SucceedQ 良馬


――悪い夢でも、見ているのかと思った――

先頭集団を映すターフビジョンに駿の赤い帽子が見えて、黒い矢となったサクシードと共に内らち沿いに他の馬をかわそうとしたとき――突然、サクシードの身体が傾いだ。
駿が、バランスを崩して落ちる瞬間が見えた。

『おっと!一頭落馬っ、六番エアサクシードですっ。橘駿、落馬!故障発生か!』
ウマ研の連中がボリュームを上げていたラジオから、興奮したアナウンサーの叫び声が聴こえた。
「うそだろ、おいっ」
「大丈夫か、あれ」
周囲がひどくざわめく。知らない女性の悲鳴が聴こえる。
双眼鏡を持った男が、青い顔をして呟いた。
「ちょっと、あれ、やべえよ」

その間、俺は、ただ呆然としていた。

やばい?何が?
何が、やばいんだ?
駿は……駿は、どうなっているんだ……

膝の力が抜けそうになって、慌てて自分の身体を支えると、亜矢子が腕を添えてくれた。
亜矢子も、青褪めている。
その隣で、福永が言った。
「大丈夫だよ……内らちだったし……巻き込まれちゃいない」
巻き込まれる?
あの、トップスピードに近い馬の背から落ちる以上に、危険な事もあったのだ。
後ろから来た馬に……
自分の想像に急に恐ろしくなって、俺は叫んだ。
「大丈夫だって、何でわかるんだっ」
福永にあたっても仕方ないのに。
「どうなってんだよ、駿はっ!」
駿は―――駿は―――

「落ち着け」
安さんが、俺の肩を掴んだ。
「病院だよ。この辺なら、大体想像つく」

ふいに、周囲からひどい悲鳴が上がった。
「な、何……」
何が、あった?駿?
慌てて、周囲を見渡す。

「ダメだったらしいぜ」
誰かの声に、気が遠くなりそうになった。
安さんの肩を掴んで、倒れそうになる身体を支えた。
「落ち着け、サクシードのほうだ」
「え……」
「骨折」
予後不良という言葉が浮かんだ。


その後の事は、よく覚えていない。
自分でも情けないが、軽いパニック状態だったのだろう。
みっともないところを見せてしまっただろうか。
けれども、そんなことを気にする余裕など、そのときの俺にあるはずが無かった。

安さんの車で連れてきてもらった病院の受付で、駿のことを訊ねた。
「急患に関しては、こちらでは、わかりかねます」
「でも、ここなんでしょう?この病院に担ぎ込まれたんですよね」
「ですから、こちらでは、わかりません」
受付の看護婦が、ヒステリックに応える。
スポーツ紙の記者らしい男が何人もウロウロしている。
この病院に間違いないのに。
容態が、訊きたい。

結局、駿のことは何もわからないまま、俺は病院の待合室で夜を迎えた。
何度か看護婦がやって来て、お引き取り願いたいというようなことを言っていたが、聞く気は無かった。
俺の横には、福永と安さん、そして亜矢子がずっと付いていてくれた。
その彼らを帰さなくては、と気が付いたのも、ずい分遅くなってからだ。
「悪い、気が付かなくて」
「いや」
「福永、亜矢子を送ってやれよ。安さんも……俺は、大丈夫ですから」
「大丈夫って、このままここにいる気か」
「ええ」
俺が応えると、安さんはやおら立ち上がって、俺の腕を取って立たせた。
「さすがに、病院の待合室で夜明かしは出来ないだろう」
「安さん?」
「俺の車で、寝ろよ。エンジンかけてやるから」
そして、福永のほうを向いて言った。
「お前は、一度、亜矢子さんを送って帰るんだな」
「わかりました」
福永は頷いて、立ち上がると亜矢子の背中に腕を廻した。俺を見て、無理に笑う。
「じゃあ、また明日な……」
亜矢子は何か言いたそうに俺を見つめ、けれども、何も言わず俺の手をぎゅっと掴んで放した。

