SucceedK 駿


みゆきファームからサクシードが帰って来た。
「お帰り、サクシード」
馬運車から姿を見せたサクシードに駆け寄ろうとして、一瞬足が止まる。
大きい。大きくなった。
牧場で見ていたときは、放牧で太くなったものだと思っていたけれど、運動して引き締まった身体も、春より二廻りは大きくなっている。
悠然と降りて来る黒光りする馬体に、圧倒された。
「サクシード……」
サクシードは僕を見つめて、ゆっくりと尻尾を振った。
「遠藤にあっちに行ってもらってよかった。みゆきファームは設備が整っているから、調教も不自由が無くていい」
「うん」
お祖父ちゃんの言葉に頷いて、改めてサクシードを見る。
「お帰り」
サクシードの首を撫でると、じわっと気配が伝わる。
「走りたいんだね」
サクシードの首がゆっくりと上下に動いて、前足が軽く土を蹴る。
サクシード、僕も走りたいよ。お前の背中で。
「サクシード、もう一度、風になろうね……一緒に」


月曜日。
良馬が美浦にやって来た。
「貫禄が出てきたな」
サクシードを見て感嘆の声をあげる良馬に、嬉しくなった。
「でしょう」
「復帰第一戦は?」
「セントライト記念」
「セントライト?」
「菊花賞のトライアルレースだよ。中山のGU、芝コース2200m」
「そうか、そしてその次は菊花賞が待ってるんだよな」
「うん、だから、トライアルでは負けられない」
「そうだな」
見つめる良馬の瞳が優しくて、つい、うっとりしそうになる。
けれども、僕はレースの時に――ううん、馬に乗るときにはいつも――絶対に集中するって決めた。
あのアイネプリンスのことがあって、僕は、もう馬と一体になれない気がした。
良馬のことしか考えられなくて……
でも、帰って来たサクシードを見て、反省した。
僕が、ウジウジと悩んでいた間に、サクシードはこんなに立派になっていた。
春よりずっとずっと成長して、僕が乗るのを待っていた。
サクシードに会って、僕がこれじゃいけないって思ったんだ。

良馬のことは、今でも苦しいくらい気になるけど。佐井さんとの約束も気になったけど。でも、佐井さんは以前の僕に戻れって言ってくれたんだから……たとえ、良馬に告白できなくても、以前の僕に戻ったら、許してくれるよね。

良馬が、僕の目の前でその大きな手をひらひらと振った。
「あ、っ」
「どうしたんだよ、急に黙って」
「なんでも」
「またレースのこととか考えていたんだろう」
「う、うん」
「その、セントライト記念には佐井も出るのか?」
「えっ?佐井さん?」
何で?
『俺に言ったとおり、良馬に言うんだよ』
良馬に気持ちを伝えろって言った佐井さんの顔が浮かんで、ちょっと顔が熱くなった
「ううん。佐井さんは、そのときは関西のほうだから……たぶん」
同じ日、阪神のローズステークスに出る予定だし、セントエクセルは神戸新聞杯からだって言っていた。
「……そうか」
良馬は、何故かつまらなそうに横を向いた。
佐井さんの……ファンなのかな?
「菊花賞には当然乗るよ、佐井さん。セントエクセルに」
「あ?ああ」
「今度こそ、勝ちたい。佐井さんに」
皐月賞では届かず。ダービーは戦えなかった。
三冠の最後のレース『菊花賞』で、僕は、佐井さんに勝ちたい。

『駿。俺はダービーで勝つ。サクシードが出てこないのに、他の馬に負けるわけにはいかない。セントエクセルでダービーを取るよ』
佐井さんは、ダービーの前に僕にそう言った。
今は、僕もその気持ちだ。
佐井さんのセントエクセルが出てこないトライアルでなんか、絶対に負けられない。

