《激情の締め切り報告数字》前編 「お疲れ様です」 藤田が会議室に入ると、中にいたのはまだ一人だけだった。 「よう、お疲れ様」 横浜営業課の営業課長、目黒徹雄(めぐろてつお)。入社は藤田の三年先輩にあたるが、営業課長になったのは去年同時だ。四十代の課長ばかりの中で三十代は二人だけ、しかも若手新任課長同士悩みどころも似ているため、日頃から何かと情報交換をしている仲である。 「どうだ、藤田、今月?」 藤田が自分の机上プレートを正面に向けて立てながら席につくのを待って、目黒が声をかける。 「もう数字出ているでしょう、この通りですよ」 「入らないなぁ、お互い」 コの字型に設営された机の上には、会議用の(かなりは無駄と思える)分厚い資料が既にセッティングされており、その一番上には、午前中に報告した今月の〆切見通しの数字が全営業課分集計されて速報のように配られている。 「俺たち、三月、入れすぎたよな」 目黒の言う三月とは、前年度の決算月の話である。 藤田も目黒も自分の課の年間指標(いわゆるノルマ)は終わっていたのだが、首都圏の指標達成の為にもっとやれと上から尻を叩かれ、結果、どちらの課も大いに貢献してその時だけは誉められたものの、新年度に入ったら当然ゼロクリア、四月五月と苦戦を強いられている。 「その点、加藤さんなんかさすがだよな。三月、自分のところが終わった後は死んだふりして、新年度入ったら途端にこの数字だよ」 目黒は、〆切見通しのペーパーをひらひらとさせて、恨めしげに言う。 「税理士の紹介で大きいやつがたまたま入った、って言ってましたよ」 自分と同じフロアの営業一課の加藤課長を、藤田が軽く庇うと 「何言ってんだ。前から隠し持ってたんだよ。甘いな藤田、そんな言葉信じて。アマアマだ。甘ちゃん」 「そうですかね」 「ああ、でも安心しろ藤田、今月も来月も俺が支えてやる。底辺をな」 見ると、目黒の課の方が藤田の営業三課よりも数字が悪かった。 経営戦略会議とは名ばかりで、会議のほとんどは幹部による檄(ゲキ)、いわゆる『カツ入れ』である。 目黒が散々に絞られた後、予想どおり藤田にお鉢が回ってきた。 「営業三課!」 「はい」 藤田は神妙な顔で立ち上がる。 「中間の送り見通しから、〆切見通しで、こんなに数字が下がっているのはなんでだ?!数字は常に上げるもんだ!〆切報告でバックスピンかけるなどは、言語道断!」 「申し訳ございません。青木商事が、更改直前にリスク分散と言ってシェアの四割を東洋海上に回しまして……」 東洋海上は国内損害保険会社の最大手である。アメリカのテロ事件をきっかけに倒産した損保会社が出たこともあって、最近は顧客も会社の規模や健全性に敏感になっている。 「言い訳するな!」 幹部の怒鳴り声に (お前が、『なんでだ』って聞いたんだろ) 藤田は顔に出さずに心中で悪態をつく。 「東洋海上、東洋海上と、卑屈になるなっ。ジャパンマリンだって、規模は小さくとも、健全性、財務内容などは東洋海上と肩を並べて遜色ない!」 (だれが、卑屈になってんだよ。それにしたって結局ナンバーワンじゃないんだから仕方ねぇだろ。六割確保しただけ立派なもんだよ) 立ったままの藤田がいちいち心中で反駁していると、目黒が胸ポケットを押さえて静かに立ち上がるのが目の端に入った。 (携帯か) 会議中の携帯電話は、以前は電源を切るよう言われていたが、管理職の不在で案件が止まり支障をきたしたことがあって以来、役員の話中以外では許可されている。それでも自分の判断で切ってしまうことの方が多いのだが、目黒は立ち上がると一礼して、ついたての向こうに消えた。 「ああ……そう……ああ、わかった……終わったらすぐ行く……まかせる……ああ」 叫ぶ幹部の声よりも、目黒の小声の方が気になる。ここにいるほとんどの課長はそうかも知れない。なにしろ、この怒鳴り声は皆聞き飽きているのだ。 ようやく藤田が開放されたと同時に、目黒も自席に戻って来た。席につく際、藤田を見て一瞬ニヤリと笑った。 「?」 不意に自分の携帯が震えた。見ると、ショートメール。 ソレナラジブンガヤッテミロ 目黒の方を見ると、知らん顔で資料を見ているが口許が緩んでいる。 