「恋風のぉ、身に蜆川流れてはぁ」
 太い声で唄いながら、座長が俺をじっと見る。俺は、じっとり汗をかきながら、隣で踊る藤若の真似をする。
「そのうつせ貝うつつ無きぃいい、色のぉ闇路をぉ〜照らせとぉてぇええ」
 ベンベンベン♪

「あああっ、もうっ、全然、駄目ッ」
 座長がその粋な男姿に似合わぬヒステリックな声をあげる。
「梅若、お前、ふざけてんのかいっ」
 俺に向かって、弾いていた三味線のバチを投げつけた。
「おっと」
 間一髪で避けた俺は、お返しに持っていた扇を投げつけようとして、藤若に止められた。
「ふざけてなんかねえよっ、おれはこういう稽古じゃ、力が出ねぇんだよっ」
 というより、唯一、中村座の舞台に立つ時だけ、死んだ梅若の霊が俺の身体に乗り移ってくれるんだけどな。
「稽古を馬鹿にすると、いつまでたっても一人前の役者にゃあ、なれないよ」
「へえへえ」
 あいにく、一人前の役者になりたいとか、思っちゃいないんだよ、俺は。
「梅若っ、何だいその返事はっ」
「お邪魔様っ」
 裾をからげて、部屋を飛び出した。
「ああもう、あの狐憑きが」
 座長の叫び声が聴こえたが、無視だ。無視。


「……はあ」
 知らず溜め息が出た。
 俺だって、初めから座長を怒らそうなどと思っちゃいない。今日だって、結構一生懸命踊ったんだ。でもな、天才女形の梅若の代わりなんて、盆踊りも苦手な俺につとまる訳ねえじゃん。同じなのは顔だけだよ。
 二回目の溜め息をつきそうになった時、後ろからかわいい声がした。
「梅若兄さん」
 振り返ると
「菊丸」
 中村座の見習いの少年だ。
 歳は九つ、品川宿にあるお茶屋の三男坊だと言っていた。
 何故か俺に懐いていて、いつも俺の周りをちょろちょろしている。
「はい、忘れ物」
 小さい手で風呂敷包みを差し出してきた。俺が置いていったお稽古道具を、きちんと包んで持って来てくれたのだ。
「サンキュー」
「え?」
「いや、ありがとうって意味さ」
 俺が微笑むと、菊丸は桃のようなほっぺを紅く染めた。
「梅若兄さんは、すごいねぇ」
「え? 何が?」
 英語がしゃべれるから……などと考えたが、当然違った。
「お稽古全然しなくても、あんなに舞台が上手で、たくさん拍手やおひねりを貰えるんだもの」
「うっ」
 菊丸の無邪気な賞賛が、胸に痛い。
「私も、梅若兄さんみたいになれるかな」
「やっ、いや……」
「え?」
「お稽古をちゃんとしないと、梅若にはなれないぞ」
 普通はそうだ。っていうか、俺が特別なの。
「菊丸は、上手になりたかったら、一生懸命お稽古するんだ」
 こんな俺が言うことじゃねえけど。
 俺の真似してちゃ、それこそ菊丸は一人前の役者にゃなれねえだろ。
「うん」
 俺の言葉に、菊丸は真面目な顔で頷いた。
「でも、どうして梅若兄さんは、舞台に立つと人が変わったようになるの?」
 子供ながら、というか、純粋な子供だからこその鋭い突っ込み。
「それは……俺が、百の仮面を持つ男だからだ」
「え?」
「舞台に立つ時、俺は、ガラスの仮面をつけるんだよ」
「…………からす?」
 江戸時代の奴にはわからない洒落だったな。




 菊丸にこづかいを握らせて、俺は絵師歌川国光の家に向かった。
 俺は今、そこで暮らしている。初め座長は良い顔をしなかったけれど、俺を狐憑きだと思っているので、座の連中と四六時中一緒にするのも良くないと踏んだらしい。
(たとえ狐憑きでも、看板女形を手放す気は無いらしいな)
 狐憑きっていっても、現代人の俺の常識に乗っ取ってやってることだけなんだけどな。
「百の仮面かぁ……さっさと被って、とっとと描いてもらえねぇかなぁ」

『梅若百種』

 百枚の梅若の役者絵が完成した時、俺は晴れて元の世界に帰れる。
(……それって、いつだよ)



