SucceedM 良馬

秋華賞の翌日、久し振りに駿から電話があった。
『もしもし、良馬?元気?』
元気かと訊ねるほど、互いに連絡をしていなかったのかと改めて感じた。
「ああ、昨日見たよ。惜しかったな、でも、よく頑張ったな」
あの馬で五着入着は立派なものだと、安さんも言っていた。
『うん。ありがとう』
案の定、駿の声は嬉しそうに――誇らしそうに――聴こえた。
『それでね、今週末の菊花賞なんだけど、京都まで来て欲しいんだ』
「え?」
『新幹線のチケット今日送るから、遠くて悪いけど……来てくれる?』
少し小さくなるどこか甘えたような声に、胸が震えた。
「チケットなんか無くても、行くよ」
駿が来て欲しいというのなら、とんでいく。
『よかった。またお祖父ちゃんに言ってあるから、馬主席で見てね』
「いいのかな」
『いいよ、そうして』
「わかった」
そして、俺たちは、互いの近況を話した。
俺は、あれから陸上部の臨時コーチのような真似をしている。
そのことを話すと、駿はちょっと驚いたようだったが、直ぐに喜んでくれた。
「臨時だから、ずっと続けるわけじゃないんだ」
『でも、また陸上に戻ったんでしょう?すごいよ』
「すごくは無いよ」
すごいなんて言葉は、今のお前のほうこそふさわしい。
ポスト佐井と呼ばれる新人リーディングジョッキー、橘駿。ターフのアイドル。
「そういえば、本屋で」
『え?』
「あっ、いや……お前の本、見た」
本じゃなくて、写真集だ。
駿はすぐに気がついて、
『あ、写真…だよね』
と恥ずかしそうに呟いた。そして
『えっと、よかったら……送るけど……その…』
ますます恥ずかしそうに小さくなる声で言う。
「あ、いいよ、そんな」
『えっ?あっ、いらない?そうだよね』
ちょっと慌てたような駿の声に、思わず俺も早口で応えた。
「いや、買ったから」
『え?』
しばらく、気まずい沈黙。
先に口を開いたのは駿だった。
『そんな、わざわざお金出さなくても、あげたのに……』
「うん、でも、記念に」
『あれ、結構高かったでしょう』
「そんなことないよ」
『こんなことなら、やっぱり発売前にあげれば良かった』
何故か咎めるような口ぶりに、俺も、ちょっとだけ不満を洩らす。
「そりゃ、もらっていれば、あんな恥ずかしい思いはしないですんだよ」
『えっ?恥ずかしかった?』
「当たり前だろ。女子高校生の見守る中で、それに手を伸ばすのにどんなに勇気がいったか」
ぷっと駿が吹き出すのが聴こえた。
「レジに並んでいる間も、恥ずかしくて、しょうがないから週刊勝鞍も一緒に買った。競馬ファンのふりして」
クスクスクスと可愛い笑い声がする。
『そうだったんだ……ゴメンね、良馬』
「べつに」
『でも、ありがとう。嬉しい』
突然言われて、クラリときた。なんで、こんなに素直で可愛いんだ。
『僕、菊花賞頑張るから……絶対来てね』
「ああ」
行くよ。そして、この目で見る。

駿と、駿の馬エアサクシードの、三冠最後の夢――菊花賞。


* * *
一週間はあっという間で、土曜日まで陸上部の練習に出た俺は、日曜の朝早く、新幹線に乗った。
前日から来て泊まるように誘われたが、陸上部があったのと泊まる用意が面倒で、朝の新幹線に替えてもらった。
京阪電鉄に乗り換えれば、最寄りの淀駅から競馬場までは歩いて五分らしい。
ウマ研の連中の中にもわざわざ京都まで来ているのがいるらしいが、あいにく、安さんや福永は学祭準備だなんだで忙しく行けないとのことだった。
「京都競馬場に行ったら、まず、白鳥に挨拶しろよ」
福永が言っていた。
福永は、亜矢子と上手くいっているらしい。
今回、京都まで行かないのも
「実はデート代がバカにならなくて金がないんだ」
と笑っていた。
「そのうち、三人で飲めるといいんだけどさ」
福永の少し困ったような笑顔を思い出しながら、どうかあの二人がずっと上手くいくようにと祈った。
どっちも―――幸せになって欲しい。