病院のロビーに靴音が響く。

「駐車場だ」
安さんに促がされて、カローラの助手席に座った。
「ちっとは、寝ておけよ」
シートを倒してもらったが、眠れるはずは無かった。
瞳を閉じると、あの、駿の落馬する瞬間が、頭の中で何度もリプレイされる。
(駿……)
無事だろうか。
いや、無事なわけは、ない。
怪我の具合は?
後遺症は?
落馬事故で植物人間になった人の話まで思い出し、俺は胸が押し潰されそうに苦しくなった。
(駿……)
今日のレースが終わったら、会うはずだった。
そして、告げるはずだった。
(駿……)
駿の小さな顔。少女のような白い顔が浮かぶ。
サクシードの横で、祈るように睫毛を伏せた、美しい横顔。
(サクシード……)

『ダメだったらしいぜ』

サクシードは――死んだのか。
ふいに、背筋に悪寒が走った。
あの、駿と共にゴール板を駆け抜けた、黒い風。
(サクシードが、死んだ……)
突然、目の裏が熱くなり涙が出そうになって、俺は運転席に背を向けるように寝返りをうった。
運転席では安さんが、同じくシートを倒して寝ているが、たぶん彼も、本当には寝られずに起きている。

(サクシードが死んだ……あの馬が……駿の、馬が……)


結局一睡も出来ず、翌朝、赤い目で病院の受付に行った。
昨日と違う看護婦は、俺の様子に多少同情したのか、言葉は優しかった。
けれど――
「ご家族の方の希望もあって、面会謝絶です」
「では、病室まで……その、家族の人に会わせて下さい」
駿の容態が、聞きたかった。
「それが……病室も、お知らせしないように言われています」
看護婦は、気の毒そうに頭を下げた。
「申し訳ありませんが」

俺同様、家族への面会を断られた記者がゴロゴロいる。
あんな連中と一緒にしないでくれと言いたかったが、そう言えるだけのつながりが果たして俺と駿の間にあったのかとも思う。
(こんなときに、そばにいてやれないなんて……)
俺はまた、病院の待合室に座って、ただひたすら駿の無事を祈り続けた。

そして、一日が終わる頃、安さんがやって来た。
安さんは、何度か俺に食事をするように勧めてきたが、俺はそれを断っていた。
昼過ぎに福永がやって来て、いつの間にか二人でいなくなっていたけれど。
「おい、藤木良馬」
のろのろと顔を上げると
「今日もこのままここに居たって何も出来ないぞ。とりあえず、面会できるようになるまで待機だ、待機」
そう言って俺の手にカードキーを握らせた。
「車の中じゃ、寝られないからな。ビジネスホテルとって来た」
「安さん」
「そんな顔で、会うのか?どっちが病人だか、わからんぞ」
「…………」


病院にも車でほど近いビジネスホテルに着くと、無理やりに部屋に押し込められた。
福永が、コンビニのビニール袋を押し付けてくる。
「とにかく、それ食って寝ろよ」
「明日になったら、また何か動きもあるだろうさ」
「ニュースでも、命に別状ないって言っているし。お前が、先に餓死したら困るだろ」
福永は、わざと明るく言う。
「眠れないんなら、添い寝してやってもいいんだけどさ。まあ、酒買って来たから、それ飲んで、かーっと寝ちまえよ」
コンビニの袋の中には、サンドイッチやおにぎりと一緒に、ワンカップ大関やミニウィスキーのボトルまで入っていた。
替えの下着も。
「……すごい気の付きようだな」
「ふふん」
福永は、自慢げに笑った。けれども、その瞳には、切ないほどに俺を心配する色が滲んでいる。
「悪かった……」
自分のことばかりで、周りを見ていなかった。
「心配かけて……」
「何、言ってる」
じゃあなと手を振って、二人が出て行った。
(しっかりしろ)
自分を叱って、俺は、ベッドに座るとサンドイッチの袋を破った。


