SucceedO 良馬

「よう、久し振り」
八号館の前を通った時、福永に声をかけられた。
十一月は、学祭や大学対抗野球、そして各部活動の大会などが立て続けにあるため、教授もそれを理由として休講にすることが多い。
そのため、俺と福永が授業で顔をあわせることも少なくなった上、菊花賞以来、俺はウマ研の部室に顔を出していないため、ますます福永と話をする機会を減らしていた。
「陸上部の方が忙しいんだろう?」
「まあな」
俺が、柴咲を始めとした陸上部の一年のトレーナーをしていることは、福永には伝えてあった。
話を聞いて福永は、自分のことのように喜んでくれた。
「学祭、悪かったな、顔も出さないで」
「いいって、まあ……また橘駿に来てもらえたら、ラッキーだったんだけど」
「それは……」
「無理だよな。秋のGTシーズン真っ最中だし」
福永は、笑って
「電話とか、してんの?」
屈託無く聞いてくる。
「ん、まあ……」
本当は、あれから一度も電話をしていない。
かかっても、こなかった。
『もう、いい……』
駿の最後の言葉が耳に残っている。
「そっか、新人リーディングもかたそうでよかったな」
福永の声に我に返った。
「あ?ああ」
「有馬は、行くんだろ?」
「有馬?」
「有馬記念だよ。暮れの、中山の」
「ああ、有馬記念、ね」
「なんだよ、ノリ悪いな。暮れの最後の大勝負だぜ。その日俺たち、全員で中山に行くんだぜ」
「そうなのか」
「毎年、そこで忘年会だよ。お前も来いよ」
「ん、うん……そうだな」
「楽しいぜ、ちょっとウルサイけどさ」
「考えとくよ」
「じゃなくて、来いって」
「う、ん……」
「袖触れ合うも他生の縁。春からの付き合いなんだから、年末までしっかり付き合えよ」
よくわからない理屈だったが、福永の執拗なさそいは無下には断れない。
「わかったよ」
「絶対な」
「ああ」
「よしよし」
満足そうに笑って、福永は八号館に入っていった。

(有馬記念か……)
一年の終わりのレース。
駿も出るのだろう。サクシードで。
一年が終わって、また春が来る―――駿と出会った春。


* * *
陸上部に顔を出すと、水本がグラウンドから戻って来たところだった。
「よう」
「よう、これから授業か?」
珍しい、と訊ねると
「いや、ヤボ用」
水本は笑った。
「そう」
俺は、それ以上聞くつもりは無かったが、水本は自分から口を開いた。
「実業団の先輩にさ、一度会社に来いって言われてんだ。まあ、リクルート活動だよ」
一瞬、ドキッとした。
「そうか」
「まだ、先のこと決めた訳じゃないけどさ。来年は四年だし、俺は教職もとってないからな」
「ああ」
「お前みたいに頭良ければ、何でもできるだろうけどさ、俺は、体育馬鹿だし」
「やめろよ」
「いや、ホント、お前、すごいよ。シュンのタイムずい分伸びたじゃねえか」
「…………」
「部でも評判でサ。最近は他の一年もアドバイスもらいに来てるって?シュンが怒ってたぜ。別に専属トレーナーじゃないってのになあ」
そう言って笑う水本には、当然何の悪気も無い。むしろ逆だろう。
なのに、俺は胸が痛んだ。
実業団に入ってずっと走り続けるというのは、俺の夢だった――漠然としたものではあったけれど。
俺には、その可能性は無くなったわけだけれども、水本にはその未来がある。
そして、水本の言った『来年は四年だし』という言葉が、胸に小さな引っかき傷を残した。
(俺の、本当にしたいこと―――)
今は、懐かしい陸上部に戻って嬉しい気持ちが先にたっている。
柴咲のタイムが伸びたのも、単純に嬉しい。けれども、こうして走れない自分が柴咲を――自分じゃない、他の誰かを――走らせていくことに、ずっと満足しつづけられるのか?
まだ、よくわからない。
黙っている俺に気がついて、水本は初めてうろたえた。
「藤木?」
「あ、いや、悪い」
「いや、えっと」
「ちょっと……柴咲のこと考えてさ」
とっさに言い訳を探した。
「シュンの?」
「うん、大会近いし、メニューかえようかと」
「ああ、そうか」
ホッとした表情になると、
「お前、本当に、そういうの向いているよな。このまま、ここのコーチに納まっちまえよ」
水本は爽やかに笑った。
「それも、ありだな。コーチが椅子を譲ってくれれば」
俺も、一緒になって笑う。
心に、ほんの小さな傷を作って。