そして、新幹線の車窓の景色を眺めながら、駿を思う。
最後に会ったセントライト記念での、俺の胸の中で震えて泣いていた華奢な身体と、柔らかな髪の感触を思う。
(駿……)
早く、会いたい。
レースが終わるまで、待ちきれない。

この焦燥感の正体は、駿を愛しく思う気持ちと同じほどの、強い不安だ。
駿が勝利を重ねるたびに、自分から遠ざかっていくような不安。
俺は、駿の勝利を誰よりも、望んでいる。それは、本当だ。
けれども、その気持と裏腹に、駿に今のままでいて欲しいとも――これ以上手の届かない世界に行かないで欲しいとも――望んでしまうのだ。


「今日は、いい天気でよかった」
駿のお祖父さんが晴れ渡った秋空を見上げて、満足そうに頷く。
「良馬君は、昼は、どうしたかね」
「あっ、ここに来る前に」
「そうか、食べてきたか」
「はい」
「じゃあ、お茶でも飲みましょう。まだ、十分、時間があるから」
深雪さんが――駿のお袋さんのことは本人の希望でそう呼んでいる――落ち着いた黄色のスーツ姿で微笑んだ。
「きれいな色ですね」
とくにお世辞のつもりも無く、思ったまま口にすると
「あら」
と、嬉しそうに頬を染めた。
そんな表情も駿に似ている気がする。
「色がきれいだって、言われたんだ。お前じゃないぞ」
お祖父さんが言うと、深雪さんはプイっと横を向いた。
「わかっていますよ」
「あ、いいえ、そう言う意味じゃあ」
慌てて口を挟むと
「いいのよ、良馬君。うちの父はいつもこうなの。慣れてるから、私」
そう言って自分のスーツの襟を軽く持ち上げて、
「菊花にちなんで黄色にしたのよ」
他のオーナーさんを気にするように声をひそめて、
「表彰式で映えるかしらね」
いたずらっぽく笑った。

三歳クラッシックの最後の一冠、菊花賞。
みな、晴れやかな雰囲気の中、ほんのりと酔ったようにはしゃいでいる。
「やあ、吉村さん」
恰幅の良い男性が、にこやかに近づいて来た。
吉村というのは深雪さんの旧姓、つまりここではお祖父さんのことだ。
「今日はエアサクシードが楽しみですね」
「ええ、ありがとうございます」
「先日のセントライト記念はすごかった。あの脚を使われたら、うちの馬でも勝てない」
「そんなことは無いでしょう。セントエクセルもずい分調子がいいと聞いていますよ」
お祖父さんも愛想よく応える。
(それじゃ、この人があの佐井の乗るセントエクセルのオーナーなのか)
俺は、ついまじまじとその男を見た。
「こちらは?牧場の?」
俺の視線にその男が振り向いて訊ねた。お祖父さんは、笑って手を振って否定する。
「いやいや、駿の友達です」
「ああ、駿君の」
男は、破顔した。
「彼もいい騎手になりましたね。馬だけじゃなくて、お孫さんにも恵まれて。全く吉村さんがうらやましい」
その言葉に、深雪さんが嬉しそうに微笑んだ。
「いや、まだまだですよ」
お祖父さんは、今にも緩みそうな頬を引き締めて言う。
「今日みたいなレースは、馬以上に騎手の腕が求められますから。今日のレースが終わって、初めて、いい騎手になったと言えるかどうか……」
「そうですね。そうなると、うちの馬は佐井君だから多少は分があるか……」
と口を滑らせて、セントエクセルのオーナーは慌てて口許を押さえた。
「やっ、他の騎手に比べて佐井君は安心できるという意味でね。駿君とは関係ないですよ」
「いやいや、わかりますよ」
お祖父さんは、鷹揚に頷いた。
深雪さんはきゅっと唇を結んで、俺の顔を見ると、ふっと微笑んだ。
サクシードは、前走であれだけの走りを見せながら、今日は三番人気だった。
二冠馬のセントエクセルが一番人気なのは当然としても、リアルショットにまで負けているのは、雨の中の激走による疲労が残っているのではないかという予想に加えて、乗り役としての評価が佐井、光岡という両騎手に劣っていたかららしい。

