来客が汚した灰皿を片付けに給湯室に入ったら、いきなり甲高い笑い声が聞こえた。 「な、何ごとぉ?」 はしゃいでいる三人の中に同期の由美子の顔を見つけたので、思わず身を乗り出した。 「あ、華ちゃん、いいところに来た」 「何よぉ」 「ねっ、これ見て、見て」 「あなたのそして私の夢が走っています…?」 由美子の出した紙切れに書かれていたのは、杉本アナウンサーの名台詞。でもその後に続いた言葉は―― 「ジャパンマリン バレンタインダービー…って、何よ、これ?」 社内ゴルフのときによく回ってくるウマ表のような、ううん、もっといえばそのまま競馬の馬柱のような表に、よく知っている名前が書かれていた。 「今度のバレンタインで、誰が一番チョコレートもらうか賭けるの」 「飯田さん、他に推薦する人いたら教えて」 そう言ったのは、隣の課のニ年先輩の大浦さん。 意外、真面目そうな人だと思っていたのに。 そういう私は、それほど真面目じゃないし、こういう賭け事は大好きなのよ。 「ええー、そうですねえ。うちの課長は入っているんでしょう?」 「当たり前じゃない」 「綺麗な渡来補佐とぉ」 「真っ先にエントリーよ」 「営業一課の雨宮くんもお姉さまクラスに人気あるんですよね」 「うーん、でも若い子は義理チョコが少なそうだからね。この中に入るとどうだろう」 「えっ?義理チョコも入れるんですかぁ」 「あたりまえじゃない。本命と義理の区別なんてつけよう無いでしょ」 「そりゃ、そっか」 「外交のおばちゃんのくれたチョコも全部数えるのよ」 と、言う由美子に思わず聞いた。 「誰が?」 「藤田課長のは、あんたしかいないじゃない」 「えーっ」 バレンタインまであと十日。営業の男の人たちは今月は年度末締めの決算月だといって大忙しなのに、私たち女の子はこんなことで退屈を紛らわしたりする。 まあね、バレンタインには浮世の義理で多少なりとも懐を痛めるんだから、これくらいいいわよね。 「あ、華ちゃんいいところに来た」 課に戻ったら、同じ言葉で出迎えられた。 「これ、よかったら女の子たちで食べて」 食べてって言葉に目を輝かせて近づいたけど、営業の西山さんが差し出したのは… 「豆ですかぁ?」 節分の豆の袋が、紙で出来た鬼の面とセットになって、大量にダンボールに入ってた。 「クライアントに頼まれて、営業に使ってくれって言われてさ、たくさん買ったんだけど、さばけなくって」 「はあ…」 「最近じゃ、会社で豆まきするところも少ないんだよね」 「うちもしませんでしたからね」 西山さんに手渡されて、いかにもまずそうなそれを眺めていると、藤田課長がそれを食べているのが見えた。 「課長、食べてるんですかぁ?」 「んっ?」 ボリボリと音をたてて噛んでる。振り返ったその顔がなんとなく… 「冬眠前のリスに似てる」 思わず言ったら 「むっ」 頬袋をふくらませた藤田課長が、わざとらしくムッとした顔を作った。 こういう反応が可愛いんだ、うちの課長は。 「美味しいんですかぁ」 「美味しくはないが、腹の足しにはなるんだよ」 袋の中に残っていたのを大きな手にザッと空けて、いっぺんに口の中に放り込んだ。 「課長、おかわりいかがですか」 「もう、いい」 「でも慣れると癖になりそうだけどなあ」 そう言ったのは、平手君だ。平手君は四大卒だから歳は二つ上だけど、同期入社だからけっこう気安い。 「やだ、よく見たらみんな食べてるぅ」 営業三課の男性社員がそろって節分の豆をほおばっている様子に、笑いのツボを刺激されてケラケラ笑っていたら後ろから優しい声がした。 「楽しそうだね」 この声は! 「渡来補佐ぁ」 人事部採用室の渡来室長補佐。女性的な顔立ちと優しげな物腰、実は私の理想に近い人なのよ。 うちの課長と同期だからしょっちゅう顔を出してくれて、その度に今日も会社に来て良かったあって思うの。 「何食べてんの?藤田」 「豆」 「節分の?」 「ああ、お前にもやるよ」 藤田課長は、ダンボールから袋を掴んで出した。 「ほら、歳の数だけ食ったら、幸せになるぞ」 「歳の数、ねえ」 渡来補佐がその時何だか意味深な目で課長を見たのを、渡来ファンとして見逃すはずがなかった、私。 