだと言ったという、その言葉に、俺は何故か嫉妬にも近い気持ちを抱いて、そんな自分に動揺した。 「この、佐井ってやつ、そんなにすごい騎手なのか?」 写真を、駿の隣に写ったセントエクセルの鞍上の佐井を、見つめながら福永に訊いた。 「あ?そりゃ、すごいよ。ここ五年間、東西合わせたリーディングジョッキーだぜ。去年の関西のリーディングジョッキーは光岡だけど、その光岡にも二十勝近く差をつけてたしな」 「ふうん」 「顔もいいから、けっこうテレビとかもでてるぜ。ほら、去年のJRAのCMにもでてたじゃねえか。見てない?」 「見てない」 なんで、こんなに不愉快になるのかわからない。 ただ、来月の皐月賞で、駿とぶつかるであろうこの男に、勝たせたくないという気持ちが嵩じた。 「ま、お前も競馬に興味持ったんなら、うちのサークルのぞいてみろよ。入らなくてもいいから。八号館の地下だからさ」 そう言って、福永は手をあげて立ち去ろうとした。お前、顔、絵の具ついたままだぞ。 俺は雑誌を返そうとして、最後にちらりと見た裏表紙の小さい文字が気になって聞いた。 「あのさ、ここに学生と未成年は勝馬投票券を購入できないって書いてあるぞ」 俺たちは、未成年ではないが学生だ。 福永はちょっと呆れたように俺を見たが、急に真面目な顔になり、俺の肩にどんと両手をおいてがっしり掴んで言った。 「そう。だから俺たちは『競馬研究会』であって『馬券購入会』ではないのだ。清く正しく、馬の血統とレース展開を研究している、それはそれは真面目なサークルなんだよ」 「そうか」 疑わしいが、頷くと 「うそに決まってんだろ」 そう笑って走っていった。俺から奪い返した雑誌を右手に振りながら。 「ほんとに良かったら遊びに来いよっ」 はっと気づいたら、俺の両肩にうっすら絵の具がついている。 「やられた」 大学の正門から駅に向かう道を歩きながら、もうすぐ咲きそうになっている桜を見上げる。帰ったら、駿に電話をしよう。 陸上部を正式にやめたこと、大学は続けること、そして来週末中山に行くこと……。 いろいろ伝えたいことがあった。 SucceedA 駿 今週末デビューする新馬に朝の調教をつけて調教スタンドにもどった僕は、いきなり雑誌記者の集団に取り囲まれた。 「駿くん、調教終わった?」 「少し時間もらえる?」 「今度、駿君の特集記事組みたいんだけど、いいかな」 まただ。 僕はなるべく不機嫌を顔に出さないように、それでも足早に通り抜けようとした。 「ちょっと待ってよ。駿くん」 いきなり前をふさがれて、思わず上目遣いで睨みつけてしまった。 だって、身長160そこそこの僕には、ごく普通の平均的サイズの男どもに囲まれても、集団でいじめにあっているような圧迫感があるんだ。かんべんしてよ。 僕にいきなり睨みつけられた記者も、一瞬ムッとした顔をした。 ああ、またやっちゃった。 騎手はマスコミ対応も仕事のうちだと思って上手くやるようにって、先輩たちから注意をされたばっかりなのに。 また、生意気だとか言われちゃうのかな。 いいけど。 でも、馬の話じゃなくて、僕自身のことを記事にされるのはどうしても好きになれない。 馬の調子ならいくらでも話せるけど、僕自身のことを根掘り葉掘り聞かれるのは何か違う気がする。 困ってしまって、うつむいて黙っていたら、後ろから助け舟がでた。 「記者慣れしてないんだから、かんべんしてやってよ」 《週刊勝ち鞍》の記者の山本さんだ。 僕のことをアイドル扱いせずに、馬の話をしっかりしてくれる記者の一人。 その後ろに、さっきチアズプレシャスの調教を終えて来た佐井さんもいた。 佐井さんは、今週末にある皐月賞のトライアルレース『フジテレビ賞スプリングS』にも依頼されて騎乗する。 「あ、佐井君。調教終わった?どう、今週末のスプリングS。チアズプレシャスは」 僕の前をふさいでいた奴が、佐井さんのほうに動いた。 「状態はいいですよ。追ってからの反応も良かったし」 佐井さんがにこやかに応対する。 僕の周りにいた記者が、一斉にメモをとりだす。 皐月賞候補の一頭チアズプレシャスについての、天才騎手佐井猛流じきじきのコメントだ。