《激情の締め切り報告数字》後編 「本当ですか? ありがとうございます」 水曜の朝。営業三課に、平手の声が響いた。全員の視線が、受話器を握る平手に集まる 「あ、はい。少しお待ちください」電話を保留にすると、平手は藤田のもとに駆け寄り、 「課長!間宮社長が、あのプランでいいって言ってます」 嬉しそうに顔を輝かせた。 「課長に代わって欲しいとのことです」 藤田は、自席の電話の赤い保留ボタンを見て、内心ひどくうろたえた。 『考えておいてくださいね』 間宮の最後に言った台詞。プランの検討と、間宮のあの申し出はバーターだったのだろうか? 平手の視線に促がされて、受話器をとった。顔はもちろん営業フェイスだ。 「間宮社長、どうも、この度はありがとうございます」 藤田の声に、受話器の向こうから可笑しそうに笑う声がかぶさる。 『君の返事も聞きたいんだが』 藤田は、言葉に詰まった。 「それは……」 会話の内容を気にしている平手が、目の前でじっと見つめている。電話の内容が聞こえるわけはないのだが、ひどく緊張した。 自分の顔が赤くなってなければ良いがと心底思った。 「手続きの詳しい話は、課長に来ていただきたいですね。ホテルオークラのロビーで良いですか?」 やり手の社長らしい押しの強さで、強引に時間と場所を約束すると、間宮は電話を切った。 藤田は受話器を握ったまま、目の前の期待に目を潤ませた部下にどう言おうかと、小さく溜息をついた。 「どうしたんですか?何か?」 溜息を聞き逃さなかった平手が不安げに尋ねる。 「あ、いや……」 (どっちにしろ、行かないといけないが……連れて行くわけにはいかんよなぁ) 「平手。この件に関しては、いったん俺預かりにさせてもらっていいか」 藤田の言葉に、平手の顔が曇る。 「え?どうしてですか?」 「いや、ちょっと、社長のほうから、色々難しい質問も出て……」 藤田の苦しい言い訳に、納得できない表情の平手。 「心配しなくても、お前の手柄をとろうなんて思ってないぞ」 わざと軽口を叩いてみせると 「そんなこと! ……思ってません」 平手は、顔を赤くした。その平手の表情に藤田の胸は痛む。 (初の大型契約だから、自分でやりたかっただろうな) 「ちゃんと、するから。心配せず待ってろ」 「……はい。よろしくお願いします」 自席に戻る平手の後ろ姿を見ながら、藤田はもう一度出そうになった溜息を飲み込む。 (さて、どうするかな) この時点の藤田は、決して、バーターのために身体を差し出そうなどとは思っちゃいない。 夕方、書類一式を持って、藤田はタクシーに乗った。 電車でも良かったのだが、ただでさえ色々考えると気が重いのだ。帰宅のラッシュが始まりかけた電車に揺られて仕事をしに行くというのはなんだか嫌だった。 後部座席で目を瞑り、運転手に『話し掛けるなよオーラ』を送る。頭の中では、間宮社長と合ってからの会話を繰り返しシミュレートする。 平手のためにも、この契約は取ってやりたい。 だからといって、自分がお持ち帰りされるわけにはいかないが。 (まあ、相手もちゃんとした企業の社長だ。話して分からない訳が無い) オークラの玄関にタクシーを乗り付けて、降りようとしたとき携帯電話が鳴った。 「はい、はい、はい」 慌ててポケットから、携帯を取り出しながら、同時にお金を払う。 (あっと、しまった。領収書もらい損ねた) などと考えながらタクシーを見送ると、携帯電話から平手の切羽詰った声がした。 「課長、大変です」 「平手? どうした?」 「川辺木工の企業保険も、東洋海上にやられちゃいました」 「はあ?」 思わず大きな声が出る。 「どういうことだっ」 「いつもの、リスク分散ですけど、今回は東洋マリンが六割、あとの四割をうちと田安火災で分けるそうです」 「なっ、じゃあ、うちに来るのは二割か?」 川辺木工の企業保険といえば、今月の収入保険料の四分の一近くを支える大きなものだ。それが入らないとすると、あの会議の席で報告した数字は……… 藤田は目眩がした。 「だから、課長っ。今日のフローリスト・エルゼ、絶対頑張ってください」 (なんだとぉ……) 勝手なことほざくな、と叫びたかったが声も出ない。 