第6話《水底の怪人 前編》 


「も、だめ……」 
「何を言ってる」
「氷川……」
「ん?」
「たのむ、もう……限界……」
「だめだよ。ほら、もっと脚上げて」
「や、あっ……」

ばたん。
「全然ダメだな」
氷川の冷たい言葉に、床に大の字になった俺は悪態をつく。
「だから、俺は、腹筋は弱いんだよっ。それでもお前よりはましだと思うぞっ。たぶん」
学校が休みの第二土曜日。
俺は氷川のマンションで筋トレをしている。ちなみに今のは、V字バランス腹筋だ。
「ダロムワンがもっと強くなるには、肉体労働担当の君が体力をつけてくれないと」
人に筋トレやらせておいて、のんびりコーヒーを飲んでいる氷川が憎い。
「お前も、頭脳戦に備えろよ」
「やっている」
「何を?」
「スピードラーニング。聞いているだけで、英語が身に付くんだ」
何か役に立つのかい。

「やめやめ、今日はもうトレーニング終わり」
勝手に終了宣言して起き上がると、俺はテレビのリモコンを手にとった。
氷川のうちのプラズマテレビは家のよりだいぶ大きいので、実は気に入っている。
《パチ》

『……で、ここ山辺ダムでは、次々に魚が死んでいるのです』
テレビの画面にひなびたダムを背景にした男性アナウンサーが映っていた。
バス釣りに来ていたらしい数人の男がインタビューされている。
『きれいなダムで、今までこんな事は無かったんですよ』
カメラが移動すると、すくい上げられたらしい魚が何匹も白い腹を出して死んでいるのが、大画面にアップになった。
(うえっ)
自慢じゃないが、俺は魚が好きではない。
チャンネルを変えようとすると、氷川がその手を押さえた。
食い入るように画面を見つめている。
嫌な予感。
氷川が呟いた。
「ドドルゲ」
「やーめーろー」
「陽。明日、あのダムに行くぞ」
それもダロムの声なのか。

* * *
「バス釣りだったら、得意だ」
翌日出かけようとしていた俺達の前に、西条が現れた。
「何だ?何でわかったんだ」
俺は単純に動揺した。氷川はムッとして西条を睨むと
「盗聴器とか、仕掛けてますね」
俺の身体を調べ始めた。
って、俺にかい?!
「私が一緒に行けば、釣った魚をその場でさばいてやれるぞ」
通販で買ったと言う『陳健一の包丁セット』を誇らしげに見せる生活科産休代用教師西条。
「だから、毒で死んでるんですってば。魚は」
「ああ、見たくないっ。死んだ魚」

東京都下O市からずっと山奥にある山辺ダムは、東京都の水源となる為に比較的最近造られたダムだ。いつもは多くの釣り人で賑わっているのだろうが、今日は魚の変死騒ぎのせいだろう、人影も無かった。
俺は、死んだ魚が待っていると思うと限りなくブルーだ。
「あれま、この先立ち入り禁止になっているぞ」
結局同行している西条が、目の前に張られたロープを見てのんびりと言う。
「本当だ」
立ち止まって顔を見合わせていると、どこからか地元の人らしい男が飛んできた。
「ああ、だめだめ、入っちゃいかん」
その男は日焼けした顔を顰めて
「その先のダムは今、異臭騒ぎが起きていて、昨日から立ち入り禁止になってるんだ」
「昨日って、テレビ局の取材が入っていませんでした?」
氷川が男に尋ねる。
「いや、その人達がね、異臭がしたって言って。結局まあ、何でも無くて無事だったんだが、一時は病院に行ったりして、騒いだもんだからねぇ」
「それで……」
眉をひそめる氷川とは対照的に、俺の瞳は輝いていたに違いない。これで、魚の死骸に近づかずに済むのだ。
俺は、『どうする?』といった顔で氷川を見た。俺の心中察した氷川は、軽く睨んで小声で言った。
「ますます、行かないわけにはいかないよ」
がちょーん(死語)。
地元の男には適当に返事をしてその場を離れ、氷川はうろうろと道を探っていた。
「西条先生。得意のアレで、僕達をダムまで連れて行ってくれませんか」
氷川が言う。西条と顔も合わせずに。
「私の超能力は、念動力なんでね」
「だから、それで僕らを連れて、ひょひょいと飛べませんか」
「ドラえもんじゃあるまいし」
西条が鼻で笑う。ドラえもん??
「少し回り道すれば、山の中なんだしいくらでも道はありそうなんだけどな」
氷川が、呟くと
「お兄ちゃんたち、ダムに行きたいの?」
後ろから子供の声がした。
振り向くと、小学生(四、五年生くらいか?)の男の子が立っていた。黒目がちのクリクリした丸い瞳と、くっきりした眉の可愛い子だ。
西条がしゃがんで話し掛ける。
「そうだよ。僕、地元の子?」
どうでもいいが、三十過ぎのお前は、この子の言う『お兄ちゃん』には入っていないぞ。
案の定、その男の子は俺のほうを見上げて言った。
「僕、行ける道知っているよ。少し遠回りだけど」
「ほんとに?」