* * *
寝る前にウィスキーを飲んだのが効いたのか、前の日に寝ていなかったためか、その夜は夢も見ずに眠れた。
朝起きてシャワーを浴びると、最初のショックからは立ち直っていた。

『ニュースでも、命に別状ないって言っているし』

事故から一日開いてしまって、もうどのニュースでも、何も言っていなかった。
逆にそれが、駿が重症ではないという証拠にも思えた。
「会いに行こう」
今度こそ、落ち着いて。
部屋をでて、チェックアウトを済まそうとロビーに下りて驚いた。
「福永……」
「よう」
ロビーで、ずっと待っていたのか?
「また、来てくれたのか……」
東京の福永の家から千葉のここまで三日も連続で通うなんて、と思った気持ちが通じたのか、
「昨日は、船橋の従兄弟の家に泊めてもらったんだよ」
そう言って、福永は笑った。
「お前が、見たいかどうかはわからなかったけどさ。無事だってわかったほうがいいだろ?」
福永が差し出したのは、新聞や雑誌の切り抜き。
駿の落馬事故を報道するものだったが、その殆どは『複雑骨折で全治三ヵ月』いちばん酷いものでも『三ヶ月から、四ヶ月の休養』『ダービーには間に合う』と言った書かれ方だった。
(よかった……)
全治三ヶ月なら、それほどの大怪我ではない。
もちろん、軽いものでもないが。
それでも、植物人間だとか後遺症だとか、最悪のケースではない。
そして、記事では、菊花賞馬のエアサクシードが予後不良で亡くなったことが、駿の容態以上に大きく記されていた。
その中の一枚の写真に目が留まった。
右足をぶらりとさせたサクシードが、倒れている駿の襟首に鼻を近づけている。
「その写真、な……」
福永が、気づいて言った。
「テレビでも、流れたんだよ。サクシードを追っていたカメラが捉えていてね。サクシードは……駿が落ちた後、他の馬から守るように、駿を、内らちに引き寄せたんだよ」
「…………」
「右足からは、骨出てんのに。三本の脚で、ふんばって立ってさ……他の馬が全部いなくなった後、駿のそばに崩れるように座った」
福永の声が、掠れる。
「……俺、泣いちまったよ……」
(サクシード……)
「お前、駿を、最後まで……」
俺も胸が詰まって、泣きそうになった。

ありがとう―――サクシード。


「病院、行くんだろ?送るぜ。車だから」
「あっ、ああ。ありがとう」
福永の車に乗って、病院に行った。
一緒に残るという福永を無理に帰して、受付では昨日と同じやりとり。
いや、昨日よりは、いくぶん俺も冷静になっている。
「面会謝絶にするほど酷いのですか?全治三ヶ月と聞いていますが」
「ご家族の、ご希望です」
「せめて、部屋番号だけでもお願いします」
「それは……申し訳ありませんが……」
「友人なんです。ご家族の方とも、会わせていただければ……」
自分が、駿の身近な人だれの連絡先も知らないということが、悔しかった。
せめて駿のいる部屋がわかれば、そこで深雪さんにでもお祖父さんにでも直接頼んで、会わせてもらうのに。
唇を噛んで、ふと視線を逸らした先に、見覚えある姿があった。
エレベーターホールから、こっちに向かってくる男。
「佐井……」
俺は、思わず駆け出した。
佐井の前に立ちふさがると、不審そうに見上げてくる。
「駿の所に行ったんですか」
「え?」
「駿に、会いましたか?駿は、大丈夫でしたか?」
初対面にもかかわらず、矢継ぎ早に言葉を投げつけた。
「俺も、会わせて下さい……会いたいんです」
佐井は、じっと俺を見つめて、静かに言った。
「君が……良馬?」
何故、佐井が俺の名前を知っているのか?
一瞬、言葉を失った。
佐井は、ふっと笑って
「おいで、こっちだ」
踵を返して、もと来た道を戻る。
俺は、ぎくしゃくとその後ろを追った。