貧血を起こしたようになって、グラッとよろめき、入り口にいたベルボーイの肩にしがみついた。 「お客様、大丈夫ですか?」 「あ、いや、すみませ、ん……大丈夫です」 そう言いながらなおもヨロヨロしていると、突然、後ろから脇に手を入れられ身体を支えられた。呆然と見上げる藤田を、フローリスト・エルゼの社長間宮が心配そうに覗き込む。 「気分が悪いの?」 (……最悪です……) 思わずそう応えそうな藤田だった。 (そして、何でここにいるんだ?) 気づけば、オークラの一室。藤田が今まで見たこともないような豪華な部屋だ。調度品もその辺のホテル仕様でなく磨き上げられたアンティーク。いたる所に花が飾られ、その香りにむせそうだ。 あの後、間宮に有無を言わさずこの部屋に案内されて、ソファに座らされている。 てっきり、ホテルの中の喫茶店かどこかで話し合うと思っていたので、この展開には動揺を隠せない。いや、さっきの平手の電話からずっと動揺はしているのだが。 「先に、契約書にサインをしてしまいましょう」 間宮が微笑んで右手を差し出す。 藤田は、カバンの中から書類を出す。損保の契約書類というのは、その保障する中身の複雑さに比べて、三つ四つ印鑑を押すだけのひどく簡単なものだ。 (これ、一枚で一億か……) ふと、藤田の頭に今月の報告した数字が浮かぶ。 (これが今月入ったら、丸松産業と川辺木工の穴は埋まるな……) 藤田の頭の中からは、さっきタクシーの中でシミュレートした会話は全て吹き飛んでいる。 「印鑑は、こことここで、いいんですね?」 判を押す間宮の長い指先を、藤田は呆然と見ていた。 いかにも花が似合いそうな、細くて綺麗な指だった。その指が、自分の身体に触れることを想像した藤田は、瞬間、激しい羞恥に襲われ腰を浮かした。 うつむいていた間宮が顔を上げて、二人の目が合った。 藤田の顔が真っ赤に染まっているのを見て、間宮が薄く微笑んだ。目にはほんの少し嗜虐の色が浮いている。 「すいません、やっぱり、俺……」 動揺と混乱で、客の前でも自分を私と言えなくなっている藤田。 立ち上がりかけたところを、間宮の手に押さえられた。 長い足でソファテーブルを軽々とこえた間宮が藤田を抱きしめる。 「ここまで来て、それは許されないよ」 「いえ、俺は、そんなつもりじゃ」 そんなつもりも、こんなつもりもないが、とにかく藤田はパニックを起こしかけていた。ひたすら顔を赤くして、間宮の腕の中で身じろぐ。 すると間宮は腕に力をこめて、自分の体重で藤田をソファに押し倒して言った。 「これは、ビジネスだよ」 (ビジネス……) 藤田の頭に、今月の数字が浮かび、経営戦略会議での上司の怒鳴る姿が浮かび、丸松産業の常務の顔が浮かび、平手の顔が浮かんだ。その他色々、頭の中をグルグルと回るそれは、もう正体もわからないが。 はっきりしているのは、いま自分の身体に、一億の案件が掛かっているということだ。 (どんな高級娼婦でも、一晩で一億は稼げないな……) そう考えた時、藤田の中で何かが弾けた。 (そういや大学の時、知らない女と寝たよな。一晩だけの) (もともと俺、男だし。貞操観念持っているわけじゃねえしな) 訳のわからない言葉で自分を納得させて、藤田は息をのむと、ゆっくり目を閉じた。 間宮が、喉の奥で笑う。 ゆっくりと唇が近づいて、重なった。 「んっ、ん……ん」 間宮の舌が自分の舌に絡んで、強く吸い上げるたび、藤田は鼻から甘えるような声を洩らす。無意識に出るのだから仕方ないが、間宮を煽るには十分だった。 噛みあうように深く口づけて、激しく口腔を貪る。間宮の送る唾液が絡んで藤田の口の端から洩れる。藤田は次第に頭の芯がぼうっとしてきた。 間宮の指が藤田の胸を弄って、シャツの上から乳首を探る。生地を通して伝わる刺激に、藤田の身体がピクッと跳ねた。 「んんっ」 口づけされたままで、声が出せない。 間宮はシャツの上から執拗にそこを刺激して、固く尖ったのを知ると指の先でキュッと摘んだ。 「いっ…」 藤田が喉を逸らして小さく叫ぶと、間宮はその喉に嬉しそうに唇を落とす。 間宮の指先は、今度は優しく突起を転がすように撫で、藤田は甘い痺れに、眉をひそめた顔を左右に振った。 