「おい、どうした?」
 俺が身体を二つ折りにして苦しんでいると、上から声がふってきて
「しっかりしねえ」
 大きな手が、背中をさすった。
「あ……長谷部、さ、ん」
 俺が顔をあげると、長谷部さんは顔色を変えた。
「おい、女将、竹庵先生呼んで来てくれっ」
「あ、あいよっ」
 いったん飛んできた女将さんが、とんぼ返りで飛び出していく。
 俺は、苦しくて、長谷部さんの着物にすがり付いた。
 長谷部さんは、ちょっとの間じっとして、
「今、医者が来る。大丈夫だ」
 優しく俺の身体を抱いて、布団に寝かせた。
「胃が……」
 俺が、自分の胃を押さえて訴えると
「うん」
 頷いて、俺の手の上からそこを押さえてくれた。
「近くだから、直ぐ来る。もうちょっとの我慢だ」
 俺を見つめる瞳がひどく優しくて。じっと見つめているうちに、自分でも訳のわからない気持ちが湧いてきた。
「長谷部さん……」
 小さく名前を呼んだら、長谷部さんは俺に重ねていた手に力をこめた。俺は、自分が小さな子供になったような気がした。長谷部さんの手から伝わる温かさになんだかホッとして、胃の痛みも薄らいでくる気がした。


「食べすぎ……ですな」
 坊主頭の町医者竹庵(ちくあん)先生は、事も無げに言った。
「へ?」
 竹庵先生の出してくれた苦いお茶のようなものを飲むと、何となくすっきりした。
「昨日は、何か食べなすったか?」
「昨日……」
 昼過ぎに祐四郎に茶屋に連れて行かれたけれど、ほとんど何も手をつけなかった。
「そういえば……昨日は何も……」
 朝から何も食べていなかった。すっかり忘れていたけれど。
「今朝は?」
「今朝は……」
 気まずい思いで、チラリと茂蔵さんの顔を見た。
 茂蔵さんも女将さんもそして長谷部さんも、皆が俺を心配して取り囲んでいた。
 俺に代わって、茂蔵さんが応えた。
「しっかり食べていなすったよ」
 かあああ、恥ずかしい。
 俺がうつむくと、医者はカラカラと笑って言った。
「そりゃ、胃がびっくりしたんじゃろ。今度から、食を抜いた後は、ちょっとずつ食べるようにするんじゃな」
「……はい」


「まったく、もう。おどかすんじゃねえぜ」
 長谷部さんが、呆れた顔で笑った。
 竹庵先生を送ってきた女将さんも、
「でもまあ、何でもなくってなによりでしたよ」
 丸い身体を揺すってコロコロ笑った。
 茂蔵さんは、よっこらしょと立ち上がって、
「じゃあ、わしはこれで」
 やはりニコニコと笑いながら、調理場に戻っていった。
 俺は、布団の上で小さくなっていた。
 女将さんはまたしばらく俺の顔を見ていたが、駒平さんに呼ばれて戻って行った。
 長谷部さんと二人きりになって、俺は何となく気まずくて顔が上げられなくなった。下を向いていると
「おめぇさんが、死にそうな顔するから……ぞっとしたぜ」
「すみません」
 なんだか今日は謝ってばっかりだ。
「梅若」
 名前を呼ばれて顔を上げると、長谷部さんの目が俺をじっと見た。
「おめぇ……届が出てたぜ」
「え?」
「絵師の歌川国光って先生が、おめぇさんを探している」
 国光の名前を聞いて、たぶん俺の顔色が変わったんだろう。長谷部さんは男らしく太い眉を怪訝そうに寄せた。
「どうした?」
「………………」
「会いたくねえ奴なのか?」

 会いたい。でも、会いたくない。
 気持ちがぐちゃぐちゃになっている。
 さっき気がついたこと――国光が本当に好きなのは俺じゃない。死んでしまった梅若だ――それを思うと、また泣きたいくらい辛くなった。

