SucceedR 良馬 「良馬?帰るの?」 そう言って俺を見つめる駿の顔が、子供のように幼く不安げで、俺は、立ち上がることが出来なかった。 「うん。今週ばかりは、試験があるからサボれない」 年が明けて、始まった大学の授業、その殆どを福永に代返を頼んでサボっていたけれど、さすがに試験まで頼むことは不可能だった。 「参加することに、意義のある試験だからね」 「そう……」 呟く駿の瞳が、心細そうに揺れる。 (駿……) 最近の駿は、よくこういう表情(かお)をする。 その度に、俺は、駿のそばから離れられなくなる。右手を離せなくなる。 「この右手、ここに置いていけたらいいんだけどね」 冗談ではなく、心からそう思った。 駿にこんな寂しそうな顔をさせるくらいなら、そして、俺の一部でも、駿とともにずっと一緒にいられるのなら、腕の一本、切りとって置いていきたい。 「そしたら……試験、受けられないよ」 長い睫毛を伏せて、駿が小さく応える。 「そうだな」 抱きしめたい衝動を堪えて、右手を離した。 とたんに、身体の中に、乾いた風が吹き込んだ。 「電話するよ。試験が終わったら、なるべく早く来る」 「うん。待ってる」 待ってる―――その言葉に、胸が震える。 駿が、俺を――――。 「じゃあ、ちゃんと食べろよ」 後ろ髪を引かれる思いで、俺は病室を後にした。 駿と、二人で過ごす病室の毎日は、俺にとっては蜜月だった。 駿は、俺に、片時も離れずそばにいて欲しいと願った。 俺も、それに応えるのが何よりの喜びだった。 けれど―――本当に、良いのだろうか。 駿の今の状態は、一年前の俺と同じだ。 足を怪我して走れなくなった俺は、辛さのあまり、その辛い事実に面と向き合うことを拒んだ。 自分以外の全てを拒否した。 駿は、自分と俺以外のものを拒否している。駿の世界――競馬の世界――にあるもの全てを。サクシードを失った辛さのあまり。 駿が、俺を求めるのは、俺が競馬に関係ない人間だからだ。 (駿は、逃げている。あの時の、俺のように……) * * * 「藤木、これ、織田のノート。去年のだけど、中身は全く変わってないから」 学生会館で待ち合わせた福永が、大学ノートを差し出してくる。 「サンキュ」 「織田のドイツ語は、持ち込み可だからな」 「助かるよ」 「二外を三年まで残してるってのは、ツライな」 「ははは……」 確かに、一、二年で陸上にかまけていた俺は、同じ三年生に比べて今年取るべき単位が多く、試験の数も多かった。 けれども、今回は、時間をとられるレポートよりも、一発勝負ですむ試験のほうがありがたい。 試験が、全部終わったら、また駿のもとに戻れる。 「駿の怪我の具合は、どうだ?」 「ああ、怪我の方は、順調だよ」 「そうか、よかったな」 福永は、心から嬉しそうな顔をした。 「そういや、福永には、あの日からずっと、ずい分世話になったよな」 「はあ?何、言ってんだよ」 俺たち親友じゃーん、とふざけたように、福永は俺の胸を拳で小突く。 「そっか、そうだよな。親友だよな、俺たち」 「えっ?」 福永が、眉を上げて俺を見た。 「そっ、そう!そうだよ。何、改まって言って、言って、るんだよ」 「お前こそ、何、かんでんだよ」 「うっせえよ」 何故か、福永は赤くなって怒った。 「安さんと、亜矢子にも礼を言わなくちゃな」 俺が言うと、福永は真面目な顔になった。 「そうだな。亜矢子は、ともかく……安さんは、な」 「ああ」 「心配してたから。お前のことも、橘駿のことも」 「帰りに、八号館寄ってみるかな」 「そうしろよ、みんな喜ぶ」 八号館の地下で、安さんに挨拶した俺は、その足で陸上部の部室に行った。 「あ、藤木さん」 マネージャーの木村が、とんで来た。 「コーチは?」 「今、呼んできます」 コーチを待っている間、グラウンドを眺めていると、柴咲が走ってくるのが見えた。 「藤木先輩っ」 「柴咲」 「どうして、練習出てくれないんですか」 「えっ?」 「あのとき、俺が、あんなこと言ったからですか」 真剣な目で、真っ直ぐに見つめてくる。 「あっ、いや、違うよ」 「だったら」 何故、と続く言葉を遮って、言った。 