「藤木先輩っ」
柴咲が、眉間に皺を作って詰め寄ってくる。
「なんで、田中や、東堂の練習まで見ることになったんですか」
「なんで、って、聞かれたら、教えてやるのが当然だろう?」
「ダメですよ、俺のライバルつくんないで下さい」
「は?」
柴咲のあまりに正直な発言に目をむくと、案の定、周りから非難がましい視線が集中した。
「ライバルって……お前のライバルは他の大学に山ほどいるだろ?」
「同じ部の中でも、ライバルはライバルですよ」
「お前、そんな狭量なことじゃ、大物になれないぞ」
気持ちはよくわかったが、つい、きれいごとを言ってしまう。
「いいですよ、なれなくても。俺は、速く走れればいいんです」
俺は、それ以上の言葉を失った。
「藤木さんは、俺だけ見てください」
「え?」
いつにない思いつめたような目に、心臓をつかまれた思いがした。
「そういうことで、ヨロシク」
照れたように駆け出していく、柴咲の後ろ姿を目で追いながら、
(そう言えば、今、あいつ、俺のこと『さん付け』で呼んだか?)
などと、どうでもいいようなことを思った。


* * *
そして、あっという間に十一月が終わり、気がつくと街はもうクリスマスの色に染まっていた。
柴咲は大会でも良いタイムを出せて、ますます俺に懐いてきた。
授業では冬休み前の試験と同時に、様々なレポートの提出の締め切りも重なり、俺もさすがに本業を思い起こされて、陸上部に行く回数が減った。
大会が終わってしまえば、それも不都合は無かった。
そして、大学も休みに入り、陸上部の練習に顔を出すのも今年は最後だという日になって、柴咲が突然言ってきた。
「藤木先輩、この後、何か用事はいってますか?」
「いや、別に」
「だったら、ちょっと付き合ってください」
「ああ」
シューズでも見に行くのかと軽い気持で頷いた。

ジングルベルの流れる商店街を駅に向かって並んで歩きながら、柴咲を見ると、寒さのせいか顔が赤くなっている。
「新宿?」
「え?なんですか?」
柴咲は、ビクリと俺を見た。
「いや、何か買いに行くんなら……」
「あ、いいえ、別に買い物に付き合ってもらおうというんじゃありません」
「そうなんだ」
「はい……」
その後黙り込んでしまう柴咲に、どうしていいかわからずに、俺も黙って歩いた。
けれども、行き先もわからないのでは、ちょっと不安だ。
「おい、しば…」
呼びかけようとしたときに、柴咲はふいに足を止め、その路地の奥にある小さな公園に向かった。
(……?)
小さなブランコとベンチしかない、猫の額ほどの児童公園には、この寒空の下、さすがに誰もいなかった。
「柴咲、どうしたんだ?」
「藤木先輩……いきなり、すみません」
「何?」
真剣な目で俺を見つめるその表情に、まるで愛の告白でもするようなシチュエーションだとふざけて思ったら、
「俺、先輩のことが好きです」
突然言われて、俺は言葉を失った。
俺が黙っていると、柴咲は思い切ったように言葉をつないだ。
「先輩は、俺のこと、どう思っていますか」
「どう…って」
「好きか、嫌いか」
「そりゃ、嫌いなわけはないけど」
と、呆然と呟くと柴咲の顔がパッと輝いた。
違う。そうじゃない。柴咲を傷つけないように、言葉を探す。
「いや、嫌いじゃないが……その『そういう意味』で、好きだとも言えない」
「先輩?」
「お前を、後輩として好きだが……それ以上には……」
傷つけないようになど、言えるわけが無い。
大体、俺はこういうことには不器用だ。
「先輩、今、誰か好きな人いるんですか?」
柴咲の言葉に、夏の海が甦る。
『今、好きな人……いる?』
じっと見つめてきた、駿の白い小さな顔。
「いるよ」
俺は、あの時と同じ言葉を呟く。
「それは……俺じゃないんですね」
柴咲は、少し悲しそうな顔で笑った。
「……すまない」
頷くと、柴咲はふうっと溜息をついた。
そして、うつむいて頭を掻きながら、言った。
「まいったな。本当は、ちょっとだけ自信あったんだけど」
「えっ」
俺が驚いて見返すと、柴咲は、悪びれることも無く真っ直ぐ俺を見た。
「大会の打ち上げの帰り、一緒に電車で帰ったでしょう?」
「ああ」
「そのとき、藤木先輩俺の隣で寝ちゃったんです。覚えてます?」
そんなことも、あったか。
「そのとき、先輩、俺の肩にもたれかかって寝てたんですけど……」
何を言い出すんだ。
「突然、寝言で名前を呼ばれたんです……シュンって」
(駿……)
愕然と、目の前の柴咲を見つめる。
「それが、切ないくらい、色っぽくて……それに、やられちゃったんですよね、俺」
「柴咲……」
「いいえ、俺はその前から、先輩のこと好きでしたけど、その言葉聞いて、なんか、先輩も俺のこと好きなのかなって……」
「柴咲……すまない」
俺は……
どう言っていいかわからず、唇を噛む。
「そんな、謝らないでくださいよ。俺の勝手な勘違いだし」
それに……と柴咲は晴れ晴れとした顔で笑って続けた。
「俺、後悔してないです。今、先輩に気持ちを伝えたこと」
「……ありがとう」
なぜか、そう応えていた。
柴咲は、
「じゃあ、俺の用は終わりましたから。付き合ってくれてありがとうございました」
片手を振って踵を返した。
軽く駆け去っていく後ろ姿に、俺はもう一度呟いた。
「ありがとう」
こんな俺なんかに、思い切って告白してくれた、その気持ちが嬉しかった。
そして、その気持ちに応えられない自分が、申し訳なく辛かった。
『俺、後悔してないです。今、先輩に気持ちを伝えたこと』
ありがとう、柴咲。そして、すまない。
俺の好きな相手は……俺が、夢の中で呼び続けるのは……
「駿」
唐突に、激しい感情が湧いてくる。
駿に会いたい。