「僕は名前、なんて言うの?」
小学生だからこそ知っているに違いない忍びが通りそうな獣道を歩きながら、俺はその子に話し掛けた。
「葦原武志!」
「たけし君か」
「うん、お兄ちゃんは?」
「大地陽!」
その子の言い方を真似て元気良く応えてやった。正義の味方は子供には優しいのだ。
「アキラ?!」
その子、武志の顔が輝いた。
「お祖父ちゃんが昔飼っていた猫と同じだ!」
つけるか、普通?
後ろを歩いていた西条がぷーっと吹きだした。
声に笑いを含ませて武志に尋ねる。
「そのアキラ猫は、どうしたんだ?」
「…………」
武志が急に暗い顔をして黙ったので、俺はドキッとした。
「いなくなった。もしかしたらダムの底かも」
「え?」
「僕のお祖父ちゃんの村、ダムの底に沈んじゃったんだ」
「ええっ?」
何か、昔そういう話を聞いたことがあるぞ。ダムを作るために、村をつぶすって。
(でも、この子の村が?そんな……)
武志は、小さい顔をうつむけると、睫毛を伏せて言った。
「お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、生まれて育った村を絶対出たくないって…言って……」
ええ?まさか!
「まさか……お祖父さん……」
俺が呟くと、武志はこっくりうなずいた。
「そんな」
「言ってたのに……国から沢山お金もらって、駅前のマンションに住んでるの」
うーん。そう来たか。

* * *
「あ、見えた」
氷川の声に前方を見ると、遠く木々の間から昨日テレビで見た山辺ダムがその姿を現した。
「うん、ここ真っ直ぐ行くと出られるよ」
武志が道を指差して、得意げに俺たちを見上げる。
「ありがとう。もう分かるから、ここまでで良いよ」
氷川がそう言って武志に微笑むと、武志は急にがっかりした顔をした。
「僕もダムに行く」
「ダメだよ。ここから先は危ないからね」
長身をかがめて氷川が武志の顔を覗き込み、その肩に手を置こうとしたところ、武志はさっと離れて、俺の腰にしがみついた。
「いやだ。僕も行く」
「…………」
氷川が、目に剣を覗かせて武志を見つめる。
やめろ!正義の味方が子供をそんな目で見るなぁ!
「連れて行ってやれば?せっかく案内してくれたんだから」
俺が言うと、氷川は呆れたように俺を睨んだ。
「ドドルゲがいるかもしれないところに子供を?何を考えている」
そう言われれば、その通り。
武志との会話ですっかり忘れていたが、これから俺はドドルゲと、それより恐い大量の魚の死骸に会いに行くのだ。また、ブルーが入った。
「じゃ、しばらくここに引き止めとこう」
西条が、俺の腰から武志を引き剥がし、そのまま近くの木の幹に抱きつかせた。
「あっ」
武志は驚いて声をあげたが、そのまま幹にくっついている。狐につままれたような顔だ。
「じゃ、しばらくしたら動けるようになるから、そうしたらお家に帰るんだよ」
西条が笑って手を振る。
「相変わらず、器用なことで」
そう言って、氷川が走り出す。
「いくぞ、陽!」
「あ、ああ」
俺は、武志をチラリと振り返った。黒い丸い目がじっと俺を見る。電信柱に子犬をつないで捨てるみたいに胸が痛むぞ。
「ごめん……でも、こっちの方が、危険だから……」
俺は呟いて、走って氷川を追いかけた。

十五分ほどでダムに着いた。
「噂の異臭は無いようだな」
クンクンと西条が鼻を鳴らす。
「げぇ、何言ってる!くせえぞ、十分」
「これは魚の匂いだろ。普通だよ、これくらい」
「これが、普通か?普通じゃねえぞ!これだからお前の料理はゲロまずなんだよ」
超苦手としている魚の生臭い匂いに気が立った俺は、ついつい西条に喧嘩を売ってしまった。
「失敬な、どこがまずいんだ。第一、食べたこと無いだろう」
「こないだ実習で作ったじゃねえか!」
「アレは、君達が作ったんだろう?私のせいにされるのは心外だ」
「指導したのは、お前だろうがっ」
「じゃあなにかい?ロシアのヤグディンが君に三回転ジャンプを指導して、君が全然飛べなかったら、下手なのは君か?ヤグディンか?」
知らねぇよ。誰だよ、ヤグディン。
「二人とも、頼むから静かにしてくれないか」
氷川が綺麗な額に思いっきり縦ジワを刻んで、拳を握っている。
「だって……」
俺が唇を尖らすと
「大地君は、魚嫌いでカルシウムが不足しているから、人よりイライラしやすいんだよね」
わかったような顔で西条が微笑む。突然俺の頬を両手で包んで
「蛋白質なら、私がいくらでも飲ませてあげられるんだけど」
言った瞬間に、氷川の拳に飛ばされて、お空の星になった。

《後編に続く》




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