長谷部さんに稽古をつけて貰うようになって、五日。
 初日の頃に比べて、身体が動くようになった気がする。
 長谷部さんは毎日役宅にいるわけじゃないけれど、そういうときは、佐久間さんや、同じく長谷部さんの下の同心、鈴木源太郎さんが代わってみてくれた。
 鈴木源太郎さんは、同心の中でも一番の若手で、少しおっちょこちょいなところが皆から可愛がられているのだと静さんが教えてくれた。
「やあ、梅若さん。ずい分、さまになってきましたね」
「あ、鈴木さん」
「ふふ、源ちゃん、でいいですよ。この分なら、次の顔見世では立役ですか」
「そんな、まさか」
 手拭いで汗を拭きながら俺が笑うと、源太郎さんは、持っていた包みを差し出した。
「神田橋御門外の亀屋の草饅頭ですよ。お静さんにお茶を入れてもらって、ひと休みしましょう」
「あ……」
 思わず、頬が緩んでしまった。
 俺は、江戸に来てから、やたらこういう甘いものに目が無くなった。
 以前はそうでもなかったんだけれど、江戸で口にするものは淡白なものが多くて――素材の良さを味わうべきなんだろうけどね――物足りないものだから、砂糖をつかった甘いお菓子や饅頭の類が好きになったんだ。
 国光が、そんな俺を「女の子みたいだ」とよくからかったっけ。
 国光のことを思い出して、また胸がキュッと痛んだ。

(国光、今頃どうしてるだろう)

 長谷部さんが倉木屋さんにつなぎを付けてくれたから、俺が此処に居ることは国光も知っているはずだ。
 でも、あれから……あの日『駒平』に現われて以来、国光は姿を見せない。

 自分から離れたくせに、そのことが辛い。

 国光が、もう俺のことなど忘れてしまっているんじゃないかとか、俺がいなくなっても、直ぐに別の人と楽しく過ごしているんじゃないかとか、そういったことを想像するたびに、胸が苦しくなる。
 木刀を振っている間は忘れられるけれど、こうしてふっと考える時間が出来たりすると、もうダメだ。

「梅若さん、どうしました?」
「えっ」
「草饅頭見て、難しい顔して」
「あ、いいえ」
「嫌いでした?」
「とんでもない。好きです、大好きですよ」
 慌てて言うと、源太郎さんは顔を赤くして「うひゃ」と頭を掻いた。
「梅若さんから、面と向かって、大好きですとか言われると、照れるナァ」
 お茶を運んできた静さんが、呆れ顔で言った。
「好きって草饅頭のことでしょう。源太郎さんのことじゃありませんよ」
「ちぇッ、わかってますよ」
「ふふふ、それとも源太郎さんのこと、これから草饅頭とか呼んじゃおうかしら」
「ちょっと、お静さん」
「饅頭同心。兄上が喜ぶわ」
「やめてくださいよ、もう」
 二人のやりとりに、笑った。
 源太郎さんは、ひょっとしたら、静さんのことが好きなんじゃないかな。静さんだって、からかいながら、とても楽しそうだ。
(お似合いかも……)
 そう思って、ほんの少しだけ寂しくなった。




* * *

 長谷部さんの屋敷にお世話になって、一週間になる日。
 早朝から、俺に来客があった。
「倉木屋さん……」
 倉木屋大五郎。江戸でも指折りの版元で、いわば出版社の社長兼国光の担当編集者のような人だ。
「どうしたんですか?」
 倉木屋さんには俺が此処にいることは伝えてあったから、訊ねて来られるのは不思議では無いのだが。
「どうって……梅若が国光先生のところに戻ってないから、あたしがこうして迎えに来たんですよぅ」
「えっ」
 相変わらず小太りの倉木屋さんは、まだ朝早いというのに、額や首に汗をかいている。その汗を拭き拭き、
「まったく、梅若がこちらのお屋敷にいるってェのは、すぐに伝えたのに。あれから先生はホントに見えてないんですか」
 恨めしそうに俺を見た。
「あ、ああ……来てない、よ」
「困るんですよう。絵草子の売り出しは正月の二日一斉ですからねぇ。絵師の先生は勿論ですけど、彫り師も摺り師これからどんどんどんどん忙しくなるんですよ」
 せわしなく手拭いを仕舞うと、情けない声を出した。
「うちで一番の話題の『梅若百種』が滞ってちゃあ、商売になんないんですよぅ」
「ああ」
 梅若百種―――忘れていた訳じゃないけれど。
「とにかく、直ぐに先生のところに戻って下さいよ」
「それは……」
 言葉に詰まった。
 国光に会う―――そう思っただけで、心臓が早鐘のように打つ。
 剣の道をちょっとくらいかじっても、精神統一なんて、俺には無理だ。国光のことを思うだけで、こんなにも心が揺れる。
「今日、これから一緒に帰って貰いますよ」
「ち、ちょっと待ってください」
「いいえっ、ちっとも待てません」
 倉木屋さんは、俺の手をとって引っ張った。それを制して、
「その、国光は……」
 俺は口ごもった。
「え?」
「……国光は、その……俺に帰ってくるように、言ってるんですか……?」
 俺の言葉に倉木屋さんは、一瞬、複雑な顔をした。
「当たり前でしょうよ」
 違う―――倉木屋さんの表情が、それを嘘だと言っていた。
「嘘だ。国光は、俺に会いたいと思ってねえっ」
「梅若」
「だって、本当に戻って欲しいんなら、自分で迎えに来るだろっ」
 思わず感情的になって叫ぶと、カラリと唐紙障子が開いた。
「行ってきねえな。梅若」
「あ……」
 長谷部さんが、縞の着流しの大きな身体を覗かせて
「そろそろ、ちゃんと話をしてくるんだよ」
 優しい目で、微笑んだ。
「そして、また此処に戻ってくりゃアいい」
「長谷部さん……」
「いつかはちゃんとしねえと、な。わかってんだろ?」
「………………」

