「伊勢屋の旦那が、松平の若殿をお連れだったとは、私も知らなかったんだよ」
 座長がくつろげた襟元を団扇で扇ぎながら言う。
「私が度々断ったから、馴染みの旦那に頼んだらしい。あの若様は、昔は町で評判の遊び人だったからね」
 昔は、ってあいつまだ数えで十六だろ? いつ遊んでたんだよ。
「今も、芝居だ、相撲だ、吉原だと随分派手にやってるらしいが」
 だから、あいつはまだ中学生だろおっ!
「松平の大殿様も、まさか上の三人が続けて亡くなるたァ思ってなかったからずっとほったらかしにしていたのが、突然総領扱い。お屋敷暮らしが窮屈でお忍びで歩き回っているとか」
 だから―――あいつのことはどうでもいいんだよ!

 そんなことより、俺には気になることがあった。

 昨日、俺が帰った時間に、まだ国光は帰ってなかった。遅くなるなんて珍しいから、起きて待っていたら、音も立てずにこそっと帰ってきて、俺が顔を出したらひどく慌てた様子だったんだ。いつもなら俺の顔見たらとりあえず抱きしめてくるのに、何もしない。そして真っ直ぐ奥の部屋に入ったんだけど、その時――――白粉の匂いがした。
 俺のじゃない。役者の化粧と、町の女のそれとは違うからな。

 あいつ、俺に内緒で、女と会ってたんだ。

 いや、客のところに行くって言っていたから、内緒っていうのとはちがうか。絵を売りにいった先で、そこの娘に言い寄られたとか?
 よくわかんねえ。
 でも、とにかく俺は気分が悪かった。

「梅若、聞いてるのかい?」
「え?」
「だから、夏休みどうするんだいって聞いてるんだよ」
「夏休み? いつから?」
「何言ってんだ。明日からだよ」
「うそっ」
 六、七月は――現代なら七、八月だ――暑くて客が集まらないから、興行はしない。そんな江戸の常識、俺には無かった。というより、実は、今日が何日かという発想すらあまり無いのだ。現代にいた時からは考えられないけど。江戸マジック……といっていいか?
(それにしても今日の舞台が二ヶ月間の興行の最終日だったとは……)
 いくら舞台でのことは梅若(霊)に任せているといっても、いいかげん過ぎるな。少し反省するか。
「暑いからみんな涼しいところに出かけるんだよ。お前もどっか行って来たらいい」
「どこか?」
「絵描きの先生に連れて行ってもらいな。お金はたんともってるよ」
「国光に……」
 また、昨日のことを思い出して、気分が悪くなった。
「そういえば、座長は、俺が国光と仲良くするの嫌がってたって話じゃねえか」
「ああ、そりゃ、お前に狐が憑く前の話だよ」
 俺の顔を見て、唇の端を上げて笑う。
「歌川国光っていや、江戸の町の女だったらだれでもキャアキャア言う人気先生さ。役者の身でそんなお人を好きになっちゃあ、可愛い梅若が可哀相なことになるって思ってたんだけど」
 団扇で俺の頭を軽く叩いて言った。
「今のお前は、あの先生くらいじゃないと御せないねえ」
「そんなこと……」
 顔に血が上ったのが自分でわかった。





* * *

 その日、国光は昨日よりは早く帰ってきた。
 暑い暑い、と行水を済ます国光を待って、俺は話を切り出した。
「なあ、国光」
「うん? なんだい?」
 国光の長い髪から水が滴る。これがほんとの良い男だ。
「明日からさあ、俺、夏休みなんだよ」
「え? ああそうだ。もう六月だからね。忘れていたよ。でも、梅若も何も言わなかったじゃないか、もっと早く言ってくれれば、私も色々予定を組んだのに」
 だって、俺自身、知らなかったんだよ。
「ああ、でも今からでも間に合うよ。どこか涼しいところに出かけよう。梅若、何処に行きたい?」
 国光が微笑む。
「よくわかんないから……何処でも……」
 何となく嬉しくなった。俺って、単純な奴かも。
「あのさ、国光、明日は?」
「え?」
 突然、国光の顔色が変わった。ほんの少しだけど。
「いや、明日は、まだ……仕事が」
「何の? また、お客さんのところに行くの?」
「ああ、まあね」
「いつまで?」
「明日か……ひょっとしたら明後日までかかるかもしれない」
「………………」
「なるべく早く、終わらせるよ」
 微笑む国光の顔が引きつっている気がする。
 
