Succeed@ 良馬 何故自分はこのバスに乗ったのだろう。 車窓の景色を睨みつけながら、胸のむかつきを堪える。 停留所のたびにここで降りてしまおうかとも思うのだが、その後いつ来るか分からないバスを待って元の駅まで戻ることを考えると、それもばかばかしい。 身体をシートに沈めたまま、俺は、ワンマンバスの無機質なアナウンスを聞き続けた。 * * * 「良馬。茨城のお婆ちゃんがね、よかったら春休みの間遊びに来ないかって。どうかしら。高校一年の時、行ったきりでしょ。ここにいるより、気分転換になるんじゃない?」 お袋が、俺の顔色を窺いながら、話しかける。 実の親なのにオドオドと気を遣うこの調子に俺の心はささくれ立った。 あの事故以来ずっとこうだ。 「その方がいいなら、そうしてやるよ。親父もお袋も俺が家にいると気づまりだろ」 「そんなこと、言ってないわよ」お袋の怯えた声。 「いいから―――今日から行くって、婆ちゃんに言っといて」 八つ当たりだとは分かっているが、自分で自分が抑え切れない。 イライラする気持ちを持て余しながら、小さなスポーツバックに適当な着替えを詰めた。 上野からJR《フレッシュひたち》に乗る。 今からだと、土浦駅に着くのは丁度昼頃か。 お袋は、婆ちゃんに俺のことをどう伝えたのだろうか。 当然婆ちゃんは俺の足のことを聞いて、田舎に来るよう勧めたのだろう。 俺は、三ヶ月前事故にあって、陸上選手としては二度と走れない身体になった。 その事故までは、それなりに名前の知られたスプリンターだった。高校二年のインターハイで100mの記録をぬりかえて以来、俺にとって陸上が、短距離が、生活そのものだった。 大学も陸上で入った。将来はそのまま実業団に入って、という漠然とした未来を疑ってみたこともなく、だだ、毎日ひたすらトラックを走りつづけていた。 その俺が走れなくなった。 自分自身の不注意から起きた事故だから、だれも恨むことができない。 俺が恨んでいるのは、大ばか野郎の自分自身だけだ。 なのに、それ以来、友人や家族の気遣いが鬱陶しくてたまらない。 東京の家で腫れ物に触るように扱われるより、誰も知らないところで何もかも忘れて過ごせるならそれがいい―――そう思ったが、婆ちゃんの心配する顔を思うと田舎に行くのも急に億劫になった。 だからかどうか、よくわからないが―――― 土浦駅で在来のバスに乗り換えるとき、何故か、俺の田舎に向かうバスではなくこのバスに乗った。 《JRA美浦トレーニングセンター行き》 * * * 茨城にJRAのトレセンがあるのは知っていたが、今まで一度も行ったことは無い。 競馬に興味も無い。――――いや、どちらかと言うと嫌いだ。 それが何故、自分がこんなになってしまってから、見に行ってみようという気になったのか。魔がさしたとしか言いようが無い。 走るために生産された生き物が、より速く走るためだけに訓練されているところ。 悪趣味だ。 胸がむかむかする。 バスに乗ってすぐ後悔の念が押し寄せたが、結局途中で降りられもせず、目的地についてしまった。 早春の美浦村は予想以上に暖かかった。気の早い桜はもう蕾をふくらませている。 そういえば、もう三月になるのか。季節を感じたのは久しぶりだ。 「事前にご予約の無い方の見学はお断りしています」 入り口の女性の冷たい応対に、どこかホッとする気持ちと、ここまで来て、という気持ちがない交ぜになった。 正規の見学者たちは朝9:55から集合しているらしい。ご苦労なことだ。 帰ろうとしたのだが、つい足があらぬ方へと向かった。 これも、魔がさしたというものだろうか。まさか、勝手に入り込む奴がいるとは思うまい。適当に潜り込んだ先の馬房に一頭のサラブレッドが?がれていた。 馬を近くで見るのは初めてだった。 俺は、何故、馬を見たいと思ったのだろう。 走るために生まれてきたもの。走ることが生きる全て。 走れなくなったサラブレッドは殺処分されるのだと、昔聞いたことがある。 俺は、サラブレッドに自分を重ねたかったのか。 『走る』宿命を背負った生き物に、何を感じたいと思ったのだろうか。 じっと見つめると、その大人しい馬は、こっちを見返してきた。 黒く丸い静かな瞳。 どこか哀しみを湛えたようなその光が、不意に俺に同情を寄せた恋人の、いや、元恋人の亜矢子の瞳を思い起こさせた。 事故以来、亜矢子とも会っていない。 走れなくなった俺など忘れて、新しい男とよろしくやっているだろう。 ――――そうして欲しかった。 「そんなに、怖い顔してにらまないで」 馬がしゃべった――はずがない。 はっとして首をめぐらすと、馬房の陰から、一瞬息をのむほどの綺麗な子が姿を現した。セーターとジーンズというごく普通の服装が、儚くさえ見える華奢な身体。 「ここは関係者以外立ち入り禁止だけど」 そう言って微笑んだその顔は、少年なのか少女なのか。 「きみ、は?」 「僕は、関係者。―――あ、そうじゃなくて名前を聞いてる?」 そんなふうに、俺、藤木良馬(ふじきりょうま)と橘駿(たちばなしゅん)は出会った。 「リョウマってどういう字を書くの?」 俺が名のったら、少女みたいな少年はこう訊いてきた。 「良い、馬」言いながら、口の中がざらついた 「へえ、偶然。僕の《駿》も優れた馬、速く走る馬って意味だよ」 屈託無く話すその笑顔に、苦々しい気持ちになった。 速く走る馬―――確かに昔、名前をもじって、そう呼ばれたこともあった。 「馬、嫌い?」突然、少年――駿、が訊いてきた。 「え?」 馬が嫌いなものが、こんなところに見学に来るだろうか。 けれども、本当に好きではなかった自分は言葉に詰まる。 じゃあ何をしにここに来たのか、と。 何を考えているんだ、適当に応えればいいじゃないか。相手は子供だ。 返事が無いのをどう受け取ったか、駿は質問を変えた。 「大学生?」 「……いや、ああ、まだ……」と口走った自分にうろたえる。 ―――まただ。 陸上で入学した大学を、走れなくなった今、続けるのかやめるのか。 ずっと悩み続けている逡巡を、初対面の少年に何もばか正直に話すことはないだろう。 内心舌打ちして、慌てて続けた。 「大学二年。今度の四月で三年。きみは?」 「うーん、年齢からいうと高校を卒業したところ。卒業したのは競馬学校だけどね。騎手養成課程」 駿の言葉に、俺は激しく驚いた。 この華奢な子供のような少年が騎手?しかも、自分と二つしか歳がちがわないなんて。 