僕も聞いておきたい。 記者の一人が 「セントエクセルも弥生賞の後、良い状態をキープしているし、チアズプレシャスとどっちに乗るか迷うところだね」 と、水を向けると、佐井さんはチラリと僕のほうを見て 「そうですね」 と笑った。 僕は、その場に居るのが気まずくなって、ペコリと頭を下げて離れた。 山本さんが追いかけてくる。 「おまえもちょっとは、佐井を見習って記者連中とは仲良くしとけよ」 「べつに、わざと仲悪くしているわけじゃないです。あの人たちが……」 と僕が言いかけると 「ほら、そうやって『あの人たち』とか言って唇を尖らすから、生意気とか言われんだよ」 と、山本さんが笑いながら僕の頬を人差し指でついた。 「やめてください」 僕が思いっきりその手を叩くと、山本さんは大げさに痛がって見せて 「佐井はどっちに乗ると思う?」 と、ちょっと愛嬌のあるたれ目を細めて、面白そうに聞いてきた。 「……迷うって言ってましたよね、今」 僕はわざと、しらっと応えた。 「おいおい、そんなのリップサービスに決まってるだろ」 「…………」 「仮にチアズプレシャスが今週のスプリングSで一着にきたとして……」 と、山本さんがタバコに火をつけながら、僕を横目で見る。 「セントエクセルですよ」僕は確信している。 「どうしてそう思う?」 「勘です」 またいつものように山本さんのために灰皿を探してやりながらそう応えた。 水の入ったバケツの様な灰皿を受け取りながら山本さんはにやっと笑った。 「勘、ね。まあ、いいけど。だが、俺には理由も判ってるぜ」 どういう意味ですか?と目で尋ねると 「弥生賞で、エアサクシードに負けたからだよ。あそこで勝ってれば、佐井はエクセルとプレシャス、両方乗って、より強い方を選んだだろう。あいつはそれをやっても許される騎手だ」 その言葉に、僕の頬は少し緊張する。 「だが、弥生賞で、鼻差で負けた。その日デビューしたばかりの新人にね。だから、あいつはもう一度セントエクセルで勝負を挑んでくる」 タバコを灰皿に投げ捨てて 「だろ?」 山本さんが、覆い被さるように僕の顔を覗き込んだ。 「山本さんがそう思うなら、そうなんでしょう?」 と、つっけんどんに応えたけれど、僕自身、そう思っていた。 弥生賞の翌週、調教コースに向かう通路でたまたま会ったとき、佐井さんはそのいつもの優しげな顔で微笑みながら、すれ違いざまに囁いた。 「借りは、返すよ」 競馬学校時代から、佐井猛流は僕たちの憧れだった。 彼はデビューした翌年に菊花賞でGTジョッキーになって、デビュー四年目では二十二歳で史上最年少のダービージョッキーになった。その年から五年間、毎年リーディングジョッキーの座についている。僕のお父さん橘昇も、名手と謳われたベテラン騎手だけど、佐井さんがリーディングジョッキーの座についてからは、ずっと関東の二位だ。僕が心から尊敬する騎手はお父さんだけど、目標とする騎手は佐井猛流だ。 『借りは、返すよ』 あのとき、その佐井猛流に貸しを作ったのだと思ったら、身体が震えた。 「どうした。駿」 山本さんの声に我に返った。 「え?いえ、なんでも」 「ふうん。お前、今週は土曜だけで、日曜は騎乗ないんだろ。デートしないか?中山で」 山本さんがふざける。僕もふざけて返す。 「残念でした。先約があります」 「デートの?」 「はい」 「お前っ、いつのまに、俺に黙って」 「なんで、山本さんに言わないといけないんですか」 僕は笑いながら、デート(?)の相手のことを考えていた。良馬から先週電話があって、今週末の僕の騎乗を応援しに来てくれるって言ってもらった。 それはすごく嬉しかったんだけど、僕が騎乗する日だとほとんど会えないので、次の日の日曜にしてもらった。その日はたまたま騎乗が無かったし、僕は月曜日が休みだから、一日ゆっくり会えると思ったんだ。 さっきまで佐井さんのことで緊張してたのに、良馬のことを思い出しただけで、こんなに気持ちが弾むなんて不思議だ。 良馬と一緒に、今週末のスプリングSを観る。良馬は佐井さんの走りをどう思うだろう。 日曜の中山競馬場。 