「僕、勝つよ」
「駿?」
「絶対に、今度のセントライト記念、勝って菊花賞に行く」
「駿……」


* * *

中山 11レース 芝コース2200m『ラジオ日本賞 セントライト記念』GU

その日は、生憎、朝から小雨が降っていた。
「久し振りのレースだから、出来れば良馬場で走らせてやりたかったな……」
でも、サクシードなら大丈夫だ。
僕は、サクシードを信じている。
あの日――初めてサクシードと走った弥生賞――僕のデビューの日。あの時の気持ちが甦る。
良馬と再会できたのも、あの日、この中山で。
胸が、きゅっと痛んだ。でも、今のは、苦しいと言うよりも痺れるような甘い痛み。
今日、良馬は、メインレースのセントライト記念を馬主席で見る。
北海道のお祖父ちゃんに頼んで、そうしてもらった。僕は、良馬にどうしても応援して欲しかった。
『そんな、馬主席とかじゃなくても、ちゃんと応援するよ』
良馬はそう言ってくれたけど、
『ううん、お祖父ちゃんが、一緒に見ようって言ってくれているの。お願い』
僕は、一番よく見えるところから最初から最後までずっと、良馬に見て欲しかった。
『じゃあ、スーツじゃないとマズイかな』
『あ、そうだね。でも、良馬がよければ、何でもいいよ』
良馬が来てくれれば、それでいい。
『なるべくリクルートっぽくないのにするよ』
良馬は優しく笑った。


第三レースでは、前田と一緒になった。
僕は、なるべく前田には近づかないようにしているんだけど、あっちから絡んでくるんだよね。今日も、ジョッキールームでわざわざ寄ってきた。
「よう、サクシード、復帰できて良かったな」
本心かどうだか分からないけれど、一応
「ありがとう」
無愛想に応えると、前田は嘲るように囁いた。
「また骨折しないように気をつけろよ。今日は雨だし」
ムッときて振り向いたけど、ここで喧嘩していたら、前と同じだ。
僕は、ニッコリ笑って見せた。
「ご忠告ありがとうございます。前田さんも、気をつけて下さいね」
そして続けて、声をひそめて言ってやった。
「せっかくまたプレシャスに乗せてもらえたのに、ここで下手をしたら、また降ろされますからね」
その瞬間、前田が、顔を歪ませて僕を睨んだ。とっさに声も出せないくらい怒ったようだ。
それを無視して、その場を立ち去る。
ちょっと、ううん、かなり嫌な言い方だけど、わざとだもん。
皐月賞の日、ここで前田にやられたこと―――僕は忘れてない。


メインのセントライト記念のころになっても雨は止まず、馬場状態は、やや重から、重(おも)になっていた。
今日これまでに、僕は、七レース乗った。
馬場状態のかなり悪いところも、まだマシと言えるところも、一通り見ることが出来た。
サクシードには、雨のレースの経験がない。
あまり後ろにはつけないで、馬場のいい所を選んで走らせよう。

パドックを周回するサクシードを見る。
気合十分。雨も特に気にしていない。これならいけるね、サクシード。
「とまーれぇー」
停止の号令が、雨を震わせ響く。
僕たちはそれぞれの馬に跨って、そして本馬場へと続く地下馬道へと向かった。
「駿」
「あっ」
お祖父ちゃんの隣に良馬がいた。スーツ姿だ。キマってる。
「頑張れよ」
片手を小さく上げて微笑む。
「うん」
話をする時間は無かったけれど、

『頑張れよ』

これだけで、十分だ。

良馬の言葉を胸に繰り返して、一歩一歩、本馬場へと近づく。

うん、がんばるよ。そして、絶対に勝つ。
勝って、菊花賞に行く。
佐井さんに勝つには、こんなところでは負けられないんだ。


輪乗りの間に、雨がまた激しくなって来た。
「重じゃなくて、不良だな」
児島さんが呟いた。ポケットから替えのゴーグルを出している。
僕も、ゴーグルが汚れたときのために、二つ重ねた。
さっきまでゆっくりと歩いていたサクシードが、輪から離れて立ち止まった。
じっと立ち止まって、そして、スタンドを見ている。