どうみても、中学生くらいにしか見えない。 俺は、ずい分ぶしつけな目で見つめていたに違いない。駿は少しきまり悪そうに顔を紅くした。色が白いので、うなじまでほんのりピンク色に染まる。 「めずらしい?」 「あ、いや。ごめん」 われに返って、謝りながら、俺自身のきまり悪さを隠すために言葉をつないだ。 「騎手って、その、レースに、でるの?」 われながら間抜けな質問だ。 競馬学校の騎手課程を卒業してレースに出ない騎手がいるか。 案の定、少し笑いながら駿は応えた。 「でるよ。今週末から」 「え?」 「今週の日曜、中山第2レースの未勝利戦が僕のデビュー戦」 「へえ」 なんとなく不思議な気持ちだった。だから、深い意味も無く口に出した。 社交辞令といえばそうなのかもしれない。 「応援するよ」 駿が、俺を見上げる。 濃い睫毛に縁どられた瞳が、早春の淡い太陽の光を反射して輝いた。 「ありがとう」 そう言って笑った顔は、俺には眩しすぎた。 そのまま、『関係者』の駿と一緒にトレセンの一部を見学した。 競馬を知らない自分には、ほとんどが初めて見聞きするものばかりだ。 ときどき、陸上を思い起こさせるものがあって胸の中をざらつかせたけれども、駿に案内されるのはひとりで歩き回るよりは、よほど楽しいと言えた。というより、駿がいなければ見学などはさせてもらえない。なにしろ、『事前のご予約』はしていないのだから。 本来、現役(デビュー前でもそう言って良ければ)の騎手に案内してもらえるなんて光栄なことなのだろう。 残念ながら、もともと競馬に興味が無かった俺にはありがたみも薄く、勿体ない話だった。 「本当に、競馬知らないんだね」 いくつかかわした会話の後で、駿が少し呆れたように言った。悪気は全く感じられなかったが、無知だと言われたようで、ついむきになった。 「少しは知ってる」 「何を?」 「名前とか、馬の」 「たとえば?」 「オグリキャップだろ、ハイセイコー、と、あと、何だ、オラシオン?」 指を折りながら、思い出す順に言ってみたら、 駿は目を瞠ることで大きな瞳をもっと大きくして、そしていきなりふきだした。 「最後のは、小説だよ。宮本輝。それに、何?ハイセイコーとオグリ?なんだか、いかにも、って……」 顔を紅く染めて華奢な肩を震わせて笑う姿は、決して嫌な感じではなく、むしろ、ひどく可愛らしかった。 「何だよ」俺もつられて笑った。 一緒になって笑いながら、こんな風に笑ったのは、何ヶ月ぶりだろうと考えた。 * * * 馬の管理をする調教師や厩務員、そして当然ながら馬がいる厩舎の立ち並ぶ中に連れて行かれた。ここには百以上もの厩舎があるらしい。その一つの前で立ち止まる。 「ここが、僕の所属する橘厩舎」 「橘?」 たしか駿の姓は橘と言わなかったか。 俺の思ったことがすぐに伝わったらしく 「僕のお祖父ちゃんが調教師だよ」 と橘駿は微笑んだ。 奥から、痩せて白髪頭の、けれどもよく日に焼けて健康そうな老人が出てきた。 「駿。どこに行っとった」俺に気づいて「おや、そちらの男前はだれだね?」 「ただいま。お祖父ちゃん。えーと、この人は」と、ちらりと俺を見上げて 「僕のファン第一号」くすっと笑う。 「えっ?」言われた俺がびっくりする。 「だって、応援してくれるって言ったよね」 駿はいたずらっぽく上目遣いで見つめてきた。何故か、心臓がドキッと跳ねた。 「ほう、そりゃあ、いい。まあ入んなさい」 駿の祖父、橘調教師は愉快そうに笑って、厩舎の奥に案内してくれた。中では、厩務員の男性が三人、お茶を飲みながら話していた。駿の顔を見て、おかえりと笑いかける。 俺にも、ごく自然に挨拶をしてくれたので、素直に返すことが出来た。 不思議に暖かい気持ちで満たされる。 「この子は、駿は、昔っから、馬と話ができる子でねえ」 と、橘調教師はしわだらけの顔を嬉しそうに歪めて話し始めた。 「駿が、五つのときだったかな。『お祖父ちゃん、シンディが、足が痛いって泣いてる』ってワシを呼びにきて」 「お祖父ちゃん、またその話」 駿が呆れた顔で遮るが、橘調教師は構わず話し続ける。 「いやいや。シンディってのはそのころ調教し始めたばかりの牝馬でね。慌てて見に行ったら、ソエがでとった」 「ソエ?」 悪いが、俺には初めて聞く言葉だった。 「骨膜炎で馬が膝下を痛がるってこと」簡単に説明してくれて、駿は話に割り込むと 「もういいよ、お祖父ちゃん」 おそらく、今まで何度も繰り返して語られたであろう孫自慢に、恥ずかしそうに身をすくませて、俺の腕をとって連れ出した。 「サクシードを見せてもいいでしょ」 「いいが、レースが近いんだから、興奮させるなよ」 「大丈夫。誰に言ってるの?お祖父ちゃん」 駿は後ろを向いたまま笑って応えた。 額から鼻の先にかけて白い流星のある黒々とした馬(こういう色は青毛というらしい)の前に来ると、駿はその鼻面を優しく撫でながら、俺を振り返った。 「この子、今度の日曜日僕が騎乗するエアサクシード」 「中山の第2レースの?」 「え?ちがうよ。……ああ、デビュー戦は別の馬なんだ。まだ勝っていないやつ。この子は、今まで三戦して二勝してるんだ。乗ったのは僕のお父さんだけど」 「お父さんも、騎手なのか」 驚いた。調教師の祖父に、騎手の父、子。三代続く競馬一家だ。いや、こういう世界では珍しくない、むしろ普通なのだろう。 「知らない?橘昇(たちばなのぼる)」 駿が小首をかしげて訊く。 「聞いたことは、あるかも……」 自信はなかったが、知らないと言い切るのも失礼だった。 「いいよ、無理しないで。オグリキャップとハイセイコーだもんね。お父さん、どっちにも乗ってないし」ケラケラと笑う。 精悍な馬と並ぶと、駿のその愛らしさが際立った。 「この馬はね。さっきお祖父ちゃんの言っていたエアシンディの仔。今度の日曜日、弥生賞に出るんだ」 駿の瞳が輝いた。 「弥生賞?」 競馬を知らない俺でも名前を聞いたことがある。ということは 「それって、大きなレースなんだろ」 「うん。GU。皐月賞とか天皇賞とかはGT、それに次ぐ大きなレースだよ」 「そんなの、競馬学校卒業してすぐの新人が出られるものなのか?」 悪気は無い。純粋な疑問から口をついた質問だった。 「そうだね。普通は、出られないよ」 駿が睫毛を伏せた。 一瞬、悪いことを言ってしまったのかと思ったが、すぐに駿は顔をあげて笑顔を返してくれた。 「でもね、このエアサクシードは僕の馬だ。