SucceedL 良馬 セントライト記念の祝賀会以来、駿とは会っていない。 駿は、関西に行ってあっちのレースに騎乗している。 『菊花賞までに、できるだけたくさん、京都競馬場で乗りたい』 そう言っていた。 俺のほうも大学が始まると、そうそう休んで出かけるわけにもいかない。 駿のことは気になったけれど、何となく邪魔をしては悪い気がして、電話もかけていなかった。 * * * 「藤木、来てるんなら、部室寄っていけよ」 授業が終った後、福永が俺を呼び止めた。 「最近、来ないじゃん」 「あ、ああ、悪い」 何となく駿の話題がしづらくて、ウマ研の部室にも顔は出していなかった。 「別に、悪かないよ。どうせ午後の授業も一緒だろう。部室で昼飯とろうぜ」 「ああ、そうだな」 八号館の地下では、相変わらず安さんが、その部屋の主のようにくつろいでいる。 「お、藤木良馬ぁ、久しぶりだな」 「安さん、俺たち出前頼みますけどどうします」 福永が、定食屋のチラシを出しながら言うと 「俺は、もう食ったよ」 机に置いてあるカップラーメンの容器を指した。 「カップラーメンかぁ、なんかワビシイですね」 「田村なんか、ポテチが昼飯だぞ、金なくて」 「カロリーだけは、思いっきりありそ……ま、ここのところ、皆、外しまくりだから。GTシーズン始まったっていうのに」 ヘラッと笑って椅子に座ると、福永は携帯を取り出した。 「じゃ、俺たちはゴーセーにいくか」 学生向け激安定食のメニューを見ながら、福永が言った。 「GTといえば」 安さんが、俺の顔を見た。 「良かったな、橘駿、秋華賞も出るそうじゃねえか」 「え?そうなんですか?秋華賞?」 俺は、驚いて聞き返した。 「なんだ、知らなかったのか」 「ええ」 知らなかった――駿は、何も言ってこなかったから。 「抽選通った馬で、まあ、掲示板に乗るのはちっと難しいだろうけど、翌週の菊花賞のことを考えたら、京都でGTを経験するってなぁ、いいことだ」 「そう、ですね」 正直、ショックだった。そんな大切なことを知らない自分に。 「菊花賞かぁ。あの橘駿と、俺たち合宿で一緒だったんだよな。そういや、この間のセントライト記念、凄かったよな」 福永が嬉しそうに言う。安さんも、読んでいた新聞を置いて話に乗ってきた。 「ああ、あんなレース、もう二度と無いぜ。あのときのサクシードには何か取り憑いていたみてぇだよ。化け物だ」 「菊花賞、どうっスかね」 「どうかな、休み明けにあの疾走だ。あの雨の中あれだけ走ったんだから、反動が出てもおかしくないが」 「反動か」 「いや、わからないがな。本当に化け物かもしれないし。あの脚がホンモノなら他に敵はねえよ」 「そうなったら、橘駿もGT初勝利か」 ふいに、俺のほうを向いて 「よかったな、藤木」 福永は、人の良さそうな顔で笑う。 「ああ」 俺は、何とか笑うことが出来た。 ウマ研の部室に足が遠のいていた理由は、これだ。 ここでは、皆が駿の話題をする。それを聞くたびに、俺は自分が駿と違う世界に生きていることを痛感する。 あのセントライト記念の後、駿を取り巻く環境は、加速度的に変化していった。 天才ジョッキー、ターフの天使、競馬界のアイドル、ポスト佐井猛流――駿には様々な形容詞がつけられ、マスコミに登場することも多くなった。 先週発売された駿の写真集が、駿の人気に拍車をかけたらしい。 写真集のことも、俺は知らなかった。 北海道の牧場で会ったカメラマンがそんな話をしていたが、駿からは何も聞いていない。 だから、それを書店で見つけたときには、驚いた。 女子高生がきゃあきゃあ言うのを眺めながら、かなり長い間悩んで、その写真集をレジに持って行った。 あの時のことを思い出すと、今でも恥ずかしい。 写真集も、秋華賞も、駿にとってはわざわざ言うほどのことじゃない――この俺には。 そういう風に思うと、ほんの少し胸が痛んだ。 「藤木、どうしたんだよ」 福永が、俺の顔をじっと見ている。 「あっ、いや」 「ぼうっとして……考え事?」 「なんでも、ないよ」 ふふふん、と福永は笑って目を細めると、小声で囁いた。 「橘駿のこと、考えていたろ?」 「……ちがうよ」 「隠すなよ」 「ちがうって」 「おい、何、急にコソコソしてんだよ」 俺たちの会話に、安さんが不審気に眉を顰める。 