ぶたれた。 国光が、あのいつも優しい国光が、俺を殴るなんて――――。 信じられない。 俺はとっさに国光を突き飛ばして、家を飛び出した。 (何で俺が殴られんだよっ。裏切ったのは―――国光のほうだ) 「梅若っ」 国光の叫ぶ声が遠くに聞こえた。 今度こそ無我夢中で走ったから、自分が何処にいるのか全く分からなくなった。疲れて、あてもなくとぼとぼと歩いているうちに辺りはだんだん薄暗くなって、人の姿もまばらになる。小さな橋を渡ると、急に畑の広がる田舎道になった。 ずい分遠くまで来てしまったんだろうか。 俺は呆然とした。 (今夜、どうしよう) 中村座に戻れば、寝る場所くらいなんとかなるだろう。 けれど、ここが何処なのか分からない今、どうやってたどり着けばいいんだ? 暗くなる道をあれこれ歩き回るのも、気が進まない。 ふと見ると、古くて小さな地蔵堂があった。 (ここなら一晩くらい過ごせるかも) 明日、明るくなってから、中村座に帰ろう。 俺は、床のきしむ地蔵堂に入って、疲れた身体を休めた。慣れない草履で走り回ったので足が酷く痛む。 「そういえば、今日は、たくさん走ったな……」 口に出して言ってみると、おかしくなった。 おかしいのに、涙がでた。 国光に打たれた頬に手を当てると、まだ少し熱い。 『誰に……抱かれたの?』 暗い瞳だった。あんな顔、初めて見た。 きっと、俺の知らない顔が、もっともっとあるんだ。 「国光……バカヤロッ」 ごろんと横になると、床が固くて頭も背中も痛い。埃っぽいけれど、暗くてよく見えないのは幸いだ。 (親父……母さん……) 帰りたい―――― 「帰りたいよ」 国光の絵が出来るまでと覚悟を決めていたはずなのに、こういうことになると無性に元の世界に帰りたくなった。 「会いたいよ。親父、みんな……」 久し振りに、親や友達、皆の顔を思い出して泣いた。 そして、泣き疲れた俺はいつの間にか、眠ってしまった。 人の声で、目が醒めた。 「先客がいるぜ」 「子供か?」 「や、こりゃあ、えれえ別嬪だ」 顔に堤燈の火が近づけられた。汚い無骨な手が見える。 「だ、れ?」 手をかざして火を避けながら、ぼうっとした頭で訊ねた。 「ちっ、男か」 一人の男が舌打ちして言うと、もう一人が 「かまわねえぜ」 下卑た声で笑った。 二人の笑い合う声の不吉さに本能的に危険を感じて、はっきりと目がさめた。 暗い地蔵堂に持ち込まれた堤燈の明かりが、二人の男を照らし出す。 後ろの男の顔はよく見えなかったが、手前の男は薄汚い着物をだらしなく羽織った浪人者。月代も剃らず伸び放題の髪と髯。真っ黒な顔の中で白く光る目は真っ当じゃない。そんななりなのに腰の刀だけは酷く立派でそれがかえって恐ろしい。 「あ……」 じりっと後退さると、そいつは、その分だけ近づいて来た。 一歩、また一歩。 「や……」 恐怖に身が竦む。 けれども、殺されると思ったとき、自分でも信じられない力で跳ね起きることが出来た。 「うわああぁぁっ」 二人の男の間を押し退け、地蔵堂を飛び出そうとして袖を掴まれた。 「放せぇっ」 死に物狂いで振り回すと、ビリッと袖の破れる音がした。 男を突き飛ばして裸足で飛び出す。 外は運悪く月が隠れて真っ暗で道も分からなかったが、とにかくそこから逃げないといけない。 必死になって走ったのに、 「あっ」 石につまずいて転んでしまった。 「痛っ……」 起き上がろうと顔を上げたら、前にゆらりと人影が立ち、クックッとおかしそうに笑う声が響いた。 「逃げんじゃネェよ」 鞘に入ったままの刀の先を突きつけられる。 「あ」 俺は、馬鹿みたいに座り込んだまま動けなかった。 (殺される) 頭が真っ白になりかけたとき、その浪人は片手に刀を握り締めたまま、俺の上に圧し掛かってきた。 「あっ」 地面に押し倒されて初めて、俺はこの男が俺の身体を欲しがっているのだと気が付いた。 「やっ、やめろっ」 男が俺の着物をはだける。抵抗すると、刀の柄で頭を打たれた。 「やっ……」 布の裂ける音が夜の闇に響く。 「嫌だっ……やめろっ、放せっ」 「静かにしねえか」 「嫌だっ! 