SucceedJ 駿

田村さんの口から亜矢子さんの名前が出たとき、一瞬、心臓が止まるかと思った。
そして、会話の中身についてゆけずに頭の中でグルグルと反芻する。
福永さんが、亜矢子さんと?
だって、亜矢子さんは、良馬の恋人だって―――福永さんが言ったんだよ。
同じ名前の人がいるのかな。
でも―――

「藤木、知ってる?国文科の進藤亜矢子」
「え、まあ…よく」
良馬の顔が、何か言いたそうに福永さんを見る。
福永さんは、なんだか気まずそうな顔で、良馬を見返す。
どういうこと?

「うぉっとぉ」
田村さんの叫び声に、はっとする。
目の前に七色の光が降り注ぐ。火薬の匂いが鼻をくすぐって、直ぐに消えた。
「ほら、駿もやろう」
良馬が、微笑む。
どうして?
今の会話は、どういう意味?
聞きたいのに――聞けない。
「どうした?」
「あ、ううん」
良馬から花火を受け取って、ライターの火をつけて貰おうとしたけれど、指が震えて上手くつかない。
どうしよう。
亜矢子さんのこと、今、聞いてもいいかな。
今しか、聞けないんじゃないかな。
「駿?」
「あ、ごめんなさい」
「ひょっとして、寒い?」
「ちが…っ、その、ちょっと、緊張……」
馬鹿、何を言ってるんだよ。
とっさに唇を噛んだら、良馬はふっと優しい顔で笑って
「いいよ。貸して」
僕の手から花火をとると、火をつけて返してくれた。

赤、オレンジ、黄色、緑……次々に変化する光の華を、良馬と二人で見つめる。

隣に立つ良馬のことが気になって、とても花火を楽しむ余裕がない。
佐井さんとの『宿題』も思い出していた。
僕は、良馬に自分の気持ちを伝えるつもりだった。
良馬が好きだということ。
たとえ、はっきり断られても――ううん、亜矢子さんとのことがあるから断られて当たり前だと思っている――それでも、この気持ちを伝えて、はっきりと自分にけじめをつけたかった。
だから、この合宿の帰りに言おうと思っていた。
帰りにしたのは、やっぱり玉砕した後多少は気まずくなることを覚悟していたわけで……
そのためにも、今日一日、思い切り楽しんだんだ。
なのに―――
亜矢子さんが、福永さんと付き合っているって、どういうことだろう。
やっぱり、今、聞いたほうがいいのかな。
聞いて、そして、今、打ち明けた方がいいのかな――僕の気持ち。
良馬を意識したとき、ふっと視線を感じた。
「あ、ごめん」
良馬が僕を見ていた。
「良馬……」
なんだか、夢の中にいるような気持ちで良馬に話し掛ける。
「どうした?」
「良馬……」
「うん」
「あの…さっき言ってた、亜矢子さんって……良馬の恋人じゃないの?」
「えっ?」