男同士だという引け目に、ずっと気持ちを偽ってきた。
ようやく自分の気持ちに気がついてからも、色々な理由を作って、ひた隠しにしてきた想い。
亜矢子を傷つけ、今、柴咲まで傷つけて、そうまでして守った俺の想いは、どこにも届かずにいる。
けれど――――
柴咲のこの告白に背中を押された気がした。
俺も柴咲も、どっちも『男同士なのに』という言葉を出さなかった。
人として、好きになった相手に気持ちを伝えること。
ただ、それだけのこと。
―――それが、どんなに単純で、難しいことか。

『俺、後悔してないです』

俺も、後悔したくない。

駿に、会いたい。
会って、つまらない嫉妬や変なプライドから行き違っているこの想いをきちんと伝えたい。
直ぐにでも会いに行こうと思ったけれど、来週末の有馬記念まで駿がどんなに忙しいかはわかっていた。
有馬記念の日、会えないだろうか。
また、中山だ。
あの、弥生賞の。
もう一度、あの日に帰って……。











SucceedO 駿

お父さんが、騎手の引退を公にしてから、橘厩舎には、毎日ひっきりなしに人が来る。
GTシーズンと重なって、僕も毎日忙しかった。
忙しすぎて、自分の誕生日も忘れていたくらいだ。
朝起きて、机の上にリボンのついた箱を見つけた。
なんだろうと思って見ると、カードに《お誕生日おめでとう》と、お母さんの字で書いてある。
「あ、今日、僕の誕生日なんだ」
箱を開けると、モスグリーンの柔らかな手袋とそれにお揃いのマフラーが入っていた。
カシミアかな?――よくわからないけれど、軽くて暖かなマフラーを頬に当てて、幸せな気持ちになる。
「ありがとう、お母さん」
そして、すぐにこの誕生日を一緒に祝って欲しい人が浮かんで、切なくなる。
良馬は僕の誕生日を知ってるかな。
良馬の誕生日は、ちょうど北海道に来た後で、電話でおめでとうを言っただけだった。
でも、その直ぐ後、静岡の海に行く予定があったから、その途中でお祝いしたりして楽しく過ごした。
(僕の誕生日は……)
胸が、きゅっと痛くなる。
(もし、今日、良馬から電話があったら、絶対、好きだって言う……)
そんな女々しいことを考えたけど、やっぱり良馬からは何の連絡も無かった。
厩舎の人たちや記者の人たち、みんなからたくさんお祝いをもらって、そして出版社の人が大きなダンボールに何箱も、ファンの人たちからと言って手紙や、カード、プレゼントを持ってきてくれた。
こんなにたくさんの人に祝ってもらった誕生日は初めてだったけど、本当に、祝って欲しい人は、僕の誕生日を忘れている。
それとも、知っていて、連絡くれないのかな。
そう思うと、ひどく悲しくなった。
そして、誕生日の終わる頃、ずっと前に電話で聞いていた陸上部の大会のことを思い出した。
(十一月の第二週。ちょうど、今ごろだったかも……)
だったら、忘れていてもしょうがない。
知っていて、連絡をくれないと思うよりマシだった。