帰ってきたと――わかるんだ。

前田の剣呑な視線も、井守さんや児島さんが気にしてチラチラ見るのも感じたけれど、僕は黙って、サクシードのしたいようにさせた。ゲート入りが始まるまで、サクシードはそこに佇んでいた。
こんなに気持ちが落ち着いて乗れるのは、久し振り。
やっぱり、僕にとってサクシードは、特別な馬だ。

華やかなファンファーレが鳴り響いて、スタンドで傘の花が揺れる。
サクシードの首を叩くと、サクシードはゆっくりとゲートに入った。

「いくよ、サクシード。ここが開いたら、飛び出すんだ」

ガシャン

耳慣れた音と共に、ゲートが開く。
ポンとスタート良く飛び出したサクシードを軽く押さえて、中団のやや前よりに待機させる。
この位置だと外の方を廻るようになるけれど、内は馬場がかなり荒れていた。
なるべく馬場状態のいい所を走らせたい。

一コーナーを廻って、サクシードが行きたがった。
「まだだよ」
軽く押さえたけれど、ちょっとだけ不安になった。
(まさか……かかっているのかな)
サクシードに限って、とは思うけれど、何しろレースには半年近いブランクがある。
(ダメだ――サクシードを信じないと――)
二コーナーを過ぎて、またサクシードが行きたがった。
ハミを外して遊ばせたのに、自分からハミを噛んでくる。
「どうしたんだよ。サクシード」
まだ、仕掛けるには早い、最後のスタンド前の直線まで待つんだよ。
でも、サクシードは……行きたがっている。
どうしたんだろう。
不安になる僕の顔や肩を雨が激しく打つ。
前の馬の蹴った泥が身体に当たる。
(どうしよう)
こんなところで仕掛けたら、この不良馬場で、サクシードの脚が最後まで持つかどうか……
そう考えた時、前からとんで来た土が、僕のゴーグルをビシッと打った。
「いたっ」
瞬間、サクシードに怒られたような気がした。
「あ……」
サクシードを信じると言いながら、僕は……
「ごめん、サクシード」
僕は前の見えにくくなったゴーグルを外すと、二つ目のゴーグルをしっかりと顔に合わせて手綱を持つ手に力を込めた。
サクシードが行きたがっているんだ。
僕は、サクシードを信じてる。
「行きたいなら、行こう」
どこまでも、一緒に行くよ。サクシード。
ハミをかけると、サクシードは一気に加速した。
まだ三コーナーも手前と言うのに大きく抜け出したサクシードに、遠くのスタンドからどよめきが聴こえた。
一歩、また一歩。
サクシードの大きな身体がひと駆け毎に宙に舞うような、そんな気がした。
(速い……!)
まるで、ジェット機のコックピットにでも乗っているような、そんな感じ。
(凄い……サクシード)
他の馬には影も踏ませず、サクシードは早々と先頭に立つと、大きく差を広げていった。
振り返ったわけじゃない。
このときの僕に、そんな余裕は無い。
他の馬の気配が、普段、常に背中で感じているそれが、全く無くなったから、サクシードがどんなに強い走りをしているかを感じただけだ。

