《騒然人事異動》リクルート番外編 いきなり年度末です(汗) 午前中の仕事を片付け、昼はどこで食べようかなどと考えていると机の上の電話が鳴った。赤いランプは社内だ。 藤田が受話器をとると横浜営業部の課長目黒だった。 「よう、ご優績で」 「目黒さん、どうしました?」 「俺、来年、どうもそっちらしい」 「え?」 『どうもそっち』 こんな言葉がすぐピンとくるのは、今が年度末だからだ。 最近は課長会でも顔を会わせると人事の話題ばかり。私設人事部長が大勢現れて、それぞれ自分の思うところや最近耳にした情報を語るのだが、内示を一週間後に控えた今では、噂話もかなり信憑性の高いものになっている。 「目黒さんは『好評につき続投』って話だったでしょう?」 ちなみに『好評につき続投』とは同じ部署を新年度も続けて持つこと。この時期よく使われる社内用語であり、実際に好評かどうかなどは関係なかったりする。 「ってみんなに言われてたんで、すっかりそのつもりだったんだけど、昨日常務がきてね。本社の営業部だって言われたよ」 「それは……」 果たしておめでとうと言っていいのかどうか、微妙なところだ。 普通本社勤務に戻るというと栄転を指すが、営業部間の異動の場合、その営業部の状況によって良し悪しがある。鶏口牛後の例えもあるが本社で振るわない営業部を持つくらいなら、管理職としては、本社外でも業績の良い営業部を持ったほうがいい。 目黒のいる横浜営業部は今年度飛躍的に収入保険料を伸ばして、四月五月の苦戦が嘘のように絶好調の年度締め切りを迎えようとしている。来年度に期待出来るものも多く、ここでそれらを置いて別の部署に異動というのは、残念なのではないだろうか。 案の定、目黒は 「こんなことなら、案件、全部握っとくんだった」 まんざら冗談でもない口ぶりで言った。 「全部、出しちゃったんですか?」 「そりゃ、確約してもらっているんだから、報告にのせるだろ」 「ですね」 自分も続投だと思っているから、来年度の確約分はそれとして報告している。 それもある意味今年度の評価に入るのだが、それはおまけのようなもの。 実際に収入保険料が入ってこないことには始まらないし、保険料が入って来たときはその時点の管理職の成績になるのは当然だ。異動する人間はそれを置き土産と言っている。 「で、そこには誰が来るんですか?」 「それは、まだ知らされていないよ」 「そりゃ、そうですね」 内示前だ。自分のことを知っただけでも異例だろう。 「案外、藤田、お前だったりしてな」 「それは無いでしょう」 藤田は、軽く笑い飛ばした。 「課長、印鑑お願いします」 営業三課のアイドル華ちゃんが、書類の束を持ってきた。藤田は、 「あ、じゃあ、また今度……」 慌てて電話を切ろうとする。 自分のデスクで人事の話というのも、考えて見れば軽率だった。 「あ、悪かったな。じゃあまた、近いうちに飲みに行こうや」 「ええ」 受話器を戻し、書類に目を通しながら印鑑を押していると、再び内線が鳴った。 110番――人事部の番号だ。 相手の顔まで浮かびながら受話器を取ると、 「俺」 想像通り同期の渡来。 「社内なんだから『俺』とか言う第一声はヤメロ」 「内線なんだからいいだろ?それより、お前、自分の異動の件、聞いてる?」 「えっ?」 藤田はドキリとした。前かがみになって、デスクの上のノートパソコンに隠れるようにして声をひそめて訊ねた。 「俺、異動すんのか?」 「やっぱり、聞いてないよな」 思わせぶりな口ぶり。 「何だよ、何か知ってるなら……」 渡来は人事部だ。知っていても全くおかしくない。 「ああっ、でも、人事のことは守秘義務があってこれ以上は……」 「ばか、そこまで言っておいて何だよ。言えって」 「ここじゃあね」 「は?」 「今日の夜、付き合ってくれれば」 「ちょっとまて、それってパワハラでセクハラだぞ」 「どっちでもいいよ。