「ただいま」
「おかえり、早かったね」
 奥の部屋から、今を時めく人気美男絵師が現れる。
「また、お稽古を抜けてきたのかい」
 俺が畳に上がるなり、腕をとって抱きしめてくる。
「んっ、や、めろ、よ」
 胸に手をついて押しやると、わざと情けない顔をして
「いいじゃないか、冷たいねぇ、梅若は」
 涙を拭く真似なんかする。
「それとも、こんなに暑いから、わざと冷たくしてるのかい」
 そして、後ろから俺を抱きしめて、首筋に口づけて
「富士の高嶺の白雪よりも、梅若は白くて冷たいね。この氷いらず」
 クスクス笑いながら、耳朶を甘く噛み、熱い吐息で囁く。
「そして二人は……水いらず」
 あああ、江戸時代の洒落はわかんねえよ。
「や、めて……くれよ……」
 声が上擦る。俺は――国光と一緒に暮らすようになって初めて知ったんだけど――感じやすいんだ。
 国光の右手が胸元から滑り込んで、俺は膝の力が抜ける。
 座り込んだ俺に覆い被さるようにして、後ろから国光の両手が胸と内股に伸びてくる。
「あ、ンッ……」
(も……ダメ……)
 初エッチから、まだ一ヶ月も経っていないのに、俺はすっかり飼い馴らされていた。
 もともと健康なやりたい盛りの高校生だったんだから、こんな形で箍が外れちまったんだ。
(もぉ、どぉにでもしてぇ〜♪)
 暑い夏にふさわしい某エアコンCMを思い出しつつ、国光の腕の中に溺れる俺。



「べとべと……」
 俺が気だるく起き上がると、既にすっきりした風情の国光が手桶と手ぬぐいを持ってやって来た。
「身体を拭いてあげようね」
 俺は国光の顔を見て、その目に好色そうな光を感じたので、手ぬぐいと手桶を奪うと裏庭に出た。
「あれ、どうするんだい、梅若」
「行水」
 あいつに撫でまわされたら、またおかしなことになっちまう。



 江戸の夜は暗い。街灯もネオンも無いんだから当たり前だけど。月が陰ると真の闇だ。
 真っ暗な裏庭で井戸水を浴びていると、急にこの世で一人ぼっちになったような気がした。
「うっ、さぶッ」
 ぶるりと身体が震えたのは、井戸水の冷たさのせいだけじゃない。俺は、急いで家の中に戻った。国光は奥の部屋で絵を描いていた。さっきまでとは全く違う顔で、真剣に紙に向かっている。
 行灯に照らされたその横顔は、男の俺から見てもカッコ良い。一重の切れ長の目も、よく通った鼻筋も、引き締まった口許も、こうして見ると、うっとりするくらい良い男だ。
 俺の視線に気がついて、国光が顔を上げた。
「あれ、もう済んだのかい? そんなところで黙って見てないで、声をかけておくれよ」
「あ、うん。邪魔しちゃ悪いと思って……」
 国光はふっと笑って、俺を手招きした。
 傍によると、俺を腕の中に包み込みながら数枚の絵を見せてくれた。
「あ、これ、俺の?」
「ああ、八百屋お七。色差しが終わったところだよ」
「うん」
 初めて国光がこの俺を描いた日の絵。そして、初めてこの俺を……。
(馬鹿、何考えてんだっ)
 思わず顔が熱くなって下を向いた。せっかく行水して涼しくなったばっかりなのに。
「弁天小僧も下絵は彫りに出ているんだけど、色を差すのにもう一度衣装を着けたのが見たいから、今度、中村座で借りてきておくれ」
「貸してくれるかな?」
「言えば大丈夫だよ。梅若の錦絵は、座にとってもいい宣伝になるからね」
「じゃ、明日借りてくるよ」
「あ? ああ……明日は、いいよ」
 不意に国光が何かを思い出したように、顎に手を当てた。
「明日から二、三日は、別の仕事が入っているから……」
「別の?」
「ああ、だから、昼間もちょっと出かけるけど」
「どこに?」
「いや、お客さんのところだよ」
 そそくさと立ち上がる国光が何となく怪しいと思ったが、絵を片付け始めたので邪魔にならないように、そこから離れた。
(お客って、絵を買ってくれる人のことか? よくわかんねぇや……)