僕が競馬学校に行くのに合わせてお祖父ちゃんたちがエアシンディにテイオウをかけてくれたんだよ。無事に生まれたら、そして、僕がちゃんと騎手になれたら、絶対に僕の馬にしてやるっていって。この子、僕の入学と同時に生まれたんだよ。だから僕の馬。今度から僕が乗る。そういう約束なんだ」 エアシンディにテイオウをかけ、というのはいわゆる種付けのこと。きっと特別に良い血統なのだろう。いや、たとえそうでなくても、駿の夢見るような瞳が、このエアサクシードという馬がどれほど彼にとって特別な、大切な馬かを教えてくれた。 「応援するよ」 なんだか胸が熱くなって、今度は、心の底から言った。 「うん。がんばる。僕も勝ちたい。ね、サクシード」 駿はエアサクシードの鼻に額をよせて、瞼を閉じて微笑んだ。 その横顔は、まるで何かに祈っているようで、胸が痛むくらいに美しかった。 * * * 「ねえ、知ってる?『弥生賞』は特別戦だから違うんだけど、僕みたいな新人は、最初ハンデで3s軽くしてもらえるの」 競走馬が一定の斤量を背負って走ることは知っていた。それによって公平さを保ったり、ハンディをつけたりする。だから、騎手は小さくて軽くないといけないのだ。そうだろう。俺だって陸上のおかげで痩躯な部類だが、俺が乗ったら62s。それだけでたぶんトップハンディだ。それにしても駿は何sくらいなのかなどと、その細い体つきを眺めてぼうっと考えていると、 「1s違うとね、0.2秒違って来るんだよ。だから3sなら0.6秒」 駿の言うコンマ何秒という言葉に、身体が反応して震えた。 「たったそれだけ、って思うかもしれないけど」 「いや!」 自分でも驚く強さで否定した。 駿が眉を上げて俺を見上げる。一瞬、気まずい気持ちで見返したが、駿の瞳を見ると、その後は自分でも意外なほど優しく話し始めることができた。 「いや、わかるよ。その……俺も陸上やってたし……コンマ一秒が縮められないで、焦ったこともあった」 そう、焦った挙句、自分から事故を招いた。 「やって、た?」 駿が静かに繰り返す。過去形の言葉。 「うん、やってた―――今は、やれない」 何故だろう、今まで誰にも言えなかった気持ちを、この駿には聞いてもらいたくなった。 短距離走の選手だった俺は、大学二年の秋口から酷いスランプになった。 夏までは順調に伸びていて、秋の大会も期待されていた。それがぴたっと止まり、どんなに練習しても記録は伸びるどころかジワジワと落ちていく。コーチも不安の色を隠せなかった。ありとあらゆるアドバイスにしたがって、練習内容も変えてみたが、もがけばもがくほど、調子が落ちていく。 俺は、焦った。不安だった。 結局、秋の大会は、俺は参加すら出来なかった。 高校時代から陸上界では注目を浴びていた俺に下手な傷をつけたくないと思ったのか、それとも、本当に俺よりも一年のあいつのほうが良いと思ったのか。コーチはしばらく休めと言って来た。 やけになっていた俺は、ある日級友の誘いで、それまで決して行かなかったコンパについて行った。酒は筋肉をだめにするからと、それまではどんなに誘われても断っていたのに。 大学の友人達としこたま酒を飲んでしまった、たまたまその日、夜からひどい雨が降った。変わりかけた信号にあわてて渡ろうと駆け出したときに不意に足がもつれた。 そこに横からバイクが突っ込んできた。 信号は赤に変わっていた。 腱を切って、俺の脚は二度と、前のようには走れなくなっていた。 俺にとっては、走ることがすべてだったから、それをいきなり取り上げられて、どうすればいいのかわからなかった。 病院のベッドに横になっている間、無性に腹が立った。 大会に出してもらえなかったこと。その事故の日、雨が降ったこと。バイクを運転していたヤツが、へたくそな避け方しか出来なかったこと。 そして、憎かった。 役に立たないアドバイスしかできなかったコーチ。コンパに誘ってきた友人たち。ライバルが一人減ったと思っているに違いない陸上部の部員。そして、ただ泣くだけの恋人。腫れ物に触るような接し方しか出来ない両親、クラスメイト。 周りの人間みんなが憎かった。 でも、一番……一番憎いのは自分自身。弱い、醜い、自分自身だ。 俺が全部話し終わるまで、駿はずっと黙って聞いていた。 時折、俺が言葉をさがして詰まると、澄んだ瞳で見つめてくる。その瞳に促がされて、俺は、正直な気持ちを言葉にすることができた。涙は出なかった。 俺は、人前で泣くことはなかったから。 それだけは、駿の手前、助かった。 話し終わったとき、憑き物が落ちたような、長い悪夢から覚めたような気がした。 「悪かったな。なんか、愚痴につき合わせて」 最初子どものようだと思った相手に、ここまで気持ちを打ち明けてしまったことに、俺は急に恥ずかしさをおぼえた。 駿は首を振って、優しく微笑んでくれた。 それだけで、十分だったが、駿は小さい声でこう言った。 「良馬は、弱くない。醜くもないよ」 突然、胸に迫るものがあって、俺は思わず駿の細い身体を抱きしめていた。 * * * その週末の日曜。 俺は中山競馬場に行った。 駿のデビュー戦だという第2レースに間に合うように、このところの生活からは考えられないほどの早起きをして。 あのとき、駿を抱きしめた後、ハッと気づいて慌てて離すと、駿は真っ赤になっていた。 そりゃそうだ。突然男に抱きしめられたら、動揺するだろう。 ところが抱いた俺は、もっと動揺していた。 あの後、挨拶もそこそこに帰った。何か会話をしたのだが、全く覚えていないくらいだ。 結局、婆ちゃんの家には一泊だけして、次の日は東京に帰った。 いきなり帰ってきた俺を、お袋は、どう扱って良いかまだ困惑しているようだ。 でも、俺のほうは、もうあまり気にならない。 胸の中の喪失感や、やり切れない気持ちが消えたわけではないが、駿に話をする前に比べたら、かなり楽になっていることに気づく。 春休みが終わったら大学に行って、コーチ、クラスメイト、そして亜矢子ともきちんと話をしようという気になっている。 ある意味、俺にとって恩人のデビュー戦だ。しっかり応援してやろう。 俺は、初めて来た競馬場で、生まれて初めて競馬新聞を買った。法外な値段にびっくりする。こんなペラペラで、何で420円もするんだ? 第2レースの馬柱(というらしい)に《橘(駿)》の名前を見つけた。 新聞一面に書かれているメインの弥生賞にはエアサクシードの名前とセットになっていた。 エアサクシードは、俺の知っている三番目の馬になった。 (オラシオンは実在しない馬らしいからな) 駿についての記事を目にすると、自分のことのように興奮した。いや、俺だって『月刊陸上界』や、大会の後などでは新聞に載ることもあったが、実際、自分の記事にはこんなに興奮することは無かった。 読んでわかったのは、駿の親父さんもかなり名のある騎手だということ。その息子で、しかもデビュー戦の当日にGUの弥生賞に出るとあって、少しばかり親の七光りだの何だの書かれているが、概ね、期待をよせる好意的な内容が多くてほっとした。 第2レース発走30分前を過ぎた。 時間が無い。俺は足早にパドックに向かった。 すでにパドックでは、第2レースに出る馬が周回している。駿の乗る馬を探していると、係員から『とまれ』の声がかかって、騎手が芝生の真ん中に整列した。 一斉に散って、自分の馬のところに駆けて行く。 駿だ。すぐにわかった。黄色に赤い縞の入った派手な勝負服。緑の帽子。 軽々と馬の背に跨ると、何か話しかけるように馬の首をとんとんと叩いている。 よかった。ぜんぜん緊張していない。 馬を見つめる瞳が優しい。―――俺も、あの瞳に惹かれたのだ。 駿のデビュー戦は5着だった。10番人気で5着と言うのは悪くないんじゃないか。 素人考えだが、期待以上に上手く乗っているということだと思った。 その後の3つのレースも、常に人気よりも上の着順だった。掲示板に乗ったのは最初の第2レースと今終わった第8レース、16頭立てで4着だった。 俺は、駿の馬券を買っていない。いや、どの馬券も一枚も買ってはいない。 記念だとしても、馬券を買うという行為がどこかギャンブル性を持つような気がして買えなかった。おかしいだろうか。 ただ、俺は純粋に駿を応援したかった。 ターフビジョンにさっき終わったレースが繰り返し映っている。 駿の騎乗フォームはとても綺麗だ。馬の背に乗っている間、姿勢がほとんど変わらない。グラグラ揺れない。最後の直線にくると首を押すようにしごいて、馬をぐいぐい前に進めていく。鞭はあまり使っていないようだ。 馬と駿が一つになって、駆け抜けていくその様は美しかった。 そして、どの馬も、必死に走る姿が美しかった。 昔、競馬を嫌いだと思っていたとき、馬は走らされているのだと思っていた。 鞭でたたかれながら、人間のギャンブルのために、死ぬまで走らされる生き物。サラブレッドをそう思っていた。 今日初めて競馬を見て、気持ちが変わった。 馬は走りたいのだ。 誰よりも速く、一番にゴール板を駆け抜けるために、命を燃やして走っているのだ。 馬に対する憧憬と、同時に嫉妬が心に拡がり、俺は苦笑して新聞に目を落とした。 弥生賞。中山2000m、芝、11頭立て。 『4枠4番 エアサクシード 199×年4月3日 みゆきファーム生産 牡 青毛 父 テイオウ 母 エアシンディ 母の父 ノーザンテースト 騎手 橘駿』 エアサクシード、お前も命を燃やして駿と一緒に走るんだな。 「橘の息子は、結構やるんじゃねえか」 ふいに、隣で新聞を読んでいた男たちの言葉が耳に入った。 「おさえるか?」 「デビュー初日にそりゃないだろ」 赤いペンで新聞に印をつけながら、三人で駿の話をしている。 「でも、新人とは思えない乗りっぷりだ。さすが、名手の息子だよ」 「馬も人もやっぱり、血だな」 「競馬学校では一番だったんだろ。アイルランド大使賞とったって」 「でも、GUだぜ。見習いが取れるレースかって」 「そりゃそうだな。振り落とされたりしてな」 「ここは佐井のセントエクセルとリアルショットで決まりだろう」 「エアサクシードも、馬はよさげなんだけど、屋根が甘いぶんキリだな」 褒めていたかと思ったら……。失礼な奴らだ。 むかついたので、睨みつけてパドックに向かった。 さすがに、弥生賞のパドックとなると込み合っていて、前のほうには行けず、俺は伸び上がって駿を探した。 黒々とした馬体を光らせたエアサクシードの背に青い帽子の駿が跨る。引き綱をとっているのは美浦の橘厩舎で挨拶した厩務員の一人だ。何か話しているようだが、気のせいか駿の表情が今までよりも固い。 やはりGUともなると、緊張の度合いも違うのだろう。駿の手がエアサクシードの首筋から背中をゆっくり撫でている。 真っ白い誘導馬の後ろについて、馬と騎手がパドックから、本馬場につづく地下道へと向うと、潮を引くように周囲の人間も動き出した。 俺もゴール板前に移動する。このレースだけはターフビジョンでなく自分の目で、近くで見たかった。 スターターが赤い旗を振ると、スタンドから大歓声が沸いて、各馬、ゲートインを始めた。嫌がっていた馬もいたが、駿のエアサクシードは落ち着いて入った。それだけでホッとする自分がおかしい。 『振り落とされたりしてな』 さっきの男の、嫌な言葉がよみがえる。まさかと思うが、どうか、無事に走って欲しい。 ゲートが開いて、一斉に飛び出した。 一頭出遅れたのがいたが、駿じゃない。さっきゲート入りを嫌っていたヤツだ。 駿は中団のやや後ろあたりの内を走らせている。青い帽子は4番の駿だけだし、黒い馬も一頭だけだから、俺にでも見つけやすい。一番人気は佐井という騎手のセントエクセル。そのピンクの帽子は先頭集団につけている。一コーナー、二コーナーと、どの馬も淡々と進んでいる。 三コーナーを廻ったあたりで、各馬動きを見せてきた。駿も徐々に上がっていこうとしたようだ。外に持ち出そうとしたとき、そのエアサクシードの外側に、後ろから上がってきた馬が並んだ。まるで、駿の行き先をふさごうとするかのように。 (包まれた!) 内にも外にも行けずエアサクシードは前の馬にぴったりくっついた状態で四コーナーを廻る。先頭の馬はすでに六馬身近く先を走り、直線に入っている。リアルショットという馬。 (だめだ。間に合わない) 絶望で、胸がふさがった。 直後、周囲から物凄い喚声が起きた。 「すげぇぞ!おいっ」 隣にいた学生風の男が、興奮して持っていた新聞をふりあげた。 駿のエアサクシードが内ラチ沿いにわずかに開いた隙間につっこんで、すれすれに前の馬をかわして出たのだ。 そのまま四、五番手の馬を並ぶ間もなく抜き去る。 同時に、三番手にいたピンクの帽子、セントエクセルが動いた。内と外で二頭の馬が先頭の馬に襲い掛かる。直線のゴール前200メートルでリアルショットを抜き去ると、エアサクシードとセントエクセルが中山の坂を駆け上がる。 悲鳴に近い喚声とともに、気の早い連中の捨てた馬券が宙に雪のように舞った。 (駿!) 駿の両手がエアサクシードの首をしごく。鞭は使わない。全身の体重をかけるように力いっぱい首を押すと、それに合わせてエアサクシードの首が伸縮して前脚が力強く地を蹴った。前脚と後脚が交差するほどの力強いストライド。 (駿! 駿! 駿!) エアサクシードが、駿が、ゴール板を駆け抜けたとき、そのときの俺は周りの大歓声も何も聞こえなかった。ただ、鳥肌の立つ腕を自分自身で握り締めて、呆然と今見た一瞬を繰り返し脳裏に映した。 「どっちだ!?」近くにいた男の叫び声に、俺は我に返った。 電光掲示板の一番上に4という番号が輝いた。 すさまじい歓声が沸きあがる。 表彰式を見るために押し寄せている人の波を掻き分けて進んだ。 駿に会いたい。いや、一目見たい。 今、自分の目の前で奇跡ともいえる走りを見せてくれた駿。 「なんだよ、お前」 不愉快そうな声や舌打ちを無視して、ひたすらスタンドの最前列に進んだ。 表彰台に駿の姿があった。胸に花をつけて、誇らしげに顔を紅潮させて賞状を受けている。 ―――駿―――― 心の中で呼びかけた。 俺は、声には出していない。たとえ、出したところでこのうるさいスタンドからでは、決して届かなかっただろう。 たが、表彰台から降りた駿は、まっすぐこっちを見た。 目が合った。 駿の黒い瞳が大きく見開かれて、そして、花がほころぶように笑った。 レース後の興奮で薔薇色に上気していた頬に、きゅっと持ちあがる薄い唇。 俺には眩しすぎて霞んで見えた。 駿が、右手を小さく握って、耳元にあて小首をかしげた。 何だ?わからない。 駿は、笑って頷くと、報道陣に取り囲まれながら地下道へと消えていった。 俺は、茫然とたたずむ。 突然、知らないオヤジに背中をたたかれた。 「よう、兄ちゃん。いくら勝ったんだ?泣くほど嬉しかったか」 酔っ払っているらしいその男の声に慌てて顔に手をやると、確かに俺は涙を流していた。 いつからだ? 激しい羞恥心に襲われて、うつむきながら足早にスタンドを後にした。 競馬場の横のけやき公苑に抜けて、人のいないベンチを見つけて、そこに座り込む。 涙の痕をぬぐって宙を見つめる。 俺は、表彰台の駿に会ったとき、もう泣いていたのだろうか。 それともそのずっと前から、レースの直後から泣いていたのか。 人前で泣くなど、何年ぶりだろう。 恥ずかしい。 けれども、『涙を流すことは精神の浄化になる』と昔聞いた言葉は本当だと思った。 心が、軽くなっている。 大きく深呼吸して、中山の暮れかかった空を見上げた。 ふいに、携帯のベルがなった。 なんだ? このところ、携帯をかけてくるやつなどいない。表示は公衆電話。 「はい」訝しく思って、返事だけすると 「あ、あの、橘です」 「駿?」 名前で呼ばれてびっくりしたのか、相手も一瞬黙った。けれど、俺はもっと驚いている。 いつの間に携帯の番号など教えているんだ、俺は。 そして、美浦のトレセンで駿を抱きしめた後のやり取りを思い出して、顔に血がのぼった。 「今、どこですか?僕、もうすぐ出られそうなんで良かったら……あんまり時間は無いかも知れないんだけど―――」 携帯から、駿の遠慮がちな声が聞こえる。 「あ、ああ」 心臓が高鳴るのを感じながら自分の今いる場所を告げると、駿はそこで待っててといった。 駿の最後の言葉が、耳に残る。 「よかった。もう一度会いたかったんだ」 俺も、会いたかった。 この気持ちがなんなのか判らないけれど。 まさか、恋とはいわないだろうが。 とにかく、会いたい。あの瞳に見つめられたい。 会ったら、何と言おう。 今日のお祝いを。 そして、お礼を。 そして――――――― けやき公苑の石畳を蹴って小さな少年が走って来た。 キャップを目深に被って、ごく普通の青いセーターとジーンズ、足には白いスニーカー。 ほんの少し前に五万人のスタンドを沸かせたターフのヒーローが、手を振りながら駆けて来る。 真っ直ぐに俺に向かって。 Succeed@ 駿 「サクシードは良い仕上がりだ。明日は軽くでいいだろうねぇ」 担当厩務員の小川さんが、寝藁を拡げながら笑いかけてきた。 「うん、ちゃんと自分でレースが近いことわかっているみたいだから。頭のいい馬だよ」 そう言って、僕は青毛の牡馬エアサクシードの鼻面を撫でた。 サクシードは、甘えるように顔を擦りつけてくる。 今春、競馬学校を卒業したばかりの僕が、デビュー当日、メインレースの弥生賞に出る。その馬が、このエアサクシードだ。 同期だけじゃなく、先輩からもずい分やっかまれたけれど、気にしない。 だって、この馬は僕の馬だ。 たとえ、今まで騎乗しているお父さんが乗りたいといっても譲るわけには行かない。 もっともお父さんは、その前日に阪神で行われるチューリップ賞で、うちの桜花賞候補のプリンセスドリームとコンビを組むことになっているから、中山には出ないんだけどね。 レースが近づいてきて、周りの人からは色々言われるけど、僕は自分でも不思議なほど落ち着いていた。 エアサクシードを信頼しているから。そして、自分自身も信じているから。 「じゃ、また後で来ます」 エアサクシードの様子を見た僕は、そのまま他の馬も覗きに行くことにした。 デビューの日、僕は、自厩舎以外の馬も頼まれていて、五鞍騎乗することになっている。恵まれたスタートだと思う。 調教は明日もあるけれど、顔を見ておきたい。どの子もみんな、元気だろうか。 変かもしれないけど、僕は昔から、馬と話ができる気がする。彼らの考えていることが、なんとなくわかったり、僕の伝えたいこともわかってもらえたり。 騎手になりたいと思ったのも、彼らと気持ちを一つにして走りたいと思ったからだ。 彼らは、本当に走ることが好きだ。 気持ちよく走った後は、とても幸せそうだ。 だから、僕は彼らを思いっきり気持ちよく走らせたい。 「あれ?」 リンデンルーラ号の馬房に、見慣れない人影があった。 だれだろう。 ひょっとして、部外の人かも。どうやって入って来れたんだ? 困るなぁ。馬を脅かされたりしたら大迷惑だ。 僕は、そっと足早に近づいた。 スポーツバックを肩にかけた大学生くらいの男の人が、じっとルーラを見つめている。 声をかけようとして、できなかった。 近づいてわかったその彼の顔が、ルーラを見つめるその目が、あんまり切なかったから。 中学の美術の時間に描いたギリシャ神話の胸像を思い出した。整っていて寂しそうな顔。