「駿、ちょっと」
お父さんに呼ばれて、応接室に行くとソファに道場さんが来ていた。
「やあ、駿君」
有馬記念でお父さんが乗るロードザロードのオーナーだ。
「お久し振りです」
「座んなさい」
お父さんに言われて、隣に座った。
「菊花賞は、素晴らしい騎乗だったね」
道場さんが、煙草の灰をとんとんと灰皿に落としながら微笑んだ。
「いえ、あれはサクシードがすごかったんです」
僕は、ちょっと気まずくて、肩をすくませた。
最年少GTジョッキーなんてもてはやされても、結局あれは馬の力だと言われているのも知っている。
「いやいや、三千メートル、馬の力だけじゃこなせないよ」
道場さんは、ゆっくり煙草の煙を吐くと
「駿君は、いい騎手だ」
目を細めた。
「あ、ありがとうございます」
落ち着かない思いでペコリと頭を下げた。
「お父さんの引退は、勿体無いけどね」
道場さんがそう言って、お父さんを見ると、お父さんは膝に手をついて深々と頭を下げた。
「突然、申し訳ありません」
「いや、よくよく考えてのことでしょう。二代目もしっかりしているから、今度は、良い馬の育成に力を入れてください」
「いえ、まだ、これからですから。私も、息子も」
お父さんの言葉に、僕も小さく頷いた。
道場さんは、改めて僕に向き直って
「それでね。お父さんに乗ってもらっていた、プラチナムとグローリアスを今度から駿君に乗ってもらいたいんだよ」
にっこりと笑った。
「えっ?」
ロードプラチナムと、ロードグローリアス。
グローリアスはようやくオープンに勝ち上がったばかりだけれど、プラチナムの方は、去年のオークス馬だ。この間のエリザベス女王杯でも、二着に入っている。
「ロードプラチナム……も、ですか?」
信じられない気持ちで、道場さんを見返した。
「ああ、新年から、よろしく頼むよ」
「でも……」
僕なんかで、いいのかしら。佐井さんとか、ううん、佐井さんじゃなくても、僕よりはもっとベテランの……いい騎手は大勢いる。
「オーナーが宜しくって言って下さっているんだ。ちゃんと挨拶しろ」
隣に座っているお父さんが、僕の背中を叩いた。
「あ、はい」
僕は慌てて座りなおすと
「ご期待に添えるよう、一生懸命がんばります」
今度はしっかりと頭を下げた。
「これから他の馬もたのむよ。サクシードと騎乗が重なった時は諦めるけど、それ以外はうちの馬を優先してくれ。やっ、奥さんの実家に怒られるかな」
道場さんはお父さんと顔を見合わせて笑った。
僕は、自分がいかに恵まれているか、そして、それだけにこれからも騎手仲間からは厳しい目で見られるということを思うと、とても笑えなかったけれど、道場さんの気持ちはすごく嬉しかった。

* * *
暮れの有馬記念は、ファン投票で出走馬が選ばれる。
僕のサクシードは、驚いたことに、二冠馬のセントエクセルやジャパンカップを勝ったサンデーオペラを抑えてダントツ一位の票を集めていた。
必ずしもファン投票の結果が当日の人気と同じになる訳じゃないけれど、やっぱり嬉しくて、そして、緊張する。
お父さんと一緒に出る最後のレースだし。
(良馬は……)
また呼んだら、来てくれるかな。
お父さんのこととか話してないし、忙しくって――本当は、ちょっと気まずくって――ずっと連絡していなかったけど、これを理由に電話しようかな。
でも、あのときのこと、何て言って謝ろう。
ずい分時間経ってるし。
携帯を握りしめて色々と考えていたときに、突然着信音が鳴って、取り落としそうになった。
「良馬?」