「あっ…んっ…ん」 藤田の声には間宮の雄の感情を滾らせるものがあった。 いってみれば、苛めてみたい気にさせる。 間宮は、藤田がまだネクタイをしていることに気づいて、それをシュルシュルとはずすと藤田のきつく閉じられた目にあてた。 藤田は、ボンヤリと目を開いて、すぐにその視界が閉ざされたのを知る。 「な、んですか?」 焦って訊ねると、間宮はクスリと笑って 「お遊びだよ。ほんの少しだけね」 ネクタイで藤田を目隠しした。 「ちょ、ちょっと待ってください」 怯えて身を起こすと、そのまま間宮に抱きかかえられ、ベッドルームに運ばれた。 「あ、わっ」 地面から持ち上げられた感覚に、藤田はひやりとして間宮にしがみついた。男として決して小さくない藤田を抱え上げられる間宮に、驚くと同時に、恐ろしさを感じた。 (なんで、俺の周りには高木といい、間宮社長といい、パワーアニマルな奴が集まるんだ) そして高木を思い出して、藤田は自分の胸が痛むのを感じたが、その理由は分からなかった。 デパートで見た男の顔がまた浮かぶ。 「ネクタイはずしちゃダメだよ」 そう言って、間宮は藤田のシャツやスラックス、そして下着を脱がせた。ベッドで横になったまま、間宮に身体をあずけている間、何故か藤田は高木のことを考えていた。 間宮の身体が自分に重なり、間宮の唇が胸の突起を貪る。さっき指で散々弄ばれていたそれは、少しの刺激にも敏感になって、藤田の腰を痺れさせる。 「あっ…」 たった一度だけ肌を重ねた高木にされた記憶が甦ってきた。間宮の唇が身体中を這い、きつく吸い上げるたびに、藤田の身体は高木の唇を思い出す。 (……なんで、だ?) 目を開いて間宮の顔を見れば、高木じゃないことはすぐにわかるはずだ。けれど、目隠しされて、そのため酷く身体中の刺激に敏感になっている藤田は、与えられる快感が、以前の記憶と混乱する。 (高木……) また、あのデパートでの光景が浮かぶ。あの男とも高木はこうして寝ているのだろう。想像すると、酷く興奮した。 (高木……) 「ああっ、んっ…あっ」 間宮の手で、自分の猛ったものを扱かれて、いつの間にか、藤田は大きな声で喘いでいる。 内股を震わせて、腰を突き出す。 間宮は嬉しそうに、藤田自身を口に含んだ。 「ああっや、あっ、ああっ……」 耐え切れない快感に大きく身体を仰け反らせて、藤田はシーツを掴むと、思わず叫んでいた。 「いや、あっ、たか、ぎっ、ああっ、高木っ……あ」 間宮の唇の動きが止まった。 「高木?」 間宮が顔を上げて、藤田の顔を覗き込む。目隠ししていたネクタイをはずすと、怯えたような藤田の瞳と目が合った。 「高木っていうのは、君の恋人?」 間宮がゆっくりと訊ねる。藤田は首を小さく横に振った。 「ちが、う……高木は……」 恋人じゃない、そう思ったとき、突然涙が溢れ出した。 両目からボロボロとこぼれる涙に、間宮はもちろん、藤田自身激しく驚いた。 泣きながら、藤田は話をしていた。 間宮に聞かれるままに、訳もわからず流れる涙を持て余しながら、話していた。 「ふうん、それで、君はその彼が好きになったのか」 「ちが、っ、違、う」 藤田は、首を左右に振る。その子供のような仕草に、間宮はふっと笑いを含んだ溜め息を漏らす。 「今の君を抱くのは簡単だけど、他の男を思って泣く人を抱くというのは、私のプライドが傷つくね」 間宮の言葉に、藤田が顔を上げる。 涙で霞む目に、間宮の男らしい整った顔が苦笑するように歪むのが見えた。 「今日は、もう帰ってくれ。チャンスがあれば、今度仕切り直しをお願いするよ」 * * * 藤田は、地下鉄の中で、身の置き所の無いほどの羞恥心に駆られていた。 自分がたった今してきたことの意味を思うと、叫びだしそうだった。 大切な契約書をホテルのソファテーブルに忘れてきてしまったことを思い出した時には、自己嫌悪で死にたくなった。 (どっちにしろ、この契約はお流れだけどな) 明日、平手に何と言うかを考えると、胸が押しつぶされるように苦しくなる。 (どうせなら、最後までやっちまえばよかったんだよ) こんな恥ずかしい思いをして、結局、何もならなかった。 