《怒涛の早帰りDAY》 「高木の面接ファイルが見当たらないんだけど」 営業三課にやってきた渡来が、眉間にしわをよせ不機嫌そうに課長席の藤田に詰め寄る。 藤田ははっと思い出して、自分の机の引き出しから社内便の封筒を取り出した。 「ここにある」 「なぁんで、藤田があいつの書類を持ってるんだよ」 「ち、ちょっと待て」 部下の視線を気にした藤田は、渡来を応接室に入れようとしたが、そこでの先日の出来事が脳裏をかすめてしまい、慌ててその隣の書類倉庫の方に押し込んだ。 申込書やパンフレットの山積みされた狭い倉庫で、藤田はヒソヒソと小声で言い訳する。 あんな事をされた後で、高木の書類を盗んだとあっては、どんな疑いがかかるかわからない。 「だから、この書類を抜いたのは、あの前で」 「あの?」 「いや、だから」 六つも年下の高木に、応接室のソファに押し倒された屈辱の経験を思い出し、藤田の顔は赤くなる。 渡来は、それを恥じらいの色と見て取って、柳眉をつり上げた。 「藤田、お前、まさかあいつに惚れたんじゃないだろうな」 「まさかっ!」 顔を赤くしてぶんぶんと首を振る藤田を、なおも疑わしそうにじっとりと眺める渡来。 その視線に耐え切れず、藤田は急に怒り出した。こうなったら逆切れ戦法だ。 「大体なぁ!俺がこのファイルを抜いたのはっ」 「そんな大声出すと外に聞こえるよ」 すかさず渡来に指摘されて、急に小さい声になる。逆切れにしては、弱い。 「お前が俺の書いた面接結果表を偽造していたからだぞ!それで、理由を聞かせてもらおうと思って盗ったんだ。もともと悪いのはお前だ」 「……理由、って、もうそんなのわかってるよね、藤田」 「う、うう」 わかりたくないが、わかってしまう自分が嫌だ。そう思う藤田の逆切れ戦法は、案の定、不発に終わった。 「ね」 渡来の女性のように線の細い整った顔が近づく。無意識にずりずりと後退する藤田。 藤田の背中が、書類棚にあたる。 もう一歩も後ずさりできない状況で、知らないうちに渡来の両手が自分の胸に添えられているのに気づいて、藤田は焦った。 一瞬の隙を逃さず渡来は、左手で藤田の後頭部を掴むと、思いっきり自分に引き寄せ、そのまま激しく口づけた。まさに野生の王国、雌豹がシマウマを捕らえた瞬間。 「う」 藤田が慌てて身をよじり、その拍子に、元々建て付けの悪かったスチール製書類棚の横板が外れた。 ガッシャーン 落ちた棚とともに雪崩をおこした書類が倉庫の床に散らばる。 「やだぁ、どうしたんですかぁ」 音を聞きつけた『ジャパンマリン本店営業第三課のアイドル華ちゃん』こと飯田華子が飛んでくる。 「いや、ちょっと」 藤田は慌てて課長の顔に戻りつつ、なんとか取り繕おうと努力した。 「渡来が家財保険に入りたいって言うんで、パンフレットと申込書探していたんだけど」 「そんなの、倉庫まで探さなくても、入り口のキャビネットにたくさん入っているじゃないですか」 「そうだったな」 (我ながら、間の抜けた言い訳だ) 藤田の情けない気持ちをよそに、渡来はいたく機嫌良く 「それじゃ藤田課長、そのパンフレット、後で持って来てください」 さっさと立ち去ろうとする。 「ちょっと待て、これどうすんだよ」 藤田がぐしゃぐしゃに散らばった足元の書類を指すと、渡来は大きく目を見開いて 「藤田課長の不注意で壊した棚の後片付けを?」 心外だとでも言うように見つめ返す。 藤田は言葉を失った。 「いいですよぉ。私がやりますから」 華ちゃんは、『綺麗な渡来補佐』のファンを公言している。その華ちゃんに、渡来は微笑んで、気持ち悪いほど爽やかに言った。 「悪いね。華ちゃん」 「いいえぇえ」 去っていく渡来の背中を見つめながら、藤田は心の中で叫んだ。 (てめえの所為だろーっ) 「藤田課長、渡来補佐に家財の書類持っていってもいいですかぁ?」 