藤田が相手ならパワハラでもセクハラでもノープロ」 「受ける方が嫌なんだよっ」 「せっかく藤田のために調べてやったのにな」 「う」 「結構、すごいことになっているから、心配しているんだけど」 「教えろ……」 「だから、ここじゃあダメ……って、人が戻って来た。じゃ、今日の夜。一階のロビーに六時半な」 「そんな早くは……あ、おいっ」 切れた受話器を握り締め、藤田は焦った。 (俺、異動あったんだ……) 「ほら、早くしろよ」 結局気になってその日は仕事を早仕舞いすると、渡来を連れて新橋までタクシーを飛ばした。こういう話は、会社の近くだと落ち着かない。新橋の行きつけの店に入ってカウンターに並ぶと、藤田はさっそく話を切り出した。 「そんなに焦んなくても、教えるよ……せっかちなんだから……」 渡来は妖しく微笑んで、右手で藤田の太腿を撫でた。 「余計なことはすんな」 右手を掴んで、押し戻す。 「知ってる事だけ、ちゃっちゃとしゃべりやがれ」 「もーっ」 渡来は頬を膨らませて、店の親父の注いだビールを一気に空けた。 「言っておくけど、人事部の人間が人事の情報事前にリークしたってばれたら、俺のクビ飛びかねないんだからな」 「そりゃ……そうだろ」 「でも、藤田のために、クビをかけてんだよ」 (嘘つけ!)と言ってやりたかったが藤田は黙って頭を下げた。そこは営業マンだ。 「すまん。恩に着る。だから、俺がどう『すごいこと』になっているのか教えてくれ」 藤田の殊勝そうな態度に気をよくして、渡来はニッコリ笑うと藤田の耳元に唇を寄せた。 一瞬、ゾクッとしたが我慢して聞くと 「藤田、来年度、島田さんの後だって」 「島田さんって、一課の?」 とんでもない名が出てきて、藤田は驚愕した。 本店営業第一課の課長島田といえば、色々な噂もあるのだが、超のつくやり手で有名だ。それより、その一課というのは本店営業部の中でも一番大きい組織で、人員も今藤田の持つ三課の倍以上いる。当然、ノルマも倍以上。 「無理」 藤田は即答した。 「俺のキャパこえてる……っていうか、なんで俺みたいなぺーぺー管理職を一課に置くんだよ」 「おっしゃるとおりなんだけどね。でも、決まったらしいよ」 刺身を摘み上げて口に運び、 「藤田、大出世じゃん……おめでとうって、言ってやりたいんだけどねぇ」 渡来は綺麗な横顔をうつむけ、頬杖をついた。 藤田にもその意味はわかった。 「一課っていったら、あいつも、いるんだよな」 「そっ」 二人が同時に思い浮かべたのは、今年入社三年目の非役(肩書きなしの社員)雨宮孝治。 「投書の件、どうなったんだ?」 「握りつぶしたんだろ、当然。うちの室長も知らん振りだし。噂じゃ、雨宮も納得したって聞いているけど……」 「どうだろうな……」 何かというと、平社員の雨宮が課長の島田を落としいれようと人事部と社長宛に『投書』をしたという話。しかし、社長宛の手紙を社長が直接見るはずは無く、秘書から本店営業本部に連携され、人事部に届いたそれもすぐに引きとられ、結局のところ手紙の中身もわからずじまいのまま噂だけが一人歩きをしていた。 「まあ、島田さんも雨宮もそのまま働いているし、な」 「まあね。二人にはかなりヒアリングが入ったらしいけど、その結果お咎め無しなら、大したことじゃなかったのかもね」 「でも、なあ……」 自分の下に、社長に直訴するようなやつがいるというのは、上司としてはやりづらいことこの上ないだろう。 「……どういう内容だったんだろうな」 ボソリと言う藤田に 「セクハラだっていう話も聞いた」 渡来がキラリと瞳を光らせて答えた。 「うっそ」 摘んでいたイカの足をポトリと落とす。 「雨宮、綺麗な顔してるだろ?」 「綺麗って……男だろお? それに綺麗だけなら、お前のほうがよっぽど」 と、そこまで言ってハッとした。 渡来が嬉しそうにしなだれかかってきた。 「マジー?!うれしー」 「うわ、やめろ」 「藤田、いよいよ本気になってくれた?」 