SucceedP 良馬

『ずっと……ずっと……声が……聴きたかったよ……良馬』

駿の震えるような声が耳に届いて、心臓がつかまれたように痛んだ。
(駿?)
まさか、泣いているのか?
夏の北海道で見た駿の泣き顔が甦って、苦しくなった。
声が、聴きたかった……それは、俺も同じだ。
『りょう、ま……』
「……駿、俺も、お前に会いたい」
『良馬?』
「来週、有馬記念の日、福永たちと中山に行くんだけど……」
駿、お前に、会いたい。
「終わったら、また、会えるかな」
会いたい。
「あの、弥生賞の時みたいに……」
弥生賞。
けやき公苑をかけてきた、駿の姿が甦る。
あの日、俺は人生の再スタートを切った。
駿のおかげで、生まれ変われた。
もう一度、生まれ変わりたい。
強くなりたい。
駿にふさわしいだけの、強さを持ちたい。
『うん』
駿が頷く。
『うん……会いたい』
(駿……)

駿と約束をして携帯を切った。
あれからずっと机の上に置いてある駿の写真集に手を伸ばし、何度も繰り返し見たそれを開く。
春の写真。
弥生賞のウィナーズサークル。再会したあの日。
眩しい駿の笑顔を見て、胸が締めつけられる。
そっと指先でその顔に触れると、身体が熱くなった。

『声が……聴きたかったよ……良馬』

俺は、うぬぼれてもいいんだろうか―――。

(駿……)
次に中山で会った時、絶対に伝えたい言葉がある。
(駿……お前が、好きだ……)


* * *
有馬記念の当日、ウマ研の連中はずい分と早い時間に待ち合わせをしていた。席を取るためだそうだ。
俺も、福永に無理やりつき合わされ、明け方に起きて出かける準備をした。
まだ外は真っ暗で、吐く息の周りだけが、電灯の下、ぼんやり白くなる。
安さんの運転する車が、俺を拾ってくれるはずだった。
「さむ……」
腕を組んで、少しだけ背中を丸める。
冷たい空気を吸い込むと、高校時代の朝練を思い出して、なんとなく懐かしい気分になった。
約束の時間を五分ほどすぎて、安さんのシルバーメタリックのカローラが現れた。
「待たせたな、藤木良馬」
「いいえ、あれ、福永は?」
「あいつも車出すことになって、別の奴を拾ってる」
「そうですか」
「こっちは荻窪で、田村、拾うから。ヤツの彼女も一緒だけど、いいよな」
「いいですよ」
俺が笑って応えると、安さんもニヤリと笑った。
助手席に座ると、安さんがガムを差し出してくる。
「どうも、いただきます」
「今年もいよいよ終わりだよなあ」
「そうですね」
「俺は毎年、有馬で一年が終わるって感じんだよ」
ガムを噛みながら、安さんが呟くように言う。
「有馬の勝ち馬を思い出すと、一緒に、その年の色んなことが浮かんでくるんだよな」
「競馬歴、二十年でしたよね」
俺が冗談半分に
「二十年分、有馬記念の勝ち馬、言えますか?」
訊ねると、安さんは面白そうに眉を上げた。
「言えるぞ。聞きたいか?」
「あ、いえ、いいです」
「付き合った女の名前は忘れていても、馬の名前は出てくるぞ。まず、1980年から」
「いえ、ホントにいいです。すみません」
それから荻窪までの間、安さんが語る馬の名前を聞きながら、自然と俺も一年を振り返っていた。

そういえば、馬の名前も、結構覚えたな。

『オグリキャップとハイセーコーとオラシオン』

駿と初めて会った時、知っていたのはこれだけだった。
今なら、駿が大笑いしたわけもわかる。
思い出し笑いに口許が緩みそうになって、慌てて窓の外を向いて隠した。
それでも、レースが終わったらまた駿に会えると思うと、自然に口許は綻んでしまう。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「えっ?」
安さんの声に振り返ると、
「映ってんだよ、鏡みたいに」
安さんが目で示す先、ガラス窓には、間抜けた自分の顔が映っていた。