* * *


「梅若兄さん」
「よう、菊丸」
「今日もすごくたくさんお客さんが入っていたねぇ」
「ああ、そうだな」
「やっぱり、梅若兄さんは舞台に立つと違うね。カラスのおかげだね」
「は、ははは……」
 一日の興行が終わった楽屋。俺はカツラをとって片肌脱いで、大判のうちわで扇いでいた。
「おや、お前、また挨拶もしないうちに衣装とっちまったのかい」
 座長が来て呆れた顔をする。
「もう少し、ここの看板女形だって自覚を持っとくれよ」
「挨拶は、もう済んだだろ?」
「舞台の挨拶だけじゃなくて。ご贔屓の旦那方に挨拶するのも、仕事のうちなんだよ」
「めんどくせえ」
「…………そりゃ、私だってね、下手にお前に座敷に出てもらうと評判落としそうだから、今まで随分断ってきてんだよ。特に身分の高い方のはね、狐憑きのお前さんが無礼討ちになんないように、こっちが首かけて断ってんだよ」
 冗談なのか本気で言っているのかわからないが、フッとうつむいて笑った座長の目が怖い。
「でもね、それもそろそろ限界だ。今日のお声は日本橋の呉服伊勢屋の旦那からだから私も浮世の義理で断れないし。まあ懐の深いお方だからね、お前の狐憑きも許してくださるだろ」
 座長はキリッと顔を上げると、左右に控えていた男達に厳しい声で言った。
「も一度、梅若にしっかり着付けしておやり」
 げげっ!
 
 そうして、再びお姫様の格好になった俺は、駕籠に乗せられ、どこだかわからないえらく高級そうなお茶屋に連れて行かれた。
「こちらでお待ちでございます」
 茶屋の女中がしずしずと案内してくれたのは、一階の奥からまた庭を渡って行く離れで、茶屋というよりもそこだけで立派なお屋敷だった。
「失礼いたします」
 三つ指ついて深くお辞儀をする。座長からくれぐれも粗相が無いようにと念押しをされていたので、挨拶くらいは完璧にやりたいと思った。
「中村座の梅若でございます。本日はお招きありがとうございます。宜しくお願い申し上げます」
 いや、たったこれだけなんだけどね。もう、いっぱいいっぱいよ。
「やあ、お待ちしていましたよ。ささ、こちらへ」
 顔を上げると、その声の主らしい初老の男とは別に、男前の立派な侍が正面に座っていた。
 いや、侍と言うよりも……どこかで見たことがあるような……?
 ボケッと見つめていたら、その侍が口を開いた。
「ようやく会えたな、梅若」
 腹に響くような良く通る声。
 声に覚えは無いけれど、このみなぎるオーラは……
「あっ、松平の若殿? こないだ来てた!」
 俺が素っ頓狂な大声をあげたので、初老の男――ではこっちが伊勢屋の旦那だ――が、慌ててたしなめた。
「これ、梅若、失礼な」
「よい。かまわん」
 若殿は笑うと、側に来るよう俺を手招きした。
「今まで、何度呼んでも振られていたのだ。今さら失礼の一つや二つ増えたところで何とも無い」
「はあ」
 俺は知らなかったが……さっき座長が言ってたやつだな。

『特に身分の高い方のはね、狐憑きのお前さんが無礼討ちになんないように、こっちが首かけて断ってんだよ』
 げえっ!
 またもや生まれた『俺の粗相イコール殿様無礼討ち』の想像に、俺は浮かしかけた腰を落とした。

「どうした? 梅若」
「いえ、その」
 上目遣いに見ながら、じりじりと後退してしまう。
「梅若、何をしている」
 伊勢屋の旦那が俺の着物の袖を押さえる。
「まさか、帰ろうとしていないかい」
 その『まさか』だったんだけど、ダメだよね。
「俺、いや、私……不器用ですから」
 って、何言ってんだ、高倉健か、俺は。
「不調法と言いたいんだね」
 年の功で察してくれたか、旦那。
「あはははは……」
 若殿が大声で笑った。
 立ち上がって、俺の側に近づいて来た。
「すまぬ。脅かしてしまったのだな」
 俺の手を取って、顔を覗き込むと
「取って喰いはしないから、側で酒をついでくれ」
 ニッと笑った。