『あ、駿?』
携帯電話から届く懐かしい良馬の声に、いきなり胸が熱くなった。
「うん、良馬、どうしたの?」
ばか、ばか!
嬉しさと緊張のあまり、僕はとんでもない応答をしている。
案の定、良馬はちょっと黙った。僕は慌てて言葉をつないだ。
「僕も今、電話しようかと思っていたんだ」
わざとらしく聴こえなかっただろうか。
僕の心配をよそに、良馬はホッとしたような声で訊ねた。
『……ほんとに?』
「本当。本当に、今、携帯持っていたんだよ。かけようと思って」
僕は、むきになって言い募った。
「それで、かかってきたからびっくりしたんだ」
『よかった。邪魔だったら、どうしようかって』
「邪魔なんかじゃないよ?」
何で?
良馬が邪魔なわけないじゃない。
良馬が……
ふいに、菊花賞の後、良馬に会えなかったことや、電話でひどいことを言ってしまったことなんかが頭に浮かんだ。
良馬と、ずっと会っていなかった。
ずっと、話してなかった。
胸が詰まって、鼻の奥がつんと痛くなった。
「邪魔……なんて……良馬……」
携帯を握りしめたまま、僕はその場にうずくまった。
「ずっと……ずっと……」
目の奥が熱い。
「声が……聴きたかったよ……良馬」
会いたかったよ―――良馬。
電話でよかった。
泣いている顔は、見られないですんだから。
でも、僕の声でわかったのか、良馬は電話の向こうでじっと黙っている。
「りょう、ま?」
『……駿、俺も、お前に会いたい』
「良馬?」
『来週、有馬記念の日、福永たちと中山に行くんだけど……』
ゆっくり、ゆっくりと良馬が話す。
『終わったら、また、会えるかな』
(良馬……)
泣いたから、ぼうっとしているのかな。
良馬の言葉に、返事が出来ない。
『あの、弥生賞の時みたいに……』
弥生賞という良馬の言葉に、桜の花びらが舞うけやき公苑が甦る。
弥生賞――初めて勝った、最高に嬉しかったあの日も、そして、悲しくてしょうがなかった皐月賞の日も、あの公苑で、良馬と会った。
「うん…」
もう一度、あの時みたいに。
「うん……会いたい」
会って、どうしても伝えたい言葉がある。


良馬と約束をしてから、有馬記念の当日まで、僕は落ち着かない日を過ごした。
かといって、決してふわふわと浮き足立っていた訳じゃなくて。
調教、取材……普段に増して、忙しい毎日を過ごした。
サクシードが有馬に出ることが決まって、有馬記念前夜祭というラジオ局が主催するイベントにもでた。
そこで、佐井さんと一緒になった。

「駿、なんだか久し振りだな」
「そうですね。調教でも、すれ違いでしたし」
佐井さんは、セントエクセルとサンデーオペラのどっちに乗るのかと騒がれていて、本人も
『身体が、二つ欲しいです』
なんて、言っていたけれど、セントエクセルの方が出走を回避したため、サンデーオペラの騎乗が決まった。
「セントエクセルは、放牧に出したそうですね」
「そうみたいだな。やっぱりあの菊花賞が相当きつかったんだな」
佐井さんは、首をかしげながら言った。
「夏も十分休ませたはずなんだけど、あのあと急に調子を落としたらしい。馬体も回復しないんで、オーナーが『大事をとりたい』って言ったそうだ」
「そうですか」
「サクシードに負けたのが、相当ショックだったのかな」
「えっ?」
「ヤネ(騎手)は立ち直っているのに、ね」
佐井さんがパチリと片目をつむるので、僕は笑ってしまった。
「いい顔だな」
佐井さんが微笑む。
「あの宿題は、ちゃんとできたみたいだな」
「あっ、いいえ」
僕は、ちょっと恥ずかしくてうつむいた。
「佐井さんとの宿題は…半分だけ……」
良馬にちゃんと告白して、以前の僕に戻ること―――北海道でもらった宿題。
「半分?」
「もとの橘駿に戻っているでしょう?」
「ああ、こんなに強くなるんなら、戻って欲しくなかったな」
「そんなこと……」
「で、もう半分は?」
面白そうに目を細めて尋ねてくる。僕は顔をしっかりと上げて応えた。
「これからです」
「これから?」
「ええ、でも、年は越しません。今年の宿題だから、今年中に……」
「そうか……そうだな、埃でもなんでも、今年中に掃ってきれいにしないと」
「ひとの、大切なこと、大掃除みたいに言わないで下さい」
そう言うと、佐井さんは爽やかな顔で笑った。

(今度こそ―――)
絶対に、伝える。
僕の気持ちを、良馬に。
今度こそ―――絶対。

「スタンバイお願いしまーす」
声に促がされて、僕たちは舞台の上に進んだ。
公会堂には、たくさんの人か集まっている。
けれど、有馬記念の当日には、もっともっとたくさんの人が中山競馬場に集まる。
僕は、その中でも、きっと良馬を感じるだろう。
良馬の視線を感じて、良馬の声を聴くだろう。

今年最後のGTレース『有馬記念』が、始まる。




HOME

小説TOP

NEXT