藤田も、苦笑する口許を押さえて、真面目な顔を作って資料をめくった。 * * * 「藤田課長―っ」 会議が終わって課に戻ると、部下の平手健一が飛んできた。 「課長、今週の日曜日空いてますか?」 (日曜?) 実は、高木に弁償したスーツを取りに、新宿のデパートに一緒に行く約束をしていた。けれども、部下のこんな顔を見て、即『ダメだ』とは言えない。 「何があるんだ?」 「この間言っていた《フローリスト・エルゼ》の社長が、この日曜だったら会えることになったんですよ」 「エルゼの」 「はい。管財だし、大きい話だし。課長同行して下さいよう」 雨に濡れた子犬のような瞳でウルウル訴えてくる。 「わかった。行こう」 藤田にしてみても、会議で絞られたばかりだ。大きな案件を部下一人に任せるわけにはいかない。 (同行して、決めなければ) 『え――――――っ』 日曜の件で断りの電話を入れると、案の定、高木は不服そうな声を出した。その声に何となく藤田も不機嫌になる。 「仕事が入ったんだから、しょうがないだろ。なんならお前一人で取りに行ってこいよ」 俺と違って学生のお前は暇なんだから、と言ってやりたかった。 『意味無いでしょう。一人で行ったって』 「なんだよ、意味って。とにかく、その日ダメだから。悪いが」 『じゃ、その次の日曜ですね』 「また、仕事が入らなければな」 『キリ無いじゃないですか』 「無いんだよ。仕事にキリは!」 会議で絞られたせいだろう、自分でも八つ当たりしているのがわかった。学生の高木を羨んでいるのかも知れない。 受話器を置いて、藤田は溜め息をついた。 その夜、玄関のベルに不審な思いを抱きつつドアを開けると、高木が立っていた。 「こんばんは」 「な……」 一瞬言葉が出ない。 「何しに来たっ、って、『ナニしに』って落ちはなしだぞ、今回」 なにしろ、前回うっかり部屋に入れて襲われた経緯がある。藤田はドアノブを強く握り締め直した。 「何もしませんよ。今日はね」 高木は笑って、コンビニの袋を目の前にかざした。 「酒?」 「藤田さん、今日なんか電話でイライラしていたみたいだから。よかったら一緒に飲もうかと思って」 「高木……」 正直、今日は誰かと飲みたかった。 できれば目黒と久々に飲みに行きたかったが、仕事ですぐに横浜に帰ってしまったし、相手が部下だと会社の愚痴を言うこともできないし、結局家に帰って、一人でビールを飲んでいた。高木はニッコリ微笑んで 「一人で、始めていたんですね。付き合いますよ。ほら」 勝手知ったる藤田の部屋。すいすいと奥のリビングに入っていった。 高木がラグに座ると、藤田は先日そこでやったことを思い出し、一瞬、顔に血をのぼらせた。 高木は、そんな藤田を見上げ 「何もしませんよ。心配ならドア細めに開けときます?」 「ば、馬鹿か。嫁入り前の娘じゃあるまいし」 「嫁入り前のムスメより、よほど美味しそうですけどね」 バン! 座りかけていた藤田が、ソファテーブルを叩いて立ち上がる。 「うそ、うそ、うそ、うそ、うそ」 慌てて、高木が両手を上げて降参のポーズ。 「もう言いません。何もしません」 「本当だな」 藤田が眉間にしわを寄せて唇を尖らす。 「本当です。今日は藤田さんの話を聞きに来たんですから」 「…………」 「俺でよければ、ね」 「でも、お前も来年、俺の会社に入って来るんだしな」 そういう意味では、部下に愚痴るのと五十歩百歩だ。 「今だけですよ。忘れますし。話すだけ話してみて下さいよ」 (そう言われると……) 実は誰かに話したかった。 高木の、年下のくせに懐の深そうな、落ち着いた瞳が藤田を見つめる。男らしく凛々しい顔が、こういうときは本当に穏やかな表情(かお)になる。 その瞳に促されるように話し始めた藤田は、今日会社であったムカムカモヤモヤを全部吐き出して、おかげですっきりと眠りにつくことができた。 * * * 日曜日。 藤田と平手は、青山にあるビルを訊ねた。一階に《フローリスト・エルゼ》の本店が入っている、有名な建築家が設計したという洒落たビルだ。 藤田はまずその一階の店舗に驚いた。 花屋などめったに覗いたことの無い藤田は、薔薇と百合とチューリップの区別はつくといった程度の男だが、その店には薔薇だけでも何十種類とあり、それだけでも圧倒された。 