僕はいつもと違って、一般の人たちに混じって中に入った。 「駿、新聞買ってきていいか」 良馬が競馬新聞を買おうとするので 「サンスポでいいよ」と教えてあげた。 だって、馬券買わないのに、高い競馬新聞買う必要ないでしょ。馬の名前を見るだけならスポーツ新聞で充分。もっというとタダでもらえるレーシングプログラムでもいいんだけど、良馬は馬柱が見たいらしいから。 僕は、騎手だから馬券を買っちゃいけないことになっているし、良馬も、今日も馬券は買わないって言ってた。じゃあ、何をしに来ているのかって、馬を見に来ているんだよ。 『僕の弥生賞、とった?』 『馬券、買わなかった。応援するのにお金賭けるのって、抵抗あって……買ったほうが良かった?そしたら、次から買うけど』 『ううん』 弥生賞の日、けやき公苑での良馬との会話。 陸上選手だった良馬の、いかにもスポーツマンらしい言葉。 そうか、自分が真剣にトラック走っていて、それが賭けの対象にされてたら、心外だよね。 僕たちはそれが仕事だから、むしろ、たくさん賭けてもらいたいくらいだけど、良馬はそう思わなかったというのが、すごく新鮮だった。 どっちでもいい。良馬が応援してくれるなら。 サンスポを買った良馬が戻ってきた。 知っている人に見つからないように帽子を目深にかぶる。パドックにもあんまり近づかないようにしなくちゃ。 「うーん。なんか、どの馬も気になる」 馬券は買わないって言っていたのに、良馬はえらく真剣に新聞を読み込んでいる。端正な横顔、くっきりとした眉が寄せられている。 「なんか、印がいっぱいついていると強そうに見えるのが不思議だよな。で、その印がまたこんなにバラバラついてると全部それらしく見える」 と、良馬は◎や▲の印を指す。 「やっぱりこの二重マルが本命なんだろ?」 「その人たちの本命(◎)は、なかなか来ないよ」 真面目に訊ねてくる良馬が可笑しくて、つい、余計なことを言ってしまった。ごめんなさい水戸さん。佐藤さん。 「なんで?ああ、この水戸ってひと、穴ねらいなんだ」 「うん、『水戸の一つマル(○)、佐藤の黒三角(▲)』って言って、この二人は本命よりも対抗とかの印のほうが固いんだって、厩務員の森田さんが言ってた」 「なるほど」 感心したようにうなずく良馬の顔が、失礼だけどかわいい。僕は、つい笑ってしまった。 「何だよ?」 「ううん。なんでも」 「笑ってろよ。あ、これ、この馬」良馬が、馬の名前のひとつを指した。 「なに?」僕も新聞を覗き込む。 「サクシードと同じ、母の父ノーザンテーストだって。いとこだな」サクシードの……とか嬉しそうに呟いている。 良馬ってば、そんなこといったら、サラブレッドのほとんどは親戚だよ。世紀の種牡馬ノーザンテーストが、世界中でどれだけ種付けしてきたか、知ってる? 「良馬って、かわいい」 思わず口に出してしまった。 「えっ?」良馬はぎょっとしたようにこっちを見て、 「駿にかわいいとか言われる覚えは無いぞ、可愛いのはお前の、いや、俺は……何??何言ってんだっ」赤くなって怒っている。 かわいくて、可笑しくて、苦しいっ。 良馬といっしょにレースを観るのは、ほんとに楽しかった。いつもはついつい他の騎手の位置取りとか気にしてしまう僕だけど、今日は良馬のおかげで自然に楽しむことができた。 たまには、こういうのもいいな。 メインレースのスプリングSの発走30分前。 このレースはパドックを見に行きたい。やっぱり、皐月賞に出てくる馬たちだと思うと気になる。急に、仕事に戻るみたいで嫌だけど、良馬に言ったら笑って言ってくれた。 「そんなの、当たり前じゃん。お前のライバルなら、俺も気になるよ」 ところが、パドックの周りは人の海で、とても前には進めなかった。 つま先で立って、伸び上がってみても僕の身長では苦しい。 と、いきなり僕の身体が宙に浮いた。 「え?何っ。何してんのっ」 良馬が後ろから僕の両脇に腕を入れて、20cmばかり持ち上げている。 「このほうが見えるだろ?お前、ほんと軽いな」 「やだ、やめて、おろしてよ」 僕はあせってじたばたした。 