僕達はじっと見つめあって――その間、周りの喧騒も消えた。

「なんで、駿が……知ってるんだ?」
驚いた顔で良馬が訊ねる。
気のせいかな、少しだけ声が掠れている。
「福永さんに聞いて……」
「……福永って、いつ?」
「ダービーの日」
良馬は、しばらく黙っていた。
僕も、それ以上何も言えなかった。
どう言っていいのか――わからなくて―――
自分の心臓の音だけがうるさいほど聞こえてくる。
「あの時は」
不意に、良馬が口を開いた。
「確かに、亜矢子と付き合っていたけれど、今は……ちがう」
ちがう?
僕は、何か言おうとして言葉にならず、ただ唇を震わせた。
「亜矢子は、今は、福永の彼女だよ」
良馬が微笑む――ほんの少し切なそうに。
「あ……」
亜矢子さんのこと、今でも、好きなのかな。
「あの……」
「ん?」
僕の顔を覗き込むように首を傾けた。
「今……」
今でも、亜矢子さんのこと、好き?
どうして、別れちゃったのかわからないけれど――今でも――?
「何?駿」
促されて、ようやく言葉が口をつく。
「今、好きな人……いる?」
じっと見ると、良馬はちょっと困ったように眉を顰めた。
しばらく黙ったまま僕を見返していたけれど、低い声で言った。
「いるよ」
心臓が、抉られるように痛んだ。
僕の痛みがわかるかのように、良馬も辛そうな顔をした。
「ごめん、なさい……変なこと聞いて」
もし、まだ良馬が亜矢子さんを好きだったら、こんな酷い質問は無い。
そして、亜矢子さんじゃないにしても、良馬には好きな人がいる。
わかっていたのに、胸がズキズキと痛んで、耳の後ろがガンガンする。
「駿?」
「あ、ごめ…んなさ……」
どうしよう。泣きそうだ。
そこに、田村さんたちの声がした。
「何してんだよ、そんなとこで」
「二人っきりなんて、アヤシイっすよぉ」
「何言ってんだ、桜井、この酔っ払い」
両手に花火を持って、賑やかに近づいてくる。
突然、喧騒が戻って、時間が流れ始めた。
「ホラホラ、駿くんも、花火持って」
「こっち、来てよ」
「あっ…はい」
良馬を見上げると、ちょっとだけ困ったような顔で笑って頷いた。
皆と一緒に、砂を踏みしめながら、海辺の方に歩く。
「足元、気をつけろよ」
「うん」
そう応えながらも、砂に足を取られてよろけると、良馬の腕が支えてくれる。
「だから、気をつけろって」
「うん」
僕は、タイミングを逃してしまったことを知った。
亜矢子さんがいても、はっきり伝えるつもりだった。自分の気持ち。
なのに、その亜矢子さんと別れたと知って、かえって言えなくなった。
恋人と別れたばっかりのときに言うのって、すごくズルイ気がする。良馬の気持ちにつけ込むようで―――何より、そういう風に良馬に思われるのが嫌だった。

『今、好きな人……いる?』

『いるよ』

わかっていたのに、辛かった。


* * *
僕は、とことん弱虫の卑怯者だ。
自分をなじる言葉が、この程度しか思いつかないのも情けない。
玉砕してもいいからけじめをつけるなんて言って、結局、口だけだった。
良馬の口から、他に好きな人がいるって聞いたとき、想像してた以上に胸が痛くなって、苦しくなって――何も言えなかった。
亜矢子さんと、別れた直後に言うなんて……っていうのもあったけど、それ以上に、自分が傷つきたくなかったんだ。
「はあ」
大きく溜め息をついて、自分のベッドのヘッドボードに置いた貝殻を見る。
あの後、花火をして、少しだけ海に入った。
良馬が危ないって言うから、ほんの波打ち際までだったけど、裸足になって水に入ると足の下で溶けるように崩れる砂の感触がくすぐったかった。
そこで、この貝殻を拾ったんだ。
白い貝殻。
周りが真っ黒だったから、そこだけ白く浮かび上がって、とても綺麗に見えた。
女の子みたいで変だけど、記念に持って帰ってきてしまった。
手にとって顔に近づけると、かすかに潮の香りがする。
「楽しかった……よね」
楽しかった――すごく。安さんも、福永さんも、田村さんも、みんな良くしてくれて。
何より、ずっと良馬と一緒にいられたし。
北海道の牧場でも一緒だったけど、自分の知らない世界であんな風に良馬と過ごせたなんて、本当に良かった。車の運転をする良馬を見たのだって、なんだか新鮮で嬉しかった。
「はぁあ」
ごろんと、ベッドに横になる。
あの時、がんばって言うべきだったのかな。
何度も繰り返す問いかけ。
(ううん、あの時言ったら、あの後の楽しいこと、全部無かったかもしれないんだから……)
自然に言い訳する自分に気がついて、また自己嫌悪。
天井を見ても、良馬の顔が浮かんでくる。
身体の芯が、熱くなる。
(良馬……)

「おい、駿」
突然、襖が開いて、僕はビクッと飛び起きた。
「な、なに、お祖父ちゃん」
ノックくらいして、って言いたいけど、美浦の家は思いっきり日本家屋で和室だ。
「お客さんだよ。あのカメラの人」
「え?天城さん?」