 俺は、明日、国光の行き先を突き止めてやろうと決心した。



「じゃあ、行ってくるよ」
 玄関からの声に
「いってらっしゃい」
 にこやかに答えながら、俺は、早変わりさながらの衣装変えをしていた。休み中に描いてもらう為に中村座から借りてきたたくさんの衣装が役に立った。カツラをつけずとも伸びてきた髪を後ろで高く結んだら、それなりに少年剣士の出来上がり。でも刀(竹光)はやめておこう。言いがかりをつけられた時、怖いからな。
 急いで飛び出して、国光の後を追う。
 国光は背が高いので、人の波に飲まれても見つけ出すのが簡単だ。
 
 ずっと付けていると、国光は、小さな家の立ち並ぶ通りに入っていった。

 長屋と言うわけではない。ただ、間口の狭い小さな家が多い。
(こんなところで、絵を売るのか?)
 不審に思っていたら、ある家の前で立ち止まり、中に入って行った。
 俺も慌てて後を追う。
 正面から入るのは憚られ、どうしようかと悩んだ挙句、何とか裏から近づく方法を見つけた。他所様の庭を突っ切るけど、許してもらおう。
 静かに近づくと、裏庭に面した部屋の戸は、この暑さの為か大きく開け放たれていた。
 身をかがめて、そうっと覗き込んだ。
(あ、いた。国光)
 国光の長身が、こちらを背にして立っている。奥からひどく綺麗な女の人が出てきた。年の頃なら二十二、三といったところか。顔は上品そうなのに、真っ赤な着物がしどけない。
(この女に、絵を買ってもらうのか?)
 女は嬉しそうに国光に手を伸ばして何か話をしている。国光の表情は見えないけれどたぶん応えているのだろう。そしてその女が、あろうことかいきなり胸をはだけた。
(え?)
 着崩れた赤い着物から、真っ白な大きな胸がポロリとこぼれ出ている。既に敷かれていたらしい布団に寝そべると、国光がそこに覆い被さっている。
(うっ、うそっ)
 頭の中が真っ白になった。
 もう、二人の顔も見えないけれど、国光の身体の脇から伸ばされた、女の太股が気持ち悪いほど白かった。

 俺は、その場から駆け出した。
 どうやって戻ってきたのか解らないけれど、無意識に中村座の方に走っていたらしい。なじみの袋物屋の前を行き過ぎるところで、いきなり腕をつかまれた。
「なっ、何」
 振り返ると、編み笠の侍。ぶつかりでもしたのか? 無礼討ちにしたきゃしろと自棄になって睨みつけると、その侍が編み笠を上にずらして言った。
「泣いているのか? 梅若」



 編み笠の侍は祐四郎だった。
 そのまま腕を引かれて近くの茶屋に入らされた。さすがに顔が利くらしく、一番良い部屋に案内されたようだ。でも、そんなことどうでもいい。
「走っている姿を見て、そうではないかと思ったのだ。その格好も似合うぞ、梅若」
「………………」
 俺は、返事が出来ない。口を開くと嗚咽が出そうになるからだ。
「ここは魚が美味いのだが、夏は今ひとつだな、ほら、瓜でも食べろ。よく冷えているぞ」
「………………」
「泣くと、腹が減るものだ。さあ、食べろ」
「泣いて……無い……」
「そうか」
 何で……何でこいつ、こんなに大人なんだよ。
 中学生だろおっ。
 俺は堪えきれずに、嗚咽をあげてうずくまった。
 そして気がつけば、年下の子供に泣き言を言っていたのだ。


「その、一緒に住んでいる絵師というのが、お前の情夫(イロ)なのか?」
「ち、ちが……」
「でも、その者が好きなのだろ?」
「うっ……」
 今まで好きとか嫌いとかあまり考えたことが無かった。その前に身体がつながってしまったから。でも今日初めて、自分が国光の事をこんなに好きなんだと気がついた。
 もう、遅いけど。
 座長の言葉が思い出されて、胸に痛い。

『そんなお人を好きになっちゃ、可愛い梅若が可哀相なことになる』

 そうだ。国光には、別に男の俺なんかじゃなくっても……いくらでも女がいるんだ。
「うっ、うう……」
 口をぎゅっと押さえて片方の手で涙を拭うと、いつの間にか祐四郎が隣に来ていた。
 俺の肩を優しく抱いてくれた。その暖かさは国光に似ていて、俺は余計に辛くなった。
「うっ、ひっく……」
「梅若、泣くな」
 祐四郎の指が俺の涙をそっと拭う。
その指はごつごつして無骨な武士の指だった。国光の細く長いそれとは違う。
「梅若、私の屋敷に来い」
 祐四郎が囁く。
「言っただろう。私は、お前が好きだ」
 いつの間にか、抱きしめられていた。
 けれども今日の俺には、この間のように振り払う力が無かった。
「梅若」
 静かに押し倒されて、俺は涙で霞んだ目で天井を見上げた。
 祐四郎の唇が降りてくる。
 口を吸われて、そして喉へと唇が移動する。喉に、鎖骨に、そして胸に、強い刺激が与えられたけれど、俺の身体は人形のようにだらりと横たわったままだった。
「梅若……」
 祐四郎が身体を起こす。
 俺の顔をじっと覗き込んで、ふっと笑った。
「死人を抱いているようで、気持ちが悪い」

 ゆっくりと瞳を見つめ返すと、祐四郎はいきなり俺の腕をとって起き上がらせた。
「私は、私を突き飛ばしたあの梅若が好きだ。今のお前はつまらん」
「祐四郎」
「元気を出せ。その絵師と喧嘩でも何でもして、飛び出してきたら、私の屋敷で良い暮らしをさせてやるぞ」
「祐四郎」
 俺はまたぼろぼろと涙を零していた。




* * *

 重い足取りで家に帰ると、国光が先に帰っていた。
(顔、合わせたくない……)
 涙は乾いていたけれど、顔をあわせると自分が何を言い出すかわからなかったから。
 急いで自分の部屋に行こうとすると、前をふさがれた。
「梅若、どうしたんだい? その格好?」
「何でもない」
「何でもって……それ、借りた衣装だろう?」
 俺の肩に手をかけて、振り向かせると、国光はいきなりその手に力を込めた。
「梅若」
 厳しい声音に、ビクッと肩が震えた。
「梅若、今日は何処で誰と会ってきたんだい」
 国光の目が冷たい光を宿している。
「なんで……そんなこと」
 お前こそ、今日、何処で何したか言えるのかよ?
 悔しくて、唇を噛んできつく見返した。
 国光は、さっと顔に朱を散らして、やにわに俺の襟を開いた。
 じっと見つめるその視線の先を見て、はっとした。

 俺は、祐四郎に口づけられていた―――その紅い痕。

「これは、誰につけられたんだ」
「し……」
 頭に血が上った。
(自分のこと、棚に上げてっ!)
「知らねえよっ、お前だろっ」
 国光の腕を振り払うと、もう一度強い力で両腕を掴まれて、俺は動けなくなった。
「私では無いよ。私が役者のお前の肌に、一度でも痕をつけたことがあったかい」
「あ……」
「私は、それはいつも我慢していたんだよ」
 我慢……って。
 確かに、今まで何度も抱かれたけれど、着替えで何か言われたこと無かった。だから、自分でもそんなことは気付いてさえいなかった。

「誰に……抱かれたの?」
 静かに問い詰める国光の言葉に、カッとした。

 俺は、抱かれてない。

 俺が抱かれたのは。俺が、俺が――――
 俺がこの身体を任せたのは、お前だけじゃねえかっ。
 なのに、なのに、お前は――――――

「誰でもいいだろっ」
「梅若っ」
「こんな身体、誰にだって抱かせてやるっ。お前だけなんて……お前だけだなんて……」
 ――――思ってるから辛いんだ。


 ビシッという大きな音と共に、俺の身体が跳ね飛ばされた。

 キーンと耳鳴りがして。口の中に血の味が広がった。





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