男らしい顔なのに、そこから受ける印象はとても哀しかった。 不意にその顔が歪んだ。眉が寄って暗い瞳にきつい光が宿った。 (ルーラに何かする?!) 僕は息をのんだ。が、大丈夫だ。ルーラは落ち着いている。 馬は臆病な動物だから、自分に危害を加えられそうになったら必ず感知する。 そのルーラが、落ち着いて彼の瞳を受け止めている。たぶん、何かを感じて。 でも、僕にはわからない。彼は、どうしてそんな目で見つめているの? 「そんなに、怖い顔してにらまないで」 彼が、はっとこっちを見た。 「ここは関係者以外立ち入り禁止だけど」 そう言った僕を、彼は不思議なものを見るような目でじっと見返す。 彼の目は、深い色をしていた。 「きみ、は?」 低く小さい声で尋ねてきた。それが、彼との出会いだった。 「リョウマってどういう字を書くの?」と名前の漢字を尋ねたら 「良い、馬」と、答えが返ってきた。 「へえ、偶然。僕の《駿》も優れた馬、速く走る馬って意味だよ」 僕の名前は橘駿。駿というのはお父さんがつけてくれた。自分でも気に入っている名前だ。同じ意味を持つ名前なのが嬉しくてそう言ったら、彼――藤木良馬の顔が曇った。 「馬、嫌い?」 ここに遊びにくる人に馬が嫌いな人は珍しいけれど、彼には、どこか馬に対する嫌悪、ううん、憤りのような気持ちを感じた。案の定、返事に困っている。 困らせるようなこと聞いて悪かったなと思って、話題を変えた。 「大学生?」 「……いや、ああ、まだ……」 やっぱり、返事がぎこちない。どうしよう。話しかけたこと事態が迷惑だったんだろうか。このまま、『それじゃ』と別れようかなと思った矢先に、 「大学二年。今度の四月で三年。きみは?」 と、僕に聞いてくれたので話を続けることができた。 歳を聞いているのか、学校を聞いているのか迷ったんで、こう答えた。 「うーん、年齢からいうと高校を卒業したところ。卒業したのは競馬学校だけどね」 彼が、ひどく驚いた顔で僕を見つめる。いいけどね。知らない人から見たら、やっぱり珍しいと思うし。でも、良馬の、あのとても深い色の瞳でじっと上から下まで見つめられると、何となく気恥ずかしい。顔に血が上ったのが自分でもわかってしまった。 あんまりずっと見つめられるんでちょっと苦しくなった。 「めずらしい?」 「あ、いや。ごめん」 ううん。謝ってもらわなくてもいいんだけど――――何となくお互いきまり悪い。 良馬が人差し指で鼻の横を掻きながら訊いてきた。 「騎手って、その、レースに、でるの?」 確かに、乗せてもらえない騎手だっている。でも、僕は幸せなことに乗り馬があった。 しかも、エアサクシードは最高の馬だ。 「でるよ。今週末から」 「え?」 「今週の日曜、中山第2レースの未勝利戦が僕のデビュー戦」 「へえ」良馬は、目を見開いて驚いてくれた。 「応援するよ」 そう言われたとき、自分でも驚くくらい嬉しかった。 お父さんや、お祖父ちゃんや、厩務員の人たち、みんな応援するって言ってくれているけど、全然知らない人に言われたからだろうか。なんだか胸がドキドキした。 「ありがとう」 嬉しくて、何となくこのまま別れたくなくなって、トレセンの中を案内するって申し出てしまった。僕には珍しいことだと思う。 良馬はちょっと躊躇したみたいだったけど、頷いてくれた。 車があるといいんだけど、歩きだったから案内できるところは少しだけだった。 それでも、良馬には珍しかったみたい。 良馬は本当に競馬のことを知らなかった。 ためしに知っている馬の名前を聞いた。 「たとえば?」 ハイセイコーとか言ったらどうしよう、と思っていたら、 「オグリキャップだろ、ハイセイコー、と、あと、何だ、オラシオン?」 (言った!) やっぱり、ハイセイコーって言った。それどころか、オラシオン? オラシオンって、『優駿』? 確かに僕も読んで感動したけど。でも……。 僕は思いっきりふきだしてしまった。 「最後のは、小説だよ。宮本輝。それに、何?ハイセイコーとオグリ?なんだか、いかにも、って……」 可笑しかった。だって、僕の周りは馬の名前を出したら、その父母、そのまた父母と三代遡って言える人たちばかりだから。 なのに、オラシオン――――可笑しい。 「何だよ」 ちょっとふてくされたように唇を尖らした顔が、年上の人に失礼だけど、かわいかった。すぐに良馬も吹きだして、笑い出した。なんだ。いい顔して笑うんじゃん。 僕はますます嬉しくなって笑った。 良馬に僕のエアサクシードを見せたい。そう思った。 「この子、今度の日曜日僕が騎乗するエアサクシード」 うちの厩舎に連れて行って、今度僕が弥生賞で騎乗するエアサクシードを紹介した。 エアサクシードは、僕が初めて連れてきた友達を興味津々に見つめている。 「弥生賞――それって、大きなレースなんだろ?そんなの、競馬学校卒業してすぐの新人が出られるものなのか?」 良馬に訊かれた。 その通り。普通は新人でいきなり出られるわけがない。 でも、僕には事情があった。この馬が、僕の馬だということ。 正確に言うと、馬主は北海道で牧場を経営している母方の祖父。でも、僕が騎手になるって決めたときにその牧場のお祖父ちゃんと調教師をしている父方のお祖父ちゃんが二人で考えて種付けして、僕のために準備してくれた特別な馬だ。 本当に僕みたいに恵まれているケースは稀だと思う。だからこそ、僕はこのサクシードで勝ちたい。 お坊ちゃんの道楽みたいにも言われたけど、道楽で競馬学校の三年間が耐えられるもんか。 サクシードで弥生賞を勝って、そして、皐月賞に行きたい。 「応援するよ」 良馬が、もう一度言ってくれた。さっきよりもずっと瞳が優しい。僕も、さっきよりもっとドキドキする。 「うん。がんばる。僕も勝ちたい。ね、サクシード」 * * * たわいもないの会話の中で、見習いジョッキーの軽量ハンデの話をした。良馬が、本当に何も知らないので、僕は嬉しくて、いろいろ教えてあげたかったんだ。 「1s違うとね、0.2秒違って来るんだよ。だから3sなら0.6秒。たったそれだけ、って思うかもしれないけど―――」 「いや!」 良馬が、突然強い口調で遮ったので、僕はびっくりした。 良馬の少し青ざめた顔が僕を見つめている。 これは、さっきの顔だ。 リンデンルーラの前で、切なそうに、辛そうに、寂しそうに―――そしてどこか憤りを秘めていたあの顔。 でもすぐに、良馬の表情が和らいだ。 「いや、わかるよ。