天城さんは、厩務員の皆とお茶を飲んで雑談していたけれど、僕の顔を見ると嬉しそうに立ち上がって大きな紙袋を持って来た。
「やあ、駿君、この間はどうも」
「どうしたんですか?」
「駿君の写真集のね、発売が決まって」
「え?」
「秋のGTシーズンの始まりに合わせようってことで、九月の中旬にね」
「もう?」
「もう…って」
天城さんは、眉を寄せて笑った。
「春から半年近く撮ってるんだよ。こんなに溜まっちゃって、どうしようかっていうくらい」
重そうな封筒の中身は、写真らしかった。
「駿君にも、選んでもらおうかと思って」
「えっ、いいですよ。恥ずかしいし」
「どうして、自分の写真だよ」
だから、恥ずかしいんだってば。
厩務員の皆が、僕らのやり取りを聞いて笑っている。
「駿ちゃんは、可愛いからね。どの写真でも大丈夫」
「でも、折角だから、一番いいのを選んだ方がいいよ、駿君」
「これ以上人気が出ても、困るよねぇ」
ああ、もう、こういうのが恥ずかしいんだって。
「あの、こっちで……」
人のいないところのほうが落ち着けるので、天城さんを奥の部屋に案内した。
「あ、ありがとう」
天城さんは、ニコニコとついて来た。
テーブルの上を片付けてスペースを空けたら、そこに天城さんがバラバラと写真を広げた。
「僕が選んだのがこれらなんだけど、良いとか嫌とか、駿君の意見を聞かせてもらえるかな」
「僕は、別に……天城さんが良いと思ったので、結構です」
「つれないなあ」
天城さんは、手にしていた写真を置くと、困ったように頭を掻いた。
「一応、駿君の初めての写真集だし、僕としては、最高のものを出したいんだよ」
「はい」
「だから、駿君の意見も聞かせて欲しいんだ。駿君自身が満足してくれるものじゃないと、駄目なんだから」
「はい」
でも、もともと僕は、写真集なんて自分から望んではいないんだし……困ったな。
うつむいてしまった僕に、天城さんが優しく訊ねた。
「駿君が、一番好きな人に見てもらうとしたら、どんな風にしたい?」
「え?」
「駿君が、一番好きで大切な人。自分のことを今よりもっと知って欲しい人」
天城さんの瞳が、優しく細められた。
「その人に、見せるんだよ」
良馬の顔が浮かんで、僕は、かあっと身体が熱くなった。
たぶん、顔といわず耳も首も、全部真っ赤になった。
「あ……」
思わず、下を向くと
「ごめん、ごめん」
慌てたように、天城さんが僕の肩を叩いた。
「でも、僕はいつもそういう気持ちで撮っているんだよ。駿君にも、そう思って欲しくて」
「……はい」
そうして僕は、頬を火照らしたまま、ちょっとだけ気まずくて憮然とした顔を作りながら、天城さんと一緒に写真を見た。
天城さんの写真は、とても良く撮れていた。
自分で言うのも何だけど、僕の、一番良い顔を撮ってくれている。
しかも、とても自然に。
パドック、レース、ウィナーズサークル――馬に乗っている時だけじゃない――レースが終わってみんなとおしゃべりしている時、調教スタンドでひと休みしているとき――写真を見るだけで、その時の気持ちが甦る。
「さすが、プロですね」
僕が呟くと、照れくさそうに返事が返った。
「プロでもね、上手く撮れる被写体と、そうじゃない相手もあって……そういう意味では、本当のプロじゃないのかも知れないけどね、僕は。でも、駿君は自分でも良く撮れたと思ってる」
「……ありがとう、ございます」
僕も、照れて頭を下げた。

一通り写真を見終わった後、天城さんが別の封筒をだした。
「なんですか?」
「夏の思い出インみゆきファーム」
天城さんがわざとはしゃいだ声を出す。
「ジャジャン」
「あっ」
牧場で撮った写真。
「思ったよりたくさん撮っていて、とりあえず全部焼いて来たよ」
みゆきファームのたくさんの馬たち。
サクシードもいる。それに――
「シンディも、結局、撮ったんですね」
「ごめん、母体に障らないように十分気をつけたから」
「ふふっ」
馬もこんなに上手に撮れるんだから、やっぱりプロじゃないか――って、当たり前だけど。
「そっちは、ヒトの写真」
「あ」
(良馬だ)
皆で並んで撮った記念写真、それ以外に、僕と良馬の話している写真や、二人で歩いている写真。
「いつの間に、こんなに撮っていたんですか」
なるべく自然に聞こえるように、努力した。心臓は、ドキドキ鳴っている。
「うーん、写真集に入れようかと、ちょっとね」
「そんな」
「いや、でもやめたよ。だから、夏の記念写真。よく撮れてるでしょう」
「そりゃあ、プロだからでしょう」
良馬の写真をそっと見ながら、ごまかすように口を尖らせると
「だから、被写体にもよるって」
天城さんは、笑った。