片付けの終わった華ちゃんが、ニコニコと聞いてくる。藤田はちょっと考えたが 「いいよ。あぁ、でもまだはっきり入るというわけじゃないから、パンフ渡すだけでいいから」 と応えた。 「はぁい」 華ちゃんはいそいそと人事部に向かう。 数分後、藤田のデスクの内線がなった。 ナンバーディスプレイの110番という表示に嫌な予感がしたが、出ないわけにはいかない。 「はい、藤田です」 『俺は、お前に持って来てくれって頼んだんだぞ』 (やっぱり、渡来) 110番は人事部の内線表示だった。 「本当に入るわけじゃないし、でまかせだったんだから、かまわないだろ」 小声で言うと 『かまうよ。大いにかまうね』 渡来が強気の口調で言う。 先日の捨て身の告白以来、渡来はかなり積極的になっている。 『罰として、今日は帰り付き合えよ』 「は?」 (なんで、そうなるんだよ?) 「悪いが、俺は人事部のお前と違って帰りは遅いんだよ。今日だって何が入るかわからんからな」 『待つよ』 「だから、待たれても困る」 少しむっとした口調で藤田が断ると 『じゃ、言っちゃおうかな。皆に』 意味深に渡来が呟いた。藤田の背中に訳のわからない寒気が走った。 「何、を?」 『だから、応接室で藤田課長が男に犯されかけていた件』 「おまえぇっ!」 思わず大声を出すと、周囲の驚いた視線が一斉に藤田に注がれた。 藤田は慌てて、部下に背中を向けると、前かがみになって電話口を手で隠しながら 「悪い冗談はよせ」 『冗談じゃないよ。今日、藤田が俺に付き合わないって言うんなら、あのこと営業部中に、いや社内中にメールして広めてやる』 「おま、え、ってやつは……」 「じゃ、七時にエントランスね」 勝ち誇ったように笑うと、渡来は受話器を置いた。 突然の営業同行でも入らないかとひそかに願ってみたが、締め切り直後の水曜日は部下の帰りも早かった。なんとなく重い足取りでエレベーターから降りてエントランスに向かう途中、藤田はいきなり腕をつかまれビクッと振り返った。 「高木」 思いがけない人物の登場にひどく狼狽しつつも、藤田が最初に考えたことは何故か (こいつ、また高そうなスーツ着てやがる) だった。 高木のスーツ姿は面接の時から際立っていたが、今日も思い切りキマっている。学生の分際でどうしてエルメネジルド・ゼニアなんて持っているんだ。 「藤田さん、どうしたんですか?ぼおっとしちゃって」 高木は頭半分高いところから、藤田を見つめて笑う。 「お前こそ、どうしたんだ。何でここに」 内定者の集いでもあったかと訝りながら訊ねると 「待ってたんですよ。今日は水曜だから、ひょっとして帰り早いのかと思って」 『水曜日はスイスイ早帰りの日!!』 スイスイと帰る(カエル)にちなんで、二頭身のカエルのキャラクターがにこやかに叫んでいるポスターが、社内のいたるところに貼られている。高木は先日藤田を訪ねて来た際、しっかりチェックしていた。 「待ってた?」 藤田は口の中で呟いた。 どうして、こういうことは重なるのか。盆と正月のたとえの反意語は何だ。天中殺と大殺界か?それとも仏滅と……と考えていた藤田の後ろから、不穏なオーラが押し寄せた。 振り向くと、まさに仏滅を絵にしたような(ってどんなだ)不機嫌な顔の渡来が立っていた。 「なんで、こいつがいるんだ」 渡来は眉間に深くしわを刻み、横目で高木を睨みつけながら藤田に聞く。 「だから、藤田さんを待っていたんですよ。ねっ」 高木は藤田を見つめながら、にっこりと微笑む。 (ねっ、じゃねぇだろ、おい) と思いつつも、藤田は状況に対応できかねて何も言えず。 「悪いが、今日は俺が藤田と先に約束しているんだよ」 「約束?」 渡来の言葉に高木が眉を顰める。藤田は焦る。 何が嬉しくて、会社の玄関で、男同士の痴情のもつれに巻き込まれなきゃいけないんだ。