* * *
競馬場に着くと、この朝早い時間に信じられないほど大勢の人間が開場を待っていた。
それぞれ持参の折りたたみ椅子や新聞紙の上に座って、話をしている。もう酒を飲んでいる団体もいる。
「うん……今着いた、どのへんだ?……ああ……ああ、わかった」
携帯電話で話しながら歩く安さんの後ろを付いて行くと、福永らしい男が見えた。
「こっち、こっち」
手を振る福永の方に、四人で足早に近づいていって、俺はいきなり足を止めた。
「……亜矢子」
「久し振り、良」
直ぐにはわからなかったが、福永の隣で微笑むのは、間違いなくあの亜矢子だった。

「ごめん、どうしても来たいって、言うから」
福永は俺と安さんの顔を交互に見て、言い訳するように言った。
「すみません。部員でもないのに」
ぺこりと安さんに頭を下げる亜矢子。
俺は、ぼけっと見ていたが、福永が何か言いたそうに俺を見るのに気が付いて、言った。
「俺だって、部員じゃないけど」
振り返った亜矢子が、ぷっと笑った。
「そうよね、おんなじよね」
それに対して、安さんが応える。
「いやいや、同じじゃないぞ」
「え?」
「美人のほうが、大歓迎」
「悪かったですね」
まったく、一時は、名誉会員とか持ち上げといて。
亜矢子は嬉しそうに笑うと、俺を見て、小さく頷いた。
「本当は、もっと早く、会いたかったのよ」
「亜矢子?」
自然と声が小さくなる。
福永が、何の気を使おうとしたのか
「あ、寒いから、自販で暖かいもんでも買ってくるわ。お前らもいるよな」
と、踵を返そうとした。
「ちょっと、待ってよ」
亜矢子は慌てて、その腕を掴んで
「だったら、私も一緒に買いに行くから」
そう言って、俺を見た。
「あのね。ちゃんと言っておきたかったの」
「え?」
「私、今、アツオと付き合っていて……」
アツオと下の名前で呼ぶとき、ほんの少し照れたような表情をした。
「幸せだから、ね」
「亜矢子…」
「じゃ、買ってくる。良も缶のブラックでいいわよね。ほらほら、行こ」
福永を引きずるように連れて行く、髪の伸びた後ろ姿。
俺は、ちょっとの間、毒気を抜かれて佇んだ。

「お前ら、なんかあったの?」
田村が、細い目を見開いて訊ねてくる。
「……いいや、別に」
「別に?」
「ああ、別に」
「なんだよ、嬉しそうに」
「え?そうか?」
「そうだよ。なんだよ」
「だから、何でもないって」

「こら、お前らも席とるの手伝え」
安さんの声に、慌てて返事する。
「あっ、はい」
亜矢子に会ったのは、驚きだったが、良かったと思った。

『幸せだから、ね』


* * *
ウマ研の忘年会は、朝からハイテンションだった。
夏に静岡で会ったメンバーの他に、見知らぬ顔もあって、本当に全員揃っての忘年会なのだと感じた。
寒空の下にレジャーシートを敷いて座って、身体を温めるためにといって、持ち込んできた酒を飲む。
飲む合間に、一年有志が馬券を買いに走る。
「そんなに飲んで、車は大丈夫ですか?」
安さんに尋ねると、笑って答えが帰ってきた。
「だから、朝、思いっきり飲んで、昼過ぎから酒を抜くんだよ」
「はあ?」
福永も笑って
「夕方には二日酔い、ってヤツもいたけどな、去年」
隣の田村を小突く。
「いてえよ」
田村の彼女と亜矢子は、これが結構真剣に、競馬新聞を読んでいる。
「私は、この6番のエアサクシードから入るわ」
田村の彼女の言葉に、つい耳をそばだてると、
「あっ、私も」
と、亜矢子が応えて、俺は瞬間、ドキッとした。
「この子、橘駿、可愛いよね」
田村の彼女の言葉に、亜矢子はほんの少し首を傾けて
「うん、可愛いんだけど……」
言葉を濁す。
俺は、亜矢子の言葉の続きが気になった。
「可愛いって言うより、すごいって感じ?」
「あっ、それも、わかる」
「でしょう?私、菊花賞もテレビで見ていたのよ」
「うん、うん」
二人が駿の話をする。
亜矢子が、駿の名前を出すたびに、何だか落ち着かない変な気分になって困った。
福永は俺の駿に対する気持ちは知っているが、亜矢子には言ってない。
それは、間違いないはずだ。
その亜矢子が、こんなに楽しそうに駿の話題をする。
亜矢子の表情が、本当に優しくいい顔なので、思わず見惚れた。
春に短く切られていた髪は、また伸ばされて柔らかなウェーブを肩の下に揺らしている。