その……おれも陸上やってたし……コンマ一秒が縮められないで、あせったこともあった」 「やって、た?」過去形の言葉。なんだか胸がざわざわした。 「うん。やってた―――今は、やれない」 そして、良馬は話し始めた。 何も、言えなかった。 本当は、何か言いたかった。 突然の事故で、生きる全てだった『走ること』を取り上げられてしまった良馬に。 苦しんでいる良馬に。 血を吐くように、僕なんかに心の中を晒してくれる良馬に。 慰めの言葉や、気の利いた言葉をかけたかった。 けれど、僕にはそんな言葉が無い。 なにより、口を開くと泣いてしまいそうで、ただ黙って、じっと訊いた。 震えないように、小さく拳を握った。 涙を零さないように、唇の内側をかんだ。 良馬が泣いていないのに、僕が泣いてしまうのは失礼だと思った。 「悪かったな。なんか、愚痴につき合わせて」 僕は、首を振った。愚痴だとは思わなかった。 僕なんかにこんな話をしてくれたことが、申し訳ないけれど嬉しかった。 良馬が初めて会った僕のことを、何故かほんの少しでも必要としてくれたみたいで。 なにも、できないけれど…… ただ、良馬の言った最後の言葉だけは、否定したかった。 『一番憎いのは自分自身。弱い、醜い、自分自身だ』 良馬は強いよ。自分が弱いことを認められるくらい。そして―――。 「良馬は、弱くない。醜くもないよ」 やっと唇を動かして、小さく呟いたら、突然抱きしめられた。 (えっ?) 良馬の広い胸に頭をぎゅっと押し付けられて、背中まですっぽり包み込まれた。 人に、こんな風に抱きしめられたのは、生まれて初めてだった。 ぼうっとした。 自分の心臓の音と良馬の心臓の音が重なる。 たぶん、そんなに長いことじゃなかったんだと思うけど、そのときの僕には永遠にも感じる時間だった。 「ご、ごめん」 良馬が慌てて、僕を引き剥がすように離した。 そのまま、地面に投げ出されていたスポーツバックを拾いあげると、 「俺、帰らないと」 と、踵を返す。 ちょっとまってよ。 「帰るって、どこに?」 僕は思わず叫んでしまった。 「東京、いや、違う、婆ちゃんち」 婆ちゃんちってどこだよっ。 そのまま、そそくさと行ってしまいそうだったので、慌てて良馬の腕をつかんで言ってしまった。 「携帯、持ってたら番号教えて」 自分でも、本当に驚いた。 今まで僕は、自分の方から他人の電話番号なんか訊ねたことは一度も無い。 言ってから呆然としている僕に、焦点の定まらないような視線を送って良馬は、ポケットから小さい紙を出すと書くものを探す素振りをした。 僕は、調教の記録を控えるために持っていたボールペンを渡した。 小さい紙切れが僕の手の中に押し込まれる。 そして、良馬は今度こそ本当に行ってしまった。 手の中の紙を見ると、歪んだ字で、090で始まる番号が書いてある。裏返すとレシートだった。土浦駅前のレストラン。ランチセット780円なり。 * * * 翌朝、調教をつけてから調教スタンドに戻る間も、ポケットに手を入れて小さな紙を確認した。電話番号はもうそらでいえるけれど、そのレシートの紙は捨てられなかった。 電話は―――できそうにない。 だって、やっぱり、昨日初めて一回だけ会った人に、なんて言って電話すればいいの。 良馬のことを考えて、小さくため息をついたら、突然声をかけられた。 「よく走っているのに、そんなため息つくのはいただけないな」 振り返ると、 「山本さん」 「実は何か不安でもあるのか?」 タバコをくわえた唇でニヤニヤ笑っている。 『週刊勝鞍』という競馬情報誌の記者山本進二さんだ。 僕は、この三十過ぎのちょっとやさぐれた感じのする人が嫌いではない。 調教の後、マスコミの取材を受けるのも騎手の仕事の一つだけれど、僕は母親に似たこの顔のせいでアイドル扱いされることも多い。この間のテレビ局の取材では馬の話なんかほとんどなくて僕の誕生日だとか、好きなものだとか、そんなことばかり聞かれて、僕は途中から何もしゃべらないようにした。 その点、この山本さんはしっかり馬の話ができる。馬を見る目も確かだ。 「べつに、不安は無いです」 ポケットから手をそっと出して笑って見せた。 「だろうな。いい感じに時計も出ていた。明日はどうするんだ」 「明日は15−15(軽め)です。つぎもあるから、目いっぱい仕上げる必要はないんで」 「つぎ(皐月賞)ねえ。言うねぇ。デビュー前の新人が」 「その新人のところに、しつこく顔出しているのは誰ですか?」 「ちがいねぇ」山本さんは大きく笑うと、その垂れた目で僕をじっと見て言った。 「お前さんは、ただの新人じゃねえよ。エアサクシードもただの馬じゃねえ。俺は結構楽しみにしてんだぜ。佐井や、光岡をあっと言わせてくれよ」 佐井さんと、光岡さんは去年の東西のリーディングジョッキーだ。 特に佐井さんは天才とまで呼ばれる人で、僕も尊敬している。その二人も、それぞれの期待の馬で弥生賞に出てくる。 「佐井のセントエクセルも、力強かったぜ」 タバコの灰の落としどころを探しながら山本さんが言う。僕は、近くにあった灰皿を差し出した。 「知ってます。見ましたから」 確かに調子よかった。でも、サクシードも負けてはいない。 ふと、山本さんの顔をみて、思いついたことがあった。 「山本さんのところって、競馬以外にも、スポーツの本とか情報誌出してますよね」 「あ?『月刊バレーボール』とかか?」 ううん。バレーボールじゃなくて。でも、それはどうでもいいや。 「そういうののバックナンバーってどこで見ることできますか」 「うちの会社で見れるけど、図書館にもあるだろ」 図書館!そうだ。簡単なことだった。 「山本さん、車ですよね。今日、図書館、連れて行ってくれませんか」 「はあ?」 二時間後に迎えに来るといって、山本さんは僕を土浦で一番大きい図書館の前で降ろした。 たぶん、パチンコでも行って来るんだな。図書館で何をするんだとか、余計な詮索をしつこくしないのも僕が彼を嫌いじゃない理由だ。 スポーツ関係の雑誌のコーナーに行って僕は目当ての本を見つけた。 『月刊陸上界』 過去何年か分を束にして、机に運んだ。 古そうなものから順番に並べて、目次でスプリントの項を探す。 (あった) すぐに藤木良馬の名前を見つけた。 高校陸上の特集記事に、高校三年生の良馬の写真があった。 今の僕と同い歳の良馬は、やっばり、今の僕よりずっと大人っぽくて凛々しい。 『藤木良馬 176cm 60s 1981年7月20日生 A型 自己ベスト 100メートル10秒53 』 ふうん。