「それ、全部あげるから」
「えっ?いいんですか?」
「もちろんだよ」
「ありがとうございます」
良馬の写真が、嬉しかった。
仕事用の写真を片付けながら、天城さんは、突然言った。
「駿君、好きな人いるんだね」
びっくりして、固まってしまった。
「ど…どうして?」
「さっき、一番好きな人の話のときに、赤くなったから」
もう!また話を蒸し返さないでくれ。
僕が睨むと、天城さんは両手を小さく上げて降参のポーズをした。
「ごめん、でも、いいことじゃない。好きな人がいるって」
「からかわないで下さい」
「からかっている訳じゃないよ」
「だって」
憮然として黙ると、天城さんはおっとりと言葉をつないだ。
「好きな人が、一番大切な人がいるってことは、すごいことだよ。大人になると段々そういう気持ちって無くなってくるし」
「無くなる?」
「いや、無くならないけど…うん、めったに無いって言うか……慎重になる、それ以前に自分の事の方が大切になって」
僕は、天城さんの言ってる意味がわからなくて、首を傾げた。
「ごめん。駿君には、わからなくていい話」
「子ども扱いしてます?」
「違うよ。うらやましいんだ。駿君たちが」
「……たち?」
「え?ああ、いや、なんだか長居しちゃったね」
天城さんは、立ち上がって
「じゃあ、社から改めて連絡あると思うけど。宜しくね」
手を振って、部屋を出て行った。
僕は、天城さんの言葉の意味を考えて、見送ることも忘れていた。














SucceedJ 良馬

暦の上では秋だというのに、残暑というには厳しすぎる東京。
中学の頃、エアコンをつけっぱなしで寝て体調を崩して以来、俺は寝る時にはエアコンを消している。
それでも毎日走っていた頃は身体が疲れていたのでぐっすり眠れたものだが、最近では暑さに夜中目覚めることもしばしばだった。
別にもう多少具合を悪くしたところで差し障りないのだから、エアコンをつけようかとも思うのだが、長年の習性で憚られる。
そうして、夜中起きて思うのは、やっぱり、駿のことだった。

『今、好きな人……いる?』

そう言って、見上げてきたあの目は、何だったのか。

俺が亜矢子と付き合っていたことを、福永から聞いて知っていた駿。
それが別れたと聞いて、子供らしい好奇心で尋ねてきたのだと思えなくはない。
けれども、だったらあのときの、駿の表情は――?
暗くても、思いつめたような眼差しは見て取れた。ほんの少し上気した頬、震える唇。
――俺は、自分に都合のいい想像をしている。

『いるよ』
そう応えた時、そのまま抱きしめたかった。
『お前だ』
『俺が好きなのは、駿、お前だ』
そういって、強く抱いたら、駿はどう応えただろう。
自分勝手な想像だと、わかっている。
それでも――そう思わせる何かを感じたのは――俺の欲望ゆえか?
「駿……」

靴を抜いで海に入った駿の足が眩しくて、
『危ない』
そう言って、肩を抱くのがやっとだった。
駿が、女だったら―――
あの時、躊躇せずに抱けたんだろうか。
『今、好きな人……いる?』
何で、そんなことを聞くんだ―――駿。