「やめろって言ってるだろっ!お前も、セクハラで投書するぞっ!」 飲みすぎた次の日。 「藤田課長、本部長がお呼びです」 「あ、はい……」 珍しい呼び出しに、藤田は椅子にかけていた上着を着てネクタイを整えた。 「なんだろう……あ、まさか」 まさかの坂を転がり落ちる、想像通りの人事の話だった。 「……と言うわけなんだが、どうだ?」 本部長が昨日渡来が言ったとおりの話をしてきた。 どうだと訊かれて『嫌です』と即答できるものではない、それが人事。 「もう、決まっているんですよね」 「ん?」 「それとも、内示の前に打診してくださるということは、私の希望によっては変わる可能性もあるということですか?」 「いや、それはない」 本部長は、きっぱりと言い切った。 要は、万が一にも内示当日にごねられると鬱陶しいので、事前に根回しをしておきたいだけ。 「決まっているのなら、私としては……」 (何もいえないだろっ!) 事前に渡来から聞いていただけに驚きも少なくあっさり頷いた――ように、本部長には見えた――藤田に本部長は、ニコニコと笑って言った。 「さすがは藤田くんだね。君なら、一課の大看板を背負っても、立派にやっていけると期待しているよ」 (一家の看板……背負って……) 藤田は、自分が任侠モノのヤクザの親分にでもなった気分で、本部長室を後にした。 内示が終わってすぐ藤田は内線をかけた。相手は一課の課長の島田だ。昔は、正式な人事発表の前に動くのは如何なものかと敬遠されていたのだが、ここ数年は内示が出た時点で前任にあたる人に挨拶するのが礼儀とされている。藤田のところにもじきに後任からの連絡が入るだろうが、管理職としては新米の藤田はまっ先に動かないといけない。 「また、引継ぎ等でお世話になります」 「ああ、後任が君のような若手で驚いたけれど、まあ、期待されてのことだろう。頑張ってくれ」 島田の応対はあまり感じのいいものではなかったが、やむないことだと藤田は思った。 (自分の後任があんまり格下だと、誰だっていい気分じゃないだろう) 島田のエリート然とした顔を思い浮かべながら、藤田は受話器を持ったまま頭を下げた。 「島田課長の築かれたものを、大切に引き継がせて頂きます」 「正式な発表があったら、うちの部に来てくれ」 「はい」 その夜、残業をしている藤田のもとに電話がかかってきた。 「藤田課長ですね。僕、営業一課の雨宮です」 意外な人物からの電話に、藤田は驚いた。 「雨宮、くん?何で?」 「お話したいことがあって。これから伺ってもいいですか?」 「これから?」 「はい」 「や……」 (なんだろう……) 正直、びびる。 相手は社長直訴で名高い雨宮だ。このタイミングでの電話など不穏すぎる。 「ええと……今日じゃないとダメなのかな」 「早いほうが、いいんです。それに、周りに人がいない方がいいんで……」 「人?」 確かにフロアには自分ひとりだが……と、きょろきょろ見回すと 「失礼します」 開きっ放しのドアから雨宮が姿をあらわした。右手に携帯電話。 「ひっ」 不覚にも藤田は、変な叫び声をあげてしまった。 「……幽霊でも見たような声を出さないで下さい」 「……すまん、突然現れるからだ。それより、何のようだ」 気を取り直し、課長らしく威厳を取り戻そうとする藤田。 「島田課長の件で」 (聞きたくねえええっ!) 管理職に必要なのはリスクマネージメントだ。藤田のリスクマネージメント力が、言い換えれば危険を知らせるアンテナが、これ以上話を聞くなとサイレンをならした。 「島田課長のこと?何故、私に?」 「藤田課長、今度一課にいらっしゃるんですよね」 「まだ発表前だ。何で、君がそんなことを」 「内示が出てしまったらみんな知りますよ。それより、どうしてもお伝えしておきたいことがあるんです」 雨宮の真剣な目に、藤田は迷った。 