けれども、
『絶対、勝つよ』
そう言って、瞳を輝かせ、微笑んだ駿を信じている。

俺は、今日はじめてエアサクシードの単勝の馬券を買った。
京都11レース 第6X回 GT 菊花賞と印字された横に、黒々と6番エアサクシードの名前が記されている。
勝つつもりだが、換金するつもりは無い。今日の記念に、いつまでもとっている。
駿とサクシードの――そして俺の、今日この日の記念。


パドックに向かう駿と、ほんの少しの間、話しすることが出来た。
駿は落ち着いているようだった。
パドックで見るサクシードも、心配した反動や疲れと言ったものは感じられない。
黒々と光る馬体が、また一回り大きくなったような威圧感を感じさせ、その前後の馬が小さく見えるほどだった。
18番のセントエクセルも、立派だった。
セントエクセルをこんなに近くに見たのは初めてだが、サクシードが夜の黒なら、エクセルは、太陽の金。栗毛の馬体を、秋の陽の光にきらめかせて、やはり他馬を圧倒していた。
パドックの周回が終わった時、エアサクシードは二番人気に上がっていた。

本馬場に入場する駿を見送る。
駿は、俺の顔を見て、唇を結んで頷いた。
その顔に、俺は駿の勝ちを確信した。

『絶対に、勝つよ』

その後、セントエクセルに跨った佐井猛流が目の前を通り過ぎた。
自分はずっとこの男に嫉妬しているのだと、複雑な気持ちで見つめた。
何故だか今日は、駿がこの男に負けるとは、思えなかった。

『絶対に、勝つ』

駿の言葉が胸の中をこだまする。

そして、いよいよ菊花賞が始まる。













SucceedM 駿

朝、いつもよりずっと早く、そしてすっきりとした気分で目が覚めた。
何か、夢を見ていた。
幸せな夢。
歯を磨きながら、夢の断片を拾う。
仔馬のサクシードが出てきた気がする。

サクシードは、僕が競馬学校に入学するのと同時に生まれた。
お母さんが、ビデオに撮って送ってくれた。
画面の中で元気に走リまわる、真っ黒な仔馬の姿に、僕は三年後の夢を託した。
本物のサクシードに、会いたくて、会いたくて―――――
競馬学校の三年間は、楽しいことより辛いことのほうが多かったけど、サクシードが待っていると思ったから頑張れた。
サクシードのデビュー戦が決まったとき僕はまだ競馬学校の生徒で、当たり前なんだけど騎乗できないのが悔しかった。
新馬戦、負けたお父さんを電話口でなじったっけ。
お父さんは、
『俺は、サクシードに競馬をおしえてやっているんだ』
そう怒鳴り返した。
『がむしゃらに前に行けばいいってもんじゃない』
『だって、負けたら終わりじゃないか』
『バカ野郎、大事な時に負けないように、今のうちに負けを教えてやったんだよ』
そのときは、お父さんの屁理屈だと思った。
でも、今ならわかる。
ありがとう、お父さん。あのときは、ごめんね。

サクシードは、お父さんに競馬を教わって、競馬学校を卒業した僕の馬になった。

初めてサクシードに乗った弥生賞。
あの日は、僕にとって、特別の日だ。
初めて、サクシードと一緒にレースをした。
初めて、勝った。

そして、その日―――良馬に会えた。

ウィナーズサークルで、聴こえるはずの無い声が聴こえた。
そして何万人もいる人たちの中で、たった一人、良馬の視線を捕まえた。
あの再会を、たぶん奇跡と呼ぶんだろう。
だから、僕は、信じている。
今日、僕が菊花賞のウィナーズサークルに立ったら、もう一度奇跡は起きる。

良馬に、ほかに好きな人がいたとしても、僕の想いは絶対に、良馬に届く。

だから、絶対――勝ちたい。


* * *
「よう、駿、いよいよだな」
「山本さん、どうしたんですか?こんなところまで」
「いいの、いいの、ホラ、関係者」
山本さんは、腕の腕章をこれ見よがしに見せた。
「お前が緊張していないかと思って、覗きに来たんだけど、大丈夫そうだな」
「大丈夫ですよ」
「そりゃ、良かったよ。さすがは大物ルーキー」
山本さんは笑って、僕に一枚の和紙をくれた。筆で何か書いてある。
「なんですか?」
「お守りだ」
「……志摩直人《菊花賞賛歌》」
「知らないだろ?」
「知ってますよ」