* * *

試験の代わりに出されたレポートの数々を片付けていく為に、大学の学部図書館に行った。
今年になって教職をとる為に選択した『教育心理学』の参考資料を何冊かピックアップしていると、ふらりと福永がやって来た。
「お、藤木も『教心』とってたんだよな」
「ああ」
まだ、教師になりたいとか真剣に思っているわけじゃない。
ただ、陸上を離れた時、自分に何が出来るかわからなかった。
教師という道を選択の一つに入れたのは、陸上部をやめる時にコーチの言ってくれた言葉にあったかも知れない。
『後輩の指導にあたることも、十分可能だ』
まだ、何がしたいのかもわからない。けれども――いや、だからこそ――選択肢を広げておきたかった。
「福永も、とってたよな」
「おう。きょーしん♪きょーしん♪ってねっ」
また、よくわからない歌をうたう。
「藤木、レポート書いたら見せてくれよ」
「何、言ってんだ。同じじゃ、まずいだろ」
「いやいや、教心の坂本は、中身読んでないらしいぜ」
「まさか」
俺は笑い飛ばしたが、福永はしつこかった。
「ホントホント、本当だって。参加することに意味があるって去年も言ってたらしい」
「じゃ、一緒にやろうぜ」
俺は、重いほうの参考図書を福永の腕に乗せた。
「げっ」
「その方が早く終わるだろ?」
「んー、見せてもらうのは、もっと早いが。しょうがないな」
福永は笑うと、俺の持つ他の本も受け取って、窓際の席に座った。

二人して本をめくって、栞代わりの千切った紙をはさみ、お互いにワードに落としてくるところまで準備した。
「ここまで来たら、後は切り貼りだけだな」
「ワードに入れたら、メールで添付送るよ。そしたら、適当につなげようぜ」
「ああ。さすがにパソコンがあると早いよな」
「インターネットの教育関係とかのホームページからそのままパクっている奴もいるらしいぜ。図書館まで来て調べる藤木は、やっぱり真面目だよ」
自分も、その図書館に来たくせに――。
俺が笑うと、福永はちょっとだけ真面目な顔になった。
辺りに殆ど学生がいないことを確認して、それでも声を潜める。
「あのさ」
「何だよ」
「前に言ってた、お前の好きな奴ってさ」
何を言い出すんだ?
「違ってたら、笑い飛ばして欲しいんだけど……橘駿?」
真っ直ぐ突きつけられて、俺は言葉を失った。
じっと、福永の顔を見る。
「やっぱり?」
福永は、まるで何と言うこともないように、のんびりとした顔で俺を見る。
「亜矢子に、何か聞いたのか?」
「えっ、いや。あいつは何も……お前の好きな奴、俺に聞いたくらいだぜ」
だったら――何故?という顔を俺がしたのだろうか。
福永は、頬杖をついたまま言葉を続けた。
「あの合宿の夜さ。花火の時」
「………………」
「お前ら、途中、すごくヤバイ雰囲気になってたろ?」
「ヤバイ?」
「俺たちが花火やってる時、二人で離れたじゃねえか」
「ああ」
あの時だ。
「気がついたらじっと見つめ合っててさ、そのまま抱き合ってキスでもするかって感じだった」
「な…っ」
カッと顔に血が上った。
「あの時、桜井とかは酔っ払っていたけど、田村はお前らに気がついて邪魔しに言ったんだぜ」
「邪魔?」
「ああ、別にいいんだけど、ホントに勢いでキスでもされたら、後々フォローが大変じゃん。橘駿は有名人だし」
「そんな……大きなお世話だよ」
「まあね」
福永は、屈託なく笑う。
「でもさ、夏の海の雰囲気に飲まれて、ギャラリーが見えなくなってたら、ヤバイかなって」
「そんなこと、あるわけないだろっ」
知らなかった、そんな風に見られていたとは。
照れ隠しに前髪をかき上げる。
「でも、本当にいい雰囲気だったよ、二人」
福永の顔を見返すと、ニコニコと頷いている。
「ま、誰にも言わないから、安心しろ。もちろん、亜矢子にもな」
「福永」
「またまた秘密の仲間入りだな。藤木良馬の親友への道が、一歩近づいた」
ふざけたように言う福永に、俺は小さく溜め息をついて言った。
「親友でもなんにでもするから、誤解だけは解かせてくれ……」