――いや、巻き込まれるというより、その中心にいるのだが―――。 帰りを急いでいるはずの社員達の視線が次々に、藤田を挟んで険悪な雰囲気を漂わす二人の男に怪訝そうに注がれてくる。それでなくとも、二人とも十分人目を惹くルックスなのだ。 (この場は、マズイ) 藤田は焦って、二人に言った。 「とりあえず、店に入ろう!」 * * * (なんで、こうなっちまったんだ?) 会社の近くにある居酒屋。カウンター席に藤田を真ん中に挟んで三人横並びに座っている。 両脇から話し掛けられても、高木と渡来の会話が全くかみ合っていない――二人とも意図的に相手にわからない話題を選んでいる――ので、会話が弾まないこと甚だしい。 「それで、高野教授に挨拶して来たんですよ」 「ああ、お元気だったか?」 「おい、今日華ちゃんの持ってきたパンフ、募文登録〈H13.7〉だったけど古いんじゃないか」 「え?そうだったか?年度末に入れ替えているはずだけどな」 (……なんか、つかれる。二面打ちみたいだ) 最近部下に借りて読んだ『ヒカルの碁』を思い出す藤田だった。 会話の弾まなさをごまかすため、藤田は自棄になって杯を重ねる。とりあえず、ジョッキが唇に当たっている間は話をしないですむ。 口火を切ったのは、高木だった。 「そういえば、先日の答え、まだでしたね」 「は?」 つくねをほおばっていた藤田が、きょとんと見返すと高木は妖しく微笑んで囁いた。 「男を抱くのと、男に抱かれるのと、どっちがいいか」 「うっ、ぐ」 つくねを喉に詰まらせ前屈みになる藤田の背中を、高木が優しくさすると、反対側から渡来がその手を跳ね除けながら言った。 「その答えは、俺も聞きたいね」 渡来は、こんなに強気だが受け思考だ。 「そん、な、なんで」 なんでそんなこと答えなきゃならないんだ? 藤田の頭に、その昔『ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ』で名高い究極の選択というゲームが浮かんだ。 藤田は、つくねを無理やり喉から胃に押し込んだための涙目で訴えたが、高木も渡来も、一歩も引く様子が無い。 (ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ…………どっちも嫌だ) 「あ、何か今、ひらめいた」 藤田がいきなり顔を上げて両脇の二人を交互に見る。黙ったまま左右の人差し指でそれぞれを指し、胸の前で交差させる。 「抱きたいのと抱かれたいので、ニーズが合ってんだから、俺をスルーして二人でやっちゃえば?」 ニコッと笑ってみたが 「ふざけんな!!」 両脇二人とも全く同時に、恐ろしい顔でカウンターを叩いた。 (マズイ。本気で怒らせてしまった) いよいよ後に引けなくなってしまった藤田は、究極の選択に答えを出そうと努力した。 (考えろ、弘樹。お前は、もともと頭の回転と要領の良さは同期で一番だったはずだ。ちなみに昇進の早さも一番だ。関係ないか。ちゃんと考えろ俺。悩むな。挫けるな。絶対に最適の答えが見つかるはずだ。考えれば、ほら、答えはそこに!) 自分を叱咤激励しつつ、それでもやっぱり (……どっちもヤ) としか答えは出ない。 左右を横目で窺うと、高木の男らしい端整な顔と渡来の線の細い綺麗な顔が、どちらもひどく真剣に自分を見つめている。 そのとき、藤田の頭に再びピカッとひらめいたものがあった。 (高木は俺を押し倒したくて、実際俺は押し倒されてしまった。本気で来られたら抵抗できないのは実証済みだ。渡来の方は俺に押し倒されたくて、ってことは、俺が能動的に出ることが無ければ、関係をもつのは不可能だ) わかった。 藤田は息を吸って、ゆっくりと言った。 「抱くほうがいい」 「よっしゃあ!」 渡来は、後ろを通りかかったウェイターが驚いてジョッキを落とすほどのガッツポーズをし、高木は青ざめて頬を引きつらせた。 