様々にアレンジされた大小の花篭。大きいアレンジメントは二メートル近くあった。プレゼント用にこれから贈られるのであろう花束が、所狭しと並べてある。いや、狭くなどないとても広い店舗なのだが、それ以上に溢れんばかりの花の数なのだ。 軽く深呼吸すると、香りに酔いそうだ。 ビルの最上階が事務所になっていた。通された応接室で十分ほど待たされた後、おもむろにドアが開き、社長が現れた。 ここで、藤田は二度目の驚きを隠せなかった。 その、全国に展開している高級フラワーショップ《フローリスト・エルゼ》の社長は、藤田とそう歳が変わらないような、せいぜい二つ三つ年上くらいの若い男だった。精悍な顔と意志の強そうな目がやり手を思わせるが、長目の髪も派手な顔立ちも、とても企業の社長には見えない。どちらかというとモデルとか俳優といった方が似合うタイプだ。 「はじめまして。お待たせしてすみません。社長の間宮です」 渡された名刺には、確かに代表取締役社長間宮博隆(まみやひろたか)と書かれていた。藤田も慌てて名刺を差し出すと頭を下げる。 「はじめまして、ジャパン海上火災の藤田です。本日はお忙しいところお時間をいただきまして有難うございます」 藤田に続いて、部下の平手も名刺を出す。緊張しているようだ。 間宮は、ソファに深く座って両手を組むと 「では、さっそくプランの説明をいただきたいのですが、できるだけ簡潔にお願いします。なにしろ保険は難しくてね。素人にはわかりにくい」 綺麗に並んだ白い歯をちらりと見せて笑う。 (自分が相手に与える印象を、よく計算しているタイプだな) と藤田は思った。 藤田の説明の間、間宮はたまに設計書の上をすべる藤田の指先を見たが、ほとんどは、うなずきながら藤田の顔を見ていた。 (わかってんのかな) そう思って藤田はたまに幾つか質問も挿んだが、間宮からはすぐに的確な答えが返ってきたので、理解してくれていると思えた。 「……という内容ですが、いかがでしょうか。保険料は従来のものよりも安くなっていますし、保障内容は広くなっています」 「そうですね。東洋海上さんが提案されたのと、ほとんど同じタイプですね」 (出た。また東洋海上かよ) 藤田の心中で舌打ちが鳴る。 「そうですね。こういった商品では、商品内容にさほど大きな差はありませんから」 しかたなく、藤田はニッコリと笑ってみた。 間宮も、それにニッコリと返して言う。 「じゃあ、私たちは何を基準に選択すればいいんでしょうね」 (うーん、痛いところを……) 会社の大きさ、財務内容、健全性、支払能力、どれをとっても東洋海上には負けている。しいて言うなら…… 「パンフレットには書かれていない、アフターサービスや担当者との信頼関係でしょうか」 (今日初めて会ったのに、信頼関係もクソもねえだろ) 自分自身に突っ込みを入れつつ、十年で培った営業スマイルを見せると、意外にも間宮は大きくうなずいた。 「そうですね」 「?」 「では、来週の水曜日の朝、改めてお電話申し上げます。本当に今日は有難うございました」 次回のアポイントを手帳に書き込むと、藤田は頭を下げて立ち上がった。 「もし居なかったら、その時はメールを入れておいてもらえれば、返信します」 「かしこまりました」 「それでは、失礼します。有難うございました」 ほとんど何も話をしなかった平手が、挨拶だけは丁寧に、腕を両脇にぴったりと付けて腰を直角に曲げる。平手にとってはこれが成約したら、入社以降初めての大金星だ。 応接室を出て、事務所のドアまで廊下を歩いたところで、不意に呼び止められた。 「あ、藤田さん、ちょっと」 「はい?」 振り向くと、間宮が応接室の入り口から身体を半分だけ出してこっちを見ている。 「一つ質問があるのですが、今いいですか」 「あ、はい」 藤田は、平手にこのまま待っておくように目で合図して頷くと、ひとり応接室に戻った。 「なんでしょうか」 藤田が部屋に入ると、間宮はドアを閉め、そのまま覆い被さるように藤田の両脇の壁に 手をついた。壁と間宮に挟まれた形になって、藤田はたじろいだ。 「間宮社長?」 間宮の目がいたずらっぽく光る。 