「するってえと、おめぇさんは、その死んだ梅若に呼ばれて、別の世界からやって来て、入れ替わっちまった……って?」
「信じて……もらえますか?」
「うーん」
 長谷部さんは男らしい眉を顰めると、大きな手で顎をさすって唸った。
「正直言っちゃ、ピンとこねえなぁ」
「そう……ですよね」
 けれども俺がしょんぼりしたのを見て取って、慌てて言葉を続けた。
「やっ、でもな、信じる。信じるぜ」
「長谷部さん?」
「おめぇが嘘ついてるたぁ、思えねえ」
 俺の目を見て微笑む。
「それに、気狂いにしちゃ澄んだ目をしてる」
「あ、ありがとう……長谷部さん」
 俺は胸が熱くなった。また目が潤みそうになる。
「あー、それで、だ」
 長谷部さんは咳払いして言った。
「おめえは、どうしてぇんだ?」
「えっ……」
「その、なんだ?『もといたところ』に帰(けえ)りてえのか、それとも国光先生のところか」
「それは……」

 さっきの夢で、自分の気持ちがはっきり解った。
 俺は、国光のいない現代に帰っても、きっと、さっきみたいにおかしくなって泣いてしまうのだ。
 でも――――。

「どうする? その先生のところに戻るって言うんなら送ってってやるぜ」
「え?」
「まったく、おめぇが嫌だとか戻らねぇとか言うから、とんだ野暮しちまったよ」
「ち、ちょっと、待って」
「うん?」
「俺……まだ、戻れないよ」
 俺が小さく呟くと、意外そうに目を見開く。
「何でだ? どうして飛び出したかは知らねえが、あの絵描きの先生のことが好きなんだろ?」
「………………」
 確かに、自分の気持ちは嫌ってほど分かった。
(でも……)
「俺……あいつを騙してるし」
「えっ? 騙してってその、入れ替わってる、ってぇことか?」
「うん……」
「そんなこと気にしてんなら、さっさと言っちまいな。俺に話したみてえによ」
「でも……」
 本当の梅若じゃないって知ったら、国光はどう思うだろう。
「あいつ……国光が、本当に好きなのは……俺じゃない」
 それが、たまらなく辛い。
 唇を噛んでうつむくと、長谷部さんが大袈裟に溜息を吐いた。
「おめぇ、なぁ」
 呆れたような顔で俺を見る。
「おめぇが、その、入れ替わってから、どれくらいになるって言ったか?」
「ひと月」
「ああ、そうだ。自分の恋人が他人に入れ替わって、ひと月も気が付かねぇ馬鹿はいねえよ」
「でも、国光は、梅若が精神的にショックを受けておかしくなっていると思ってるんだよ」
「ショ……? なんだ? よくわからんが、まあ、仮におかしくなったと思っていても、だ」
 長谷部さんは、俺の頭をくしゃっと撫でた。
「あの先生はおめぇのことが好きだよ。今のおめぇを、よ。この俺にでもようくわかったんだから、おめぇだって気づいてんだろ?」
「………………」
 今の、俺を―――
 そんなこと、あるだろうか? ―――まさか。
「少なくともこのひと月は、おめぇが国光先生の恋人だったんだ。死んでしまった奴には気の毒だが、好いた惚れたは生きてるうちに楽しむもんだよ。死んでしまったら、どうにもならねぇ」
 長谷部さんの顔が、一瞬かげった。
「長谷部さん……?」
「いや、余計なことまで言っちまった」
 笑顔に戻った長谷部さんが
「とにかく、おめぇ、もう一度先生に会ってちゃんと話をするんだな」
 そう言ってくれたけれど、俺は頭を振った。
「駄目だよ」
 俺は、自分が本当の梅若じゃないということを国光に告げる勇気がなかった。

 俺が恋人の梅若じゃないと知ったら、国光はどうする?
 本当の恋人が死んでしまっていることを嘆く。あんなに優しい男(ひと)だもの。
 梅若を慕って泣いて。泣いて―――そして、騙していた俺を恨むだろう。俺は、国光に嫌われたくなかった。
 たとえ、他の女に取られたとしても、恨んだり嫌われたりするような別れ方はしたくない。
 かといって、本当のことを言わずに、側にいることも苦しすぎる。
 俺は、自分の気持ちを持て余して、急に可笑しくなった。
(俺って、こんなに女々しい奴だったっけ?)
 少なくとも、現代にいた頃の、普通の高校生だった俺はもっとさっぱりしていたはずだ。
『こんなことでグジグジ悩むなんて女みてえだ』って言えるくらいに。
 そして、自分を変えてしまったのが他ならぬ国光だということに胸が苦しくなる。
「どうすれば良いか……わかんねえ……」
 自嘲気味に呟くと、長谷部さんがポンと自分の膝を叩いて言った。
「それじゃア、うちにでも来るかい」
「えっ?」
「おめえさんの気が落ち着くまでさ。これも何かの縁だろう」
 口の端を上げて微笑む顔に、俺はつい惹きこまれて頷いた。





* * *

 名残惜しそうに引きとめてくれた女将さんに何度も頭をさげて駒平を出て、長谷部さんの役宅に着いたのは、もう夕七ツ(午後四時)の鐘が鳴る頃だった。
 八丁堀にある長谷部さんの役宅というのは、思った以上に立派なお屋敷で内心びっくりした。
「旦那さま、お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
 屋敷からバラバラと飛び出してきて挨拶する使用人たちに、頷いてみせる長谷部さんは堂々として威厳がある。やっぱり偉い人なんだとつくづく思った。
(それを言ったら、祐四郎はもっと偉いんだろうな)
 ふっと、松平の若殿様の顔を思い出した。

『元気を出せ。その絵師と喧嘩でも何でもして、飛び出してきたら、私の屋敷で良い暮らしをさせてやるぞ』

 そういえば、飛び出してからすっかり忘れていたけれど、祐四郎のところで世話になるっていう選択肢もあったんだ。
 でも、国光が誤解した理由を考えると、あいつの所にだけは行けないな。

「長谷部様、お戻りですか」
 屋敷に上がると――三十くらいだろうか、長谷部さんよりはやや年上に見える――落ち着いた風情の侍が奥から現われた。
「お待ちしておりました。先月の近江屋の件で」
 そう言って、俺に気づいて言葉を収めた。
 目で誰何するその侍に、長谷部さんは、
「ああ、この子は訳あってちょっとの間うちで預かることになった、中村座の梅若だ」
 笑って紹介した。
「梅若……中村座の?」
 やや呆然と俺を見る侍にかまわず、長谷部さんは俺にもその人を紹介してくれた。
「梅若、こっちは同心の佐久間新三郎という」
「初めまして、あの、宜しくお願いします」
 俺が、頭を下げると
「や、こちらこそ、宜しくお頼み申す」
 佐久間さんも慌ててお辞儀を返してくれた。
 その、手を腰にきっちり添えた几帳面な頭の下げ方に、佐久間さんの性格を見たようで、初対面なのに好感が持てた。

「で、近江屋の件というのは?」
「え、ああ、それですが」
 ちょっと俺を気にしている様子に、長谷部さんは
「二人だけの方がいいなら部屋に入っていてくれ。私も着替えたら直ぐに行く」
「そうさせて頂きます」
「じゃア、梅若はこっちに来な」
 そう言って、俺の肩に軽く腕を廻して、そのまま奥に案内する。
 長谷部さんがお侍相手と町方の人間相手では話し方を変えているのがおかしくてクスッと笑うと、驚いたように振り向いた。
「なんでぇ? いきなり」
「だって、長谷部さんの話し方が……」
 理由(わけ)を話すと、長谷部さんも笑った。
「確かに、な。まァ、ワザと使い分けているって訳でもねえよ。自然とそうなっちまうんだ」
 クスクスと俺が笑い続けていると、長谷部さんは立ち止まってじっと俺を見た。
「何ですか?」
 俺も立ち止まると、
「いや、そうやって笑っている顔は、初めて見たな」
「え?」
 そうだっただろうか?
「笑っているほうがいい」
 長谷部さんは嬉しそうに言って、また大股で歩きはじめた。
 俺は、ふわっと顔に血が上ったが、慌てて小走りで後を追った。


「直ぐに夕餉だから待ってろ。今度は、ゆっくり食べろよ」
 俺を座敷に残して、長谷部さんは出て行った。
 しばらくポツンと座っていると、襖の向こうから声がした。
「失礼致します」
 すうっと襖が開いて、年のころ二十歳くらいの綺麗な女の人が入ってきた。
「夕餉の支度が出来ました。お酒は召し上がりますか?」
「は、いいえ」
 慌てて首を振ると、その女性はクスリと笑って、静かに俺の前に膳を据えてくれた。
「何もございませんけれど……」
「あ、あの、長谷部さんの……奥様ですか?」
 挨拶しなくてはと改めて座り直すと、その女性は目を瞠って吹き出した。
「いいえ。私は、長谷部兵庫の妹の静(しず)にございます」
「あ、そうでしたか。そうですよね。あの、申し訳ありません」
 静さんの歯は染められていない。外見で既婚者じゃないことくらい分かりそうなものだ。こっちに来てからそれくらいの常識は身につけていたはずなのに。自分の間違いに恥ずかしくなって頭を下げると、静さんは屈託無く笑った。
「いいんですよ。今じゃ、そのようなものです」
 何となく含みのある言葉に、俺は、顔を上げて訊ねた。
「長谷部さんの、奥様は?」
 静さんは、睫毛を伏せて
「亡くなりました――三年前に」
 ああ、そうだったんだ。

『好いた惚れたは生きてるうちに楽しむもんだよ。死んでしまったら、どうにもならねぇ』

 長谷部さんの瞬間見せた、かげりを帯びた横顔が浮かぶ。

「すみません」
 小声で言うと、静さんはまた微笑んで
「いいえ。そんな顔なさらないでください。ついでに申し上げておきますね。私も実は許婚(いいなずけ)を亡くした、いかず後家ですの」
「はっ?」
 突然言われて、思わず顔を見る。
 静さんは、その兄とはまた違った魅力のある、美しい顔をほころばせて、
「後から他所で聞いて余計な気を使わせてしまうより、先に自分から言ってしまおうと思ってしまう性質(たち)ですの、私」
 ほほほ……と笑う。
「は、はあ……」
 どう答えていいか分からず困っていると、静さんは明るい声で言った。
「本当に可愛らしい方ですね、梅若さま。私、何度か舞台を見ましたの。素敵でしたわとっても。あの朴念仁の兄が中村座の梅若さまと知り合いなんて、本当に驚きました」
「いえ、その、知り合いというか……一方的に俺がお世話になっているんですけど……」
「ふふ、ふふふ……」
 静さんは、堪えるように口許に袖を当てて笑った。
「な、何でしょう?」
「いいえ、実は、先ほど兄から梅若さまの夕餉をお出しするように言いつかりましたのですが」
 ククッとまた笑う。笑い上戸か?
「そのとき、いつに無く兄が嬉しそうでしたのよ。滅多に見せない顔で。その上、飯は粥にしろとか、消化のよいものにしろとかうるさく言ってきまして。佐久間様が待っているのに……」
 ぷ―――――っ
 静さんは、大きく吹き出した。口元を隠して前かがみ。
「鬼の兵庫と呼ばれた兄が……私、可笑しくて……」
 涙目を袖で拭いながら、俺を見る。
「兄は、梅若さまのこと、とっても好きなのですわ」



『兄は、梅若さまのこと、とっても好きなのですわ』

 食事を取っている間も、静さんの言葉がグルグルと頭の中を回った。
(長谷部さんが、俺を好き?)
 そう考えると、自分の胸の中にも、ふんわりと温かなものが沸き立つけれど―――。
(俺も、長谷部さんのこと、好きなのかな?)
 惹かれていないと言えば、嘘になる。
 けれど、この気持ちは、恋とは違う気もする。
 恋とは――
 恋しいと思う気持ちは―――
「国光……」
 また、国光の顔が浮かんだ。
 昼間の夢が甦る。
 国光と二度と会えないと思ったときの、あの苦しくて切なくて死にそうな気持ち。
「国光……」
 例えば、長谷部さんのことを好きになったら、国光のことを忘れられるんだろうか?
(もし……もしも……長谷部さんに抱かれたら……)

 国光を忘れさせてくれるだろうか?




 自分の考えに動揺して、顔にカッと血が上る。
 そのとき、突然、襖が開いて
「梅若」
 長谷部さんが入って来て、俺は狼狽のあまり、手にしていた椀を落としてしまった。
「あっ」
「おい、大丈夫か」
「ご、ごめんなさい」
 慌てて袖で汁を拭うと、長谷部さんがその手を掴んだ。
「馬鹿、そんなんで拭くんじゃねえよ。それより、火傷はしてねえだろうな」
「は、はい」
 そう応えながらも、掴まれた腕は火傷したように熱く感じた。
 自分のいかがわしい想像の所為だ。
(馬鹿っ、俺って奴はっ)
 意識すると、顔が熱くなって、長谷部さんの顔が見られない。
「おい、どうした?」
 覗き込む長谷部さんから目を逸らして、俺は小さく声をあげてしまった。

「あ……」
「梅若?」




HOME

小説TOP

NEXT