エレベーターで最上階に近いフロアに着くと、しんとした廊下を進む。
「駿は……」
「怪我は、大した事ない。全治三ヶ月。若いから、治るのも早いだろう」
佐井の返事に、安堵の溜息をついた。記事で見ていても、実際に聞くのとは違う。
「身体の怪我より大変なのは……」
続いた言葉に含みを感じて、俺が聞き返そうとしたとき、奥まった所に、ちょうど部屋から出てきた駿の母親深雪さんの姿が見えた。
「あっ」
近づく佐井と俺を見て、驚いた顔をする。
「下で、会ったんです」
佐井は俺の前から退くと、俺を前に出すように押した。
「駿が、今、一番必要としている人間ですよ」
佐井の言葉に、自分の耳を疑う。
(今、何て?)
あの佐井猛流が――駿の憧れであり、俺の嫉妬した男が――そう言ったことが信じられずにじっと見返すと、佐井が言った。
「良馬くん。駿には、今、何も見えてなく、何も聴こえていない」
「えっ?」
「怪我は大した事ないんだ。脳波にも異常はない。けれど、目を開けない。眠っているわけでもない」
佐井の言葉に、深雪さんが辛そうにうつむいた。
「自分で、カラに閉じこもった状態だ。医者は精神的なものだと言っている」
「そんな……」
「サクシードのことが、ショックだったんだろう」
「………………」
深雪さんが、声を震わせる。
「一度は、目を開けたんです。でも、主人や父の話を聞いてしまったのか……」
目を見開いたまま一睡もしなかった翌日にはその目も閉じてしまったのだと――誰が呼びかけても何の反応も返さないのだと聞かされて、俺は、その現実感の無さに呆然とした。
「駿を、引き戻して欲しい」

病室に入ると、真っ白な部屋のやはり真っ白なベッドに、駿の小さな顔があった。
長い睫毛が影を落とし、青白い顔が痛々しい。
「駿……」
小さく呼びかけてみた。
毛布の下に隠れている手をそっと撫でる。
「駿……」
まるで死んだように動かない駿に、胸が苦しくなり、跪いて呼びかけた。
「駿、起きろよ。目を覚ませ」
駿は、ピクリともしない。
「駿っ」
起きてくれ――もう一度俺を見てくれ――あの、大きくて澄んだ瞳で、俺を見て、そして笑ってくれ―――
(駿―――)
シーツの下の駿の手に、額をつけて祈った。
(駿―――目を開けてくれ――そして、俺の言葉を聞いてくれ――)
はっと、息を飲む声が聴こえた。
顔を上げて振り返ると、深雪さんが、じっとこっちを見ている。
視線の先を追うと、駿の長い睫毛が震えていた。
「駿」
思わず叫ぶと、駿は、ゆっくりと目を開いた。
まるで、蕾がその花びらを広げるように、ゆっくりと、鮮やかに……。
「良馬……」
俺の目を見て、ぼんやりと呟いた。
そして、つぎの瞬間、駿の形相が変わった。
「やっ、嫌だ」
「駿っ?」
「いやだ、いやだっ、サクシードがっ」
「駿」
「サクシードが、死んだ」
駿は、顔を左右に振って血を吐くように叫んだ。
「サクシードが死んだっ」
「駿っ」
「ボキッ、って、ボキッて、音がした。嫌だ、サクシードっ」
コルセットで不自由に縛された身体を揺するようにして、駿は泣き叫ぶ。
「サクシードがっ」
「駿、落ち着いて」
「いやだあ、良馬あっ」
泣きながら、しがみついてくる。
俺は、駿の身体に覆い被さるようにして、抱きしめた。
「駿、しっかり……」
「良馬っ」
駿の爪が肩に食い込む。
「嫌だ、嫌…」
「駿……」
「うっ、うああああぁぁぁぁ……」
胸をえぐるような駿の泣き声を聴きながら、俺はただ、抱きしめてひたすら駿の名を呼び続けることしか出来なかった。