「さっき、貴方は選択の基準は担当者との関係だと言いましたよね」 「…………」 「もし、私が、貴方が一晩付き合ってくれるのなら契約すると言ったら、どうしますか」 もしも二ヶ月前の藤田だったら、この言葉の意味は分からなかっただろう。いや、仮に分かったとしても冗談だと思ったに違いない。 けれど、高木や渡来のことがあって以来、こういう話は藤田にとって冗談では無かった。 そのため、不覚にも激しく反応してしまった。 すなわち、言葉を失い、顔に朱を散らして、じっと間宮の顔を見つめる。 この反応に間宮は手ごたえを感じた。 「どうでしょう、この後、食事でも……」 「い、いいえっ」 藤田は我に返って、力強く首を振った。 「社に、戻らないと、いけませんので」 若干、声が震えている。 「そうですか」 間宮は残念そうに壁についていた両手を離すと、改めて藤田に向き合って微笑んだ。 「では、次の機会に。考えておいてくださいね」 「質問ってなんでした?」 平手が無邪気に訊いて来る。一般的に質問が出るというのは脈がある証拠だから、嬉しそうだ。 藤田は、赤くなりそうな顔を気取られないようにわざとらしくこすると、つまらなそうに言った。 「いや、基本的なことで、たいした話じゃないよ」 駅までの道をとぼとぼ歩きながら、藤田は頭の中ではこう呟いていた。 (世界がもし、百人の村だったとして、ホモは何人なんだろう。仮に五人だとして、どうして俺の周りに三人も集まったんだろう) 自分を入れて四人だとは、このときの藤田は思っちゃいない。 『社に戻らないといけませんので』 とっさに間宮に応えた言葉。 (これって、女性社員向けの研修で見たセクハラ防止マニュアルの台詞だったな。《顧客に食事を誘われた時》の。そのまんまやんけ。なんで、三十三歳にもなった男がセクハラを受けなきゃなんないんだ。しかも男から……) 自己嫌悪に陥りそうな自分を励ましつつ、藤田は駅で平手と別れた。 『社に戻る』などというのは、当然嘘である。 (さて、これからどうしよう) まだ、明るい。せっかく出て来ているのだから、どこかに寄ろうか。 そして、藤田が新宿のデパートに寄って高木のスーツを受け取ろうと思ったのは、ほんの思いつきだった。 先日、経営戦略会議の日の夜に高木が来てくれたことに、藤田は実は密かに感謝していた。あの夜、今思うと恥ずかしいような愚痴も含めて、何もかも包み込むように聞いてくれた高木。年下とは思えない包容力を感じた。本人に面と向かってはとてもそんなことは言えないが、あの日藤田は、高木に来てもらえて本当に楽になったのだ。 (その礼もしたいし。スーツは俺があいつの家に届けてやろう) 高木からは、無理やり自宅の住所、電話番号、メールアドレスなど渡されていた。今まで藤田が自分から連絡したことはほとんど無いが。 (一緒に取りに行きたがっていたけど、持って行ってやれば、それはそれで驚いて……喜ぶかもしれないな) 『喜ぶかも』と思ったときに藤田は少し赤くなった。玄関を開けて自分が立っていたら、あの高木はどんな顔をするだろう。想像するとなんとなく頬が緩んで、藤田は足取り軽く地下鉄の階段を駆け上がった。 デパートのエスカレーターに乗って、何の気なしに前を見ると、ご婦人方の中に混ざって明らかに目立つ大きな背中があった。 (え?) その若干左の肩を下げた立ち姿、広い肩幅、そして綺麗に櫛の通った真っ黒な髪。 (高木?) 偶然にしても、恐ろしい偶然。同じエスカレーターの上と下に乗っている。 藤田の前には恰幅のよいご婦人方がずらりと並んでいるので、押しのけて上って行くのは憚られ、降りたところで声をかけようと藤田はじっと高木の背中を見つめた。 紳士服売り場のフロアで降りた高木は真っ直ぐ、例のスーツを頼んだ店に向かう。 藤田は一足遅れでフロアに立つと、小走りに近づこうとして、そこで初めて高木に連れがいたのに気づいた。 (え?) 高木の隣を歩く若い男が、なにやら話し掛けている。高木もそれに応えながら一緒に売り場に入った。 一週間前に採寸のために訪れた高木をそこの店長らしい女性は覚えていて、にこやかに奥の部屋からハンガーに掛けられたスーツを取り出してくる。 「…………」 藤田は、目の前のこの状況が理解できずに、その場に固まった。 