「俺の大切な人が、入院しているんだ」 「え」 柴咲の目が見開かれた。 「だから……そばに、ついていたんだよ。ずっと」 「……あっ、ああ……そうだったん、ですか……」 柴咲は、目を泳がせて、頭を掻いた。 「悪い、柴咲」 「えっ?」 「落ち着いたら、また、練習見るから……」 言ってしまってから、果たしてそれを望まれているのか、不安になった。 「いや、もし、今でもそれを望んでくれているなら……だけど」 柴咲の顔が、輝いた。 「勿論ですよ」 明るい顔で笑って、自分の胸を親指で指して宣言した。 「藤木良馬の走りを受け継ぐ人間は、この俺しかいませんからね」 「柴咲……」 「だから、他のやつの練習見ないで下さいよ」 大声で言う、柴咲の声に 「そう言うわけには、いかんよ」 コーチの低い声が被さってきた。 「コーチ、ご無沙汰して、すみません」 入ってきたコーチに、俺は頭を下げた。 勝手に練習に参加して、それから、勝手に抜けてしまった非礼を詫びたかった。 「いや、よく来てくれたね」 コーチは笑って 「正直、愛想つかされたのかとヒヤヒヤしたんだが」 「いえ、そんな」 ごく簡単に――身内の事故のせいにして――大学に来られなかった理由を告げた。 「じゃあ、落ち着いたらまた、手伝ってもらえるんだね」 「俺なんかで、よければ」 「いいですよ、十分」 「シュンは、黙ってろ」 コーチが、持っていたバインダーで、柴咲の頭を殴る。 「ってっ」 コーチは笑って言った。 「まったく、シュンは。藤木とは、性格は正反対のようなのに、走りばっかりやたら似てきているんだよ」 「そうですか」 「だから、言っているでしょう。天才藤木良馬の走りを継ぐのは、同じ天才柴咲俊ですって」 両手の拳を固く握りしめガッツポーズをする柴咲に、コーチが呆れるように言う。 「もういいから、お前、練習もどれ」 俺の走りを――継ぐ―――? 柴咲の言葉に何かを感じて――けれどもその感覚はひどくあやふやで――― もう一度、頭の中で反芻する。 (俺を――継ぐ――) * * * 全ての試験が終わって、大学は、また、長い春休みが始まった。 紅梅の香に早春の気配を感じる。もうすぐ、駿と出会って一年になるのだ。 駿の病室に行く途中、後ろから呼び止められた。 「良馬くん」 振り返ると、駿の父親橘昇氏だった。 「病室に行く前に、いいかな、少しだけ」 「あ、はい……」 昇氏とは、あの、初めて病室を訪れた日の夜に会った。 自分の引退レースの日に息子が落馬事故を起こし、その馬サクシードは予後不良。色々な対応にも追われ、何しろ駿の身を案じ、あの時は憔悴しきった顔をしていた。 その後も病室ではよく会ったのだが、直接話をすることは少なかった。いつも駿を通して会話をしていた気がする。 誘われるまま、病院の最上階にあるレストランに入った。 ひと気の無い窓際の席で、コーヒーを頼んで向き合うと、やはり、緊張した。 「いつも、すまないね。良馬くん」 「い、いいえ……」 自分の想いが見透かされている気がして、顔が熱くなる。 「駿のこと……大切にしてくれているんだね」 なんと答えていいか分からずに、膝の上で拳を握る。 「駿も、君といると、安心するようだ」 何を言いたいのだろう――予想がついて、心臓が早鐘のように鳴る。 「しかし、今のままの駿では、駄目なんだよ。それは……わかってくれるよね」 駿の父親の重い言葉。 恐れていた、言葉。 俺は、何とか口を開いた。 「俺が……駿のそばにいることで……」 「いや、そうじゃない」 言葉はすぐにさえぎられた。 「君が駿のそばにいることで、駿が弱くなっていると言うなら、それは間違いだ」 昇氏の言葉に、俺は顔を上げた。 「駿が、ああなったのは、駿の心の弱さだ」 昇氏は、真摯な瞳で俺を見た。 「あの子はね、小さい時から大人に囲まれて過ごして、競馬という特殊な世界の中で、純粋培養で育った」 俺は、小さく頷いた。 「馬に関しては天才でね。私なんかよりずっと、センスがあって頭もいい」 ふっと、苦く微笑んで言葉を続ける。 「だから、勘違いしていたんだよ。あの子が……精神的にも私に近い、大人だって」 「それは……」 「間違いだった。