でも渡来ファンじゃないらしい課長は当然気がつかない。 鬼の面の目のところを指でくりぬいて 「お面もつけてやるよ」 冗談ぽく自分の顔の前にかざしている。丸い穴の向こうから、課長の目が嬉しそうに瞬きしてる。 ああ、本当にこういうところ、子供っぽい。 仕事はできるのにね。 でも実は、そういう課長も好き。仕事ができるのに可愛い人って、いいわよね。 まあ、男の課長が可愛いって言われて喜ぶかどうかって、わからないけど。いや、怒るか。 渡来補佐は、ため息をついて課長からお面を奪った。 「これが、お前からのプレゼントだって言うなら、喜んでもらうよ」 その言葉に、私は息を飲んだ。 「あーっ!!!」 次の瞬間、自分でも驚くくらいの声を出していた。 「渡来補佐っ!お誕生日おめでとうございますっ!」 「え?ああ、ありがと」 渡来補佐は、ちょっと照れたように笑った。 もうもうもうもうもう、ばかばかばかばかばか。 二月四日は渡来室長補佐の誕生日だって、カレンダーにも書いていたのに、どうして忘れてるのよ私。って、そのカレンダーを一月からめくっていなかったからなんだけど。 私としたことが大不覚! 「なんだ。お前、今日、誕生日だったのか」 藤田課長が気のない声を出して、渡来補佐は傷ついた顔をした――ように見えた。 「いいけどね」 すねたような声に、さすがに営業十年、課長も気がついたらしくて、渡来補佐の機嫌をとっている。 そう、うちの課長は、実は気配りの人なのよ。 新入社員が入って来たときも、その子の机が汚れていないかとか引き出し開けて見ていたし、高橋主任の奥さんが入院した時、真っ先に果物贈っていたし。まあ、その机を拭かされたのも果物の手配したのも私だけど。 とか思い出していたら、機嫌をとろうとしていたはずなのに、何故か課長が逆切れしている。 「男のくせに、誕生日くらいで何言ってんだ。大体、いい歳して今更、祝って欲しいもないだろう」 「冷たいな、藤田」 「そうですよお、いい歳なんて、まだまだ渡来補佐は若くてお綺麗ですぅ」 思わず会話に加わっちゃった。 「ありがと、華ちゃんは、優しいな」 渡来補佐、涙をそっと拭う真似。可愛いっ! 「だったら華ちゃんに祝ってもらえ」 そこで藤田課長は、いきなり思い出したように、 「あ、平手、もう出る時間だ」 椅子にかけていた上着を取った。急に仕事の顔になるのよね。 「資料、持ったか?」 「出来てます」 「ああ、ついでにその豆も持ってけ」 「えっ?」 「あそこの受付のオヤジには確か保育園児がいたはずだ。こんな鬼の面でも喜ぶだろ」 「喜びますかね」 「気は心」 「はい」 平手君は、アタッシュケースにごそごそと、『節分の豆鬼の面付き』を入れた。 「じゃあ、戻りは五時過ぎる」 「あ、はい。いってらっしゃい」 手を振る私の横で、渡来補佐が小さい声で呟いた。 「よその会社のオヤジに使う気があれば…」 渡来補佐は、両手に節分の豆の袋をもって帰っていった。その背中が何だか寂しそうに見えたのは気のせいかしら。でも、何しに来たんだろう。本当に、自分の誕生日のこと、伝えに来ただけ? 渡来補佐とうちの課長って、一体どういう関係なんだろう。 いずれにしても、今のはちょっと渡来補佐がかわいそうな気がしてしまった。 それで、翌日。 朝のお茶を配るときに、つい課長に言ってしまったのよね。 「課長、昨日は、渡来補佐がかわいそうでした」 「はい?」 去年の課内旅行のときお揃いで買った観光土産の湯飲みに口をつけながら、藤田課長は怪訝そうに眉をひそめた。 「お誕生日なのに、ないがしろにされて」 そう言うと、 「あのね、華ちゃん」 課長は、うんざりしたように言った。 「俺は、あの後、渡来につかまって、結局、飯を奢るはめになったんだよ」 「えっ?そうなんですか?」 「ああ、夕方帰ってから、内線がかかってきてね。カラオケまで付き合わされたんだから」 おかげでまだ頭の中で仮面舞踏会がリフレイン状態だよと、課長はこめかみを押さえてお茶を飲んだ。 「そうだったんですかぁ、すみません、私、全然、知らなくって」 「いや、知らなくていいから」 きっぱり言って、プリントの束を取り出した。 