「いえいえ、ちょっと」 ふざけた福永はまたいつもの『秘密のアッコちゃん』のテーマソング(だと、教えてもらった)を歌う。 (こいつは、全くわかっていない) そう思ってムッとしたが、それが八つ当たりだということも俺には十分わかっていた。 * * * ウマ研の部室を出て、午後の授業をひとつだけ受けたあと、俺の足は何故だか、グラウンドに向かった。 理由はわからない。 しいて考えれば、駿が自分の世界で頑張っている様子を目の当たりにして、自分がかつて命を燃やした世界に郷愁を感じたのかもしれない。 走れなくなって、もう直ぐ一年になる。 もう、あの頃の自分と向き合っても、胸が痛むことも無くなった。 ―――それを、はっきりと確かめたかったのかもしれない。 陸上部の練習しているグラウンドに立つと、懐かしい風景が目にはいる。 今も新人マネージャーが手入れしているのだろう、トラックの白線がくっきりと浮かび上がっている。その上に散る白と紺のトレーニングウェア。思い思いに柔軟をする選手達の鍛えられた肢体。 よく知る顔と、見知らぬ顔。 「藤木!」 ふとこっちを見た一人の学生が、叫んで走って来た。 「よう、水本」 水本渉(わたる)は長距離の選手で、短距離だった俺とは種目は違ったが、それでも高校時代から大会などで互いに顔を知っていて、他の体育会系運動部に比べて横のつながりの少ない陸上部では珍しく仲の良かった一人だ。 それも、俺の足の怪我以来、すっかり交流が途絶えていたが――もともと、陸上でつながっていた仲だから、陸上を離れると接点がなくなるのはしかたない。 「久し振りだな、元気か?」 「おかげさまで」 「足は?」 「前のように走るのは無理だけど、日常生活には、なんの支障も無いよ」 「そうか」 水本は、心配そうにほんの少し寄せていた眉を大きく開いて破顔した。 「お前がやめたあと、たまに見かけたんだけど。なんか声かけづらくてさ……悪い」 相変わらずのスポーツマンらしい爽やかさに心が和む。 もっと早く会いにくれば良かった。 「こっちこそ。ちゃんと挨拶もしないで悪かったよ」 「いや」 と、水本は何か思い出したような顔をして 「そういや、今年の一年に、お前によく似た奴がいるんだよ」 と言った。 「俺に?」 「ああ、柴咲俊って言って」 「シュン……?」 「ああ、俊敏の俊。短距離だよ」 グラウンドを振り返ると 「ああ、今から走るから。あいつ。手前のリストバンド付けているほう」 目で指す。 駿と同じ名前だというのがなんだか気になって、その姿を追うと (あっ……) 確かに、以前の俺と――正確には高校時代の俺と――よく似たフォームの選手だった。 「似てるだろ?」 「ああ……」 走り終わっても納得いっていないようなその表情を見ながら、ひどく懐かしい気持ちになる。 「最近、ちょっとスランプらしくてさ」 「前傾……」 「え?」 「スタートの時の…体重のかけ方が悪いんだよ」 思ったことを呟いたら、水本がいきなり叫んだ。 「俊っ!ちょっと来い」 三年の先輩に呼ばれた一年坊主は、ダッシュでやって来た。 「水本?」 俺が驚いて見返すと、水本は、また爽やかに笑って言った。 「今の、教えてやってくれよ。俺は、長距離だから、そのへんのことはアドバイス出来ないから」 「そんなこと言われても」 俺は一瞬躊躇したが、駿と同じ名前の少年が 「あっ、はじめまして。藤木先輩ですよね。ですよねっ?俺、中学のとき先輩のインターハイ見て、すげえ感動しました」 興奮気味に瞳を輝かして見上げてくるのを、むげには出来なかった。 「まず、名のって挨拶しろよ」 水本にポカリと殴られて 「あ、すみません。俺、柴咲俊(しばさきしゅん)って言います。みんなからは、シュンって呼ばれてます」 「シュン……」 「はい」 口に出すと、別の顔が浮かんで、俺はごまかすように息をつくと水本に向かって言った。 「部外者が、下手な指導するとコーチが嫌がるだろう」 「まさか。この間だってコーチが言ってたんだぜ。藤木に戻ってきてもらってシュンとか今年の一年の指導をしてもらえるといいのにって」 「それこそ、まさかだろう」 「コーチに聞いてみろよ」 「藤木先輩、お願いします」 「いや…その」 そして、その日はコーチに許可をもらって、柴咲俊のトレーニングに付き合った。 コーチが一も二もなく喜んでくれたのは、気恥ずかしかったが、ありがたかった。 