誰かぁっ」 涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔を男から必死に背けて叫んでいると、ふいに頭上から低く静かな声がした。 「よしねえな」 (え?) 俺が見上げるのとほとんど同時に、俺の上にいた浪人が後ろに跳ね飛ばされた。 (何……) 何が起きたのかわからなかった。 顔を出した月の光の下で見ると、声の主は背の高い侍だった。尻餅をついた浪人が立ち上がって 「何だ、てめえっ」 大声で叫んで掴みかかると、侍はほとんど身体を動かさずその腕を避けて、もう一度投げ飛ばした。その身のこなしに俺は見惚れた。 「ちくしょうっ」 浪人が刀を抜いた。 「死にゃあがれっ」 「あ、危ないっ」 俺が叫ぶのと、浪人が切りかかるのと、そしてその侍が自分の一刀を閃かせたのは、同時だった。 「ひっ!」 髯の浪人の身体が崩れ落ちた。 俺は、生まれて初めて、人が殺されるところを見た。 恐ろしくて、動けない。 背の高い侍が、鍔を鳴らして刀を鞘に戻すと、ゆっくり俺のほうに近づいて来た。 「大丈夫か? 危ないとこだったな」 「う……」 情けないことに、目の前の切り合いに腰が抜けて、立ち上がるのはおろか話す事さえも出来なかった。 「どうした?」 侍が大きな手のひらを差し出してくる。 俺は、カタカタと音がするほど震えていた。 侍は、笑って言った。 「本当に切っちゃあいねえよ。峰打ちだ」 「え?」 俺は、ぽかんと口を開けた。 侍が、 「よいしょ」 と、俺を抱き起こした。 「ほら、しっかりしねぇ」 立たせようとするが、俺はまだ膝がガクガクして上手く立てない。 「しょうがねぇな。ホラ」 背中を向けられ、知らずにその背に縋っていた。 「しっかりつかまれよ」 俺は、身体中泥だらけのボロボロの着物のまま、その侍におぶわれた。 「こんな所に一人でいるからだ。送ってやる。家はどこだ?」 優しく訊ねられて 「あ……」 (どうしよう、家……) 「あの、中村座に」 消え入りそうな声で応えたら、侍が振り返った。 「なんでぇ、おめぇさん、役者かい」 顔があんまり近くて、俺はドキッとした。 月明かりでは良く見えていなかったが、この、俺を助けてくれた侍は、意外に若くて男らしく、涼しい目をした人だった。 「今、小屋は開いてんのかい」 「いえ……」 「入れんのかい?」 「……たぶん」 心細さから、彼の肩に置いていた手に自然と力がこもってしまった。 それに気がついたのか、侍は俺を背負い直して言った。 「今日はもう遅せえし、この近くに俺の知り合いの店があるから、そこに泊めてもらいな」 地蔵堂の前を通り過ぎるときに、もう一人の浪人が倒れているのが目に入った。 びくっとして、さっきの言葉を思い出した。 「あの……」 「ん?」 「さっき、本当に切ってないって……」 「ああ、峰打ちだからな。切ってもらいたかったか?」 「そんな」 襲われたときは、自分も死にそうに怖かったし、殺したいくらい思ったけど。今となっては、あの男が殺されていたら、それはそれで気分が悪いだろう。 「後で人をやる。お上が裁いて下さるさ」 その言い回しに、ふと思い当った。 侍なのに、町人のような言葉づかい。そしてこの腕っ節。 「あの……ひょっとして、お侍さんは八丁堀の……」 江戸時代、同心や与力は皆八丁堀の組み屋敷に住んでいて、八丁堀の旦那と呼ばれていた。 「ああ、そういやあ、まだ名のってなかったな」 からからとその人は、明るく笑った。 「長谷部兵庫(はせべひょうご)。北町奉行所の与力だよ」 やっぱり。 「おめぇさんは?」 「あ……中村座の、梅若です」 「梅若?」 再び振り返って、長谷部さんは改めてまじまじと俺の顔を見た。 大川に面した小料理屋の裏に廻って戸口を叩くと、中から小さな老人が出てきた。この店の使用人だろうか。 「すまねえ、ちょいと人ひとり泊めてくんねぇ」 長谷部さんが言うと、その老人はボロボロの俺を見て驚きもせず、 「いいですよ、旦那。また、可愛い若衆ですねえ」 と、しわの多い顔で笑った。 俺は、図々しくもずっと背負われたままで――裸足だったし、本当に足が痛かったんだ――気恥ずかしかったけれど、ペコリと頭を下げた。 