「じゃ、そーゆー訳で、そこんとこヨロシク」 藤田はサッサとその場を退散したく、立ち上がった。 「待てよ、藤田。せっかく両想いになったんだから飲みなおそうぜ」 (両想いじゃねぇんだよ) 藤田は、渡来の腕を振りきって出口に向かう。 渡来は追いかけようと慌てて立ち上がり、「おっ」と気がついて財布を出すと一万円札をカウンターに置いた。 「会計しといて。釣りはいらないよ」 勝ち誇った笑みで高木を見下ろす。 高木はカウンターに固まったままだった。 * * * 藤田がタクシーで自分のマンションに着いたのは、もう少しで日付の変わるころだった。あの後、結局渡来に掴まって、カラオケにキッカリ二時間付き合わされた。 (ラストソングは思い出の『仮面舞踏会』だ。とほほ) ボックスの中でやたらと纏わりつく渡来をあしらいつつ、自棄になって歌ったため喉が痛い。ビールや安っぽいサワーも死ぬほど飲んだので、悪酔いしそうだ。 実際、電車で帰っていたはずが、寝過ごしてタクシーを使う羽目になってしまった。 マンションの鍵を取り出しながら、ふらふらと近づくと玄関に人の影がある。 「高木?」 酔ってぼおっとした頭で藤田が訊ねる。 「何で、ここに?どうして俺のマンション知ってんだ?」 「言ったでしょう。ゼミのOB名簿で調べたって」 名簿には、会社名だけでなく、当然住所も載っている。 (なるほど。そりゃそうだ) 自分の迂闊な質問が可笑しくて、藤田はクスクス笑った。 そんな藤田を見ながら、高木が縋るように言う。 「部屋に入れていただいていいですか。寒いんです」 四月とはいえ、夜中ともなれば冷える。コートも着ていない高木は確かに寒そうだった。 「ああ」 普段からよく部下や同僚を泊めている藤田は、多分に酔って判断力もにぶっていたらしく、あっさりと高木を部屋に入れた。 高木はちょっと意外そうに目を見開いたが、すぐに何食わぬ顔で奥のリビングへと入っていった。 「何か飲むか?」 上着を脱ぎながら藤田は、いつもの癖で高木に尋ねる。来客に対する礼儀だと思っている。 「いえ、それより」 ネクタイを外す藤田を見つめる高木の目が妖しく光った。 「それより?何だ」 振り返った直後、藤田の身体はフローリングに敷いたラグの上に押し倒されていた。 「なっ、高木っ?!」 間抜けなことに、ここに来て初めて藤田は高木の訪問の意図に気づいた。 「やめろ、何するんだ」 「ナニするんです」 そう言って、自分も上着を脱いだ高木は、藤田の首筋に口づける。 「藤田さん、抱かれたこと無かったでしょう。それなのに選べっていうのが無理ですよね。だから、一回経験してもらってからもう一度答えを出してもらおうと思って」 「馬鹿な」 抵抗する藤田の両腕を、高木はあっさり片手で頭上に封じると、空いている方の手で起用にシャツのボタンを外す。藤田の均整の取れた裸体が露わになった。高木の唇がいきなり胸の突起に落とされる。 「っ、ん」 高木の舌が固く尖ったそこを弄る。舌先で擦りあげながら、軽く歯を当てられると藤田の背中に痺れが走った。 「やめ、ろ」 執拗な高木の愛撫にジンジンとした甘い痺れが腰に集まる。藤田は自分が酒のせいでひどく敏感になっているのを感じた。 高木の手がスラックスの上から藤田の雄を握ると、そこは既に起ちあがりつつあった。やんわり握ると次第に固さを増していく。 高木は胸の突起に口づけたまま嬉しそうに笑って、しばらくその感触を楽しんでいたが、藤田の息があがってくると、ベルトを外し、背中から持ち上げるようにスラックスと下着を同時に下ろした。 「やっ、つ」 さすがに露わになった下半身に抵抗を見せた藤田だったが、高木に直接握られると、そのあまりの刺激に息を呑んだ。 「感じてるんでしょう?」 高木が耳元に口づけながら囁く。藤田はきつく目を閉じて首を振る。 