「それより、ごめん、これ十時からの会議で使うから、五十部印刷かけてくれる」 「あ、はーい」 「悪いね、急ぎで」 「わかりましたぁ」 そして私は、ワンフロア上の印刷室に向かった。 「お疲れ様です」 「お疲れ様でぇす」 うちの会社に入った当初不思議だったのは、朝でも昼でも挨拶は『お疲れ様』 知らない人とでもすれ違う時には『お疲れ様』 本当なら元気いっぱいこれから働こうっていう朝っぱらから『お疲れ様』なんて言ってる会社ってどうよ、って入社当初は思っていたのに、今じゃ私もすっかり染まって、どこに行っても『お疲れ様』 印刷室に入る時にも、当然… 「お疲れ様でーす」 「お疲れ様です」 そう言って振り向いたのは、昨日の大浦さんと一課の原田さんだ。 「あ、飯田さん。昨日の、枠が確定したから、もう賭けられるわよ」 「どうしたらいいんですかぁ」 「これに一番と二番の名前書いてお金渡して、受領書もらっておいて。一口五百円からね。私でも、由美子でもいいから」 大浦さんは印刷室で昨日のウマ表を印刷していたらしい。 「期間は今週末までよ。土日で集計して、月曜にはオッズだすからね」 原田さんが笑った。原田さんはかなりの美人で、仕事も出来ると評判の人。性格はキツイってきいているんだけど、一緒に仕事したことないから本当のところはわからない。 美人は大体『性格キツイ』って言われるものだけどね。 よかった、私、美人じゃなくて。 「飯田さんのところの藤田課長も、いい線行くわね」 「ええ?そうですか」 「営業五課の東宮主任が大本命なんだけど」 「あ、ジャニーズ系ですよね。かっこいいですよねぇ。ちょっとホストくさいですけど」 ワタシ的には、渡来補佐のほうが好みだけどね。 「学生時代、バイトでホストやってたって」 「やっぱり」 「営業先も、やたら女の人が多くって、去年のバレンタインもすごかったって」 「ふぅーん。これって、連単でしたっけ?」 「一番、二番?もちろん。連勝複式だとあたる人増えちゃって面白くないもん」 「ですね。じゃあ、頭は東宮主任で決まりですかねぇ」 「かもねぇ」 バレンタインダービーの馬柱を眺めていると、いきなり原田さんが言った。 「でも、藤田課長っていいわよね」 「え?」 「何だか、優しそうじゃない?うるさく無さそう」 「ええ、まあ、うるさくは無いですね」 「仕事も、無理言わなさそう」 「はあ」 「うちなんか、ピリピリしているから神経使っちゃって大変よ」 と、細い眉をわざとらしく顰めて見せた原田さんに、大浦さんが 「島田課長って、自分にも人にも厳しそうですからね」 追従したみたいに言う。 「そうなの。仕事は覚えられていいけど。何だか人の倍くらい働いたり気使ったりで、やんなっちゃうわ」 むっ! その言い方だと、私が働いてなくって、気も使ってないみたいじゃない。 「藤田課長だと、そういう苦労が無さそうよね」 「えーっ、そうでもないですよ」 つい勢いで言っちゃった。 「藤田課長の下っていうのも、ああ見えて結構大変なんですよぉ」 「え?そう?」 「あれで、結構、手がかかるって言うかぁ」 頭の中をフル回転して、今までのことを思い出す。 「倉庫のキャビネットの棚をはずして、中の書類バラバラに散らかしたりぃ」 一回だけだけど。 「大切な書類どこいったって大騒ぎしたら、実はもうカバンの中にいれちゃってたりぃ」 あんまり大したこと無いか。あ、そうだ。 「今日だって、朝の会議で使う資料、大急ぎで印刷かけてくれとか言っちゃって」 と一生懸命喋っている私の後方を見て、原田さんと大浦さんが青くなった。 「えっ?」 振り返ると 「課長…」 藤田課長が立っていた。 持っていた書類を差し出して 「これ、一枚抜けていたから…」 私にそれを渡して、背中を向けながら課長が言った。 「華ちゃん、いつも迷惑かけてすまないねえ、ゴホゴホ」 課長、それは言わない約束よ――って、さすがの私もボケられなかった。うえーん。 |
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