《二度の山ごえ、坂おとし
背には、岩清水八幡宮―――》
で、始まるそれは、競馬学校時代に先生がよく謡っていたし、橘のお祖父ちゃんもたまに口ずさむ。
「なんだ、意外に古くさい奴だな」
「古くさいなんて、失礼でしょう?」
「はは、おっしゃる通り」
実は、僕もこの歌は好きだった。

《馬の足らざるところは、騎手がおぎなえ
騎手の足らざるところは、馬に聞け》

馬と騎手とが一つになって、菊千里を駆ける―――そのイメージが、心を躍らせる。
「ありがとうございます」
「え?」
「だって、お守りに、持ってきてくれたんでしょう」
「ん、まあな」
少し照れたように、頬をぽりぽりと掻く山本さんに、
「まあ、僕の足りないところはサクシードがついているから大丈夫ってことですよね」
ちょっと嫌味っぽく言ってみたら
「お前らは、二つで一つってことだよ」
山本さんは、にやっと笑った。


菊花賞。発走三十分前。
パドックに現れたサクシードは、いつもにまして堂々としている。
その落ち着いた様子は、これから行われるレースも、その結果も、もう全てわかっているかのようだ。
(サクシード……)
祈りにも似た気持ちで、その美しい姿を見つめた。
いつの間にか、僕の隣に佐井さんが立っていた。
佐井さんとは、今日は朝から一度も口をきいていなかった。
静かに、ゆっくりと、佐井さんが呟いた。
「ようやく……」
僕はサクシードを見つめたまま、黙って待った。
「勝負できる……サクシードと……駿と……」
周回するサクシードの向こうにセントエクセルの姿が重なる。
金色の馬と黒い馬。
ふっ、と僕は小さく笑った。
「何だ?」
佐井さんが、僕を見る。
「日食みたいだと思って」
「え?」
佐井さんは、一瞬、わからなかったようだけれど、僕の視線の先のサクシードとセントエクセルを見て言った。
「食われちゃ、困るな」
僕たちは、それぞれ、自分の馬を見つめながら、静かに笑った。

パドックに入るところで、良馬、お母さん、お祖父ちゃん、そして遠藤さん、河田さんとすれ違った。
「駿、落ち着いて乗れよ」
お祖父ちゃんの声。
「気をつけて」
「無事に戻って来て下さい」
早口にみんなが応援の声をかけてくれる。
「駿……」
良馬だ。僕の大好きな、深い色の優しい瞳。
「楽しんで来いよ」
「うん」
僕は、笑って頷いた。
楽しむよ。サクシードと、一生一度のレースだもの。

本馬場に向かう地下通路で、もう一度、良馬と目が合った。
真摯な眼差しに、頷いた。
『勝つよ、絶対に』

スタンドの大歓声にも、サクシードは落ち着いている。
僕はわざと、スタンドが見えるギリギリの所まで返し馬をした。
「サクシード、あれだけの人たちの前で走れるんだよ。すごいよね」
サクシードは、また、スタンドを見ている。

ゲートインが始まる。
どの馬も、わりに落ち着いて入っている。
佐井さんのセントエクセルが最後だ。
セントエクセルが、入ったのを確認してすぐに、ゲートが開いた。
ものすごい歓声が僕たちを襲うけれど、もう蹄の音しか聴こえない。

「サクシード、今日は、ゆっくりいこうね」
三千メートルという距離を意識して、どの馬も淡々と走っている。
背中に秋の陽が射して、自分の影を踏むように、十八頭の馬たちが淡々と走る。
スタートしてすぐに、生垣。
内回りと外回りとを隔てるそれは、二周目にはポイントとなる場所だ。
その生垣が切れたところで、前が開く。
そして続く最後の直線四百メートルには坂が無い。
瞬発力のある馬なら、ここで最内に突っ込んで、その脚を生かすことが出来る。
僕ももちろんそうするつもりだけれど、光岡さん、佐井さんも、その乗り方は抜群に上手だった。ビデオで見た過去のレースが次々に浮かぶ。
光岡さんが仕掛けるとき、佐井さんも動く。
僕は?
僕は―――