「嘘つきだな、弘樹は。こんなになってるのに」 「ん……あっ」 先走りの雫で滑らかにすべる高木の指先で先端を刺激され、括れに沿って擦られると、それだけで藤田の雄はビクビクと反応する。 「いいでしょう?男の方が、男の感じるところがわかるんですよ」 高木が耳朶を甘噛み見しながら囁く声もひどくいかがわしくて、藤田は次第に自分を失っていく。これほどの快感ならば、身を任せてしまいたいという誘惑に逆らえない。 ほどなく、藤田は全身の力を抜いた。 藤田の抵抗がなくなったのに気づいて、高木は身を起こすと、陶酔した表情の藤田を見つめ、優しく微笑んだ。 「本当に、可愛い人」 ゆっくりと唇を重ねる。口腔を貪り、唾液を送りながら、高木は藤田の雄を握っていた指をそっと後ろに廻す。 雫で湿らせた指先がその蕾を犯した瞬間、 「うぐっ」 藤田が異様な声をあげた。高木が慌てて唇を離す。 「う、うっく、うっく」 肩を震わすその様子には高木も覚えがあった。 (腸を刺激したのがまずかったか?) 高木はとっさに手近にあったモノをつかんで藤田の頭の下に敷いた。 次の瞬間、藤田は思いっきり吐いていた。 「うげぇぇぇっ」 うえっうえっと呻く藤田の口から、さっき無理やり飲み込んだつくねを始めとする居酒屋メニューが、すっかり消化されつくした形となって吐き出される。 「大丈夫ですか?藤田さん」 セックスどころで無くなってしまった高木が、藤田の背中をさする。 「うう」 苦しそうな藤田がひとまず吐き終わったのを確認すると、高木はバスルームに行ってタオルと洗面器を持ってきた。 汚さないように、ゆっくりと藤田をベッドに運ぶ。濡らしたタオルで拭いてやる。 それらが終わると高木はリビングに戻って悲惨な現場を検証した。 「これは、もうダメだな」 ラグを守るために犠牲になったエルメネジルド・ゼニアのスーツ。 そのジャケットを、中の汚物を落とさないよう包んで、台所のポリ袋に入れて固く口をしばった。 「背抜きじゃ無くて良かった」 * * * 朝、目がさめるとすぐ隣に高木の顔があって、藤田は慌てて起き上がった。 「つっ、いたぁ」 頭を押さえる。どうやら完全に二日酔いだ。 「あ、起きました?おはようございます」 高木も目を覚まして微笑む。この妙に甘々なシチュエーションに藤田は一瞬 (やっちゃったか?) と焦ったが、次第に記憶を取り戻し、別の意味で『やっちゃった』と自己嫌悪に陥った。 (寝ゲロなんて、学生時代に一度やったきりだぜ) 一度でも十分な前科だが、藤田はとにかく落ち込んだ。 「すまん、高木」 「いやだな、謝らないで下さいよ。元はといえば俺のせいですからね」 言われてみればそれもそうだ。と、突然その寝ゲロの前の行為を思い出して、藤田は赤面した。 (俺は酔ってたんだ!) 拳を握り締めて、自分に言い聞かせる藤田。 チラリと高木を見ると、愛しげに藤田を見上げながら、外国の俳優のように厚い裸の胸板を誇示している。自分もトランクスこそ穿いているものの、身に付けているのはそれ一枚。 裸の男二人がセミダブルのベッドに窮屈そうに並んで寝ている事実に気づいて、藤田は焦ってベッドから出ようとし、顔を顰めた。頭を揺らすとひどく痛む。 「大丈夫ですか?藤田さん。まだ早いんですから、もう少し寝ていたほうがいいですよ」 「ああ、いや……」 赤面して何やら言いづらそうにしている藤田を察して、高木は 「俺が出ますよ」 そう言って、ベッドからするりと降りた。 (げっ、こいつトランクスも穿いてなかったんだ) 真っ裸で悠々と部屋を横切りリビングに向かう高木。その筋肉の程よく付いた、引き締まった身体を見て、藤田はまた激しく顔に血をのぼらせた。 (馬鹿か、俺は。男の裸で動揺すんな) 再び自己嫌悪に陥る藤田。 「すいません。