ふと、目を上げた地下鉄の窓に自分の顔が映っている。酷くいかがわしく見えるのは気のせいだけか。乱雑に結んだネクタイが目に入って、藤田はカッとしてそれをはずした。 駅のトイレにネクタイを捨てた。 マンションに着くと、自分の部屋の前に人の気配がする。近づいてみると 「高木……」 (今、一番会いたくない顔) 藤田は、呆然と佇んだ。 藤田が立ち止まったまま近づいてこないので、高木の方からやって来た。 「遅かったんですね。今日は早帰りだと思って、待ってたんですよ」 どれほど待ったか知らないが、待ちくたびれた様子も無く、にこにこ笑いかける。 そして、藤田の様子がおかしいのに気づいて、訝しげに首を傾けた。 いつもきちんとしている藤田の服装の乱れにも気がついた。 「ネクタイ、どうしたんですか?」 藤田はかあっと顔に血をのぼらせると、喉元を押さえて、高木を押しのけるようにして玄関に走った。 「藤田さん?」 ガチャガチャと鍵穴にキーを差し込むが、指が震えてうまくいかない。高木がすぐに追いついて、その手を握る。 ようやくドアを開けて、身体を滑り込ませた藤田に続いて、高木も中に入ってくる。 「勝手に入ってくるなっ」 藤田が怒鳴ると 「お邪魔しますっ」 高木が怒鳴り返す。 玄関で藤田を掴んで自分の方に向かせると、その喉元に視線を送る。 藤田が怯えたように喉に手をやるのを左手で遮ると、高木は右手で思い切り藤田のシャツをはだけた。ワイシャツのボタンがとんで、藤田の胸が露わになる。 藤田の胸には、誰が見てもそれとわかる赤い刻印が、いくつもいくつも刻まれていた。 「な、んだ……?」 高木は、ショックのあまりそれ以上声もでず、じっとその赤い痕を見詰め、それからゆっくり藤田の顔を見た。 藤田は、子供のように頼りない顔でぼうっと高木を見返した。 ようやく、高木が口を開いた。 「……だれが?」 急に意識がはっきりした藤田が、高木の両手を振り払う。 「お前には、関係ない」 「関係ない?」 高木が叫ぶ。 「藤田さんが自分以外の奴からキスマークつけられていて、関係ないなんて思えないね」 「やめろっ」 「だれだよ、誰につけられたんだ?」 「だから、関係ないだろ」 「渡来さん?」 「違うっ」 「じゃあ誰?他にも誰かいたのか?そんな相手が」 「お前だって、いるだろっ。ほっといてくれっ」 「俺?俺が、何だって?」 高木の叫びに、藤田はビクッとし、再び涙の出かかった目で睨みつけて言った。 「お前だって、可愛い恋人がいるじゃないか。俺なんかのことは、ほっとけよ」 「藤田、さん?」 高木は藤田の泣きそうな顔に、思わず気勢をそがれてしまい、そこを藤田が力づくでドアの外に押し出した。 中から鍵をかける音が響いた。 「藤田さん!藤田さん、入れてくださいっ」 高木がドンドンとドアを叩く。玄関ベルを連続して鳴らす。 「うるさい!近所に迷惑かけるなっ。帰れっ」 玄関のベルの電源を切って、音が出ないようにすると、藤田は肌蹴たシャツを脱ぎ捨てながら奥の部屋に入った。 (シャワー、浴びたい) そして酒を死ぬほど飲んで、さっさと寝てしまいたかった。 * * * 翌朝目が覚めると、藤田は、自分の瞼が重いのに気づいた。 (まさか、この歳になって泣きながら寝てしまったのか) 習慣で、新聞を取りにドアを開けた時、ドアの脇に小山のような影がうずくまっているのを見て驚いた。 「た、か、ぎ……」 藤田が呟くと、高木はゆっくり顔をあげて藤田を見上げた。 高木の目も赤く腫れていた。 (まさか、泣いたのか?) 藤田はそう思って、それ以上に自分の目が腫れているだろうことに思い当たってくすっと笑った。高木がそれを見上げて呟く。 「藤田さん」 「ずっと、ここにいたのか」 「はい」 「……入れよ」 リビングのテーブルに向かい合って座る。 先に口を開いたのは、高木。 「藤田さん、昨日から俺、ずっと考えてました。まず、俺への誤解から解いてください。藤田さんはどうして俺に他に恋人がいるって思ったんですか?」 「それは……」 口にするのも憚られたが、もうどうでもいいような気もしてきた。まだ寝癖のついている髪をかきあげると、藤田は軽く深呼吸して、先週の日曜の話をはじめた。 