『どんな話か知らないが、聞く気はない』と突き放せればいいのだが、話を聞く前から突き放すというのはどうだろう。しかし、聞いてしまったら後には引けないような気がする。 それは危険だとリスクマネージメントアンテナが、鬼太郎の妖怪アンテナのようにピピピと雨宮を指して警告している。 藤田が困っているのには気づかぬふりで、雨宮は唐突にしゃべりだした。 「島田課長、今もっている案件、次の部署に握って行こうとしているんです」 「へ?」 藤田は気が抜けた声を出した。 「ああ、そんなこと……」 正直、異動にあたっては良くある話だ。自分の妖怪アンテナも間違っていたらしい。 藤田は内心ホッとした。 「そんなことって言いますけど、三十億ですよ」 「はっ?」 再び素っ頓狂な声をだす。次は『ふ』か『ほ』だ。 「三十億って……いったい何だ、それ」 「あけぼの銀行の管財です」 「あけぼの銀行?あそこは、サンホールディングスのグループだろ?そこに損保はあるじゃないか」 「サンホールディングスには入らないかもしれないんです。あけぼの銀行」 「え?そうなの?」 金融業界の統合や合併の続く中、銀行、生保、損保、信託等のグループ化が進んでいるが、そこには色々な企業の思惑もあり、上手くいかないことも多い。 「あけぼの銀行の不良債権処理問題がはっきりしていないかららしいですけどね。太陽銀行が嫌がっているらしいです」 「ほぉ」 太陽銀行というのは、サンホールディングスの中核となる銀行だ。 「で、統合話が暗礁に乗り上げている中、あけぼの銀行も他に提携先を探していて」 「ちょっと待て、何でお前、そんなに詳しいんだ?」 「…………」 雨宮はちょっと嫌な顔をした。 「プレス発表だってされていないだろ?」 「それは、どうでもいいです」 「よくないっ」 「とにかく、サンホールディングスと関係なくなったら、あけぼの銀行はうちと組もうとしているんですよ。それで、うちが株を買うかわりに、三十億」 「そんな大きな話、本当だったら、俺の耳にだって入っているよ」 「だから、島田課長が一人で握っているんです」 「本部長にも知らさずにか?」 「ええ、話をまとめて、自分の手柄にしたいんですよ」 「信じられんな。話が大きすぎる」 「でも、本当です」 「だから、何でお前がそんな話、知っているんだよ」 結局、堂々巡りになりかけたところ、雨宮がため息ついて言った。 「あけぼの銀行の頭取って、僕の伯父さんなんです」 「げっ」 さすがにびっくりして顔を見る。雨宮は綺麗な額に不快そうなしわを刻んで頭を掻いた。 「もともと、あけぼの銀行の話を島田課長につないだのは僕です。だから、今言ったのは全部、本当のことです」 (つないだのは僕ですって……それなら、何で??) 藤田は混乱した。 「ええと、よく……わからないんだが……」 「これ以上詳しい話は言えませんけれど、島田課長に言ってください、一課の案件は一課に置いて行けって」 「そんな」 「あけぼの銀行の件、本部長に報告していただいてもいいですよ」 「待てよ。そしたら、お前が……」 「じゃ、よろしくお願いします」 それだけ言って、雨宮は部屋を出て行った。 藤田は呆然と取り残された。 * * * 「ううん、それってどうなんでしょうね」 藤田のマンション。 我がもの顔で座っているのは高木だ。このところしょっちゅう、コンビニで缶ビールやつまみを買ってフラリとやって来る。 「自分がつないだ案件をよそに持っていかれるってのは、やっぱり悔しいんでしょうね」 「でも、それだったら自分で言えばいいじゃないか」 「課長が怖くて、直接言えないとか」 「社長に直訴する男だぞ」 「うーん」 「なんか、裏がある気がする」 「裏って?」 「よくわからないが……」 ラグに座って腕組みする藤田を見て、高木は目を細めた。 「それよりその一課って、新人は配属してもらえるんですよね」 「はあ?」 「俺のところに来いって、藤田さんが言ったんでしょう?