『どうやって恨んだらいいの』
そう言って唇を震わせた、あの亜矢子はいない。

亜矢子が俺の視線に気が付いて、そしてちょっといたずらっぽく笑った。
「良も、好きなのよね」
「えっ?」
「橘駿騎手。知り合いなんでしょ?」
「え、ああ」
「あーっ、そうでしたよね。静岡に来たんですよねぇ、私も会いたかったあっ」
田村の彼女が大きな声をあげる。
亜矢子はクスクスと笑っている。
(まさか……知ってるのか?)
俺がじっと見つめると、亜矢子は小声で囁いた。
「アツオは、何も言ってないわ」
「…………」
「でも、静岡の合宿に橘駿が来たって、ウマ研の人みんな言ってた」
「…………」
「私、自分より綺麗な男の子って、初めて見たわ」
俺が何も言えずに黙っていると、亜矢子は満足そうな顔をした。
「ああ、嬉しい。私、今日は良のその顔を見に来たのよ」
「えっ?何、何??」
亜矢子の突然の声に、田村の彼女が身を乗り出して俺を見る。
「何でもないわよ」
「えぇ?あやしいーっ」
「ふふふ」

俺の『その顔』ってのは、なんだよ。
俺は、女二人に背中を向けた。
そっちの方向では、人の良さそうな顔をした福永が一年に酒をついでいる。
確かに、福永が話したわけじゃなさそうだ。
女の勘?
いや、俺と駿が知り合いだって言うところから、ばれて当たり前か?

『男なんだ。俺の好きなヤツ』
『嘘……』
あの時の亜矢子は、もう、どこにもいない。











SucceedP 駿

「佐井、わかっているだろうな」
「なんですか?橘さん」
「今日は、俺に花をもたせる日だってことだよ」
朝のジョッキールームで、お父さんがふざけたように佐井さんに話し掛けた。
「よく言いますよ。去年の有馬、俺のアンヴィシャスが引退レースだったのに、最後に差し切ってくれましたよね」
「ああ、そんなこともあったな」
「俺が初めて有馬記念で一番人気になったときも、橘さんが勝ったんですよ」
「ホワイトノエル、な。あれはよく覚えているよ」
お父さんは、嬉しそうだ。
「何だかんだいって、橘さん、有馬に強いんですよね」
「だから、引退レースを有馬にしたんだよ」
「やっぱり」
「冗談だよ」
二人が話しているところに、川地さんが入って来た
「よう、ノボル、お疲れさん。いよいよだな」
お父さんの肩を叩く。
「やあ、カワさん、お先にすまんね」
「本当だよ。俺のほうが先のつもりだったのにな」
「いやいや、カワさんにはいつまでも乗ってもらいたいよ。こんなひよっこばかりじゃ、競馬が面白くない」
お父さんは、僕と佐井さんを、持っていた鞭の先で交互に指す。
佐井さんが、僕を見て肩をすくめた。
「そういや、駿との親子対決も騒がれているな」
「ははは……みんな、好きだからな。そういうのが」
笑うお父さんの横で、僕はちょっと困って頷く。
山本さんにも散々からかわれたけれど、このところのスポーツ紙の競馬欄では僕とお父さんの最後の親子対決がドラマチックに演出されていて、そのせいか、僕のエアサクシードとお父さんのロードザロードが人気を争っていた。
昨日までの前売りオッズでは、天皇賞馬のロードザロードが一番人気だった。
「まあ、親子で一、二番人気の馬に乗るってことも、そうそう無いことだろう。俺たちはせいぜい邪魔しないように頑張るよ」
川地さんが笑うと、佐井さんは唇の端を軽く上げて
「俺は、人気薄に乗ったとき、密かに燃えるんですよ?」
思わせぶりにうそぶいた。
「三番人気で、人気薄、ってのはどういう意味だ。佐井」
お父さんが、鞭の先でペチペチと叩く。
「言っとくが、ロードザロードの一番人気は俺の人気で、馬としちゃお前のサンデーオペラの方が上なんだよ」
「お父さん、それ道場オーナーが聞いたら怒るよ」
「しまった。まあ、だから、今日はお手柔らかにってことだ」
お父さんが言って、みんなが笑う。
引退するときの気持ちってどんなだろう、って、お父さんを見ながらずっと考えていたけれど、その日は、こんなにも穏やかにはじまった。
お父さんは、今日の有馬記念で引退する。
実は、僕も心に秘めている事があった。