「おい、梅若、どうした?」
「お、俺……」
 長谷部さんを見返すと、長谷部さんは困った顔をした。
「おめぇ……」
 何か言いかけている長谷部さんの言葉を待った。
「役者ってのは、誰にでもそんな顔をするもんなのか?」
「え?」
 言っている意味が分からなくて小首を傾げると、長谷部さんは頭を振った。心なしか顔が赤い。
「とにかく、おめぇさんがここに居るってことは、その絵師の先生には知らせねえといけねぇんだが、その前にお前にも伝えといてやろうと思ってね」
「国光に……」
 このまま会って、どうしたら良いというんだろう。
 俺は睫毛を伏せた。
「嫌なのか?」
 長谷部さんが真剣に尋ねる。
「嫌……です」
 よくわからない。でも、このまま会っても……辛いだけだ。
「そうか、じゃ、会わせねえよ」
「えっ?」
 驚いて顔を上げると、長谷部さんは、真っ直ぐ俺を見つめて言った。
「おめぇが、ここに居る事は知らせるが、会わせねえ……心配すんな」





* * *

 表の方で、争うような声がした。
(国光?!)
 直ぐにわかった。懐かしい声。
「どうして、会っちゃあいけないんです?」
 彼らしくない、尖った声。
「梅若が、そう望んでんだよ」
 長谷部さんが静かに応えている。
「馬鹿な。とにかく一度会わせて下さい。元気だっていうんなら、顔を」
 国光の必死の声に引かれるように、俺は廊下に出ていた。
 唐紙障子を開けてそっと覗くと、長身の国光と長谷部さんとが向かい合っているのが見えた。
(あっ……)
 国光の姿を見て、一瞬、心臓をつかまれた気持ちになる。
 いつも身なりには人一倍気を使っている国光が、髪も、うっすらと伸びた髯も、何も構わない姿で立っている。目が充血して赤くなっているのは、ひょっとして寝ていないんだろうか?
 疲れた国光の横顔に、申し訳ない気持ちで一杯になって、俺はその場にしゃがみこんでしまった。

「お願いです。私は、もう二度とあの子を……梅若を……失いたくないんです」
 国光の悲痛にも聞こえる声に、はっとした。
(もう二度と……)
 梅若が――本物の梅若が――夜道で殺されてしまったときも、国光はこうして必死に探し回ったのだ。
 そうして、俺を稲荷神社の裏の池で見つけた。
(でも、俺は、梅若じゃない……)
 本物の梅若は死んでしまっていて、俺はその身代わりなんだ。
 国光が、必死に探しているのは俺じゃない――そのことに、俺は、気づいてしまった。
(国光……)
「梅若に、会わせて下さい」
「ダメだ」
 長谷部さんも、一歩も引かずにいた。
「とにかく、梅若が自分から戻ると言ったときにゃ必ず連れて行くから、今日のところは無事だという事を確認したところで、帰(けえ)ってくれ」
「嫌です。私は、梅若を連れて帰ります」
 国光が、長谷部さんを押し退けて上がろうとする。
「やめねえか」
 長谷部さんの腕が国光の肩を掴んで、二人の間に険悪な火花が散った。
「あ、やっ、やめて!」
 思わず、障子を開けて飛び出してしまった。
「梅若っ?!」
「おめえ」
 同時に叫んだ二人の間に割って入ると、国光が俺を抱きしめてきた。
「梅若」
 俺はとっさに長谷部さんの背中に回って、その手を避けてしまった。
(国光が、本当に愛しているのは、俺じゃない――)

 さっと変わった国光の表情(かお)に、俺自身もどんな顔になっているのか想像がつく。怯えた目で見つめ返す俺に、国光は唇を震わせて言った。
「殴って、悪かったよ……」
 俺を守るように立った長谷部さんの肩がピクリと動いた。
「梅若、私が悪かったから……帰ってきておくれ」
 国光が? 悪かった?
 それは何を指しているのだろう。
 俺を殴ったこと?
 それとも、あの赤い着物の女のこと?
 俺は、長谷部さんの着物の背をぎゅっと掴んでうつむいた。

(悪くないよ。俺だって、国光を騙している……俺は、お前の梅若じゃないんだ)
「梅若……」
 国光が手を伸ばすと、長谷部さんがその手を避けるように俺を庇った。
「野暮なこたぁ、言いたかねえが」
 国光の目を睨むようにじっと見て言う。
「今、この子をおめぇさんにゃ、渡せねえ」
「何だと」
 国光の目も、きつく細められた。
「や、やめて……」
 声が震える。
「国光……俺は……」
 国光を見ると、胸が苦しくなった。
 頭がグラグラする。
「もう……お前のところには……」
 貧血を起こす前のような感覚。
 目の前が、すっと暗くなる。
 ああ、あの時も、こんな感じだった。
「戻れない、よ……」
 意識が無くなる瞬間に、力強い腕に支えられたのを感じた。