「松平祐四郎正勝」
 それが、若殿の名前だった。
「まあ、祐様とでも呼んでくれ。遊び人の祐さんでもいいがな」
 フレンドリーな殿様だ。
「ええと、祐四郎様というと、四男? ですか?」
 こんな話題で良いのかな?
「元々は、な。だが、兄が三人とも亡くなったので、今じゃあ総領だよ」
「はあ……」
 死んじゃったのか。あんまりいい話題じゃなかったようだ。
 俺がガックリしたのを見て取って、若殿はまたもニッと笑うと俺の頬をぎゅっとつねった.
「そんな顔をするな。せっかくの綺麗な顔なんだから、もっと笑え」
「ふぁい」
 つねられたまま返事をすると、若殿はニヤニヤとおかしそうに笑った。そういう笑いをすると、男らしい顔がちょっとだけ可愛くなる。
 若殿が酒の盃を口に運びながら言った。
「お前は、舞台で見たのと、ずいぶん印象が違うな」
「はい……すみません」
「何で謝る」
「いえ……」
「舞台じゃ、堂々としていたが、今は、子供のようだ。歳は幾つだ?」
「十七です。あの、お殿様は?」
「祐四郎でいいよ。お前と、一つ違いだな」
「ええっ?」
 また思わず変な声をあげてしまった。
「って、十八?」
 どう見ても二十歳(ハタチ)超えてるぜっ。
「いや、十六だ」
「ええ〜っ?」
 この堂々とした――迂闊にもオーラが出ているとまで感じた――殿様が、十六! 年下!
 ちょっと待て、この時代、数えでいうなら生まれた年が一歳だ。
(じゃ、十五?! 中学生じゃねえかっ)
「何で、中学生が酒飲んでんだよっ」
 思わず叫ぶと、若殿祐四郎は不思議そうに眉を寄せた。そりゃそうだ。中学生なんて言葉がわかる訳がない。それにしても、
(この殿様が中学生……)
「歳、親にごまかされてない?」
「ふっ、ふふっ、ははは……面白いな、梅若」
 祐四郎がおかしそうに笑う。
「気に入った。梅若。お前、私の妾にならないか」
「はあ?」
「なあ、私の屋敷に来い。私が妻を迎えても、側室としてずっと置いてやろう」
 祐四郎の腕が絡んでくる。
「ち、ちょっとやめ……」
 気がつくと、伊勢屋は、随分前から席を外していた。

 何が嬉しくて、中学生の男に口説かれなきゃならないんだ。
 けれども、祐四郎は俺よりも一回り体格が大きく、力も強かった。
「梅若」
 面白がるように俺の身体を抱きしめる。押し倒されて、唇が喉に触れた。
「やっ……」
 祐四郎は、そのまま俺の襟元をわって唇を這わせる。
「やめ……っ」
(中学生に、犯されるわけにはいかーんっ!!)
 この思いだけで渾身の力をふるった。
「やめろって、言ってんだろっ、クソがきゃあっ」
 祐四郎を振り払ったとき、俺のカツラは飛び、胸も裾も大きくはだけていた。
 立ち上がってぜいぜい言う俺を見上げて、祐四郎は目を大きく見開いて、次の瞬間、
「ぷ―――――――っ」
 と、大きく吹き出していた。
 転げ回って笑うその姿は、ほんの少しだけ、年相応の少年に見えないことも無かった。
「……俺、帰るからよ」
 カツラを拾ってメットのように小脇に抱え、襖を開けると、庭からわらわらと御家来衆が飛んできた。
「これは……一体……」
 落ち着いた年配の武士が眉を顰める。
 部屋から、笑いすぎて涙目になった祐四郎が出てきた。
「その者を送ってやれ、その格好では、外を歩けまい」
「はっ」
 言いつけられた若い侍は、駕籠を呼びに母屋の方に駆け出した。
 俺は、別に歩けないことは無かったが、ここが何処だか分からなかったので、ありがたく受けることにした。
「梅若、また会おう」
 にこやかに立つ祐四郎を見て、
(ファック ユー)
 俺は中指を立ててやったが、意味は解らなかっただろうな。






HOME

小説TOP

NEXT