責任とってくださいよ」 「あ、ああ」 藤田は缶ビールをグビッと飲んで 「でも、新人の正式配属は俺たちノータッチだからなあ」 つまみのサラミに指を伸ばすと、高木がその手を押さえた。 「そんな無責任なこと言わないで下さいよ。藤田さんの言葉を信じて来たのに」 「そんなこと言ったって……って、何しようとしているっ」 高木は藤田の手をとったまま、グイッとひっぱり床に組み伏せようとしている。 「同じ部署になれないなら、せめて……」 「ふっざっけんなあっ」 藤田の蹴りが高木のみぞおちを打つ。が、寝ている姿勢じゃ力は入っていない。 「おっと」 高木はおかしそうに身体を捩って、そのまま、藤田にタックルした姿勢で圧し掛かった。 「……重い」 ラグマットに仰向けに組み伏せられた藤田が憮然と言う。 高木は藤田の胸に顔をつけたまま、喉を鳴らす。 「ねえ、まだ、抱かれる気になりません?」 「なんねーよ」 バックバージンは守っている三十三歳。 「じゃあ、キスだけ」 「…………」 「ね、いいです?」 「いちいち、聞くなっ」 結局、雨宮の件を深く考えることも出来ず、藤田は次の日を迎えた。 そして、藤田はそこで次の事件を聞くこととなった。 「本部長が、至急来て欲しいとのことでした」 朝の打ち合わせ中に、華ちゃんが会議室まで呼びに来た。 「今すぐ?」 「お急ぎのようです」 「わかった」 ミーティングの中身を簡単に課長補佐の吉本に引き継いで、藤田は本部長室に向かった。 「失礼します」 ノックしてドアを開けると、そこには人事部の部長も同席していた。藤田は一瞬入るのを躊躇する。 「ああ、いいから入って」 「あ、はい。失礼します」 再び頭を下げて部屋に入り、促がされるままにソファに腰掛けると、本部長が 「とりあえず用件を言うと、昨日の内示だがペンディングにしてくれ」 唐突に言った。 「はい?」 藤田が驚いて本部長を見返すと、隣に座っている人事部長が口を開いた。 「内示の後にこんなことになってすまないのだけれど、どうしても調整する必要が出てね」 「はあ」 (玉突きか……) 一人の人事の不都合が生じた際、その一人を動かすことで次々に人事が動いてしまう。よくある話だが、内示の後というのは稀なケース。 「わかりました」 自分でどうこう言って変わる問題でもない。藤田は素直に頷いて、チラリと本部長の顔を見た。苦虫を噛み潰したような顔。機嫌はかなり悪そうだ。 (事情は、教えてもらえそうにないな……) 「それでは…」 藤田は、頭を下げて立ち上がった。 「君の新年度の所属については、なるべく早急に知らせるから」 人事部長が言った。 「よろしくお願いします」 本部長室を出て、エレベーターホールに向かいながら、首をひねる。 (いったい、誰が動いたんだ?) と、その肩をつかまれてギョッと振り向いた。 「って、渡来!おどかすな」 「本部長に呼ばれたんだろ?」 「ああ」 「うちの部長もいただろ」 「ああ」 「何、言ってた?」 「何って、俺の異動がペンディングって話」 ふと藤田は閃いて 「お前、何か知ってんじゃないのか?」 渡来の腕を取って、エレベ―ターホールの隅へと引っ張った。 「一課の島田課長に関係あることらしい」 渡来は眉をひそめた。 「あっ…」 藤田は、昨日の雨宮との会話を思い出し思い当ったように声を上げた。 「何だよ、藤田何か、知ってるのか?」 「いや、知っているっていうか」 「あ、ちょっと待ってろ。俺、この伝言、秘書に預けて来るから」 渡来は小走りに行ってすぐに戻って来た。 「聞かせろよ」 「お前、時間は?」 「いいって」 「俺は、ミーティング抜けてきてるんだ」 「だったら、手短に言えよ」 「何で、そんな知りたがるんだよ」 オバサンっぽいヤツだ。と、言おうとしたが、 「お前に関することだからじゃないか」 渡来が真剣な顔で言うので、藤田は言葉を飲み込んだ。 「藤田」 「……わかったよ。