気持ちはうれしいけど、恥ずかしいよ。 「そう?」 良馬はあっさり下ろして、自分も伸び上がりながらパドックの方を見て 「でも、これじゃよく見えないな」と言った。 「いいよ。ターフビジョンでみるから」 心臓がドキドキして、顔が熱い。 帽子を深くかぶり直して、スタンドのほうに向かった。 「ごめん。怒った?」 後ろから、良馬が小さく声をかけてくる。 「ううん。別に」 怒ってなんかいない。ただ、ただ……なんだろう。もう、よくわかんないよ。 スタンドからターフビジョンを見ると、パドックが写されていて、騎手の騎乗が始まっていた。佐井さんが、チアズプレシャスに跨った。 単勝一番人気の重圧なんかものともせずに、佐井さんはいつもの、事も無げな表情でうすく微笑んでいる。チアズプレシャスはいい感じだ。ほかに、良く見えるのは、関西のミヤノワンズウィッシュとディグニティだろうか。 派手な音楽とともにターフビジョンの場面が切り替わった。 本場馬入場が始まる。 中山のお馴染みのファンファーレにあわせて、スタンドから手拍子がおきる。 これけっこう、若駒には辛いんだよね。気が弱い馬ならここで興奮してレースに影響が出てしまう。でも、本当のスターホースになるには、こんな喚声に動じていてはダメだ。 スターターの合図でゲート入りが始まり、14頭全部の馬が入ったと同時にゲートが開く。 ハナに立ったのは、意外にもチアズプレシャスだった。 チアズプレシャスは逃げ馬ではない。今までのレースは全て、あがり34.5秒の末脚を生かした追い込みだ。 そのチアズプレシャスが、他馬を引き離す。三馬身、四馬身、そして五馬身。 スタンドに、大きなどよめきが興る。 「はええよ、佐井」 「馬鹿野郎、佐井っ、引っかかってんのかぁ」 何もわからない男たちが、叫んでいる。 違う。チアズプレシャスは引っかかってなんかいない。 佐井さんは、計算して前に出たんだ。前に出てから、それと判らないように抑えた。 一見、他を大きく引き離したので、とばしているように見えるけど、実際のところプレシャスは1ハロン12秒で走っている。錯覚だ。 プレシャスは自分の走りをしている。後ろが、超スローペースになっているんだ。 他の騎手も、今ごろ気づいているだろうけれど、今さらプレシャスに並びかけていけるものなどいない。仕掛けた奴が負ける。 『どうするんだ。佐井にもっていかれるぞ』 『だったら、お前が行けよ』 『みんなまとめて、討ち死にか』 先輩騎手の井守さんや、前田の声が聞こえてくるようだ。 トライアルレースだから、三着以内に入ったら皐月賞の優先出走権がもらえる。どの騎手も、ここでプレシャスに仕掛けてゴール前で馬群に沈む危険を冒すよりも、二着争いに賭けるだろう。我慢できなかった馬が、上がっていったけれど、やっぱり沈んでしまった。 そして、佐井さんは悠々とGUをひとつとった。 チアズプレシャスは、堂々1800メートルを逃げ切った。 後ろに続いた騎手たちは、狐につままれたような顔をしている。佐井さんの余裕の微笑と対照的だ。 このレースのペースは佐井さんが刻んだ。 レースのシナリオを描いて、自分の馬だけでなく、他の馬までその演出どおりに走らせた。やっぱり、天才だ。佐井猛流。 「駿」 良馬が、隣で僕を見下ろす。深い色の優しい瞳で。 気づいたら、僕は良馬の左の腕をきつく握り締めていた。 「あ、ごめん」 手を離そうとして、指がこわばって動かなかった。 良馬の右手が、ゆっくりと僕の右手に重なる。魔法がとけるように指の先に感覚が戻ってきた。 それでも、僕は良馬のセーターを握り締めたまま。 額を、そっと良馬の右肩につけた。 「駿?」 ごめん。すこしだけ…… うつむいた僕の耳に、スタンドの佐井コールが聞こえる。そして、頭の中には、あの言葉がよみがえる。 『借りは、返すよ』 来月、ちょうど四週間後のこの日。 僕は、あの佐井さんと戦う。天才、佐井猛流と。 ――――僕の、エアサクシードと、この中山2000メートル『皐月賞』で。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |