「静、静っ」 長谷部さんが、廊下に向かって大声で呼ぶと、 「はい、どうなさいました」 直ぐに、静さんが顔を出した。 「椀を倒してしまった。拭くものを」 「あら、大変」 静さんが慌てて手拭いを持ってきてくれたが、その間、俺は、恥ずかしくて顔を赤くしたまま、ずっとうつむいていた。 「大丈夫でした?」 「すみません……」 これだけ言うのがやっとだ。 椀を落としたことが恥ずかしいんじゃない。その前の、俺のあさましい想像が、この兄妹に見透かされそうで――そんなことはあり得ないと思っても――居たたまれないほど、恥ずかしかった。 「そんなに、気になさらないでも」 静さんは笑いながら、俺の汚れた袖を見て 「でも、その着物は着替えた方がよろしいですわ。今、替えをお持ちしますわね」 そう言って、ふと、小首をかしげた。 「着物は、兄上のものと、私のものと、どちらをお貸しすればいいかしら」 「俺のじゃ、大きいだろう」 「そうね。袖から手が出なくて、また何かで汚してしまうかも……」 「静」 「あら、ごめんなさい」 静さんは、小さく舌を出すと 「じゃ、私の着物を持ってまいりますわ」 立ち上がった。 「いや、待て。静」 「はい」 「琴絵の着物があっただろう」 「お義姉(ねえ)様の?」 静さんは、目を瞠って長谷部さんを見つめ、 「よろしいの?」 「ああ」 「わかりました」 にっこり頷いて、部屋を出て行った。 「梅若」 「……はい」 「私はこれから仕事で出なければならない。今夜は戻れないかもしれないが、あとの事は静に頼んであるから心配するな」 「はい」 見ると、長谷部さんは、さっきまでの縞の着流し姿ではなく、継裃を着けた与力の服装だった。これが、本来の姿なんだ。 言葉づかいも改まっていて、別人を見る思いでじっと見つめると、 「なんでえ」 照れたように笑って、 「じゃア、行ってくるよ」 軽く手を振って出て行った。 俺はさっきの考えを恥じた。長谷部さんに対して、失礼にも程がある。 (二度とあんなこと考えちゃダメだ) 自分に強く言いきかせた。 「あら、よくお似合いだわ。お義姉様は背が高かったから、ちょうどいいわね」 静さんが、路考茶の小袖を着た俺を見て、美しい目を細めた。 「私の昔の着物なら、もっと明るい派手なものもあったのですけれど」 「いえ、これで十分です」 渋く上品な小袖を見手いるうちに、ふと、この着物を着ていた、長谷部さんの奥さんのことが知りたくなった。 「三年前に、亡くなられたそうですが」 「ええ」 「はやり病かなにか?」 「いえ……こういうお役目ですから。色々と……」 まさか、殺されたのか? うつむいた静さんの横顔に、それ以上聞けなくなって、俺が黙ると 「琴絵さまは……いえ、お義姉様の名前ですけれど……兄の幼馴染みだったんです。やっぱり八丁堀の永山様の娘で。小さい頃、私もよく遊んでいただきました」 静さんは、思い出すように話し始めた。 「兄と私は八つも歳が離れていて、琴絵さまがちょうどその真ん中で……琴絵さまは、私とお人形遊びをするよりも、兄と剣術の稽古をするほうが好きなお転婆だったんですよ」 「へえ」 「私が近所の男の子に苛められたりすると飛んで来てくれて。正直、私にとっては、兄よりも頼もしかったです」 ふふっと笑う静さんに、俺もつられて笑った。 「十七の時にうちにお嫁入りしましたの。うちの父と永山様の間で、ずっと前から決められていたようです。私は嬉しくもあり、つまらなくもあり……だって、それまで憧れていた凛々しい琴絵さまが、兄と結婚してから急に女らしくなってしまったんですもの」 静さんは、自分がどんなにその琴絵さんのことを慕っていたか、琴絵さんがどんなに素敵な人だったかを話して、突然、ポツリと言った。 「琴絵さまが殺されたのは、私の所為です」 「えっ?」 「三年前。その頃私は、兄の下で働いていた同心の森田数馬様と祝言をあげる予定でした。祝言のひと月前、大きな押し込み(強盗)があって、兄も森田様もその件で寝る暇も無く働いていました。