SucceedQ 駿


サクシードが、死んだ―――
予後不良―――骨折―――物凄い音がした―――地獄の底から響くような―――そう、僕を地獄に突き落とす音―――
嫌だ――嫌だ、嫌だ―――これは、夢だ――悪い夢―――
何も考えたくない――――考えたくない――――

『駿……』
『駿、起きろよ。目を覚ませ』
遠くから、声が聴こえる。
聴きたくない―――何も、考えたくない―――起こさないで―――
『駿―――』
温かい声。優しい―――
でも、泣いているの?
だれ?
ひどく懐かしくて、胸が熱くなる―――

『駿―――目を開けてくれ――そして、俺の言葉を聞いてくれ――』

ああ、良馬――良馬だ―――
良馬――会いたかったんだ――ずっと―――

「駿」
目の前に、良馬の顔があった。あの深い色の瞳が、僕を見つめる。
「良馬……」

そして、僕は現実に引き戻された。

「やっ、嫌だ」
「駿っ?」
「いやだ、いやだっ、サクシードがっ」
サクシードが、死んだ。サクシードが、死んだ。サクシードが、死んだ―――――
ボキッ、って、ボキッて、音がした――――
あの音が耳から離れない――――
「嫌だ、サクシードっ」
「駿、落ち着いて」
「いやだあ、良馬あっ」
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――――
助けて、良馬―――
助けて――僕を――サクシードを―――
「駿、しっかり……」
「良馬っ」
「嫌だ、嫌…」
「駿……」
「うっ、うああああぁぁぁぁ……」

どれくらい、そうしていたんだろう。
まるで、一晩中泣き続けたかのように、僕の喉は掠れ、息をするのも苦しかった。
その間、良馬はずっと僕を抱きしめてくれていた。
「うっ、あ……っ……」
苦しくなって咳き込むと、良馬の手がそっと背中とシーツの間に差し伸べられた。
「駿……」
僕の名を呼ぶ。
涙にかすんだ目で見返すと、良馬も泣きそうな顔で、微笑んでくれた。
苦しくて、悲しくて、切なくて――僕は自由になる右手で、良馬の肩を引き寄せ、そこに顔を埋めた。
良馬の手が、優しく僕の髪を撫でる。
「良馬……」
「駿」
「助けて……」
「うん」
「そばにいて」
「うん」
「ずっと……そばにいて」
「うん……」
良馬が、いてくれないと―――僕は、きっと、気が狂ってしまう。


僕がお願いした通り、良馬はずっとそばにいてくれた。
右手が、良馬とつながっている。そのことで、僕はとても安心した。
安心して、少しうとうとすると、嫌な夢を見た。耳の中で、最後に聞いたあの音が甦る。
――サクシードの脚が折れたときの、あの音――
そして、僕が夢の中で泣くと、必ず右手に優しい力が込められた。
(良馬……)
良馬の右手が、僕の右手を優しく包んで
『大丈夫だよ』
と、囁いてくる。
『ここにいるよ――大丈夫――』
(良馬……)
良馬、ありがとう――僕は、もう少しの間、甘えてもいい?


「良馬?」
良馬の右手が離れて、僕は、不安に見つめ返す。
「トイレ。直ぐ戻るよ」
良馬が、優しく微笑む。
僕は、頷いて、右手の指を握り締める。
良馬とつながっていないと、こんなにも不安になる。

僕は――弱くなった―――

でも、良馬に甘えるのはとても気持ちがいい。
良馬が、そばにいてくれる。
僕だけを見つめて、微笑んで、優しく話し掛けてくる。
サクシードを失った気の狂いそうな悲しみも、良馬がいてくれることで、薄れそうな気がする―――そう、思いたい。良馬がいてくれれば、僕は、この悲しみから逃れられる。

良馬に、好きだとは、言えなくなった。
良馬は、今、僕に同情してくれている。
サクシードを亡くした僕を、可哀相だと思って、そばにいてくれる。
同情でも――それでも、いい。
僕が気持ちを伝えることで、良馬が離れていってしまうくらいなら、告白なんかしなくてもいい。