 そうして、俺は、倉木屋さんと一緒に、八日ぶりに国光の家に帰った。



* * *

「ほらほら、梅若、早く」
 倉木屋さんに急かされて、俺は重い足をのろのろと運んだ。
 家の前に立つと足が竦む。敷居が高いって言うのは、こういうことなのかな。この中に、国光がいると思うと、心臓が苦しい。
 思い切って中に入ると、いきなり、目の前の障子が開いた。
「やあ……いらっしゃい」
 国光のすらりとした長身が現れた。


『いらっしゃい』と―――お帰りではなく、いらっしゃいと言われたそれだけで、目の前が暗くなった。


「悪かったね、倉木屋さんが無理を言って……」
 国光は、何を考えているのか読めない冷たく整った顔で、ほんの少しだけ笑った。
「何言ってんですか、先生っ。もう、こっちの身にもなってくださいよ」
「だから、直ぐ描くよ」
 国光は不機嫌そうに言うと、奥へと入って行った。
 俺は『いらっしゃい』の意味を反芻しながら、とぼとぼと後ろに続いた。

 もう、ここは俺の帰る場所じゃないんだ――――
 国光は、もう、俺のこと―――


「じゃあ、衣装はこれだから、着替え終わったら声をかけて」
 国光はそう言うと、部屋を出て行った。
 懐かしいはずの部屋に、たった一人取り残されて、俺は涙が出そうになった。
 休み前に中村座から借りてきた派手な衣装を身に付けながら、唇を噛む。今さらながら、こんなにも俺は、国光のことが好きなんだと思う。
 けれど、国光の心はもう俺には無いのだ。
 国光の冷たい瞳が、そう語っている。



 しんとした部屋に、微かに紙の擦れる音がする。

 さっきから、国光は一言も口を利かずに、ただひたすら筆を走らせている。それはいかにも、この作業を早く終わらせてしまいたいというようで、俺の胸はますますふさがった。以前なら、こうして国光にじっと見つめられるだけで、体温が上がってきた。なのに、この同じ行為が今の俺には苦痛でしかなく、手や足の先が次第に冷たくなっていく気がした。
(苦しい…………)
 ふっと、小さく溜息をついたら、国光が筆を止めた。
「疲れただろう。一休みしよう」
 その声が以前のままの優しい声だったので、そっと顔をあげると、国光の深い水底のような瞳と目が合った。
 一瞬、じっと見つめ合ったけれど、国光が先に目を逸らせた。
庭の方に目を向けて、独り言のように呟いた。
「雨が降りそうだね。暗くなる前に終わらせよう」
 実際にはまだ昼八ツ(午後二時頃)にもならない時間だったが、太陽が隠れてしまったので部屋の中は急に暗くなり、それは今の俺の気分にぴったり過ぎて切なくなった。