「由紀夫」
 従兄の健一が、ホッとした顔で笑いかける。
「びっくりしたよ。急に倒れるから」
「健一?」
 ここは…………? 
 富山城?
 あの博物館のような部屋か?
「俺、戻ってきたのかっ?」
「何を言ってるんだい?」
「こ、ここ、ここ……二十一世紀だよなっ」
「はあ?」
 健一は、目を丸くした。
 俺の額に手を当てて、気味悪げに呟く。
「熱は無いみたいだけど。ひょっとして倒れた拍子に、頭、打った?」
「ううん……」
 帰ってきたんだ、俺。
 現代に。
 二十一世紀の、自分の世界に。

 そして、はっとして展示場内を見渡した。
 あの絵は、梅若の絵は、どうなったんだ?

 それらしい場所に行って見ると、そこには別の絵師の違う作品が置いてあった。浮世絵の並ぶ部屋の中を走り回って見たが、国光の『梅若百種』はどこにも無い。
「そんなっ」
 あのとき、俺は確かに見たのだ。
 壁に掛けられた、様々な役者絵。『梅若百種』という掲示。
「そこで声を聞いたんだっ、梅若の声をっ」
「由紀夫君、どうしたの」
「何で無いんだよっ!」
(何で…………)
 俺は、がっくりと膝をついた。
 健一が怯えたように俺を見下ろしているのが感じられた。
(何で……無いんだ……)
 俺が、現代に帰ったからか?
 あの絵は結局、完成しなかったのか?
 国光は?
 江戸時代の絵師、歌川国光は?
 ――――本当にいたのか?

「国光……」
 国光の顔が浮かんだ。
 国光の切れ長の目、よく通った鼻筋、薄く微笑む形のよい唇。
 そして、俺を抱いた腕。俺を包んだ優しい指。
「くに、み、つ……」
 国光、国光、国光――――――
「う、あああああぁぁぁ」
 獣の咆哮のような声が自分のものだということに、しばらく気が付かなかった。国光ともう二度と会えないというショックに、自分でも信じられないくらいおかしくなっている。
「いやだっ、国光っ」
 俺は、狂ったように泣いている。
「どうしたんだよっ、由紀夫君っ」
 健一が、俺を揺さぶる。
「しっかり」
「いやだ……いやだあっ……国光っ……う、ああぁぁっ……」

「しっかりしろっ」


「おい、しっかりしろっ」
 強く揺すられて、俺は目を覚ました。
「あぁ……」
 頬に流れる温かい感触。
「目ぇ覚ましたかい」
「あ……」
「酷くうなされ始めたから、驚いたぜ」
 長谷部さんが、俺を見つめている。
「お、俺……」
 頭がはっきりしなくてぼんやりと辺りを見渡すと、そこは俺が昨日泊まった『駒平』の奥の座敷。
(夢……?)
 今のは、夢だったのか?
 現代に帰ったという夢。国光ともう二度と会えないという夢。
 
 その夢の切なさに、また俺の目から涙が出る。
「うっ……ふっ……」
 長谷部さんは優しく笑って、俺の前髪を梳いた。
「男が、そんな顔して泣くんじゃねえよ」
「す、みま……」
 俺が謝るのを遮って、
「絵師の先生には帰ってもらった。お前が倒れる前に、戻らねえって言ったからな……けどよ」
 俺の目を覗き込んだ。
「無理するんじゃねえ」
「え?」
「おめぇ、ずっと呼んでたぜ、あの先生の名前をよ」


 ようやく落ち着いた俺は、身体を起こして長谷部さんを見た。
 国光とどっちが歳上だろうか。男らしく凛々しい顔は、意外に若いようにも思える。けれど、その落ち着いた深い眼差しが、ずっと歳上に――頼りたくなる大人の男に――見せていた。

 この人の前では、自分が子供に思える。
 初めっから変なところを見られたり、助けられたりしているからか。

「長谷部さん、俺……」
 無様な泣き顔を見られたついでに、相談しても良いだろうか。
 本当のことを言ってみても……?
 俺は、今まで誰にも話していない、自分の秘密を打ち明けた。





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