「このまま、後輩の指導にあたってくれないか」 帰り際、コーチに遺留され、 「そうですね」 と思わず応えそうになったのは、久し振りのグラウンドに気持ちが高揚したのと、自分のアドバイスで確実に良くなる柴咲の変化が嬉しかったのだ。 「あ、いえ」 慌てて、訂正すると、 「そのうち考えてくれよ」 コーチは笑い、 「また来てください。お願いします」 柴咲は深く頭を下げた。 SucceedL 駿 菊花賞に勝って、良馬に自分の気持ちを伝える。 セントライト記念の表彰台に立って、そう決心した。 今、僕はこのことで必死になっている。 過去の菊花賞のビデオを何度も何度も繰り返して見た。 やっぱり、佐井さんの騎乗は凄い。けれど、光岡さんも、関西だけあって京都競馬場には強い。 先輩たちの騎乗を参考にして、自分とサクシードの騎乗をシュミレーションする。 『抑えて下り抑えて上る』という三コーナーの坂越えがポイントだ。 3千メートルの長丁場は、馬の力だけじゃない、騎手の力も試される。 経験の浅い僕には、大きな試練。 「でも……絶対、勝つ」 勝って、サクシードに三冠の一つをとる。これが最後のチャンスなんだから。 そして、良馬に告白する。 何故だか、菊花賞に勝てれば、僕のこの想いも成就するような、そんな気がしていた。 良馬に他に好きな人がいても。 まだ、亜矢子さんのこと好きでも。 ―――頑張るよ。 良馬とは、あのセントライト記念から後、会ってない。 僕が関西に来てしまったのと、良馬の大学が忙しくなったのが理由だ。 しょうがない。 これが終わったら、菊花賞が終わったら――また、良馬と会えるようになる。 それまで、ちょっと寂しいけど我慢しよう。 「よっ、ターフのアイドル」 一日の騎乗が終わって帰り仕度をしていると、山本さんが相変わらず飄々とした姿で現れた。 「やめて下さい。僕がそう言われるの嫌だって知っているでしょう」 「人の嫌がる事を進んでしなさいって、幼稚園でミドリ先生に教わったんでねぇ」 「ばっかじゃないの」 「口悪くなったな、お前」 「山本さんみたいな大人に囲まれているからですよ」 そう応えたら、後ろからクスクスと笑い声がした。 「天城さん」 「なんか、いいコンビだよね。二人とも」 天城さんには、先日出来上がったという写真集を発売前に貰っていた。 恥ずかしくて、良く見ていない。 「駿君の写真集、おかげさまで良く売れて、重版決まったよ」 「ええ?」 僕は、嫌な顔をしたらしい。 「なんで、そんな顔するんだよ」 山本さんが、コツンと僕の頭を叩いた。 「だって……」 唇を尖らせると、天城さんはいつもの柔和な目で笑う。 「自分でも、いい写真集が出来たと思ってるんだけどね。駿君には、気に入らなかったかな」 「あ、いいえ。そういう意味じゃないんです。すみません」 ただ、恥ずかしいだけ。 「そういえば」 天城さんが、僕の耳元に顔を近づけて小声で囁いた。 「一番好きな人には、見てもらった?」 かあっと顔が熱くなった。 良馬には、写真集の話すらしていない。 天城さんに事前にもらったとき、確かに良馬の顔は浮かんだけど、やっぱり渡すのは恥ずかしかった。 これも、菊花賞が終わってから――何だか、全部菊花賞にこじつけている気がするけれど。 「……いいえ」 小さく首を振ると、 「ダメじゃない」 天城さんは笑った。 「何だよ、何の話してんだ?」 「ヤマさんには関係ないよ」 「何ぃ?俺が、駿につないでやったんだろ。印税よこせよ」 「なんで、そこで印税の話になるかな」 「今、カネが無いから」 「いつもじゃないか。それが、僕のせいだと?」 言い合う二人を見て思った。 (この二人だって、いいコンビだ) 「秋華賞?」 お父さんの言葉に、僕は驚いて聞き返した。 「僕が?」 「ああ」 「プリンセスドリーム?」 「バカ言え。なんで、俺のお手馬をお前に譲るんだ」 お父さんは、あからさまにムッとした。 「そうだけど、じゃあ、何?」 「高橋オーナーのところのサンデーラピスが抽選に通ってね」 「あっ……」 「お前、一度調教つけてやった事あるだろう?それで、あそこのテキ(調教師)がお前にってさ」 「うそ……」 サンデーラピスの河野厩舎は、うちのお祖父ちゃんの厩舎じゃない。当然、そこにもお抱えの騎手はいるのに。何で、他厩舎の新人に乗せてくれるんだろう。 僕は、信じられなくてぼうっとした。 