 休憩を挟んでも気詰まりな空気は変わらず、外は雨が降り出して、雨足の強くなりそうな気配に国光は顔をあげた。
「ここまでにしよう。雨が激しくなったら、帰れなくなるからね」
 帰る―――どこに?
 国光の言葉をぼんやりと聞き流しながら、俺は庭の紫陽花の葉が雨に叩かれるのを見ていた。
「梅若」
 国光の呼びかけに、はっとした。
 国光は、道具を片付けながら、何でもない風に聞いてくる。
「長谷部さんは……優しくしてくれるかい」
「あ、ああ……」
「そう、よかったよ。八丁堀の長谷部の旦那といえば、威あって猛からず……江戸一番の良い男だと評判だ」
 静かに語る国光に、胸がざらつく。
「どういう意味だよ」
「どうって…………いや、悪かったよ。すまない」
「何で、あやまるんだよっ」
「梅若?」
「国光は、俺が……俺が、長谷部さんと何かあるとでも、思ってんのか?」
 目の裏が熱くなった。
 国光は、表情の無い顔で言った。
「……違うのかい?」
「っ……」
 訳のわからない悔しさに、俺は立ち上がると外に飛び出した。
 雨の中、裸足で飛び出したら、ちょうどそこに傘を差した長身の侍が立っていた。
「おっと、あぶねい」
 片手で、俺を支える。
「は、長谷部さん」
「どうした? 梅若」
 眉を上げて俺を見た長谷部さんが、直ぐに俺の後ろに視線を走らせた。俺を追いかけて出てきたらしい国光が立っている。
「ふうん……」
 長谷部さんは何か考えるようにじっと国光を見て、そして、口の端で笑った。
 国光は、少しの間長谷部さんと俺を見ていたが、静かに踵を返して家の中に戻ろうとした。
「待ちねえな、先生」
 長谷部さんが大声で呼びかけて、国光はゆっくりと振り返った。
 直後――何が起きたのか、一瞬わからなかった。
 気がついたときには、俺の口は長谷部さんの口でふさがれていて、操り人形のようにだらりと両手を垂らしたまま、俺は長谷部さんに抱かれていた。
 国光の顔は見えないけれど、背中に痛いほどの視線を感じる。
 長谷部さんと国光との間で、緊張した空気が震えた気がした。
 ゆっくりと唇を離した長谷部さんは、
「歌川国光。元は侍だって聞いてたが、間違いみてぇだな」
 片手に俺を抱いたまま、嘲るように言った。
「惚れた相手がいいようにされてもなんにもできねえのかい。それとも、刀と一緒に捨てちまったのかい、その……」
 最後まで言わせず、空気が鳴った。
 長谷部さんは、とっさに俺を突き飛ばして、国光の拳を左の頬に受けた。番傘が飛んで、ぬかるんだ道の上を転がっていく。
「っ、つぅ……」
 長谷部さんは右手で頬をさすると、地の底から響くような声で笑った。
「八丁堀の長谷部兵庫を殴るとは、いい度胸だぜ」
 腰の刀をすらりと抜いて、片手で国光の前にかざした。
「たたっ斬られても、文句はいえねえやなァ」
 そんなっ!
「嫌だ、やめてっ!」
 地面に転がっていた俺は慌てて飛び起きると、長谷部さんの刀から守るように国光の胸に抱きついた。
「嫌だ、国光を切らないでっ」
 国光の胸に顔を埋めて、背中に廻した腕にぎゅっと力を込める。
「や、だ……国光が、死んだら……俺も……俺も、一緒に死ぬ」
 胸が詰まって、声が震える。
「国光……国光……」
 懐かしい名前を呼び続けながら、俺は涙と雨でぐちょぐちょになった顔を国光の胸に擦りつけた。

チン

 と、後ろで刀の鍔の鳴る音がして、俺はようやく我にかえった。
 顔を上げると、国光の困ったような、はにかんだような、途方にくれたような顔と、目が合った。
「国光」
「梅若……」
 国光の手がそっと俺の髪に伸ばされて、いとおしげに撫でてくれた。
それだけで、俺は目が眩みそうになった。
 国光の胸に抱かれたままゆっくり振り向くと、長谷部さんが左手で大刀の鞘を軽く持ち上げて、いたずらっぽく微笑んだ。

「これが本当の『元の鞘』ってね」



「やれやれ、ずい分濡らしちまった。悪いな」
 下に投げ落としていた風呂敷包みを拾って、長谷部さんは俺に渡した。
「おめえの荷物だよ。持ってきてやったんだ」
「長谷部さん……」
「まあ、また喧嘩したら、いつでもうちに来い」
 チラリと国光を見て言った。
「俺は、いつでも大歓迎だから」
 その言葉に、国光が俺の肩に廻していた腕に力を込めた。
「長谷部さん……あ、ありが、とう……」
 なんと言って良いかわからずようやくこれだけ言うと、長谷部さんは口の端をニッとあげた。
「じゃア、な」
 傘を拾って歩き出すのを、慌てて国光が追いかけた。
 ひと言ふた言、言葉を交わして、国光が頭を下げた。
 俺は、ただ、呆然と二人の姿をながめながら、目から溢れる涙を雨が洗い流してくれるのを感じていた。





HOME

小説TOP

NEXT