俺を奥の座敷に連れて行ったあと、長谷部さんはその老人となにやら話している様子だったが、俺は畳の上に座るなりどっと疲れが出て、つい横になったとたん意識を失ってしまった。 味噌汁の匂いで目を覚ました。 遠くから人の立ち働く音が聴こえてくる。いかにも、江戸の町の朝仕度。挨拶をかわす声、賑やかな笑い声。 俺は、ぼうっと天井を見上げて、そしてはっと身体を起こした。いつのまにか布団の中に寝かされていた。着物も新しいものに着替えている。 俺は、着替えさせられている間も気が付かずに眠っていたのか? 呆然としていたら、そこに昨日の老爺が朝の膳を持って現われた。 「おや、起きなすったかね」 「あっ」 「よく眠れたようですねぇ」 「す、すみません」 いぎたないと言われたようで恥ずかしかった。 「いえいえ、お疲れのようでしたからね。まだ寝ていてもかまいませんが、お腹もすいているんじゃないかと思いましてね」 と、言われたとたんに、俺の腹がキュルルルと鳴った。 うーっ、恥ずかしいっ。 「丁度よかったみたいですのぅ。さあ、たくさん食べてくださいよ」 「す、すみません……」 その老人の名前は茂蔵(しげぞう)さんと言った。この小料理屋『駒平』で先代のころから勤めている下働きだそうだ。ちなみに、駒平はここの主人の名前だ。店を継いだときに名前も継いだ二代目。その駒平さんも女将さんも、一回ずつ顔を出してくれた。 「どうぞゆっくりしていっておくんなさい」 駒平さんは目尻のしわが優しそうな、やせて小柄な人だった。女将さんは対照的に恰幅のいい、丸顔の元気な人だ。 「長谷部の旦那の連れてきたお人が、あの中村座の梅若さんだったなんてねぇ」 俺が挨拶すると、女将さんは大袈裟に驚いた。 「中村座の看板はよく見に行ったけれど、こんなに近くで本物見られるなんて、まあまあまあ、やっぱり、綺麗な顔してるねぇ」 「は、はあ……」 「芝居は今、休みなんだろ?」 「え、ええ」 「よかったら、ずうっと居てくれていいんだよ」 「いえ……」 「ああ、だったら、着物もうちの奴のじゃなくて、あたしのを着てもらえばよかったよ。悪いねえ、そんな地味なもの着せて」 「いえ、そんな」 挨拶して直ぐに調理場に戻った主人と違って、女将さんは俺の隣に座って長々としゃべっていた。 「おいっ、お春っ、こっち手伝わねえかい」 痺れを切らしたらしい主人の声に、 「はいはい、今行きますよっ」 叫び返して渋々立ち上がると、俺を振り向いて笑った。 「じゃ、梅若さん、また来ますからね。ホント、ゆっくりしてってくださいよ」 「あ……はい。お世話になります」 ぺこりと頭を下げながら、 (いいのかな?) と、俺は少しだけ不安になった。 一人になると、急に寂しくなった。 国光の顔が浮かんで、胸が苦しくなる。 心配しているだろうか? 一晩ぐっすり眠ったあとだからだろう。俺は、落ち着いて考える余裕が出てきた。 殴られたくらいで飛び出して、そのまま帰らないで……悪かったかも。勝手にやきもち妬いて、大騒ぎして、こうして見ず知らずの人にも迷惑かけている。 「やきもち?」 ふと、口に出して、変な気持ちがした。 元々、俺は本物の梅若じゃない。 俺が、この世界に来る前に国光と梅若は恋人同士だったんだ……たぶん。それを、途中から入れ替わった俺が、さも恋人面してやきもち妬くなんて、おかしいじゃないか。 そして、俺は重大な事実にも気が付いてしまった。 「もともと、国光が好きなのは、俺じゃねえんだよ」 「うっ」 急激な痛みが俺を襲った。 胸が痛いのか、腹が痛いのか、わからない。 でも、さっき食べた朝飯を吐きそうになるほど、苦しくなった。 俺は梅若の身代わりで……国光が愛していたのは、俺じゃなくて…… 俺は国光に抱かれるうちに、勝手に好きになっていて でも、国光が本当に好きなのは、俺じゃなくて 俺じゃなくて 他の女も 「気持ち……わりぃ……」 小さな家の裏庭から覗いた、赤い着物の女の白い太腿が浮かぶ。 俺は食べたものを戻しかけて、身を捩った。 |
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