僕は、ただ、サクシードの背に乗って、震えるほどの走りを全身で感じていた。

再びスタンドの前に戻って来た。
最後の短い坂を駆け上がり、掲示板を駆け抜けたとき、割れるような歓声に、気が遠くなりかけた。
自分でも、何が起こったのかわからない。
習慣のように検量室に入って、小川さんがレコードだと叫んでいるのを聞いた。
「レコード……?」
そんなことが、あるだろうか?
不良馬場でのレースレコード。
検量が済んでも僕はぼうっとしていた。
皆が口々に何か言いながら、握手を求めてくる。
勝利ジョッキーインタビューは、何を答えたのかすら覚えていない。
ぼんやりした頭に、突然、その声だけがはっきりと響いた。
「駿!」
良馬が駆け寄ってきた。
「駿!凄い、凄かったよ」
良馬の顔が紅潮している。
「感動したよ」
そう叫んだ良馬の腕が僕の肩に触れた瞬間、僕は激しい感情に襲われた。
「りょう、っ…」
僕は、叫んで良馬に抱きついた。
良馬の首に両腕をきつく絡めて、顔をぎゅっと胸元に押し付けた。
良馬の胸が温かくて、ボロボロと涙が零れた。
「りょう…りょう、ま…っ」
(良馬、良馬、良馬―――)
訳のわからない激情に押し流されて、僕はただ子供のように泣きながら良馬に縋った。
嬉しくて、感激して、恐くて、苦しくて――誇らしいのと、情けないのと―――
自分でも何が何だかわからないぐちゃぐちゃな気持ち。それに振り回されて、ただ、助けを求めるように良馬に抱きついて泣いた。

「あの、表彰式が始まりますから」

誰かの声に、ようやく顔を上げると、ひどく困ったような顔の良馬と目が合った。
「あっ、や…っ」
顔に血が上る。
ふと見ると、泥泥の勝負服で抱きついてしまったから、せっかくの良馬のスーツが、やっぱり泥だらけになっていた。
「ごめん、なさい」
僕は、うつむいて涙を拭った。

「ほら、サクシードが待ってるぞ」
牧場のお祖父ちゃんが呆れたように言う。
その隣には、
「お母さん……」
僕は、恥ずかしくて死にそうになった。
「おめでとう、駿」
お母さんが優しく言って、タオルで僕の顔を、そして泥に汚れた勝負服――みゆきファームの黄色に赤の三本線――をそっと拭ってくれた。
「表彰台に乗るんだから、綺麗にしないとね」
そして、良馬のほうには、そのスーツを軽く払って、微笑んだ。
「こっちは、クリーニングね。ごめんなさい」
「いえ」
橘のお祖父ちゃんは
「GUの一つとったくらいで、そんなに泣いてどうする」
憮然と言った。けど、お祖父ちゃんだって目が赤いよ。


表彰台に向かって歩きながら、色々なことを考えた。
サクシードは、やっぱり強い。
僕なんか、まだまだダメだ。
乗り役としてふさわしい騎手になりたい。
強い、強い騎手になりたい。

表彰台に立ったとき、ふいに良馬の胸の感触が甦った。
(良馬……)
あの時、弥生賞の時みたいに、ここに立つ僕を見てくれている。
あの瞬間、良馬の声が――聞こえるはずの無いそれが――聴こえて、そうして僕たちは始まったんだ。

そうだ。
いきなり、閃いた。

菊花賞で勝ったら―――佐井さんに勝ったら―――良馬に告白しよう――――













SucceedK 良馬

「あら、今日は何かあるの?」
珍しくスーツ姿の俺に、お袋が訊ねた。
「ん、いや……ちょっと」
曖昧に言葉を濁して、靴を履く。
「いってらっしゃい」
「帰り遅くなるかも」
「わかった。たぶん寝てるから、かぎ忘れないでね」
「うん」

サクシードの復帰第一戦、セントライト記念を見るために中山競馬場に向かう。
わざわざスーツなんか着ているのは、駿のお祖父さんの計らいで馬主席に入る事になったからだ。
生憎の雨模様。
駿は、今、何を思っているだろう。

『今度こそ、勝ちたい。佐井さんに』
『絶対に、今度のセントライト記念、勝って菊花賞に行く』

駿とレースの話をするたびに、駿の後ろに佐井猛流の影を見る。
駿が全身全霊をかけて追い続ける、競馬界のトップ。天才ジョッキー佐井猛流。
写真でしか見たことのないその男に、俺は嫉妬している。
駿と同じ世界に生きているだけでなく、駿が常に目標として追い続けているということに。
俺は、胸が焼けるほどの嫉妬を感じている。