タオル借りました」 ベッドルームに戻って来た、さっぱりと身支度を整えた高木のワイシャツ姿に、ふと藤田は昨日の記憶を探った。何か忘れていることがあるような。 「上着はどうした」 「捨てました」 高木の返事に、嫌な予感がする藤田。 「何で?」 「ちょっと、汚れたんで」 いきなり藤田の頭に、昨日の失態時、自分の顔の下に敷かれた生地の記憶が甦った。頭痛を堪えて身体を起こす。 「ひょっとして、あの、ゼニアを、俺の、アレ、でか?」 「ええ」 藤田は青ざめた。 「すまん。弁償する」 「いいですよ、別に」 高木は事も無げに応える。 「いや、弁償する」 「いいですって、だってもう何度も着ていますから」 「それだけ気に入ってたんだろ」 「まあ、気に入ってないことは無かったですけど。でも本当に古着なんだから、新しく買ってもらうのは焼け太りになるんでやめときます。ほら、損保だって実損補填でしょう?減価償却しきってますから、あれ」 損害保険会社勤務の藤田を意識して言葉を選ぶ高木。よくわからないが、そう言われると納得してしまいそうな藤田だった。 「じゃあ替わりに俺のスーツをやる、って言っても、サイズが合わないな」 「あ、それいいですね」 ベッドの傍らに腰掛けながら高木が嬉しそうに笑う。 「馬鹿言え。肩幅も丈も全然合わないよ」 「スーツじゃそうでしょうけど、トレーナーとかスウェットなら大丈夫ですよ」 「何で、スーツの替わりにトレーナー貰うんだ?」 「パジャマ代わりに。藤田さんの匂いに包まれて眠れるなんて最高!洗ってないのにして下さいね」 「ばっ、馬鹿か、ふざけんなっ」 (あいたたた) 怒鳴った拍子に頭痛がして、藤田はまたベッドに横になった。天井を見上げ、憮然と言う。 「やっぱり、買う。新しいの」 「ええー、スウェット、スウェット」 高木は、藤田の反応が面白くて、わざと駄々をこねる子供のように言ってみる。 「いいや!目には目を、歯には歯を、スーツにはスーツを」 こめかみを押さえながら唸る藤田を可笑しそうに見て、高木は言った。 「わかりました。そうしたら、少なくとも一回は藤田さんとデートできるわけですよね。あ、採寸と受け取りとで二回か」 「はあ?」 顔を顰める藤田を覗き込むようにして、高木は明るく微笑む。 「そうだ。いっそのことイタリアに買いに行きましょう。その方が安いし。今度のゴールデンウィークに」 「馬鹿言え。スーツよりも旅行代が高くつくだろ。大体、俺はゴールデンウィークだってきっかり暦通りで、有給取れないんだから。行けるかよ」 そう藤田が答えると、高木は一瞬目を丸くして、次に破顔した。 「もう、藤田さん、やっぱり可愛い。冗談ですよ。本気で行けるか考えてくれたんですか?」 そう言って、寝ている藤田に覆い被さってくる。 「ちがう、今のは、ただ……やめろっ、また吐くぞっ」 * * * 「本当に休めないんですか」 苦しそうに顔を顰めつつネクタイを結ぶ藤田を見ながら、高木が気の毒そうに言う。 「二日酔いくらいで休めるか」 「酷い風邪ってことにすれば?」 「熱が39℃あっても休めないんだよ」 ヤケクソ気味に言う藤田を見て、高木は笑いを含んだ溜め息をつく。 「課長さんは大変だ」 「ばぁか、お前だって来年の四月からはそうなるんだよ」 来年の四月、高木は藤田の会社に入る。 「俺、藤田さんの下に配属してもらえますかね」 「無理だな」 軽い気持ちで藤田が、即座に応えると 「何で?」 高木は、驚くほど真剣な目で藤田を見つめた。 「藤田さん、俺のところに来いって言ったじゃないですか」 「う、それは、そうだが」 それは、こんなことになる前の話だろうと言おうとして、何故か藤田は渡来のせいにしてしまった。 「渡来が許さんだろう」 「渡来さん?」 高木の顔が不愉快そうに歪む。 「ねぇ、藤田さん。藤田さんは渡来さんのこと好きなんですか」 高木の突然の質問。