A型なんだ。蟹座だ。さそり座の僕とは相性いい、って何考えてんだ。 走っている写真と、インタビューを受けている学生服の写真とあった。 写真の顔はどちらも最高に輝いている。 走ることが好きでたまらないと言っている。 そして、その彼が突然走れなくなったことを思い出して、急に悲しくなった。 騎手だって、突然の事故で二度と馬に乗れなくなることもある。 もし、自分だったら―――――。 『悪かったな。なんか、愚痴につき合わせて』 あんな風に、優しくいえるだろうか。 鼻の奥がツンと痛くなった。 * * * レースに出る騎手は、その前日の夕方から調整ルームに入って外部との連絡を絶たないといけない。 僕も土曜日の夕方から調整ルームに入った。 三月三日、世間ではひな祭りの弥生賞当日。 朝からすごく天気がいい。中山の芝はパンパンの良馬場だ。 第2レースのデビュー戦、掲示板にのってちょっと安心した。この馬は、馬込みを嫌う臆病な馬だから、はじめから外に出したのがよかったみたい。でも、この先勝ち上がるには力が足り無い。今日は、気持ちよく走ってくれたかな。 つづく三鞍とも、落ち着いて乗ることができた。僕は、時折、ポケットに手を当てる。 ポケットの中にはあのレシートが入っている。 バカみたいだけど、お守りがわりに持ってきてしまった。 『応援するよ』 ポケットを押さえると、あの良馬の声が聞こえてくる。優しい瞳を思い出す。 応援、してくれているのかな。ほんとに。 弥生賞はテレビでやるから、お婆ちゃんちでも見てくれるだろうか。 弥生賞の発走30分前。 パドックが見渡せる騎手の控え室に行くと、前田と目があった。 「よう、お姫様」 前田は競馬学校の三年先輩だ。直接一緒になったことは無いが、たまに後輩の指導に来ているのと出くわしたことがある。僕のことを嫌って何かと目の敵にしている。 騎手としては若手でも実力のあるヤツだが、性格が悪い―――と、僕は思っている。 僕は、軽く無視をした。それが気に入らなかったのか、前田はからんできた。周りにわざと聞こえるように 「うらやましいぜ。オーナーブリーダーと調教師のお祖父さんがいたら、いい馬乗り放題だからな」 気にしない。この手の妬みや、厭味なら競馬学校時代から慣れている。 周りの騎手も苦笑するだけで、庇ってくれる人などいない。 そう、誰から見ても、僕は恵まれすぎている。そんなことは判っている。 だからこそ、僕は、僕の実力で認めさせたいと思っているのに。 「お前、どんなレースしても勝手だが、俺たちのレースの邪魔はすんなよ。お前が下手な乗り方して、巻き込まれたらたまんねぇからな」 前田の言葉に、かっとなった。 「お前もな」 え?一瞬、自分が言ったのかと思って慌てた。 いつの間にか傍に来た佐井さんが、笑って前田に話しかける。 「昨日の黄梅賞みたいな乗り方されたら、こっちの命も危ないからな。四コーナーでふくれるなよ」 「へへっ、あれはわざとじゃないですよ」 前田が、頭を掻く。 関東のリーディングジョッキー佐井猛流(さいたける)。 甘いマスクでマスコミに露出することも多い佐井さんにはファンも多いけど、この前田も憧れているらしいのにはびっくりだ。 「わざとなら、許すか。ばか」 「へへへ……」 佐井さんは僕のほうに近づいてきた。 「駿。エアサクシードはよく気合がのってるな」 「はい」 「中山の、最後の直線、あの急な坂を、俺の馬に並ぶのはきっと黒い馬だ」 佐井さんが小さくつぶやく。 「……はい」 光岡さんの馬は栗毛で、黒い馬はエアサクシードだけだ。 僕らのやり取りが聞こえたはずは無いのに、光岡さんがこっちを見た。 係員が「とまれ」と叫ぶと僕たちはパドックの芝の真ん中に集合する。 レース名と簡単な注意事項を聞いて、 「騎乗!」の言葉にそれぞれの馬のところに走る。 エアサクシードは馬体の張りも艶もよく、じわりとくる気配があった。 引き綱を持った小川さんが優しい顔で見上げてくる。 「坊ちゃん。いよいよですね」 小川さんは、興奮すると昔のように僕を坊ちゃんと呼ぶ。その呼び方は本当にやめて欲しいけど、小川さんも緊張しているんだと思って、今日は大目に見ることにした。 「ほんとうに、よく仕上がっているね。ありがとう」 そう言ったら、小川さんの目に涙が光った気がした。やめてよ。まだレース前なのに。 僕まで、じわっときそうになって、あわてて唇を噛む。 僕だって、このエアサクシードが生まれてからずっと見てきた。 この日をずっと待っていた。 実際に、初めてサクシードと本番のレースに乗るという緊張と興奮は、押さえられない。 白い誘導馬について地下道を歩きながら、手綱を持つ手がじわりと汗ばんできた。 本馬場に入場して、返し馬のときスタンドを見た。 スタンドを埋め尽くす五万人の大観衆が、これから始まるレースを見守る。 今日初めて、心臓が高鳴った。 僕は、落ち着くためにポケットに手をやって良馬のレシートの位置を確認して、ふと、ここに良馬が来てくれているような気がした。 この、スタンドの中に良馬がいる。 何故だかわからない。でも、昔から、僕はその手の勘が働く。 『応援するよ』 『うん。がんばる。僕も勝ちたい』 「サクシード、信じているよ。お前も僕を信じてくれるよね」 首を撫でて小さく囁くと、エアサクシードは一度だけ首を高く持ち上げ嘶いた。 イレ込んでいるのか?という風に、前田がニヤリとこっちを見たけれど、お生憎。 エアサクシードは僕に応えてくれただけだ。 赤い旗が振られて、ファンファーレが高らかになる。 観衆の歓声が押し寄せてきて、二、三頭の馬が興奮して暴れた。 エアサクシードは落ち着いている。 僕も、不思議と落ち着いた。スタンドの騒音も遠くに聞こえる。 ゲートに入る。 「行くよ。ここが開いたら、飛びだすんだ」 エアサクシードに囁いて、前を見据える。 『応援するよ』 また、良馬の声がした。 絶対、彼はここに来ている。 そして、僕はまた彼に会える。 絶対。 ゲートが開いた―――――― 第1話 終 (2002.3.9) 何故かここでご注意! この物語はフィクションで、実際の団体とは全く関係ありません。 そして、ごく一部(??)実際のJRA等の規定では、ありえないことも書いてますが、乙女のドリームとして大目に見てください。 |
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