二周目の三コーナーが近づいた。
上り下りの急な坂。ここを過ぎて、直線に入る前が、大事な仕掛けどころ。
「サクシードゆっくりでいいよ」
サクシードを抑える。
「あとで、思いっきり走らせてやるから、ここはゆっくり、ね」
サクシードは、僕の言葉がわかるように、首を低くしてゆっくりと坂を下りていく。
僕は、あえてサクシードを下げた。
『たとえ長丁場の菊花賞でも、最後の四コーナーでは先頭集団にいないとキツイ』
お祖父ちゃんは、そう言った。
今までの馬はそうだった。
でも、サクシードは違う。
サクシードは、この前のセントライト記念で、ものすごい脚を使った。
走りたくてしょうがなかったサクシード。あの時は、びっくりしたよ。
でも、疲労が残ってないはずがない。
一瞬だ。
最後の直線四百メートル。
その間だけ、この前と同じ走りを見せて、サクシード。

光岡さんが動いた。
佐井さんが、その内を突く。
生垣の切れた空間に、針の穴を通す正確さで、セントエクセルが突っ込んでいく。
僕は―――そのまた内を狙う。

開いた―――

四コーナーで最後方まで下げていたサクシードの、前がぽっかり開いた。
生垣に擦れそうになりながらギリギリに回って、直線にはいる。
中団にいた馬は、抜き去った。
そして、先頭集団を襲う。
その先には、金色の馬―――――。

坂の無い、真っ直ぐな道。サクシードの一完歩、一完歩が菊花の道を踏みしめる。
セントエクセルに近づいて行く。
最後の百メートルで並んだとき、セントエクセルはもう一度伸びたけれど―――
―――サクシードは、その横を風のように疾(はし)りぬけた。

《その白き征矢は風になる》

サクシードは、黒い矢となって―――風になった。



「おめでとう」
「おめでとう、駿」
「やったな!」
「ハラハラさせないでくれ」
「おめでとうGT初制覇」
「最後は、ものすごかった」
「化け物だよ、サクシード」
「おめでとう」

後検量を終えた僕は、たくさんの人に取り囲まれてぐちゃぐちゃになった。
小川さんは、ボロボロ泣いている。
「よかったですねぇ、坊っちゃん」
「サクシードも、よくやってくれたよ、ホント、えらい奴だよ」
遠藤さんも泣いている。
実際にサクシードを育ててきた二人だ。
橘のお祖父ちゃんは、僕の背中を強く叩いて
「三コーナーで下げた時は、故障かと思って、寿命が縮んだぞっ」
と皺だらけの顔を歪めて怒鳴った。
「ごめん、お祖父ちゃん」
「駿、おめでとう」
「お母さん」
「こんなに早くGT取っちゃって、帰ったらお父さんが大変だわ」
微笑むお母さんも、目が赤い。
「お父さんが、サクシードに競馬を教えてくれたからだって言うよ」
「そんなこと言ったら、泣いちゃうかもよ」
「お父さんが?」
それはちょっと、面白いかも。
「駿」
検量を終えた佐井さんが、握手を求めてきた。セントエクセルは、二着だった。
「完敗だ。サクシードにも、駿にも」
「佐井さん」
ぎゅっと、僕の手を握って言った。
「今度は、俺が追いかける番だな。待ってろよ」
「佐井さん」
胸が熱くなって、そして、僕は、ようやくあのことを思い出した。

『菊花賞に勝ったら……』

良馬の姿を探した。
人が多くて、わからない。
「ちょっと、すみません」
「どうしたの?」
「あの…」
お母さんを振り返って
「良馬は?」
「あら、さっきまで一緒にいたんだけど」
僕は、慌てて良馬の姿を探した。

いない?

何で?

そこに、山本さんと天城さんが、人の波をかき分けてやって来た。
「駿君」
天城さんが、ちょっと困った顔で近づいて囁いた。
「あの、良馬君が」
「良馬が?」
思わず声がうわずった。
「用があって帰るけれど、おめでとうって、伝えてくれって……」
「え?」

何で?

頭が真っ白になった。




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