そして、俺の色々と取り繕った言い訳もむなしく、福永は俺と駿が恋人同士であるという説を曲げなかった。
「俺の目はだませないぞ」
「おまえさ、男同士で恋人関係って考えるのが、無理があるって思わないか」
「そうか?藤木ってそういうの、偏見あるヒト?」
「……いや」
そもそも、自分が駿を好きだということを隠してこんな話をするのが、間違っているのかもしれない。
俺は、観念した。
どうせ、亜矢子には好きな相手が男だって言ってしまっている。福永の耳に入るのも、そう遠くは無いかもしれない。
「わかった。正直に言うと、俺は駿に惚れている」
好きとか、愛しているという言葉は、恥ずかしくて使えない。
「でも、言っとくけど俺の片思いで、駿のほうは違うから……」
自然に、声が小さくなる。
福永は、身体まで小さくしながら俺の近くに顔を寄せ、ひそひそと囁く。
「そうは、見えなかったけどな。俺には」
「そうなんだよ。何しろ、一回、泣かせてるし」
言ってからしまったと思った。
「泣かせたって、何だよ」
「何でもないよ」
「無いことねえだろ。教えろよ」
「何で、教えなきゃならないんだよっ」
突然、大声を出すと、周りの視線が突き刺さってきた。
「ばか、お前のせいだ」
俺は立ち上がると、居づらくなった図書館を出た。
「待てよ、藤木」
「あ、そうだ」
大事なことを忘れていた。
「さっきの話、誰にもしないでくれよ」
振り返ってそう言うと、福永の目がカマボコのようになった。


夜、携帯に駿からメールが入った。
『今月末、サクシードが美浦に帰って来る』
たった今、入ったんだから起きているのだと思って、折り返しの電話をしようかと思ったが、時刻を見てやめておいた。
朝三時に起きる駿には、もう夜中に近い時間だろう。
駿は、今、主に新潟のレースに出ている。
美浦に帰ることがあっても休みの日は移動にとられ、来月の中山開催が始まるまでは殆ど会えない。
会えなければ声が聞きたいけれど、そうすると電話を切りたくなくなる。
返信の画面に、入力する。
『よかったな。美浦なら俺も会いにいける。大学が休み中のうちに、一度行っていいか?』
送信ボタンを押して、一分もしないうちに携帯の着信音が鳴った。

「駿」
『良馬、起きてた?』
耳をくすぐる声に、軽く吹き出した。
「俺は、いつもあと三時間くらいは起きてるよ。」
『そうだね。すぐメールが返って来たから、なんか嬉しくて』
まるで恋人のような可愛いことを言う。無邪気さも、ここまでくると殺人的だ。
「電話しようと思ったんだけど、明日も早いんだろ?」
『うん。でも、大丈夫。布団入って寝ながら話してるから』
「…………」
本当に、殺人的な……
『もしもし?』
「あ、ああ、聞こえている」
『美浦に、いつ来れる?』
「えっ、いつでも……駿に合わせるよ。俺は九月の始めまで休みだし」

そうして、サクシードが入厩する週の次の月曜日に、美浦に行くことを約束した。
携帯を切りたくなくて、そのあとも、取りとめないことをずっと話し続けた。
途中、一度ならず駿の声が途切れた。
「駿?」
『ん……』
「悪い、眠いんだろ?」
『んんっ、大丈夫……』
本当に、寝ながら話しているのだと思って、頬が緩んだ。
時計を見ると、まだ十時を回ったところだったけれど、駿には辛い時間だろう。
「ごめん。じゃあ、切るから」
『大丈夫だよ、良馬……まだ……』
そう言う声が、眠そうだ。
「おやすみ、駿」
『……おやすみなさい』
駿の声が本当に途切れた後も、俺は未練がましく携帯を切れなかったが、ふと、駿の方も切ってない気がした。
(あのまま、寝てしまったんなら……)
駿の寝息が拾えそうで実のところますます切りづらくなったが、電話料金を考えてボタンを押した。駿から掛けてきたのだし。
携帯を握りしめたまま眠ってしまったであろう駿の姿を想像して、苦笑が漏れる。

サクシードの入厩を楽しみに待とう。

九月には、中山開催も始まる。
駿が――駿とサクシードが――走るのを初めて見た中山。
そこでまた、ふたりが坂を駆け上がる姿が見たい。誰よりも早くゴール板を駆け抜ける――黒い馬と少年の姿を。




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