藤田はどう応えれば良いかわからない。 「好きって言うか、同期だし」 「そういう意味じゃなくて。わかってるんでしょう」 「…………」 困ったように高木を見る藤田の顔。高木はそっと手を伸ばすとその頬に触れた。振り払われるかと思った手はそのまま。藤田はそのままじっと高木を見上げている。 「ねえ、藤田さん。あの時、貴方が渡来さんの方を選んだ時、俺は本当にショックだったんですよ」 「…………」 (いや、渡来を選んだというわけじゃ、無いんだが) 内心思いつつも、何も言葉に出せない藤田。 「だから、無理やりあんな事までしてしまって、悪かったと思っています」 昨日の夜の話になって、藤田の身体がピクリと反応した。急に自分の頬に触れる高木の手が気になって、身じろいだ。 高木は手に力を込めて、藤田の顔を両手で包む。藤田が逃げないように。視線をじっと合わせ、顔を近づけて囁いた。 「昨日、俺の前にあの人と約束していたって言ってましたよね。あの人が藤田さんのことを好きだってわかっていて、一緒に出かけるつもりだったんですか」 「それは……」 「どうしてそういうことができるんです」 高木の恐いほど真剣な目に見つめられ、藤田はつい白状する。 「脅されたんだよ」 「はい?」 意外な返事に高木の眉が上がり、瞳が見開かれた。 「だから、お前に応接室で襲われたこと社内にばらすって脅されたの。渡来に」 「……ば、ばっかじゃないの。あんた」 あまりの話に呆れてしまい、ついずさんな口調になってしまう高木。 「なんで、俺なんかのことで脅されてんの。嘘だろ。そんなことで?もう、ほんとにバカ……」 「バカ、バカ言うな」 藤田がムッとする。 「そんなことっていうけどな。『そんなこと』でも知られたら、俺が今まで会社で築いてきた立場ってもんが全部崩壊しちまうんだよ」 ムキになって言い募る藤田に、高木は急に真面目な顔に戻るとちょっと意地悪そうに低い声で言った。 「それじゃ、藤田さん。俺が昨日の夜のことばらすって脅したら、俺の言うこともきいてくれるの?」 「え?」 藤田は、本気で怯えた目をして高木を見上げた。 高木の男らしい整った顔は、今まで見たことの無い意地悪い笑みを湛えていて、藤田は背中にゾクリと悪寒を走らせた。知らず知らずに唇が震える。 「た、かぎ……」 ぷっと高木が吹き出す。そのまま、藤田の背中に手を廻してぎゅっと抱きしめた。 「そんな顔しないで下さい。苛めてるみたいで、胸が痛みます」 「高木?」 「藤田さんに惚れている俺に、そんなことできるわけ無いでしょ」 藤田の耳元に唇を寄せて高木は愛しげに囁く。 「渡来さんだって、同じですよ。口で何と言ってても、惚れてる貴方に不利になること、できるわけ無いじゃないですか」 「そうなのか」 うつむいたまま藤田がゆっくりと確認するように呟く。 「そうです。ほんとに、可愛いんだから」 そう囁いて、高木は唇を重ねようとした。 ドスッ 「うっ」 藤田の膝蹴りが、高木の急所を直撃した。 「っっ、たぁー」 股間をおさえ前屈みに倒れこみ、床に跪く高木に、藤田は人差し指を突きつけて言った。 「いいかげんにしろよ。いいか、昨日の俺は大酔っ払いで、今日の俺は大二日酔いだ。どっちも、本調子じゃねぇんだよ。そんな俺にナニしたからっていい気になんなよ」 「藤田さん?」 高木が床に座った状態で藤田を見上げる。 「俺は、強くなる。もうこれ以上振り回されるのは真っ平だ」 唇を固く結んで、拳を握る。 シマウマだって後脚の蹴りでライオンを殺せるのだ。雌豹も狼も恐れず立ち向かっていこう。藤田はそう決心した。 決意に燃える藤田の姿を見上げて高木はほくそえんだ。 「そんな、藤田さんが好きですよ。俺も負けませんからね」 |
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