(サクシードで、ロードザロードに勝つ)

これは、秋華賞の時に言ったことだけれど、そのときは半分冗談だった。
でも、お父さんの引退が決まって、もう二度とお父さんと一緒のレースに出ることは無いんだって思ったとき、絶対に勝ちたいって思った。
いろんな人が、お父さんに花を持たせろって冗談半分、本気半分で言ってきて、僕は曖昧に返事をしていたけれど、とんでもないよ。
僕が、万が一手を抜いたりしたら、お父さんは絶対許さない。
佐井さんにはふざけてこんなこと言っているけれど、僕には絶対言わなかったし、お父さんも僕が真剣に乗ってくるって、わかってる。
今日、僕はお父さんに勝って、お父さんが安心して引退できるようにしてあげるんだ。

「いい一日になりそうだな」
お父さんが軽く伸びをして立ち上がった。
もう直ぐ第一レースだ。
(そういえば……)
良馬は、もう来ているはずだ。
今日はオーナー席じゃなくて、福永さんたちと一緒に見るから開場前に並ぶんだって言っていた。
ちゃんといい場所が取れたかな。
今日の全部のレースが終わったら、良馬に会える。
(……いい一日にしよう)
胸をはって、良馬に会えるように。


有馬記念のパドック。
サクシードは、珍しく僕の顔に鼻を寄せてきた。
あぶみに足をかける前に、その鼻と首筋を撫でる。
(サクシード、今日はお父さんの最後のレースなんだよ)
心の中で話し掛けると、まるでわかったかのようにサクシードは首を上げた。
僕たちの視線の先には、11番のロードザロードと橘昇。
(お前に競馬を教えてくれた人の引退レースだからね。精一杯良い走りをして、安心してもらおうね)
僕たちの視線に気が付いて、お父さんがこっちを見てにっと笑った。
「オヤジ!息子に負けんなよーっ」
「そうだ、そうだ!中年パワーを見せてやれ」
パドックの外からだみ声が飛んできて、みんなが笑った。
佐井さんも笑ってる。
「何いってんのよー!」
女の人だ。黄色い声に、ギョッとした。
「駿ちゃん!お父さんに負けないでーっ」
は、恥ずかしいっ!!
北海道とかちょっと地方に行くとこういう声援ってあったけど。
お父さんのニヤニヤ笑いが見える。佐井さんは無表情に見せかけて、密かに肩を震わせている。
僕は帽子を目深にして、下を向いた。
早く、本馬場に行きたい。