呆然と見つめる藤田の前で、スーツを囲んだ三人は二言三言会話を交わす。高木がスーツを持って試着室に消えたところで、藤田は我に返った。 (なんで、あいつ……) 高木の姿が無いのを幸いに、藤田はそっとその店に近づき、高木の連れの男を盗み見た。 高木と同じくらいか、それより一つ二つ下か、社会人だろうがどこか学生っぽさを残した若い男だ。高木と並んでいた時は小さく見えたが、こうして見ると中肉中背、顔は、はっきり言って『可愛い』部類。 自分でそう思って、藤田はムッとした。 (何で、そういう見方になるんだ、俺) そして、それ以上に藤田をムカムカさせたのは、その可愛い顔の男の放つ『幸せオーラ』だった。 高木の試着を待つ間、適当に店にあるスーツを眺めたり手にとったりしているが、その表情や仕草にたとえようなく幸せそうな雰囲気が醸し出されている。営業十年で培った人を見る目は節穴じゃない。 (この男は、間違いなく、今この場で幸せの絶頂!) 藤田が心でそう叫んだ時、試着室のカーテンが開いた。あわてて藤田は、隣の売り場に隠れた。 相変わらず、高木のスーツ姿は目眩がするほどキマっている。幸せオーラ男が目を見張って、胸元で小さく手を叩いている。紅潮した頬が、幸せオーラを増大させた。 (……俺は、ここで何をしているんだ?) 自分の置かれた立場に気がついた藤田は、踵を返してその場を足早に立ち去った。 「なにが『一人で行ったって意味無い』だ。お前の言う一人ってのは、そういう意味か。試着した姿を見てもらいたかっただけなのか。別に俺じゃなくても、良かったわけだな」 ブツブツと呟き、そしてハッとする。 (なんか、これじゃ、妬いてるみたいじゃないか……) 自分は、高木に言い寄られて困っていたはずだ。その高木に他に男がいたからって、俺がどうこう言うことじゃない。むしろ、喜ぶべきことだ。そうだ。そうなんだ。 これで、高木のことはケリがついた。 そう思った瞬間、何故か心臓がキリッと痛んで、藤田は無意識に唇を噛んだ。 * * * 「藤田、昼飯一緒に行こうぜ」 人事部の渡来が藤田のフロアまで誘いに来た。新卒の採用もピークを過ぎて、最近暇らしく、しょっちゅうやって来る。 「ああ」 「どうした?元気ないな」 渡来に言われて藤田はドキッとし、顔を上げると無理に明るく言った。 「いや、なにも。元気だよ。うん」 ふうん、と渡来は藤田の顔を見て、クスリと笑うと肩に手を廻して言った。 「藤田は営業のくせに、こういうときは全然だな」 「なんだよ。どういう意味だ」 「俺でよければ、話聞くけど。数字の悩みじゃなさそうだね」 「……数字も悩んでるよ」 今月の〆切まであと何日も無い、〆切見通しで報告した数字を上回るにはもう少し成約が必要だった。 社員食堂の角に窓に面したカウンターがある。渡来は上手くそこに席を見つけた。ここなら、社員食堂といえども他の社員に話を聞かれることはまず無い。 「こっちこっち」 渡来が手を振る。トレイをもった藤田がテーブル席をすり抜けてやって来た。 「なあ。何を悩んでるんだよ」 渡来が女性的な顔で微笑むと、藤田は何となく、お姉さんにあやされているようなくすぐったい気持ちになる。 「だから……数字だよ。先月も悲惨だったからな。今月は何とかしたいんだけど」 「まあ、営業の世界には数字は付いてまわるものだからね」 渡来は窓の外を眺めながら呟いて、そして隣に座る藤田に振り向いた。 「でも、藤田はその世界が好きで、ずっとやってきたんだもんな」 『今までだって、何度もそういうことあっただろ?』と渡来の瞳が語る。 「ああ、そうなんだよな」 藤田は、仕事の成果がダイレクトに数字で表される営業の世界は決して嫌いではない。むしろ、好きだからこそ努力もし、結果も出して、今の地位がある。数字が悪くてどやされたことなど、面と向かって誉められたことの二倍はある。今までもその中を乗り切ってきた。そう思えば、今月の数字くらいでクヨクヨするなと自分にも言い聞かせたいのだが、やはり、成績の悪い時は辛いのだ。 それに、藤田の落ち込みの原因は、仕事のことだけでは無かった。 昨日見た高木と連れの男のことが、何故だかずっと頭から離れない。気が付くと、あの男の上気した頬と幸せそうに潤んだ瞳が思い出される。 (あいつ、高木の恋人なんだろうな) 「藤田、どうした?」 渡来が、心配そうに顔を覗き込む。 「あ、いや」 不意をつかれて藤田は慌てて、そしてつい訊ねた。 「渡来、お前って、今まで男の恋人っていた?」 「はい?」 渡来が素っ頓狂な声を出したので、藤田はひどく慌てて 「あ、いや、ごめん」 顔を赤くして、小声になる。 「会社でする話じゃねえな。すまん。悪かった」 渡来は、あたりを見回して近くに人影が無いのを確認すると 「いいよ。藤田の方からその話をふってくれるなんて」 と、妖しく微笑んだ。 抱く方と抱かれる方の究極の選択を迫られた時、抱く方を選んだ藤田だったが、当然、あれ以降、藤田から渡来へのモーションは無い。 渡来も、あれが藤田なりの逃げだったのは十分わかっているが、いつか話をむし返してやろうと思っていたところ。 「男の恋人はいたけど。好きなのは、藤田だけだよ」 藤田の耳元で渡来が囁く。吐息が耳朶にかかって、藤田の背中にゾクッと震えが走った。 「いや、俺は……」 「わかってる。俺って、気は長いんだよ。なにしろ十年待ってるんだから」 赤くなる藤田にクスッと笑って、渡来は椅子を寄せる。スーツのスラックス越しに膝が振れ合う。藤田は自分の膝頭が急に熱く感じられて動揺した。渡来は、薄い唇の端を持ち上げて目を細める。 「でも、なんでそんなこと聞きたいと思ったの?」 「え?」 「藤田、少しはその気になってきた?俺の恋人、気になる?」 カウンターの陰で渡来の手が藤田の太股に伸びる。 「ば、馬鹿言え、俺は……俺はだな」 とたんに、顔に血がのぼる。また昨日の高木と連れの男の姿が脳裏に甦る。渡来の刺激の所為か、いかがわしい想像まで浮かぶ。 動揺した藤田は、動揺ついでにとんでもないことを訊ねてしまった。 「バック、入れられると、痛い?」 渡来の額に剣呑な縦ジワが刻まれた。 「それって、俺のこと心配してくれているの?それとも自分が?」 「うっ…」 * * * 渡来の追及を振り切って課に戻った藤田を見て、西山と平手が飛んできた。 「課長、すみません」 「どうした?」 西山が、青い顔をして電話のメモを見せる。 「昼休みに丸松産業から電話があって、今かけ直したら、今月の契約をキャンセルしたいって言うんです」 「今、電話繋がっているのか?」 「いえ、もう」 「理由は何だって?」 藤田の顔も緊張する。丸松産業の収入保険料は約二千万、それが入ってこないのでは、今月の数字に大きな穴をあけるどころか、年間の指標達成の遂行にも大きなマイナスだ。 「それが、昨日東洋海上と契約を済ませたって言うんです」 「なんだとぉ?」 藤田の眉間に皺がよる。 「わかった。俺が行って来る」 藤田は、上着に袖を通しながら飛び出していった。 『で、結局どうなったんだ?』 「ダメ……もう手続きしてしまったからの一点張りで。シェアインも頼んだんですけど、全然話にならなかった」 部下が全員帰った後、薄暗いフロアに一人ぽつんと座っている藤田。電話の相手は、横浜営業課の目黒である。 『P、いくらだったんだ』 「二千万」 『あいたたたた』 「痛いどころじゃ無いですよ。こっちは、最後は土下座までしたんだ」 『土下座も最近じゃ効き目ないよな。俺が第一線でガンガン契約取ってたときは結構有効だったんだけどな』 わざと明るく言う目黒に 「俺は、会社入って二度目ですよ。新人の時以来。あんまり気持ちよくないですね」 藤田は、昼間会った丸松産業の常務の顔を思い出して胸をムカつかせた。 『大した事じゃないよ。俺なんか《土下座の徹っちゃん》とか呼ばれてたんだぜ』 本当かどうか怪しいが、藤田を気遣っての言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。最近、色々なところで愚痴を聞いてもらうことが多いなと、藤田は自嘲した。 「すみません」 『何がだよ。まあ、契約のためには客のケツの穴まで舐めるのがこの世界だ。土下座くらいでグジグジすんな!』 この励ましは、藤田にはちょっぴりキツかった。 |
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