あの子は、まだ十九歳の子供で、しかも、純粋だけにひどく傷つき易い……」 苦しそうに話し続ける昇氏に、かける言葉が見つからない。 「良馬くん、あの子は、今、二度と馬に乗らないと言っている」 「えっ?」 「……気持ちは、分からないでもないんだよ」 「でも……」 「ああ、でもね。あの子は、馬に乗るために生まれたような子だ。このまま競馬から離れられるはずが無い……いや、そうは、したく、ないんだよ」 「お父さん……」 駿が、競馬をやめる。 確かに、そんなことは、考えられなかった―――今までは。 俺の中で、二つの気持ちが揺れる。 駿に、以前のように戻って欲しいという思いと。 俺の手の届かない世界に戻らないで欲しい――今のまま、俺だけの駿でいて欲しい――という思いと。 俺の中で、二つの気持ちが揺れる。 (駿……) SucceedR 駿 「退院したら、旅行しないか?」 突然良馬が言い出すので、僕は驚いて眼を瞠った。 「旅行?……いいけど、どこに?」 「北海道」 良馬の返事に、とたんに気持ちが沈んだ。 僕が黙ると、良馬は僕の右手を優しくさすりながら言った。 「サクシードの、お墓参り、行こう」 びくっと、身体が震える。 良馬の手の中で、僕の手がこわばり、汗ばむ。 サクシードの―――お墓。 「いやだ」 「何で?サクシードも、待ってるよ。誰よりも、駿に来て欲しいんじゃないかな」 「やめてよ」 「駿……」 「やめて……なんで……そんなこと言い出すの……」 僕は、泣きそうになって、唇を噛んだ。 「駿」 良馬が立ち上がって、僕の頭を抱き寄せる。 「行こう、駿」 「…………」 「行って、自分で確認するんだよ」 「いやだ」 サクシードが死んだことを、この目で確かめるなんて、嫌だ。 「嫌でも、連れて行くよ」 良馬は、僕の髪に口づけるようにして言う。その感覚に、ぼうっとした。 「俺の右手は駿につながっているんだから、俺が行くなら、付いて来るしかないだろ」 「良馬……」 「行こう、駿……」 * * * 結局、怪我が完治した僕は、良馬と一緒に北海道に行くことになった。 最後まで気は進まなかったけれど、これ以上わがままを言って良馬に嫌われたくなかった。 「寒くないか」 「大丈夫……」 三月の北海道、しかもまだお昼前だから、空気は冷たかった。 でも、寒さなんかは気にならなかった。 僕が、震えてしまうのは、それじゃない。 新千歳空港で、良馬はレンタカーを借りた。 牧場の人が迎えに来るのだと思っていた僕は、正直ほっとした。 助手席に座って、運転する良馬のジャケットの端を握った。 良馬は、横顔でほんの少し微笑んで、静かにエンジンをかけた。 牧場に向かう車の中、僕たちは無言だった。 牧場に入っても、良馬はそのまま、車を走らせる。 「お祖父ちゃんの家に行くんじゃないの?」 「……一番初めに行くのは、そこじゃない」 良馬の返事に、向かっている先が分かった。 (サクシード……) 身体が小刻みに震える。 窓の外には、たくさんの馬の姿があったけれど、そのどれも、僕の目には入らない。 ジャケットの裾を握る手に力を込めると、良馬が左手のひらを重ねる。 「一緒に、会いに行こう……サクシードに」 「良馬……」 一緒でなければ、とても行けない。 サクシードに―――今の僕は、会えないよ。 「ここからは、歩いて登るんだ」 牧場の奥まった場所の小道に、良馬は車を止めた。 「よく、知ってるね」 僕が、何も知らないのに。 「電話で、聞いておいた」 良馬は笑って、手を差し伸べた。 「行こう」 僕は、その手を握った。 牧場を見渡せる小高い丘の上に、それはあった。 サクシードの好きだったクローバーの葉の茂る中、真っ黒に輝く彫像。 菊花賞を勝ったときの堂々とした体躯が、本物の三分の一ほどの大きさで、光の中に輝いている。 「サクシード……」 彫像の周りには、たくさんの花束が置いてある。 「毎日、全国からとどくらしいよ」 良馬が、その花を見て言った。 僕は、サクシードの彫像から目が離せなかった。 目の裏が熱くなって、涙が溢れる。 「うっ…ふ…うっ……」 駆け寄って、その像にしがみついた。 