こっち来い」 人目を避けて、手短に昨日の話をする。渡来は黙って聞いていたが、話が終わると携帯電話を取り出した。 「渡来?」 「俺の大学の後輩が株式部にいるんだよ」 そう言って慣れた手つきでボタンを押すと、何やら小声で話をしている。 「……ふうん。じゃ、またわかったら、ヨロシク」 パチンと携帯をたたむのを見て 「何、聞いてたんだよ」 「そのあけぼの銀行の株式取得話だよ。株式部でもそんな噂は無いらしいけど、それとは別に今朝から上が慌しいって」 「ふーん」 「案外『それとは別に』じゃないかもね」 「うん」 渡来と別れて自分のフロアに向かっていると、前方から突然雨宮が現れた。 「藤田課長」 「わ、何だ、その顔」 雨宮の綺麗なはずの顔の左半分が酷く腫れている。 「どうも、ありがとうございました」 「はっ?」 「本部長に言ってくださったんですよね。昨日の件」 「えっ?いや、俺は……」 「いんですよ。本当にありがとうございました。おかげで助かりました」 踵を返す雨宮の腕を取る。 「ちょっと待て。俺は本当に何もしちゃいない」 雨宮は怪訝な顔で振り返った。 廊下のど真ん中。通りすがりの女子社員が何事かという顔で振り返る。 「と、とにかく。ちょっと来い」 雨宮の手を引っ張って、空いている会議室に押し込んだ。 「お前、その顔どうしたんだよ」 「…………」 雨宮は、黙って頬をさすった。 「殴られたのか?」 藤田は躊躇いがちに尋ねた。 「島田課長に?」 雨宮は黙って頷いた。 「昨日のこと、俺に話したからか?」 「……そういうこと、だと思ってましたけど、藤田課長って、本当にそのこと誰にも話していないんですか?」 「あ、ああ」 話したといえば高木と渡来だが、この際それは関係ないだろう。 「ふうん。じゃあ、偶然同じタイミングで誰かがチクったのかな。まあ、それでもいいんだけど」 「おい、何だよ、そのチクったって。お前、俺にチクらせようとしてたのか」 雨宮は藤田の顔を見て、ふっと笑った。 「チクリって言うのは何ですけどね。誰かにあのこと公にして欲しかったんです」 「雨宮……」 はっとして 「だったら自分で言えばいいだろう?元々お前がつないだ話なら、お前が自分でやりたいって言ったら、本部長だって……」 「僕は、別に、三十億の案件を自分でやりたかった訳じゃないですよ」 「だったら……何で?」 藤田が眉をひそめてじっと見ると、雨宮は申し訳なさそうな顔をした。 「すみません。藤田課長」 「何?」 「一つ間違ったら、藤田課長にもご迷惑かけたかもしれません」 「ど、どういう意味だ?」 「あけぼの銀行とうちが組む話、ダメになりそうなんです」 「え?」 「ダメになったほうがいいんですよ。あけぼの銀行、マジでヤバイんです。でも、島田課長は必死でやってて、諦めてもらおうとはしたんですけど、全然聞く耳もたなくて……株式取得の件も、ごく一部の人間と水面下で動いていて……結構、お金も動かしてるんですよ」 雨宮の話に、呆然とする藤田。 「異動の話があったから、それで置いて行ってくれれば、もともと夢見たいな話だから、次の課長はすぐ諦めてくれるかもしれない。でも、島田課長は、今までつぎ込んでいるものも大きいから……」 「ちょっと、待てよ。それで、俺に『置いて行け』って言わせようとしたのか?」 「すみません。でも、島田課長がすんなり頷くはずはないから、それで藤田課長が公にしてくれれば、って」 「バカやろう」 「すみません、バカなんです」 雨宮は、頬を撫でながら下を向いた。 「あけぼの銀行、ヤバイのか?」 「伯父は進退覚悟したみたいですよ」 言ってから、ペロリと舌を出した。 「あ、でも今の話はナイショですよ」 「お前……島田さんと……」 (どういう関係なのか?) とっても気になる。渡来のことをオバサン呼ばわりできない。 藤田が言葉を濁すと、雨宮は吹っ切れたような顔をして言った。 