良馬が、そばにいてくれれば―――

僕は―――弱くなってしまった―――


* * *
「駿、いつまでも良馬くんに甘えてちゃだめよ」
お母さんが、優しくたしなめる。
わかってる。
わかってるけど……僕は、むしろ右手に力を込める。
良馬が、困ったように微笑んで僕を見つめる。
お母さんはそれ以上何も言わないで、僕と良馬の右手も見ない振りしてくれる。
良馬の大学が冬休みの間、良馬は、ずっと病院に来てくれた。
お正月も、病院で過ごした。
山本さん、天城さん、厩舎や牧場の人、たくさんの人がお見舞いに来てくれたけれど、僕はその殆どを断るか、会ってもごく短時間に済ませていた。

だってその間は、良馬の右手がなくなるから。

それに、今、僕は馬のことを考えたくなかった。
みんなに会えば、嫌でも思い出す。馬のこと、レースのこと――サクシードのこと。
だから、僕は、できるだけ誰にも会わずに、良馬と二人っきりでいたかった。

お父さんやお祖父ちゃんは、勿論、そんな僕にいい顔をしなかった。
―――何も言わなかったけれど。

「良馬?帰るの?」
大学の冬休みが終わると、良馬も毎日付きっ切りでいてくれるわけにもいかない。
それまでも、自宅に着替えを取りに帰ったりしていたし、良馬が病院にいない日もあったけれど、大学が始まってからは、僕はいつも不安だった。
(また、良馬が、陸上部に戻ってしまったら、どうしよう……)
「うん。今週ばかりは、試験があるからサボれない」
良馬はふわりと笑う。
「参加することに、意義のある試験だからね」
「そう……」
僕がじっと見ると、良馬は、僕の右手とつながった自分の手を見て
「この右手、ここに置いていけたらいいんだけどね」
小さく溜息をついた。
胸が、ズキンと痛んだ。
「そしたら……試験、受けられないよ」
僕が言うと、
「そうだな」
僕の右手を一瞬ぎゅっと握って離す。
「電話するよ。試験が終わったら、なるべく早く来る」
「うん。待ってる」
待ってるから――絶対、帰ってきてね。
良馬の瞳が、何か言いたそうに揺れた。
けれども、何も言わずに、立ち上がる。
「じゃあ、ちゃんと食べろよ」
僕の髪を優しく撫でで、病室の外に出て行った。


良馬が出て行ったのと、入れ違いくらいにお父さんが入ってきた。
「駿」
「あ、お帰りなさい」
年が明けてからお父さんは、馬を見るために度々北海道の牧場に行っていた。
「どうだ?怪我の具合は」
「うん」
「もう少ししたら、リハビリとかしたらどうだ」
「まだ、早いよ」
「脚の筋肉が落ちるぞ」
お父さんの言いたいことがわかって、僕は嫌な気持ちになった。
口の中が苦くなる。
「ダービーまでに間に合わせないと、アイネプリンスの騎乗の話がなくなるぞ」
「……べつに、いいよ」
「駿」
「いいよ。僕は、もう馬には乗らない」
「駿、お前」
「もう嫌なんだっ」
僕は、叫んでいた。
「もう、サクシードみたいに、あんなふうになりたくない」
お父さんは、怖い顔で僕を睨む。
「嫌だよ。聞きたくない、あんな音」
「駿っ」
お父さんが、僕の両肩を掴む。
「前に、言っただろう。競馬に事故はつきものだ」
「だったら、競馬なんかしない」
「駿っ」
「競馬なんか、やめる。二度と、馬には乗らない」
「お前はっ」
「あなた、やめて」
手を上げようとしたお父さんに、後ろからお母さんが駆け寄った。
僕を庇うように回りこんで、叫んだ。
「やめて下さい。駿は、怪我しているんですよ」
お父さんは、拳を震わせて立っている。
僕も、興奮して身体が震えていた。
そう、ずっと考えていたんだ。
今日初めて、口にしたけれど。

(僕は、二度と馬には乗れない――)




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