「河野のテキも、若い時からうちのジイさんの世話になってるからな。まあ、お前を応援してやろうと思ってくれたんだよ」 「え?」 それって…… 「ひょっとして、お祖父ちゃんが河野先生に頼んでくれたのかな」 「だったら、何だ」 「そんな……悪いよ」 ただでさえ、七光りって散々言われてきている僕だ。 「バカか、お前は。たとえ頼んだところで、力がなけりゃ乗せてなんかもらえないよ」 「お父さん?」 「オーナーだって、高い追加登録料払ってんだ。ボランティアで乗せてやるって言ってんじゃない」 お父さんの顔が真剣になる。 「お前で、勝てるかもしれないって思ったから、乗せてもらえるんだ」 「お父、さん……」 胸が熱くなった。 「堂々と乗れよ」 「うん……うん……」 お父さんの大きな手が、僕の頭をぐしゃぐしゃと掻きまわす。 いつもなら、子ども扱いするなって振り払うところだけど、今日は、なんだかいつまでもそうして貰いたかった。 菊花賞の前に、思ってもいなかったGTに乗れる。 僕は、やっぱり恵まれている。 でも、そのことに素直に感謝しよう。 そして、少しでも期待に応えられるよう、精一杯努力しよう。 「なんだ?お前、泣いてるのか?」 「な、泣いてないよ、何言ってんだよ」 精一杯、努力しよう。 それから、僕は毎日が、目が廻るほど忙しかった。 少しでも京都競馬場を知りたくて、空いた時間は何度もコースを歩いた。 秋華賞と菊花賞は同じ芝でも、三、四コーナーでは内と外でコースがちがう。 それでも、菊花賞の前に京都のGTを経験できるのは、本当にありがたかった。 だからといって、秋華賞を捨石にする気なんか無い。 サンデーラピスを、勝たせたい。 心から、そう思っている。 秋華賞の追い切りを済ませて、自動販売機のコーヒーを飲んでいると、佐井さんが歩いてきた。 「駿」 「あっ、佐井さん。おはようございます」 「気合入ってるな」 「そうですか?」 「イレ込んでるって言ってもいいかも」 「え?ラピスが?」 そんなはずないけど。 「いや、橘駿」 「ヒドイ」 僕が唇を尖らすと、佐井さんは楽しそうに目を細めた。 「一週早く、対戦することになったな」 「はい」 でも、佐井さんのシャングリラはローズステークスを圧勝して、今回の秋華賞では大本命の一番人気だ。 「プリンセスドリームもでるし、親子対決もあって大変だな」 「ひどいんですよ、昨日から」 お父さんのことを思い出して、僕はちょっと吹き出した。 「突然、家庭内ライバル宣言なんかしちゃって、僕のサンデーラピスがドリームに先着したら、正月ハワイに連れて行くから、逆だったら、僕がそうしろって」 「そうしろって、ハワイ?」 「そうです。ドリームは桜花賞二着馬ですよ」 どう思います?と目で訊ねると、佐井さんは明るく笑った。 佐井さんには、良馬のことを思いがけず打ち明けてしまって、かなり顔を合わせづらかった。でも、フランスから戻ってきても、佐井さんはそのことには何も触れないで自然に接してくれた。 嬉しかったし、ほっとした。 佐井さんとの宿題は、菊花賞の後。 上手くいったら、やっぱり報告した方がいいのかな――とか、考える僕は、ここのところすごく楽天的になっているのかも。 そして、その秋華賞――別名『橘家ハワイ旅行スポンサー決定戦』――は、大方の予想通り佐井さんのシャングリラが圧倒的な強さで勝って、お父さんのプリンセスドリームが三着。僕のサンデーラピスは惜しくも五着だった。 「掲示板にのっただけ、大したもんだ。ありがとう」 河野先生も、高橋オーナーも喜んでくれたけど、僕はお父さんのニヤニヤした顔を見て、ちょっとムッとしていた。 「正月、楽しみだなあ。親孝行な息子を持って、嬉しいよ」 「この借りは、絶対返すからね」 「言ったな」 「サクシードで有馬出るから。お父さんも出られるようにしておいてね」 「にゃにおう」 生意気な、と僕の頭をグリグリと掻きまわす。 今日は勘弁して欲しかったので、その手を叩いた。 ふと、もう何日も良馬と話をしていないと思った。 けれど、後一週間だ。 菊花賞には、応援に来てもらおう。 そうだ、今日のこと伝えたいし、新幹線の切符も送りたいし、明日、電話しよう。 お父さんの手を振り払いながら、僕はふわっと幸せな気持ちになった。 |
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