「付き合っていたんです」 (げぇっ!) やっぱり……と藤田は思った。 もうすっかり古い例えだが、世界が百人の村だったとして、全員が自分の周りを囲んでしまった。 「でも、島田課長の奥さんにバレて話がドロドロに拗れたとき、僕もかっとして変なことしちゃって」 (あ、あの直訴……セクハラ説はまんざら嘘でもなかったのか……) 「今は何でもないんです」 「そ、そうなのか……」 呟いて、しかし藤田はふと思いつく。 「でも、お前、島田課長のことまだ好きなんだろ?だから、自分以外のだれかに止めて欲しかったんだよな?」 藤田の言葉に雨宮は目を見開いて、そして、ほんの少し目尻に涙をためた顔で微笑んだ。 「あんまり驚きませんね?」 「え?」 「ホモ、慣れてます?藤田課長」 「なっ、ななな、慣れてるはず、ないだろお」 声が裏返る。 雨宮はクスクス笑った。 「なんか、藤田課長っておかしい」 「は?」 藤田は赤くなった顔で見返す。 「島田課長の後が藤田課長でよかった。楽しくなりそう」 (う……) どういう意味だろう。 藤田の妖怪アンテナが再び警告を発している。 * * * 「結局、異動は無くなったのか」 営業三課の応接室、渡来が長い足を伸ばしてソファで伸びをする。 「ああ、島田さんの特抜がなくなったから、順繰り動いて結局来年もここだよ、俺は」 特抜とは通常以上の大抜擢人事を言う。昔で言うならニ階級特進。 「今回のあけぼの銀行の件も、内示の日に島田さんの特抜を聞いた同期がねたんで、別ルートで聞き込んだネタを上にチクったらしい。上を通さずインサイダーなこと勝手にやってるって、かなり酷く言われたらしいよ」 「別ルートでって?」 「株式部で島田さんと組んでヒソヒソやってたのを、そのまた同僚が調べて嗅ぎつけたとか」 「こーわー」 藤田はふざけたように肩を竦ませた。 「出世の花道には、毒花もあだ花も咲くってね」 「他の部じゃ、同期で足の引っ張りあいとかあるらしいな」 「俺は、藤田のためなら喜んで踏み台になるけどね」 「いや、いいから……」 「あっ」 突然、渡来は大声を出した。 「そういえばお前と雨宮が、内示の次の日痴話喧嘩していたって話を、うちの女の子から聞いた」 「はあっ?」 「どういうことだよ」 「どういうって、なんだそれっ」 「うちのお局に言われて雨宮に直接聞きに行った女の子が『ノーコメント』って返されたとか」 「ノーコメントって……」 あの後すぐ、人事が白紙になっていることを知った雨宮から 《藤田課長に一課に来ていただきたかった》 というメールを貰った。 「まさか、何か噂になるようなことしたんじゃないだろうなっ」 「し、してない、してない、してない」 「藤田課長、いらっしゃいますかあ?」 応接室のドアをノックしながら華ちゃんが顔を覗かせて、渡来は、前のめりになっていた身体を起こして取り繕う。 「ああ、何?」 「書類、午後の便に乗せてしまいたいんで、ハンコください」 「わかった。すぐ行く」 じゃあな、と渡来に目で合図すると、 「また後で」 渡来は、美貌の微笑みを返す。 華ちゃんはそれにうっとりしながらも、藤田の後を追いかけてきて言う。 「課長、来年も三課なんですよね」 「ん?ああ」 どうせバレているし、まあいいか。と、頷くと、 「嬉しい」 華ちゃんは、明るく笑った。 「え?」 「みんな言ってましたよ、藤田課長じゃなくなると嫌だって。私もです」 「そ、そうか?」 「課長がいると、何故か同期の渡来補佐もよく来るしぃ」 「あ、そ」 「でもなにより、藤田課長は可愛いから愛されています」 「…………」 「これからも、営業三課のアイドル課長でいてくださいねっ」 (それは、お前の称号だろ?) 『本店営業第三課のアイドル華ちゃん』の屈託無い笑顔を見ながら、次第に胸が温かくなる藤田だった。 |
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