「サクシード……」 彫像は冷たくて、あのビロードのような肌触りも温もりも無かった。 それが、悲しくて、僕は泣いた。 「サクシード……サクシード……サクシード……」 この牧場で過ごしたサクシードとの想い出が甦る。 良馬と共に過ごした夏も。 あのときは、あんなに、幸せだったのに―――。 「サクシード……」 ごめんね。僕が……僕が、殺した。 僕が泣いている間、良馬は、黙ってそばにいてくれた。 のろのろと顔を上げて振り返ると、良馬の深くて暖かな瞳が、僕を見つめている。 「良馬……」 「サクシード、何て、言った?」 「えっ?」 「サクシードと、話したんだろ?」 良馬に言われて、僕は、ぼんやりと首を振った。 「サクシードは……何も、言わないよ……」 だって、死んでしまったんだから。 「そんなはずないよ。だって」 良馬は、僕に近づいて、そしてサクシードの像の鼻を撫でた。 「俺にだって、聴こえたんだ『お帰り、駿』って、『来てくれるの、待っていた』って」 「っ……」 ひどいよ、良馬。 ようやく、涙が、止まったのに―――。 僕は、また涙が出て、その場にうずくまった。 「駿」 良馬が、僕の腕を取る。 「泣いてないで……ちゃんと、サクシードと話しろよ」 僕は、うずくまったまま首を振る。 「サクシードは、ずっと待っていたんだよ」 「うっ……」 「お前に会って……『自分のせいで、競馬をやめないでくれ』って言うのを……」 「ふっ…うっ……」 「サクシードは、待ってたんだから」 「やっ……っ」 僕は、良馬に抱きついた。縋りついて、胸に顔を埋める。 やめてよ。 そんなこと言うの。 そんなこと―――。 ふいに、サクシードの声がした気がした。 嬉しそうにいななく声――― 顔を上げて、良馬の顔を見る。 良馬が優しく笑って、僕の身体をそっと支えて後ろを向かせた。 眼下の牧場に、たくさんの馬が駆けて来た。 放牧に出された馬が、楽しそうに走り回っている。 目の見えない母馬モモもいた。 そして、あれは、シンディ――― シンディーの隣には……? サクシード! 青毛の仔馬がいた――― 僕が目を瞠ったのに気がついて、良馬が言った。 「エアシンディの子供、この間生まれたんだって……」 「……………………」 「サクシードの全弟だよ。あんまりそっくりで、みんな驚いたって」 「……………………」 「お父さん…橘調教師は…三年後に、騎手橘駿でダービーをとるって言っていたよ」 ぐらりと身体が傾いだ。良馬の腕と胸が後ろから支えてくれた。 そのまま、良馬の腕が、僕の前で交差する。 良馬の胸に抱かれて、黒い仔馬を見つめていると、不意に 「好きだ」 良馬が言った。 言葉の意味が分からずに、ぼんやりと頭の中で繰り返す。 好き? 好き? 「俺は、駿のことが……ずっと、好きだった」 良馬の言葉に、麻痺したような頭が少しずつ働く。 「あの、弥生賞で、お前とサクシードがゴール板を駆け抜けるのを見た瞬間から」 良馬が、僕を? 好き? 「ずっと……」 良馬の腕に力がこもった。 「愛している」 膝の力が抜けそうになって、僕は、背中から倒れるように身体を預けた。 「良馬……」 小さく呟くと、良馬の腕が、僕の身体を抱きしめる。 「だから、悩んだんだよ。できればこのまま、駿をつなぎとめていようか、って」 僕の右手を包むように握りしめる。 「俺だけの駿にしてしまおうかって……でも、俺が初めて、心奪われたのは、あのゴール板を駆けた駿だったから……」 「りょう……」 「もう一度、走って欲しい……お前は、まだ、走れる。あの、黒い馬に乗って、サクシードの想いとともに……走ることが出来る」 言葉にならなかった。 言葉に出来ない想いが、あふれ出て、苦しくなって、僕は振り返って良馬に抱きついた。 (良馬――良馬――良馬――) 首にしがみつくようにして、ようやく、唇を開いた。 僕も、良馬に言うべき言葉があった。ずっと、ずっと―――― 「良馬……僕、も」 ずっと好きだったという言葉は、良馬の唇で吐息とともに飲み込まれた。 |
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