新宿のデパートにスーツを取りに行こうとして、偶然、高木と連れの男を見たこと。 高木の目が大きく開かれた。 「ウソ。あそこに……いたんですか?」 「ああ」 高木の気まずい様子に、また胸が痛む。けれど、高木はすぐに破顔して言った。 「まいったな。やっぱり俺たちって、特別に縁があるんですね」 「は?」 (何を言っているんだ?) 高木は、少しおかしそうに笑って言った。 「藤田さん、どう見たか知りませんけど、一緒にいたのは従弟で、あいつ、次の日は可愛いお嫁さんをもらってますよ」 「え?」 すぐには理解できず小首をかしげる藤田を、愛しげに見詰めながら高木が言葉を続ける。 「あの従弟、次の日こっちで結婚式で、九州から出てきてうちに泊まっていたんですよ。それで、俺があいつの結婚式に着るはずだったスーツ、あいつが汚しやがって……」 何か思い出したようにクスッと笑う。 「他にも、スーツは何着かありましたけど、とても結婚式に出られるようなモノじゃなかったんで、仕方なくあのスーツ着ることにしたんです」 「結婚式?」 「はい」 あの『幸せオーラ』はそこから来ていたのかと藤田は妙に納得した。 「藤田さんと取りに行くことになっていたのに、申し訳ありません」 高木に馬鹿丁寧に謝られ、藤田はうろたえた。 「あ、いや」 「バレないように、また預けたんですけど、見られていたんじゃ意味なかったですね」 高木が笑う。藤田は驚いて聞き返した。 「は?なに?また預けた?」 「ええ、昨日の昼また持っていって、今週末取りに来るのでまた置いてて下さいって」 「はあ?」 藤田は呆れた声を出した。 「一度取りに言ったスーツ、また店に?」 「だって、藤田さんと取りに行きたかったんですよ」 「な、にを……?」 藤田は呆然と目の前の男を見た。男らしく、落ち着いた、端整な顔。この堂々とした美丈夫のどこにそんな究極にばかばかしいことをやるお子様心があるのか? 「店の人、何て言っていた?」 「ちょっと驚いていましたけど、ぜひまたお越しくださいねって」 プーッと藤田は噴きだした。あの女性店長の驚いた顔が想像できる。 そして、自分と一緒に取りに行きたいからといって、またそっと返しに行ったという高木が可愛くて、可笑しかった。 藤田がひとくさり笑い終わるまで、高木は待っていた。 「次は、藤田さんの番ですよ」 「え?」 藤田の顔が引きつる。 「キスマークのこと、ちゃんと話してください」 高木の顔が急に真剣になって、藤田は怯んだ。 「話さないとダメかな……」 「ダメです」 「話したくないんだけど……」 「ダメです。俺もちゃんと話したんですから」 (そりゃ、お前は何でも無かったんだから、話せるだろうよ) 後ろめたいことをやっている藤田は、かなり分が悪い。 高木は、藤田が口を開くまでじっと我慢して待っている。 (しかたない。どうせ見られてしまってるんだし) 大きく溜め息をついて、藤田は話し始めた。 「相手は、ある大企業の社長で」 高木の頬がヒクッと小さく痙攣する。 「大きい契約の話があって、簡単に言うとバーターだな」 「何ですか?それっ」 高木がガタッと椅子から立ち上がる。テーブルに手をついて身体を乗り出す。 「それじゃ、藤田さん、契約のために身体を売ったんですか?そんなことしてるんですかっ?!」 「人聞きの悪いこというなっ」 藤田は赤くなって叫ぶ。 「言っとくが、こんなこと初めてだぞっ、止むに止まれぬ事情があったんだっ」 それが何かはもうよくわからない。自分だって、なんでこんなことになったのか良く分かっていない。多分、精神状態が少しおかしかったんだと藤田は思う。 「それに、その、最後まではヤッちゃいないからな」 (そんなことに何の意味があるよ?) と、自分に突っ込みながら言った藤田だったが、意外なことに高木には効果があった。 「やってない?最後まで?」 「ああ」 「後ろは、入れてないんですか?」 「ああっ」 「じゃ、バックはバージンなんですね?」 「恥ずかしいこと、何度も聞くなっ!」 高木は、椅子に座りなおして溜め息をついた。 「よかった」 と、次の瞬間、いきなり叫ぶ。 