その甲斐あって下手人は直ぐに捕まりましたが、一人だけその捕り物の場から逃げた男がいました。黒羽の久蔵。一緒に押し込みを働いた兄弟たちがみな死罪となって……それで兄を逆恨みしたのです」 「逆恨み……」 「祝言の三日前、急に熱を出してしまった私に代わって、森田様にお届けする品を、琴絵さまが持っていってくださいました」 (……まさか) 「その帰り道、森田様も琴絵さまもその黒羽の久蔵に殺害されてしまって……」 「そんなっ……」 思わず声をあげると、静さんは唇を固く結んでうなだれた。 「久蔵にしてみれば、憎い敵(かたき)の部下と実の妹を、いっぺんに殺す機会を狙っていたのでしょう」 「静さん……」 「あの日、私が……熱など出さなければ。琴絵さまも……」 「そんな。もしそうだとしたら、静さんが殺されていたかもしれないんでしょう? そんなの、嫌です」 「でも、その代わりに琴絵さまは……」 「駄目ですよっ、そんな風に考えちゃ」 知らず、大声が出た。 「自分の代わりにどうだとか……だって、全部、その人の運命なんです。その日、静さんが熱を出してしまったのも、たまたまその日に、そいつがそんな事やったのも」 「梅若さま?」 「お気の毒だけれど、琴絵さんが亡くなったのは琴絵さんの運命だ。もし、その日静さんがそこに行ったら、犯行は無かったかもしれなくて……もちろん、殺されていたかもしれない、けど、そうじゃなかったかもしれない。分からないよ、そんなこと」 いつの間にか、俺は必死に訴えていた。 「人の運命なんて、どうなるか、どうなったか、なんて……わからない。だから、過ぎてしまったことで、自分を責めるのは良くないよ」 「梅若さま」 「きっと……琴絵さんだって……そう言うよ?」 最後はちょっと自信がなくなって、モゴモゴと呟くように言ったら、静さんは花がほころぶようにふわりと笑った。 「ありがとう、梅若さま。その着物姿でそんな風に言っていただけると、まるで琴絵さまからの言葉のようにも思えますわ」 「静さん」 「本当に、ありがとう」 静さんは額づくようにして、小さく呟いた。 「ごめんなさい。こんな風にお話するつもりでは無かったのに」 静さんは、顔を上げると微笑んだ。 「梅若さまが、お優しいからついつい」 「そんなこと……」 「どうしましょう。兄上ではないけれど、私も梅若さまが好きになってしまいましたわ」 「ええっ?」 思わず、声を裏返してしまった。 「あら、ひどい。そんなに驚かないで下さい」 「あ、すみません」 俺たちは顔を見合わせて笑い、不思議なことに、静さんが姉のような、もしくは昔から仲の良い友人のような、そんな気持ちになった。 『全部、その人の運命』 静さんに言いながら、俺は、自分のことも考えていた。 「ねえ、静さん」 「はい」 「剣術の稽古って、俺にも出来るかな」 長谷部さんの奥さんもやっていたという話を聞いて、俺も興味が湧いた。何しろ地蔵堂でのこともあるし、自分の身くらい自分で守れるようになっておきたい。 「梅若さまが、どうして?」 「いや、やっぱり、男として……少しは」 俺がそう言うと、静さんはまたもや吹き出した。基本的には笑い上戸だこのひと。 「舞台では女人よりずっと綺麗で女らしい梅若さまが、そんなことおっしゃるなんて」 「いや……」 本当の俺は、違うんだよ。 「でも、たぶん……ここに居れば……教えてくださる方は、たくさんいますわ」 「そうですか?」 「兄上も、今月は非番ですから、直々に教えたがるかもしれませんわね」 「非番? さっき出かけたのは?」 「先月からの仕掛かりのものは、引き続き手がけるんですのよ。でも、どちらかと言うと、暇なはずです。大丈夫」 静さんが請け負ってくれたので、俺も嬉しくなって頷いた。 明日から、剣術の稽古だ。 そしてそれは、国光とのことをしばらく忘れるためにも良いことだと思った。 何しろ、俺の身体は国光のおかげで――いや、あいつだけの所為にしちゃ悪い。俺も好き者だったんだ――ひどく、いやらしくなっているから。だから、さっきみたいに長谷部さんに対してまで、変な事を考えたりするんだ。 (恥ずかしい奴だ。自分) 健全な精神は、健全な肉体に宿る! 女形の生活に慣れ親しんで、すっかり女々しくなった自分に、喝だ! * * * 「ほらほら、もっと腰をすえてっ。腕だけで振ろうとするな」 長谷部さんが、厳しい顔でゲキを飛ばす。 俺は、さっきからずっと木刀での素振りを続けていて、身体中、汗でぐっしょりだ。 俺が、剣術の稽古をしたいと言った時、意外にも長谷部さんは反対した。曰く、生兵法は怪我のもと。 「おめえは役者なんだから、刀を持つこたァねえよ。大体、その白魚の指がごつくなったらどうする」 「役者だって、自分の身くらい自分で守りたいよ。この前の夜みたいなことだって、また無いとも限らないし」 「あれは、あんな時間に出歩いているからだ。大人しく家にいりゃァ」 「だって、本物の梅若だって、夜道で暴漢に襲われたんだよ」 「うん?」 「お願い。そんなに強くなりたいとか、思っているんじゃない。ただ、今のまんまじゃ、自信がないんだ」 この、江戸の町で生きていくということ。 「しかしなあ」 「長谷部さん……」 俺が、じっと見つめると、長谷部さんは小さく溜息を吐いて言った。 「わかったよ。じゃあ、俺が見てやる」 「本当?」 俺は飛び上がった。 「但し、ほんの基本のところだけだぞ。おめぇは役者なんだから、本気で剣にかかわっちゃいけねえ」 「うん」 「そして、他人(ひと)より強くなろうなんて、思わねえことだよ」 「うん。ありがとう、長谷部さん」 俺は、嬉しくて大きく頷いて笑った。 長谷部さんも、照れたように笑ってくれて………… そして、鬼になった。 「そんなんじゃ、木刀どころか、箸だって振り回せないぞ」 「はいッ」 「頭は真っ直ぐ」 「はいッ」 「よし、その形であと百回」 「は、はい……」 「こら、ぐらぐらするなっ」 「はい!」 初日の稽古はただひたすら木刀の素振りに終わった。 途中、長谷部さんは所用で抜けたりしたけれど、その間も、俺は言われたとおりずっと木刀を振っていた。 「う、腕が……」 パンパンに張ってしまって、自分の腕じゃないみたいだ。足も棒のようになっている。 夕飯も、食べられない。 箸が持てないこともあるけれど、何だか疲れすぎて食欲も無いんだ。 「大丈夫ですか? 梅若さま」 静さんが、心配そうに顔を覗かせた。 「兄上も、最初なんだから、もう少し優しくしてくださればいいのに」 ぐったりしている俺を見て気の毒そうに呟く静さんの後ろから、長谷部さんが入ってきた。 「最初だからこそ、しっかりやる必要があるんだよ」 「長谷部さん……」 「兄上」 「どうだ、梅若。剣術の稽古っていうのは、思ったより大変だろ」 「大丈夫ですよ」 長谷部さんの言いたいことが良くわかったので、俺は、かえってむきになった。こんなことで音をあげたら、必死になって頼んだのが馬鹿みたいだ。 「はははは……」 と長谷部さんは明るく笑うと、俺の隣に座った。 「どれ、腕を見せろ」 俺の右手をグイッと引っ張る。 「いたっ」 「悪い悪い、や、結構、張っているな」 そう言うと、いきなり俺の腕を揉み始めた。 「え? あのっ、長谷部さん?」 俺は、動揺した。 長谷部さんは、両手を使って、丁寧に筋肉をほぐしてくれている。 「こうやっとかねえと、明日、動かなくなる」 ああ、そうだ。確かに。 でも――― 「自分で、やります」 何となく申し訳ない。長谷部さんにこんなことしてもらうなんて。 「自分で?」 長谷部さんは目を見開いて、笑った。 「そりゃあ、器用だな。腕が三本あんのかい」 その言葉に静さんもぷっと吹いて、 「いいんですのよ、梅若さま。兄上、楽しそうですもの。ねっ、ついでにおみ足も揉んで差し上げたら? 兄上」 「当たり前だ」 「え、足は、いいです。自分で出来ます」 「冗談だよ」 「え?」 赤くなる俺をからかうように、二人が笑う。 なんだか、この兄妹のおもちゃになってるなあ。 |
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