「やあ、良馬くん。久し振りだね」
「その節は、お世話になりました」
駿のお祖父さん、みゆきファームのオーナーは、牧場で会ったときとは違った高級そうなスーツ姿で、それでも人のよさそうな笑顔はそのままに、俺を迎えてくれた。
「その上、今日は、こんな立派なところで観戦させていただけて」
俺が、礼を言おうとすると、
「ああ、ああ、いいんだよ。駿の奴はどうしても君に応援して欲しくてしかたないんだから」
「えっ?」
「それより、深雪」
と、傍らの女性を招いた。
三十いくつくらいだろう、綺麗な女性だ。
面差しが、駿にそっくりだ。
(まさか……)
「はじめまして、駿の母です」
微笑む姿に、一瞬唖然とした。まさかとは、思ったけれど。
たしか、母親は四十歳だと駿は言っていなかったか?
とてもそんな歳には、見えない。
俺が黙っていると、駿の母親は
「北海道にいらしていただいた時、おもてなし出来なくてすみませんでした。あの時は、主人が小倉に行ってたものですから」
申し訳なさそうに頭を下げた。
「あっ、いいえ」
俺も、慌てて頭を下げた。
「とんでもないです。皆さんには、本当に良くしていただいて……」
顔を上げると、駿に良く似た顔が、クスクスと笑っている。
「お父さんの、言うとおりだわ」
駿のお祖父さんに笑いかけた。
「だろう」
二人が笑い合っているのが気になってじっと見ると、駿の母親が気づいて言った。
「ごめんなさい。ここに来るまでに、良馬君のこと聞いていたのよ。駿と二つしか違わないなんて思えないくらいしっかりしているって」
「え」
「本当だわ。駿は、あれで結構気は強いんだけど、甘えっこで、まだ子供みたいでしょう」
「は、あ」
肯定しても、いいんだろうか。
「それに、今まで友達を牧場に連れてくることって無かったのよ」
嬉しそうな笑顔は、やっぱり駿によく似ている。
「どうして、お友達になったのかは不思議なんだけど」
「はい……」
俺も、不思議だ。
偶然出会って、そして、運命的な再会をした。この中山競馬場のウィナーズサークルで。
今日も、駿の姿をあの表彰台に見ることが出来るだろうか。
―――いや、できる。絶対に、駿は勝つ。


午前中降ったり止んだりしていた雨は、午後になると次第に激しくなり、セントライト記念の開始時刻には馬場状態は相当悪くなっていた。
「せっかくの復帰レースだっていうのに、この雨は可哀相だね」
広い窓ガラス越しに空を見上げて、お祖父さんが呟く。
俺は、とにかく無事に走りきって欲しかった。
雨のために滑ったり、接触したりして、駿とサクシードに何かあったらと思うと、気が気で無くなる。
「雨で、中止とかいうことは無いんですか?」
俺が尋ねると、
「朝からこうだったら、あるいは…ね。でも、もう今日は手遅れだよ」
お祖父さんは、柔和に笑った。
「そうですか」
たぶん深い意味は無く使われたのだろう『手遅れ』という言葉が、何となく嫌な予感を生んで、俺はまた落ち着かない思いで窓の外を見る。

スタンドからほど近い場所で、セントライト記念の出走馬が輪乗りをしている。
スタンド前からスタートして、最後またスタンド前を通ってゴールする。
その僅か二分ほどの間に、いったい何が起こるというのだろう。
駿に、サクシードに――そして、このレースに関わった全ての人々に。
俺も、かつては、十秒という瞬間に人生の全てを賭けた。
駿も、この瞬間に、生きることの意味を賭けるのだろう。
胸が痛む。
これも、また嫉妬だ。
ふと見ると、サクシードが輪乗りの列から離れてぽつんと佇んでいる。
(駿?)
けぶる雨の向こうに、黒く光る堂々とした馬体。
(サクシード……たのむ……駿を、無事に勝たせてくれ)