輪乗りの最中に、お父さんが話し掛けてきた。
これも、ひどく珍しいことだ。
今まで何度か同じレースを走ったけど、お父さんは、いったん騎乗した後は絶対に話し掛けてこなかった。
「なあ、駿」
「何?」
「俺が初めて有馬記念に出たのは、デビューして三年目だった」
「うん」
「そのときは、ビリだった」
「ふうん」
「初めて有馬記念を勝ったのは、それから五年後で……まあ、嬉しかったな。俺は、一年の締めくくりのこのレースが好きなんだよ」
「うん」
「今日のレースは、一年の締めくくりでもあり、そして、俺の騎手人生の締めくくりでもあるんだと思うと、柄にも無く胸に迫るものがあるな」
「ちょっと、やめてよ。お父さん、レース前にそんなこと言って、僕を動揺させようとか考えてる?」
僕は、鼻の奥が痛くなって自分が泣きそうになっているのに気が付いて、わざとつっけんどんに言った。
お父さんは、明るく笑った。
「まさか。そんなこと考えてたら、もっと早いとこ画策するぞ、俺は」
「……今ごろ、言うのもずるいよ」
「悪かった。いや、なんか、嬉しくてな」
「えっ?」
「騎手人生の締めくくりのレースを、息子と走れるんだぞ。こんな幸せなことないなあって、そう言おうと思ったんだ」
「お父さん……」
やっぱり、ずるいと思う。
僕が下を向くと、お父さんはちょっとだけ厳しい声で言った。
「お前な、これくらいのことで動揺してたら、この先やってけないぞ」
「えっ?」
「そうだろう?レースなんて始まっちまえば、精神力勝負なんだ。馬の力が互角なら、絶対に勝つって気持ちが強い方が勝つんだよ。俺のこんな言葉くらいで、シオシオしてたら、勝てるレースも勝てないぞ」
「自分で、変なこと言い出して、よく言うよっ」
「だから、悪かったって」
お父さんは、優しい瞳になった。
「親子で、ワンツーってのが夢だな」
「僕が、ワンだよ」
「その意気だ」


スターターが台に上がると、スタンドから大きな歓声が湧く。
もう何度も立ち会ってきた光景。
それでも、そのたびに気持ちが引き締まる。
これだけの人々が僕らのレースを見守っている。
たくさんの期待に応えたい。
そして―――
「良馬……」
今日は、どこから見てくれているのかな。
感じる。良馬の瞳。良馬の声。
このレースが、一年間の締めくくりだというのなら、僕にとっても締めくくりのレースにしたい。
この一年――良馬と出会ってからの九ヶ月――が甦る。
隣のゲートを見ると、佐井さんの姿。
(この人にもこの一年、ずい分、お世話になったなぁ)
でも、今日のレースは、とにかくお父さんに勝つためのレースをしよう。
サンデーオペラも恐いけど、馬の力ならサクシードが上だと、僕は思ってる。
恐いのは、やっぱりこういうときのお父さん。
有馬に強いのだって、気合の入り方が違うんだよ。
『俺は、一年の締めくくりのこのレースが好きなんだよ』
『馬の力が互角なら、絶対に勝つって気持ちが強い方が勝つんだよ』

そうだね。お父さん。
僕も、絶対勝つ。
「いくよ、サクシード」
手綱を持つ手に力を込める。
ゲートが開いた。

お父さんの背中だけを、見つめた。
例年よりもハイペースで進む中、お父さんの緑の帽子と赤い勝負服だけを意識した。
ううん、自分から意識したというより、それしか目に入ってこない。
佐井さんも、川地さんも、光岡さん、児島さんも、どこにいるのかわかるけど、今日の僕には、お父さんの背中しか見えない。
あの背中に、追いついて―――そして最後の直線で抜いてやる。

ペースが上がって縦長の展開。お父さんのロードザロードは、先頭集団。
僕のサクシードは、中団やや後方。
ロードザロードも脚色がいい。お父さんと一体になって、この引退レースを楽しんでいるかのように軽やかに走って行く。
「サクシード、お前も、楽しい?」
僕は、楽しいよ。
ドキドキする。
お父さんに、追いつく、そして―――

三コーナーを回って、そろそろ捕まえに行こうかと、サクシードにハミをかけた。
スピードに乗った瞬間

ボキッ

まるで、何かの効果音のように、あまりにもはっきりと響いた、ぞっとする音。

その意味するものが、わからず――わかりたくなく――それでも、恐ろしさに背中が震えて、頭の中が真っ白になったとき――僕の目は、十二月の薄曇りの空をとらえ、次の瞬間、肩から腰にかけて激痛が走って―――そして僕は、意識を失った。




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