「って、全然良くないっ、たとえキスマークだけでも、そんな、藤田さんが……」 高木の頭の中に、社長という言葉で想像できる醜く太ったハゲのジジイが藤田の身体を蹂躙している妄想が踊った。 はっきり言って、それだけでイケそうなほど高木は興奮してしまった。自分の雄が思い切り反応している。それが少し情けなくて、高木は咳払いをすると、怖い顔で藤田に言った。 「どんな大きい契約か知りませんが、そんなハゲのジジイに身体を差し出すなんて、二度としないと誓ってください」 「しないよ、二度と。でもハゲのジジイはないぞ。間宮社長はそれなりに……」 自分が、ジジイとやったといわれたのが嫌だったか、つい口を滑らす藤田。 「間宮?」 高木はそれを聞き逃さなかった。 「エルゼなんとかいう花屋の社長の?」 「何で?知ってんだ?お前が」 藤田は思わず聞き返すことで、その人物だと教えてしまった。 「この間まで、就職活動中でしたからね。就職情報誌に出てましたよ、その社長」 高木の頭の中に、写真で見た間宮の顔が浮かんだ。『三十代若手社長に聞く』というような特集で学生に向けて色々と語っていた。学生向けの就職活動用の情報誌なのに、まるでファッション誌のCMのように決めたポーズが印象的だった。それがさまになっていたので、高木もよく覚えていたのだ。 (あの男と藤田さんが……) ハゲのジジイが相手では嫉妬も抑えようがあったが、あの男と聞くと……。 高木の中に抑え切れないドス黒いものが湧き上がる。 高木は立ち上がって、藤田に近づくとその腕を掴んだ。 「何するんだ?高木」 たじろぐ藤田をぐいっと立たせて、奥の部屋に連れ込む。勝手知ったるベッドルーム。 「ナニするんです」 「高木っ?!」 「あの男のキスマークを、俺が全部塗りつぶしてやる」 「ちょ、ちょっとやめろっ、たかぎっ」 「藤田さん」 「やめろ高木っ」 「愛してる」 * * * 藤田はその日、課長になってから初めて嘘をついて、午後出社をした。 『顧客苦情で直行』と言ったものの、何だったか聞かれたら応えようが無い。 まあ、聞いてくる奴はいないだろうが、根が真面目な藤田としては、部下に合わせる顔が無い。 (フローリスト・エルゼの契約の件、どうやって平手に伝えようか……) 重い足取りで、営業三課のフロアに入ると、華やかな香りが藤田を迎えた。 部屋に入ると、皆が一斉にこっちを見て、嬉しそうに笑った。 そして、部屋中には、薔薇、薔薇、薔薇…… 藤田は薔薇の種類を区別できないから、赤い薔薇、黄色い薔薇、ピンクの薔薇、としか言えないが、とにかく何十種類もの薔薇で営業三課が埋め尽くされていた。 「課長!見てください。凄いでしょう」 営業三課のアイドル華ちゃんが走ってくる。 後ろから、平手が興奮に顔を上気させてやってきた。 「課長、ありがとうございました」 「え?」 「フローリスト・エルゼからさっき契約書とこの花が届いたんです」 平手が差し出すのは、間違いなく昨日の契約書。 「すごいですよねぇ、この薔薇。課長に、だそうですよ」 華ちゃんが嬉しそうに周りを見渡す。 「課長宛てに封筒が入っていました」 平手が差し出すそれは、グリーティングカードの入っていそうな美しい封筒で、しっかり蝋で封印されていた。華ちゃんが興味深げに覗きこむ。 「ああ、ありがとう」 受け取って、その場で開けずに胸ポケットにしまう。華ちゃんはちょっとがっかりしたようだ。 「いえ、課長、本当にありがとうございました」 もう一度平手が頭を下げる。 「良かったですよね、今月成績、間に合って」 西山も自分の席から、嬉しそうにこちらを見ている。 「それにしても、しばらくは薔薇の匂いにうなされそうだな」 主任の高橋がクンクンと鼻を鳴らす。 「いい香りじゃないですか」 「服に付きそうだ」 「奥さんに疑われて困りますね」 部下たちがはしゃぐのを眺めながら、藤田は自席についた。 カードを取り出し、そっと開ける。 そこには、丁寧な直筆でこう書かれていた。 『チャンスを作って、仕切り直しをお願いしたい。 間宮博隆』 藤田は、薔薇の香りに酔ったように目眩をおこした。 END |
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