ゲートが開いて飛び出した十三頭の馬たちは、最初の急なカーブまではごちゃついた様子だったが、そこを過ぎたところでそれぞれの位置取りが決まったようだ。
サクシードは、いつもより前に出ている。
「雨だから、前のほうがいいだろう」
お祖父さんが、また、呟くように言う。
俺は、ただ黙ってレースを見た。
コーナーを過ぎて、何度かサクシードと駿の様子が変だった。
専門用語でいうと『折り合っていない』?
(まさかね)
あんなに落ち着いていたんだ、駿もサクシードも。
「かかったかな」
お祖父さんが言うと、母親は小さく応えた。
「大丈夫、駿ですもの」
(駿……)
双眼鏡を握った手に力が入る、その俺の目の前で、駿のサクシードが大きく他の馬を引き離した。
「駿っ?!」
思わず、声がでた。
俺だけじゃない。
馬主席に集まった、多くの優駿のオーナー、その関係者たち、一斉にため息のような声がもれ
「終わりましたな」
知らない男が、隣で呟いた。
「ばかなっ」
小さく叫んだ。

『絶対に、今度のセントライト記念、勝って菊花賞に行く』
駿は、そう言った
トライアルなんかで、負けるわけにはいかない。

「サクシードっ!」

そして、サクシードは、そのまま走り続けた。
雨に煙る2200メートル、その殆どを逃げ切る形で―――
いや、逃げているなどという表現は、ふさわしくない。
サクシードは、自分ひとり別格の疾走(はしり)を見せた。
雨を切り裂くように黒い稲妻が駆け抜ける。
先ほどのため息が、驚愕の声に変わる。
この中の誰もが――自分自身の馬を持っている者までも――サクシードに釘付けになった。

サクシードがゴール板を駆け抜けたとき、身体中が震えた。

「下に行って、駿におめでとうを言おう」
お祖父さんに、肩を叩かれようやく自分を取り戻した。
他の馬主たちが口々にサクシードを誉めそやし、感嘆した声を投げかけてくるが、お祖父さんは、にこやかに頭を下げるだけでエレべ―ターへと急いだ。
その後ろをついて行きながら、次第に身体が熱くなるのを感じた。
(凄かった……)
自分の目で見ても信じられない。


「駿!」
検量室に入れてもらい、駿の姿を見たとたん、思わず叫んでしまった。
「駿!凄い、凄かったよ」
駿が、夢から覚めたばかりのような顔で、ぼうっと振り返る。
「感動したよ」
衝動に駆られてその肩に触れた瞬間、駿のほうから激しく抱きついてきた。
「りょう、っ…」
俺の首に両腕をきつく絡めて、縋りついてボロボロと涙を零す。
初め、何が起きたのか分からなかった。
駿が――たった今、震えるほど俺を、皆を、感動させてくれた駿が――俺に抱きついている。
(駿……)
抱きしめたかった。全身で、包み込むように。
そして、激しく口づけたかった。
けれども、一瞬早く冷静になった俺は、駿の背中を撫でることしかできなかった。
「りょう…りょう、ま…っ」
俺の名を呼ぶ駿が、愛しい。
できるなら、このままずっと抱いていたかったけれど
「あの、表彰式が始まりますから」
無粋な声に、邪魔される。
駿は、顔を上げて、
「あっ、や…っ」
はにかんだように顔を伏せた。そして、俺のスーツの胸に手を滑らせて泥を払うと、
「ごめん、なさい」
うつむいて涙を拭った。
あまりにも可愛らしいその仕草に、また胸が締め付けられたけれど、ぐっと我慢して駿から離れた。
皆が、駿を待っている。
今、この間、駿を独占できたというだけで、身に余る僥倖だ。
(おめでとう、駿)
言い損なった言葉を胸のうちに呟く。
(おめでとう)

そして、今日の勝利をステップに、お前は、また一歩佐井に近づいたんだな。

一ヵ月後の菊花賞―――三冠の最後のレース。
駿は、もうそこに向かっている。サクシードと共に。
表彰台に向かう駿の後ろ姿を見つめ、そして、その先を思う。
駿の輝かしい未来のどこかに、俺の居る場所は果たしてあるのか、と。




HOME

小説TOP

NEXT